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2018年11月25日 (日)

日本語は、支那・朝鮮人の言葉とは、似ていてもその意味は違っている

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

私達の祖先は、その「ゆめ」に、「夢」という漢字を後から輸入して当てた。

(日本語の漢字に音読みと訓読みがあるのは、もとからの日本語(大和言葉)が先にあって、あとから漢字を輸入したことによります)

ーー

では、日本語の「ゆめ」はどのような意味を持つ言葉なのでしょうか。

カタカムナによれば「ゆ」は湧き出るもの、「め」は思考や思念の萌芽を意味します。

この二つが組み合わさって「ゆめ」は「萌え出る思考や思念」を意味します。

ーー

ホツマツタへでは「ゆ」は跳ねて登っていくもの、「め」は液体に何かを加えることを意味する。

それゆえ「ゆめ」というのは、「何かの力がはたらくことで登っていく」、あるいは「魂がどこかに登っていくことで何かを得る」ことを意味します。

ーー

それに私達日本人は、意外と夢を本気にしているところがある。

夢で観たことに恐怖したり、喜んだり、あるいは天の啓示のようなものを感じ取ったりします。

ーー

まず漢字の「夢」は、「くさかんむり」の下に「目」を横にした字(これを横目といいます)があり、その下に「夜」という字の省略形があります。

つまり夜は暗いので、草の一本一本がよく見えない・・・

というわけで、なんとなくボヤ〜ッとしていて、よくわからないものが「夢」です。

人が見る夢は「にんべん」に「夢」で、「儚(はかな)い」という漢字になります。

ーー

つまり「夢」は、なるほど漢字的には消えてしまうものではある。

けれど、日本人は、何かそこに啓示のようなものを感じ取ったり、萌えるものを感じたりしているわけです。

ーー

小野小町に次の歌があります。

思ひつつ 寝(ぬ)ればや人の 見えつらむ  ゆめと知りせば さめざらましを

(あの人のことを思いながら寝たので、夢にあの人が出てきたのでしょうか。  夢だと知らないまま、そのまま目を覚まさずにいたかったわ)

ーー

女史は夢の中で大好きな人と逢っていて、目が覚めると、「あれはゆめだった」とわかる。

だから「ゆめと知らないまま、もっとずっと逢っていたかった」と詠んでいます。

つまり女史は、ゆめの中で生きているいるわけです。

このことからすると、日本語のゆめには、英語のdreamの意味、よろこびや楽しみがあることがわかります。

ーー

小野小町には次の歌もあります。

うたた寝に 恋しき人を 見てしより  ゆめてふものは 頼みそめてき

(うたた寝に恋しい人を見たあの日から、ゆめというものを頼りにしはじめましたわ)

ここではゆめの中の世界を、自分にとっての現実にしてしまいましたわ、と詠んでいるわけです。

まさに「ゆめによろこびや楽しみを感じている」わけです。

ーー

近年ではプレイステーションや、任天堂、スマホなどのゲームに「仮想現実バーチャル・リアリティの世界」があります。

画像はアニメではありますが、モンスターハンターのように絵柄がたいへんにリアルです。

そこでは、非力な少年が筋骨たくましい青年となり、あるいは美女となって、大きな平原を渡り歩きます。

現代人は、仮想の世界に夢中になって入り込み、いつしか時間を忘れている。

もしかすると「ゆめてふものは 頼みそめてき」と詠んだ小野小町と同じ世界にいるのかもしれません。

ーー

それでもゲームの世界は、あくまで仮想の世界でしかありません。

つまり「夢は夢でしかない」のです。

しかし夢であっても、それを心の支えにすることはできます。

自分の望む夢を心の支えにして、今日を頑張る。

ーー

英語の場合は違います。

「dreamを叶えよう」という言葉は、「自分が抱く希望を叶えよう」という言葉と同一の語彙です。

そこでいうdreamは、現実にあることになる。

ーー

漢字では、現実でも仮想でもなく「消えてしまうもの」です。

そんな、消えるとわかっているものに向かって努力するのは無駄なことです。

つまり支那・朝鮮人が、日本メディアを使って、日本人に「夢をかなえよう!」と呼びかけるときは注意が必要なのです。

ーー

なぜなら彼らは、夢は叶わないと考えているのだし、叶えさせてあげようという気もないからです。

彼らが、日本人に「夢をかなえよう」、「夢を実現させよう」と呼びかけているとき、それは、日本人を「騙そうとしている」のです。

ーー

「騙す人より、騙される人が悪い」と考えるのが彼らの文化です。

ーー

言葉というのは、たいせつなものです。

日本語は、多様な文化を採り入れるのに際して、とても適した言語です。

けれど、支那・朝鮮人の言葉とは、似ていてもその意味は違っている、そのことをしっかりとわきまえていないと、とんでもない結果になってしまいます。

そういう意味で、日本人が日本語をしっかりと取り戻していくことが、日本を取り戻すための基礎になるのではないかと思っています。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>「夢」の解釈に見る文明の差異
 非常に面白い話で、流石、ねずさんだなぁと感心しました。 ご紹介有難うございます。

 私の「夢」観は、体験的なものから言えば、「神の啓示」かと思う様なインパクトの強い、一言一句ハッキリしたモノから、目覚めた途端に、泡のように消えて終う儚いものまで、様々ですが、昼間に怖い経験をした記憶が夢に成る場合、人によっては、良く、就寝前に経験した緊張した事が頭に残って居て、「怖い夢を見た」「夢見が悪かった」とか、告白する人が居ますね。

