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2018年12月16日 (日)

諸国から訪れる旅人達よ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心を持って戦い、そして玉砕したかを伝えられよ

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

奥本康大 葛城奈海『大東亜戦争 失われた真実』(ハート出版)

海行かば(うみゆかば)」は、戦時中、玉砕者が出るとその報道と共に流された歌であった。

その中にある「水漬(みずく)く屍(かばね)、草生(くさむ)す屍」となった日本兵(防人)たちを慰霊、顕彰するため、ふたりは駆けた。

激戦地だったパラオ、ペリリュウ、アンガウル、テニアン、サイパン、レイテ、そして沖縄へと。

ーー

英霊の功績は、戦後自虐史観によって隠蔽された。

二人は、「大君の辺(へ)にこそ死なめ」として屍(しかばね)となった日本兵の真実を求め、慰霊し顕彰するために、激戦地を駆けた。

「GHQによる洗脳で犬死にと思い誤魔化された彼らの名誉を回復する」

「国家を守るために散華された英霊の恩に報いる」

という動機から同士をつのり慰霊の旅が企画されたのだった。

ーー

「日本兵とは二度と金輪際、戦いたくないと米兵に思わせた英霊たちの精神、戦いぶりが戦後の日本を守ってきた」(葛城)

ーー

そう、ペリリュウにはニミッツ提督の石碑がある。

「諸国から訪れる旅人達よ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心を持って戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」

ーー

「英霊を二度死なせてはならない」

「一度は肉体の死」

「二度目は記憶から忘れられる死」(奥本)

ーー

奥本氏が続ける。

「茶番劇のような東京裁判で『平和に対する罪』(いわゆるA級戦犯)で裁かれた七烈士も日本国の自存・自衛の戦争を戦った英雄だ」

「(しかし)靖国神社に合祀されたことを理由に近隣諸国の不当干渉により、総理大臣や国会議員が参拝を見送っている」

「(この状況は)如何(いかが)なものかと感じる」

「こんな国は全世界を見渡しても日本だけである」

「(しかし)そんな簡単な判断もできない日本人が増えている」

ーー

葛城さんが次のように結語する。

ーー

「『大和魂』と聞けば、特攻隊に象徴されるように鬼神の如く荒ぶる魂をイメージする人が多いだろう」

「しかし、『大和』の文字が表すように、その根本には『大きな和』つまり「万民の幸福を求める心がある」

「だからこそ、先人たちは戦前・戦中と統治下にあった国々の人々と兄妹のように睦み合い、共存共栄を目指した」

ーー

それが。『八紘為宇』、日本の理想である、と葛城さんは言う。

ーー

ところで葛城女史は文中、アンガウルの勇士、「不死身の分隊長」と言われた船坂弘氏について克明にその戦歴を武勇を書いている。

船坂さん? 

戦後、復員して渋谷に日本一の書店をつくった大盛堂の創業者でもある。

船坂は名刀「関孫六(せきのまごろく)」を三島由紀夫に贈ったことでも知られる。

その刀は市ヶ谷での蹶起(けっき)に使われた。

ーー

評者(宮崎)は晩年の船坂氏と親しくしており、自宅にうかがって名刀の数々を見せて貰ったこともある。

が、この本で久しぶりにお目にかかれるとは「何たる幸運か」と感慨ひとしおである!

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>失われて行く日本伝統の防人精神
 私が幼い頃、よく話をしてくれた戦地帰りのオジさんが、「海行かば」を歌いながら泣いて居たので、「悲しい歌なのですか?」と訊くと、「否、本来は、天皇陛下の為に命も惜しまないぞ、と言う勇しい歌なのだよ、でもね、20年前の戦争では、この歌に有る通りに成ったのに、皆それを忘れて居る、死んだ連中は一体何の為に死んだのか、と思うと情けなくてね」と、流れる涙を拭きもせず、云って居た事を思い出します。

 戦争はどんなに理屈で装飾しても、やはり、悪です。 だって、戦って居るのは、双方共、敵方の兵士は、見ず知らずの人間ですが、実は一人一人が国に帰れば、自分達と同じく、家庭が有り守るべき家族が居るのです。

 何の恨みもない人々同士が殺しあわなくてはならないなんて、その命をまるで石ころの様に扱う事が、当然になって居る戦争は、「人間に悪業を強いる」と言う意味でも、世界共通の悪業でなければおかしいと思います。 

