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2018年12月15日 (土)

江藤淳は自著の『南洲残影』の中で「西郷は日本の思想だ」と書いた

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

齋藤禎『文士たちのアメリカ留学 1953−1963』(書籍工房早山)

かつて日本人作家がアメリカに一年留学する制度があった。

1952年4月28日に日本と連合国との講和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し日本の連合国による占領が終わった。

その翌年から、この不思議な計画は始まった。

留学する人たちについては、ロックフェラー財団が慎重に選んだ。

ーー

この計画を推進した中心人物はチャールズ・B・ファーズだった。

人選過程の舞台裏で、彼に協力し、活躍した日本人女性がいた。

その名を坂西志保(さかにし しほ)という。

ーー

ファーズは、日本研究の先駆けライシャワーとも親しく、選定にあたっては「坂西に最大限頼った」と書き残した。

となると、彼女はいったい何者?

米国のスパイだったのか、それとも?

ーー以下wikipediaより抜粋引用

1896年12月6日東京に生まれ、北海道小樽で育ち、1922年(大正11年)にアメリカに留学。

3年後にホイートン大学を卒業し、ミシガン大学大学院で美学を学んで1929年(昭和4年)にPh.D.を取得した。

ホリンス大学哲学部助教授を務めた後、アメリカ議会図書館日本課長に就任し、日本文化に関する書籍・資料の収集に当たった。

ーー

その一方、坂西は日本海軍の優秀なスパイであり、「米国における日本のベストの要員の一人」として、アメリカの情報当局からマークされていた。

(アメリカ海軍情報将校エリス・ザカライアス大佐による評価)

そのため1941年(昭和16年)12月7日の日米開戦と同時に、在米日本人女性としては唯一のケースとして拘束・抑留され、翌1942年(昭和17年)6月に日米交換船で日本へ強制送還された。

ーー

そして帰国後は、外務省の嘱託やNHKの論説委員等を務めアメリカの国情についての解説や分析に当たった。

終戦は疎開先の千葉県我孫子町で迎えたという。

ーー

大戦終結後はGHQに勤務した。

ーー

その後、外務省や参議院の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、憲法調査会委員、

日本ユネスコ国内委員、放送番組向上委員会委員長、立教大学講師を務めるなど、立法、行政、教育の分野において積極的に発言した。

1963年にNHK放送文化賞を受賞。

1964年6月から1974年9月まで国家公安委員会委員を務めた。

1976年1月14日に心筋梗塞により晩年暮らした神奈川県大磯町の自宅で死去。

遺言により国際文化会館に5000万円と自宅、自ら理事長を務めた殉職警察官遺児育英基金に1000万円が寄付された。

ーー引用ここまで

すると坂西志保は二重スパイ?

陰謀好きには様々な想像が出来よう。

女史は、こうした経歴から、ロックフェラー財団のこの計画に深く関与した。

ーー

さてロックフェラー財団が米国での一年間の留学を提供するとして選んだ日本人作家とは、以下の十人であった。

福田恒存、小島信夫、阿川弘之、江藤淳、有吉佐和子
大岡昇平、安岡章太郎、庄野潤三、石井桃子、中村光夫

ーー

齋藤禎氏は、これら十人の、その留学に至った経緯、留学先と、そこでどのように過ごしたのか、そして帰国後のアメリカ観などを詳細に調べ上げた。

こうしてこれら十人の作家たちの活動を通して、1953−1963年という不思議な戦後の時代に焦点をあてたのだ。

ーー

とくに1960年の安保騒動を軸に、時代は急速に変貌した。

留学体験組みは、日米安保をめぐっても、多彩な発言を繰り出した。

そして「アメリカ嫌い」として知られた阿川弘之とか、ノンポリの庄野潤三とかが、ロックフェラー財団の招きでアメリカへ行った。

これは、おそらく坂西の選定によるのであろう。

ーー

欧米でその知識を学び日本で活躍した先駆者に中浜万次郎(ジョン・マン)がいる。

彼は、土佐の漁民で、漁の途中で嵐に会い漂流し、無人島で5か月弱を生き延び、米・捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられる。

