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2018年12月 9日 (日)

額田王の歌を、ただの恋の歌と解釈するのはもったいない

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

『万葉集』は759年に成立した我が国最古の歌集で、その中に額田王(ぬかたのおほきみ)の次の歌があります。  

あかねさす 紫草野行き 標野行き  野守は見ずや 君が袖振る

ーー

歌意は「茜(あかね)色に輝く紫草の標野(しめの)で、あなたが私に袖を振る様子を野守(のもり)が見てしまうのではありませんか」といったものであるとされています。

ーー

この歌は、『万葉集』では次のように書かれているのです。

【題詞】天皇遊猟蒲生野時額田王作歌

茜草指  武良前野逝  標野行  野守者不見哉  君之袖布流

ーー

「天皇遊猟蒲生野時」というのは、668年5月5日天智天皇ご主催の蒲生野での遊猟会を指します。

旧暦の5月5日は、いまの暦ですと6月中旬、ちょうど梅雨の始まる前くらいの季節です。

歌の冒頭にある「茜草」は、2字で「アカネ」と読まれてきました。

が、アカネの開花時期は8〜9月ですので、ここでは「アカネ」の花を詠んでいるのではなく、単に草としてのアカネのことです。

ーー

アカネは、古来からその根を染料として用いてきました。

つまり「茜草指」は、「アカネ色に染め指し示す」という意味にもとれる。

同時に空がアカネ色に染まる時間帯にも掛かります。

ーー

問題は次の2句です。

「武良前野逝」(むらさきのいき)

「標野行」(しめのいき)