 然し人類が人口を増やして来た近世史上で、戦争が100年と絶えた事が無いのはどぅしてなのでしょうか、その最大の原因と考えられるのが、人間の生存慾に基を発する生存権だと思います。

 殊に、日本以外の国では、勝った国が負けた国の生き残りの兵士を奴隷として貶め、家族に暴行・淫行の限りを尽くす事を、勝者の権利だと思い込んで居る、すると、ゲルマン族の様に、戦争を好んで行っても、心に痛痒を覚えない連中も出て来るのです。

 結果、戦争は人間を堕落させ、負けた国の文化のみならず自分達の道徳も破壊した、ダカラ、戦争をしなくては生きて行け無かった遊牧民には文化が育って居ないし、文化を必要だと言う要請も起らないのだろう、彼らに取って、戦争は必要悪なのだ。

 日本は基本農耕民だが、峻厳な自然環境のカナで生き抜くに、絶えず、現状を改善して行かねばならなかった、遊牧民の様に、他所から奪って来れば、自分達は生き延びられると言う訳では無いのは、日本人にとっての脅威は、他民族では無く毎年やってくる台風や豪雨、そして、豪雪と言った抗い難い自然の災害だからで、日本人は都度、人間の力の卑小さを思い知る事に成る。

 然し、一人ではできない事も、2人なら、3人なら出来るので、大勢の人間が対立でなく力を併せれば、自然の脅威を軽減する事が出来る、と言う事に気が付いた、ダカラ日本人の間では、「集団の和」が最も尊ばれる様になった。

 そして、BC7~8世紀ごろに、戦乱続く大陸から戦争難民が、日本を目指し始めますが、列島の気候は、平生は穏やかだが、一旦、荒れ始めると考えもつかない様な大風や豪雨によって、川は簡単に決壊・氾濫し、大陸と同じように平地や水の便の良い、川沿いの低地にに耕した田畑は、一瞬にして水に飲まれ、作物を収穫できなくなる、そして、厳寒の冬がやって来る。 斯うした気象の繰り返しに順応できずに、多くの難民たちが飢えて、或いは、災害で滅びていったのでしょう。

 列島の天候の厳しさは、そうした気象の中で生き残って来た日本人しか、その存在を許さなかったのです。

 そんな日本を護ろうと言う心は、父母や祖父母が、危険な自然に立ち向かい、田畑と家族を護り、自分達の生活圏を死守して来た姿を看て居るから、土の1欠片、水の1滴にも、文字通り、先祖の辛苦の賜物だと言えるのですから、寧ろ、起こって来ない方がオカシイでしょう。 その事がハッキリわかったのが、BC5世紀ごろ起った。「倭国大乱」で有ろうと思います。 

 大和朝廷は、BC6~7世紀ごろの、大陸からの難民の流入で国同士の争いか活発化し始めていたのを鎮めて、「豊かで、皆が飢えなくても済む国を造ろう」と考えた、ウガタフキアヘズのミコトが、「瀬戸内の奥にあると言われている、蓬莱山「=富士山」を目指して行けば、その願いが叶う」と言う占いを信じ、3人の息子に命じて始まったのが、東征行だったのでしょう。

 この時に、その提案に賛同した、九州の海人族を中心とする豪族達「=大伴氏と久米氏」は、大型の船と、多くの兵士を貸してくれましたが、一行の目的は、征伐では無く、親和に拠る平和的な統一でしたから、その目玉として、低い山肌を開鑿して田んぼにする、南方スンダから伝授した「棚田耕作法」でした。

 是なら、豪雨に遭っても、田んぼが水に浸かってダメになる事は少ないし、平地は少ないが、山なら幾らでも有るわけで。この耕作法に拠って、周防、安芸、吉備、播磨、丹波と連なる、国々の食糧増産に大きく貢献して、戦いなく、その国々の支持を得る事が出来ました。

 然し、到着した瀬戸内の奥には、長脛彦率いる蝦夷族が居ましたが、彼らは、水田耕作をして居なかったので、懐柔法は受け容れられず、短也侵略者として追い返された。

 この戦いで、2人の兄を失った、末弟は、紀伊半島を回って、伊勢に上陸し、反長脛彦勢力を集めて、或いは、本国から黒潮に乗って援軍を得て、軍を増強して、長脛彦を打ち破り、蝦夷族を東北に追いやります。