彼は、その捕鯨船で働くうち、ジョン・マンとの愛称で呼ばれ、船長の養子に迎えられ、米国で教育を受け幕末に帰国後、米国との交渉の矢面に立って活躍した。

彼のような奇跡体験もあれば、新島襄のように密航組もいた。

ーー

明治新政府は、遣欧使節団を組織し、欧米の事情を視察させた。

この遣欧使節団の一員として参加し、帰国後「近代化」に邁進したのが、大久保利通だった。

一方それに同行した村田新八は帰国後、新政府の高官を辞して薩摩へ帰郷し、西郷のもとで西南戦争に加わっている。

ーー

村田新八は欧米の知識を得て将来を嘱望されていたから、大久保が悲嘆にくれたであろうことが想像できる。

ーー

江藤淳もまた、村田新八同様・米国留学から帰国後、日本的嗜好に回帰している。

というのも、江藤淳は自著の『南洲残影』の中で「西郷は日本の思想だ」と書いた。

そのなかで村田新八の心境を、次のように表現しているのだ。

ーー

「明治維新は、失敗であった」

「弐年間の歳月をかけ、米欧を回覧してきて、自分にはそのことがよく分かった」

「西洋を知らない者が国粋主義者となり、西洋を実地に知っている者が開明派にあるなどというのは俗見に過ぎない」

「自分は大久保と同じ汽車に乗り、同じ宿に泊まり、同じ諸国を見て廻った」

「その結果大久保とはまったく反対の結論に達したのである」

「だから、これは西洋を知る知らないの問題ではない」

「いや、むしろ西洋をよく知っているからこそ、自分は到底大久保に同じ得ないのだ」

ーー

著者の齋藤氏は元『諸君』編集長、前『歴史通』編集長。

週刊誌時代のレフチェンコ証言報道(スクープ)でも知られる。

この書は、齋藤氏が三年以上の歳月をかけて挑み、書き上げた労作である。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>西洋を体験した日本人達
すごく面白い話だなぁと、感心しながら読んで居ました。 特に、ロックフェラー財団が中心になって、戦後日本が国際舞台に復帰してから先をどの様にしようとして居たのか、如何なる危惧を日本に抱いて居たのかが、透けて見える様な気がしましたね。

 坂西女史は、本当に頭がいい人だったのでしょう、だって出発点は、政治・経済でも法学でもなく、哲学、美学ですからね。 然も、美学の茫洋とした範囲を、西洋から日本文化まで極めて居なければ、米国で博士号を取り、大学の助教授などできないでしょう。

 彼女を「米国の諜報関係者が、日本海軍の優秀なスパイだ」と見たのは、彼女の明晰さが「もし、スパイだったら、危うい」と言う、脅威を抱かせるレベルだったと言う事でしょう。

 この話を読むうちに、Dロックフェラーは、何も端から、祖父のビッグ・ジョンが遺した「日本不信」を背負ってはいなかったのかもしれない、と思い始めました。

 でも、D=ディビッドが、自身、陰謀渦巻くアラブ圏で、石油利権を確立し、大きな産業に育てるには、当然、武力を背景とした政治力が必要ですから、80年代に最初の危機を迎えた、ロックフェラー一族は、セブンシスターズをファイブ・メジャーズに編成を変えましたが、その裏で、表には出せない暗闘が有ったのは間違いないでしょうね。 そういう、自身の立場を護る上で、何処かで反日、抑日の方針に転換したのは間違いは無さそうに思います。

 それが日本の台頭が顕在化して居る事を認識した、プラザ合意だったのかもしれません。 ならば、或る意味、仕方が無いですね、だって、当時の首相は宮沢で、大蔵大臣は竹下です、旧田中派を乗っ取った朝鮮系帰化人集団が、自民党支配を急速に高めて居た頃でしょうから、Dにとっては、その汚い部分も、日本人の本質だと勘違いした可能性が有りますね、彼の周囲に朝鮮系の女性がいたかもしれません。

 それにしても、坂西女史の御生涯は、尊敬に値すると思います、与えられた天分を最大限に発揮して、日米の国民の為に尽くして下さった、現在の平和で友好的な日米関係も彼女の功績に拠る処が大きいと思います。 私の祖母と同じ年の生まれの明治女ですから、私心よりも、背筋の通った生き方に拘った人の様に感じます、正に偉人ですね。

 そういう視点は、彼女の人選にも表れていると思います。 能力のあるのは勿論ですが、所謂、「骨の有る人」を選んでいる様に感じます。 彼らが遺した仕事は、それぞれ違いますけどね。 
 特にそれが、村田新八と大久保利通の対比によく出ていると思います。 大河ドラマでは、大久保が米国の文化に圧倒されて、考えが変質したかのように描いて居ますが、ちょっと違うと思います、彼の感性は「日本の国防」と言う点を中心に蘇ていたので、「もし、是が・・」と、米国の文物よりも機関車だとか自動車とか、戦争に成った時に、兵力を短時間で移動できる手段を持って居る米国に脅威を感じていたと思います。

 一方村田は、視点が西郷的で、上辺より本質を見抜こうとします。 ですから、その民族の常識や社会の構造の裏に秘められている、奴隷層の存在やその階層に対する処し方を看て居て、「こんな、人間の扱い方をする民族は、基本的に未開である、随い、進んで居るのは上辺だけで、真に学ぶべきものは少ない」と看破して居たのでしょう。

 是は、自分の立身出世には拘らず、自分の洋行の使命が、「真に日本の為になる物を何か見出して来る事」見定めていたからだと思います。 西郷南洲翁に心から私淑して居た、薩摩人なら、そう考えると思います。

 つまり、大久保は薩摩人である事を捨てて、日本の代表足らんとした人間であるのに対し、村田は、飽く迄、薩摩人たろうとしたと言う違いだと思います。

 昔から、洋行した人は、国際的になる人と、国粋的になるℋトに分かれると言いますが、私は商船学校の最後の年1年間を、「乗船実習」と言う経験を、帆船(日本丸)と2隻の汽船(大成丸と青雲丸)でして、最後の青雲丸では、世界一周を経験させていただきました。 勿論、船と言う日本人が沢山いるベースを伴っての話ですから、かなり特殊だとは言えますがね。

 それでも、拙い英語で、何とかコミュニケーションを採ろうと、色んな人に出遭いましたが、未だ、私は色々被れていた頃だったので、村田さんの様に、民族や社会の真実を見抜くだけの力は無かったですね。

 でも、妙な西洋かぶれにはなりませんでした、今は、洋上で出遭った大自然の脅威に感じた人類の存在の矮小さの体験以外は、懐かしい思い出、ダケです。

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