ここで額田王は、同じ「いく」に、「逝」と「行」と、二つの字を使い分けているのです。

ーー

「逝」は、バラバラになってしまうこと、いわば破壊されることを意味する。

ですから死んで肉体と魂がバラバラになることを「逝去」といいます。

「行」は、十字路の象形で、「みち」や「進んでいく」ことなどを表す字です。

ーー

「武良前野逝」は、これで「むらさきのゆき」と読み下されていますが、字を見れば

「武」=たける、歪んだものをまっすぐにすること

「良」=良いこと

「前」=まえ、物事をきりひらくこと

「野」=野原

「逝」=バラバラ

という組み合わせです。

ーー

次の「標野行」は、野を行く(進む)ための道標(みちしるべ)と読める。

ーー

ここまでを意訳すると、

「(野原の草木のように)バラバラで収拾のつかない状態になっている世を、正すために、アカネ色に染め、進むべき道を指し示す」 となります。

ーー

下の句の「野守者不見哉」の「野守」は、野原の番人とされていますが、それはまさに全国の諸豪族たちでありましょう。

「哉」は、言葉を断ち切るときに用いられる字で「や、か」など反語の終助詞です。

つまり「不見哉(みずや、みずか)」は、これまで「詔(みことのり)」を見なかった諸豪族たちは「見ないだろうかいや見る」と読める。

ーー

「君之袖布流」の「君」は、ここではもちろん天智天皇を意味します。

「之」は、実は「行く」と同じで、いまいるところから一歩前に出ることを意味する漢字で、「の」だけでなく「ゆく」とも読む漢字です。

「袖布流」は、単に袖を振るですが、「布」という字は「布(し)く」とも読みますので、「布流」で、「流れに布(し)く」を意味します。

従って「野守者不見哉  君之袖布流」は、「地方豪族たちが、大君が布いた流れを見るようになる」と読める。

ーー

そこで上の句と下の句をつなげてみると、

「これまでバラバラでいて中央の政令を見ようとしなかった地方豪族たちが、大君が布いた新しい政治の流れをしっかりと見るようになった」 と読めるのです。

ーー

天智天皇が催された狩猟会の席上で、霊力を持つとされた額田王が、この歌を天皇に献上した。

歌は、一見、ただ野守りに愛情表現を見られてしまい恥ずかしいですわ、と詠んでいるようでいて、その実、使っている漢字を見れば、天皇の御徳を讃えている。

さすがは額田王と、周囲の人々も喝采を送る。

そのような歌であったと・ねずは思っています。

ーー

なぜそのようにこの歌を読み取るのかと言うと、理由は5つあります。

ーー

1 白村江の戦い(663年)とき、我が国は全国から百済救援のために4万2千の大軍を半島に送り込んでいます。

この時代の日本の人口は、およそ500万人です。

つまり人口の1/100、今で言ったら、120万の大軍です。

それだけの兵を全国から集めて、半島に派遣し敗戦してしまった。

国内は相当混乱し、地方豪族たちの気持ちも中央から離れてしまい、国家存続の一大危機にあった。

この時代の政治の最大の課題は、バラバラになってしまった国内を再統一し、日本に攻め込む計画をしていた唐への備えを何が何でもしなければならなかった。

そしてこの歌は、白村江の戦い(663年)の敗戦のわずか5年後に詠まれているのです。

ーー

2 この時代に日本人は漢字を用い出している。

それまでも文字は使われていました。

日本人は、およそ3万年前から、日本列島に住み着いており、島国のため、誰もが親戚関係にある状態であった。

したがって言葉は、基礎語は共通しており、地方では方言が話されていた。

方言を記述する文字も、地方ごと、豪族毎にバラバラでした。

現在それらは神代文字と呼ばれていて、その種類は、300種類を超えます。

これでは統一国家になりえません。

そこで新たな取組として、漢字を用いて大和言葉を記述するという方式(万葉仮名)が用いられ始めたのが、この時代になります。

ーー

(広東語、上海語、北京語、四川語はそれぞれ全くの別言語である、方言ではない)

ーー

これには抵抗がなかった。

なぜなら、神代文字はもともと亀の甲羅や鹿の肩甲骨を火であぶったときに現れるひび割れの形を記号化したものです。

その形によって、いろいろな意味や解釈が行われ、それが占いになっていた。

そういうことが何百年、何千年と続けられ、その形のそれぞれに名前(音)が付けられ、それらが文字となっていった。

ですから我が国は、いまだに一音一意味の48音を用いている。

ーー

ところがそうして形成された文字を組み合わせると、会意文字(漢字)になる。

会意というのは「意味を合わせる」という意味です。

単音の神代文字よりも会意文字のほうが、一字に複雑な意味をもたせることができる。

ーー

冒頭の「茜草指」も同じです。

「あかねさす」では、単に夜明けや夕方に茜色に染まった空を意味するだけになります。

が、漢字で「茜草指」と書けば、「アカネ色に染め指し示す」という複雑な意味を持たせることができる。

ーー

3 もともと日本人は、48音の一音一音に意味を持たせていた。

4 漢字は、その音の意味を限定する目的で使われた。

神代文字は表音文字で有り、しかも一音一音が意味を持っているので、それを組み合わせて創られた言葉は意味を限定することが難しかった。

我々の先人は、漢字を用いることで日本語の意味が限定できることに気づいたのです。

ーー

5 しかも漢字を用いることで方言も理解できる。

漢字を国内に普及することで方言であっても文章を読めば同じ理解に達することができる。

このようにして統一国家にすることができたのです。

ーー

このような時代に詠まれた歌であることを知れば、額田王の歌を、ただの恋の歌と解釈するのはもったいないことになります。

ーー

漢字を輸入して日本文化が形成されたのではなく、 日本の神代文字が支那で漢字に進化したものを、あらためて逆輸入したと・ねずは考えています。

ーー

「漢字は支那で生まれた」と主張したい人たちも多いことでしょう。

けれど、漢字を見ると、部品となる形象の組み合わせであることがわかる。

つまり部品となっている形象が、先に個別の文字として成立していなければならないのです。

ーー

「知」という漢字であれば、「矢」と「口」のそれぞれが先に成り立っていなければ、「知」という文字になりようがありません。

漢字は、もともと亀甲文字、鹿骨文字が母体となっているといわれています。

つまり漢字が出来上がるためには、先に単音の文字が成立し、定着していなければならない。

しかし支那には、それが定着していたことを示す証拠がないのです。

ーー

むしろ日本に、つい近世まで神代文字という形で、その文字が使われていたという証拠があり、現在も残っている。

そうであれば、古代日本の神代文字が、日本ではそのまま単音文字として使われ続け、支那ではそれが組み合わされて漢字となった、と。

そう考えたほうが、理にかなっていると考えています。

ーー

もともと文字が生まれた万年の昔には、海面の高さが今よりも低く、いま大陸棚となっているところは陸地だったし、日本列島は大陸と陸続きでした。

しかも古い昔においては、占いは、政治的な決断をするときの重要な道具でありました。

そして占いは、亀甲か鹿の肩甲骨を焼いたときに出来るひび割れの形を見て行われた。

その形に、音(意味)が当てられると、その形が文字になります。

海面が上昇し、大陸と日本列島が分断されたあと、日本ではそのまま残り、支那ではそれが組み合わされて漢字となった。

(支那では異言語の異民族を漢字を使うことで支配することが可能となった)