 然し、問題はこの後で、支配者長脛彦が居なくなった、葛城の地では、地元の豪族が復権しましたが、大和朝廷の背後には、強国の吉備や播磨・丹波が着いて居るので、朝廷は建ったモノの、豪族同士の微妙なバランスの上に成り立って居る不安定なものでした。

 この状況に拠り、王朝内が四分五裂し始め、特に、温故の家臣とも言える、大伴氏と久米氏が、争い始め久米氏は、九州に帰って終います。

 其れを契機として、国内が荒れ始め、約450年間も戦乱が続きます、天皇も、「考」が着くお名前の方々4代は、九州王朝のものだとお推察致します、その期間、凡そ300年、是が後に、「欠史8代」と言われる、資料の無い空白の時代でしょう。 

 然し、最終的に天皇家が、飛鳥の地に、九州からお戻りになられた事で、乱は治まり、此処で改めて、天皇を「スメラミコト」と言う、神のみ言葉を伝える大司祭として、神武以来の天皇家に収まり戴いたのでした。

 「棚田耕作法」と言う「神のみ言葉」によって、飢えや争いから救わ れた記憶の有る豪族は、其れまで争って居たが、スメラミコトを建てる事で、平和になる事に異議などあろうはずが無く爾来、天皇家は続いて居るというわけです。 つまり、日本の天皇は、日本の平和の要として誕生したと言えましょう。

 防人の心とは、斯うして出来た、大きな「和の国」を外夷の脅威から護らんとする庶民の心であり、有態に言えば、国民の間から湧きあがった愛国心だと思います。

 現在の日本人で、農耕民と言えるのはごくわずかで、然も、殆どが、後継のいない高齢者です。 この頃の言論人の中には、「日本での農業は無無理だ、分業思想から言えば、海外に依存して食糧を輸入した方が合理的だとか、云う、馬鹿者が沢山います。

 然し日本は3万年もの昔から、厳しい自然環境の中で、農業を続けてきたのだし、我々日本人の和の心は、実に、荒ぶる自然の中で農業を続けて来た事から、生まれたと言って良い。 その農業を一時の流行廃りだけの価値観で、止めていい筈が無い。

 日本の先人達が、命を賭けて護り抜いて来たこの日本「=大和の国」を先祖から受け継ぎ、そして子孫に伝える、と言う役目を我々国民一人一人が担って居る事を、忘れてはいけないと思います。

縦椅子様
今日も素晴らしいブログ有難うございます。

縦椅子様

 今日も素晴らしいブログ有難うございます。
≪「英霊を二度死なせてはならない」
「一度は肉体の死」
「二度目は記憶から忘れられる死」(奥本)≫
ーーと≪海征かばの歌詞「水漬(みずく)く屍(かばね)、草生(くさむ)す屍」となった日本兵(防人)たちを慰霊、顕彰するため、ふたりは駆けた≫
ふたりとはー奥本康大氏 葛城奈海氏で『大東亜戦争 失われた真実』に真実を書かれている。
≪先人たちは戦前・戦中と統治下にあった国々の人々と兄妹のように睦み合い、共存共栄を目指した」ーー『八紘為宇』が、日本の理想である、≫と説き、伝えて下さっているという―ー
本当に有り難いことです。
万葉の昔から「防人の歌」が歌い継がれています。国を守ってくださる方々があったからこそ今の私達があるのです。--

「英霊の御霊の安らかならん」ことを心よりお祈り申し上げます。

高校を卒業して就職しましたが、その頃は宴会に行ってもカラオケがあるわけでもなく、歌を歌うときには皆とオケ無しで大きな声で歌っていました。歌う曲は歌謡曲であったり、母校の校歌であったりですが、軍歌も又その中に入っていました。

世代としては戦後生まれですから、軍歌が何故入るのかと思いますと、親が兵隊の子ども世代だったのです。
今なら、歌を歌うときにはカラオケですから、私のように下手な者でも誤魔化しが効くのですけれど、あの頃は皆で歌うことで助け合いでした。

軍歌は勢いのある歌だと元気が出るのですけれど、日本の歌は民族性なのか、しんみりとした歌が多いように思います。でも、演歌のある国ですから、国民性に合っているのでしょう。


>「『大和魂』と聞けば、特攻隊に象徴されるように鬼神の如く荒ぶる魂をイメージする人が多いだろう」

此について、大和を「大きな和」と考えたことはなかったので、成る程と思いました。大和というと戦艦大和を連想するのですが、大和を「大きな和」と考えるとき、日本らしさを感じました。

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