ーー

日本では神代文字を使って神語り(かんがたり)を伝えてきていた。

そして古代大和朝廷の時代に、意味が不確かになってきていた神語りを、漢字を使うことによってその意味を限定した。

そのように考えるほうが、客観的だし合理的です。

ーー

私達の祖先は、漢字を活用したのだ、と私は思っています。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新ありがとうございます。
>>日本の古語を探る
 いつもながら、ねずさんの識見の高さには、敬服させられます。 特に彼の視点は、彼が語る日本史は、見方によっては㋣
歴史「=トンデモ歴史」の様に謂われても、自虐史観全盛の現代では、致し方ないと思いますが、そんな中で、様々な根拠を提示しながら、極めて客観的な立場を保つようにして語られて居ますから、何れ、彼の語る歴史が日本正史に成ると、私は思って居ます。
 
 処で、ねずさんが挙げた、天智~天武帝の時代は、聖徳太子の早逝によって、蘇我氏と藤原氏の皇室での対立を始めとして、吉備勢力や丹波、葛城と言った、豪族同士の勢力争いが激化した時代でした。 

 王朝内では、聖徳太子以来、権勢を揮った蘇我氏が、専横を極めて、吉備系の皇極女帝の御代に、中大兄皇子と中臣鎌足に拠る乙巳の変「=入鹿殺害」のような政変あり、皇極帝の退位~弟の孝徳帝の即位・退位~皇極帝の重祚、と言う事件も有り、天智帝即位後の白村江の様な海外出兵あり、其れで起こった大海人皇子との離反~壬申の乱に続く間に、幾人モノ皇子が、自殺、謀殺で、消えて行った血生臭い時代背景でした。

 そんな中で、額田王の存在は、兄弟と言われる2人の皇子との間で、三角関係の恋愛まで彷彿させて、ドラマ的な要素満載で、何故、大河ドラマで取り上げないのかと、こんな時代が有った事を知った、私が洟垂れの中学生の頃に思いましたw。

 何時もの様に、博識だった母親に訊いても、「さぁ、内容を皇室の御ふけに成らない様に仕立てるのが、難しいカラなんじゃないの?」とバッサリ切り捨てて居ましたが、その通りなのだろうと納得する他は有りませんでした。

 然し、ねずさんはそっちの方向には向かず、「何故、文字を既に持って居た日本が、漢字を採り入れ、用いたのか?」と言いう視点で考察をして居る処が、出色の出来だなぁと思います。

 先ずは時代背景に就いて、百済救済の為の出兵が、手痛い敗戦に終わった事から、出兵した豪族達の天智帝への失望感は大きかったと思いますし、戦後処理で帝が採った、百済王族以下3千名の貴族の救済に、近江の国や越前、若狭の戦没した海人族系の豪族の領地を与えた事が、この地の豪族を支持層とする大海人皇子を怒らせ、兄弟の仲を離間させて、天智帝亡き後の弘文帝とそれを支援する吉備・百済系豪族との壬申の乱勃発の原因となります。

 天智帝の治世のやり方は、帝が摂政皇太子として、母親である前帝「=斉明帝(重祚)」の治世を握って来た時の様に、吉備系豪族以外の豪族に、公共事業の無理な押し付けて、その力を削ぐ事には積極的であった事で、吉備以外の地方豪族から、聖徳太子の善政の頃を偲ぶ声が高まっていたと思います。

 然し、ねずさんはこの時の、世の中の言葉に就いて特化して考えて、います。 

 方言が300種類もあって、互いの意志の疎通が難しかったと言われる日本古語に、対応する表音文字をその解釈を大きく変える事無く、地方の豪族にも文書で伝わる様に、隋代の頃「=聖徳太子の御代」入って居たと言われる漢字を、先ず公文書に用いる事にして、日本中の拠点都市に造った国分寺を発信拠点として、方言で訛って居て、口語では通じない地方豪族に、帝が発する詔た勅を、正確に伝える事ができるようにした、と言うのは、天智帝の優れた業績でしょう。

 天智帝の業績に拠り、天武帝の御代に神武帝以来の歴代天皇の呼び名を漢字表記したと、思われますが、「神」が世の時代区分を表すモノと言う説の通り、その漢号に使われる文字には、何らかの意味が有るとかんがえるべきでしょうが、「天」を使って居るのは、このお二人だけですので、オソラク、このお二人の帝を、特別視しているのは明白です。

 天武帝の業績は、そうして築かれた土台の上に、日本の国家たるに相応しい律と令に拠って、つまりは、公文書に拠って、」地方豪族に、中央政府の意思を伝えて、国と言う纏まりを築き上げたと言う点で、歴代天皇中でも、トップクラスの才能と実力を揮われた帝であったと思いますが、帝の態度には、天智帝に対する慮りが、随所に見られますが、世間はそう見て居ないのは、天智系の女帝を除けば、「武」を用いた天皇がその後しばらく続いた事で明らかでしょう。
 
 私の皇統観は、日本の皇統には、3つの切れ目が有って、最初は、「欠史八代」と言われる、「倭国大乱の時代」だと思って居ます。 宮内庁の天皇家の系図に拠れば、神武帝の次の帝である綏靖帝~9代後の開化帝に至る8代、凡そ500年が、不確定な時代であると言う事になって居ます。

 が、その間、日本は戦乱状態にあったものの、大和朝廷は終始優勢を保っていたものの、部に古くからの家来である、九州の海人族の出自の久米氏と大伴氏の内紛等が有って、特に、BC477年にい徳帝がお隠れに成っていますが、其の2年後から四代続けて「孝」が頭に着く帝が続き、BC158年に開化帝が即位するまでの317年間、オソラク九州に、王権を持ち去られて居たのではないかと。推察して居ます。

 然し、開化帝の御代(BC158~98)に王権を取り戻した大和王朝は、10代崇神帝に始まる、垂仁・景行・成努帝に至る4代で、大和尊や四道将軍等の活躍によって、全国平定を行い王朝の基盤を固めて、192年の仲哀帝の即位時には飛鳥~河内王朝を文字通り、大乱の覇者にした事と、仲哀帝が手掛け、孫の仁徳帝の御代に完成した、と思われる和泉・河内の葦の原を大水田地帯に変えた事に拠り、食糧が増産されて、国力が著しく増大して「倭の五王」の時代を迎えます。

 この開墾事業で出た、大量の残土を利用して、オホキミの墳墓を創り、内外にその権勢を示したので、「古墳時代」と呼ばれる様になったのでしょう。 そして、この王朝は、開化帝以来、16代665年間続きますが、25代の武烈帝は、暴君で有ったので、家臣の大伴金村に誅殺されて終いますが、この時皇統の危機を迎えます。

 この原因は、雄略帝が自分の直系以外の皇統維持者を排除した為、継承するものが少なくなり、残って居たものも、金村を懼れて逃げ出すと言う有り様に成り困った金村は、当時敵対関係にあった、「応神帝五代の末」と言う、いかがわしくも思える、海人族の大迩王を継体帝に仕立てた時であり、そして後は、南北朝の混乱期で有ろうと思って居ます。

 南朝の後醍醐帝の血統を、正当な皇統とするのは、為政者であった室町幕府の足利氏の意向ではないと思いますが、後世、幕府が擁する北朝と合併させた時、南朝側にいざこざが有った様に仄聞しますが、検証された歴史は未だ確立できていないと、云うべきでしょうね。

 それにしても、額田王の聡明さは、日本史の中でも抜きんでて居て、日本社会が、女性を大事にして居た事が分りますね。 シナ文明は勿論、西洋文明にも、比べるべくもない話でしょう。 この辺りも、将来は、日本の歴史を深堀して行き、真の日本古代史を完成させ、先人の叡智に学んでゆきたいと思って居ます。

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