 私の場合、例えば、20m位の鉄製の垂直梯子を、物を担いで登って居て、途中ステップが折れて居て空足を踏んで、危うく落下する処だったり、デリック・ブーム「=荷役装置の一種」のレスト「=先端を固定する処」の破損状況を見に行くのに、これまた20mの高さに在る場所まで登って、水平方向に幅⒛cmの手摺り無しの歩廊を10m位往復した時も、落ちる夢は見て居ませんから、根が鈍感なのかもしれませんがね。ww

 然し、世界三大美女の小野小町の夢ですか、ねずさんのセンスも、大したものですね。想像するだけで、ワクワクして終います、デへへ。

 結局、日本人は現実主義なので、「夢は夢に過ぎない」と言う常識になって行くのでしょうが、夢が占める位置が、同じく夢を評価している西洋とは、本質的に違う様な気もしますが比べると、日本の方が、「分らない」部分を遺して居る分、高いもの、大切なモノとして居る様な、私は気がします。

 日本人は、顕在意識の中でも夢で味わった甘美な思いを反芻して、現実の人やモノに仮想を募らせている様に思いますが、そういう甘い思いが、シナ・朝鮮人には無いのかと思うと、誠に人間として、気の毒な気がしますね。ww

 処で、現代日本語の中に占める大和言葉の割合は、どの位あるのでしょうか、日本語の構成は、大和言葉の他に、漢語、西洋のアルファベット語、東南アジアや中東の言葉、或いは、朝鮮語や時には、モンゴル語も入って居ると思います。

 その区別が曖昧なママ、例えば、「ジャパリッシュ」とか揶揄される様な、造語や外国人が発音した其のままを聴きとったモノが有りますが、一番多いのは、短縮形で、酷いのになるとプロパガンダをプロパ、インフラストラクチャーをインフラ、テレビジョンをテレビと、良く使う名詞は、完全に日本語化しているモノが多いですね。

 私は是が嫌いです、何故か言うと、言葉は文化だと思うので、其れを省略して使って居る裡に、原義とは、違う意味になっていたりして混乱を起こすし、相手の文化に対する敬意も感じられないので失礼に当たる。 其れに何より、日本人にしか通じませんし、是は、言葉自体を殺しているのと同じです。

 とはいえ、言葉と言うのは、俗化するのは、世の倣いの様で、時折、短縮語は思って居なかったものが、短縮語だったりするのは、日本語が大衆中心の言葉であり、柔軟な言語である、つまりは、文化も大衆発信のモノで、柔軟さ、文化消化力を備えて居ると言う証拠の様なものだと思いますね。 ですから、世に連れて、日本社会に吸収された外来語が、日本語化して行くのも仕方が無いのだと思って居ますがね。

 然し、ねずさんが危惧して居る様に、民族や文明に拠って、言葉の数だけ、異なった感性があり、その隙を衝いて、詐欺や欺瞞行為を押し付けて来る人々が、少なからずいる事は、用心しなくてはイケませんが、其れより、日本人は、先ず「世界は日本と同じでは無い」事を、知るべきです。

 例えば、対象となる外国人の基本的な考え方、物の感じ方などの基礎的なものから、確り教えて、逆に、日本人として、自分はドゥ考えているのかを、自分の中に光を当てて自分を知る事が大事だと思いますね。

 国際化は、外国語の習得が一番先に来るのではなく、拠り、自分が日本人として外国人に対する事が出来るか? だと思います。 昔、米国で、オートレーサーになって名を挙げた人が、渡米する時に、英語より、日本の歴史や日本の伝統の文物に就いての知識を詰め込んだと言うのは、象徴的な話だと思います。

 別に、日本人の代表として行くのではないでしょうが、外国人に取って彼に期待するのは、日本と言う未知のモノに対する興味でしょうから、祖の日本人が、唯の「自分の国の事を何も知らない」人間だったら、声をかける価値も有りませんからね。

 つまり、会話以前に失格していると言う事です。 その辺り、ねずさんの、倭講座は、日本人の国際化には欠かせないものだと、確信しております。

縦椅子様

今日も素晴らしいブログ有難うございます
≪それゆえ「ゆめ」というのは、「何かの力がはたらくことで登っていく」、あるいは「魂がどこかに登っていくことで何かを得る」ことを意味します。≫と「ゆめ」の日本語本来の意味を深く知らしめてくださいましてありがとうございます。
以前ブログで荘子の「胡蝶の夢」を取り上げてくださいましたが、薄桃色の匂いに惹かれてやってくるミツバチがいみているととおしく、現実かゆめかの区別がつかないような感じでいます。小野小町は≪ゆめてふものは 頼みそめてき≫と現実にかなわない思いを夢に託して≪ゆめの中で生きているわけです≫。寒くなってきましたので、私も小野小町のような夢をみられたらいいのですが・・・ゆめって見ようと思ってもなかなかみられないし・・・僥倖をまつのみです。

>つまり支那・朝鮮人が、日本メディアを使って、日本人に「夢をかなえよう!」と呼びかけるときは注意が必要なのです。
>なぜなら彼らは、夢は叶わないと考えているのだし、叶えさせてあげようという気もないからです。
>彼らが、日本人に「夢をかなえよう」、「夢を実現させよう」と呼びかけているとき、それは、日本人を「騙そうとしている」のです。
>「騙す人より、騙される人が悪い」と考えるのが彼らの文化です。
支那から流れてきた文化である漢字ですが、所詮支那から流れてきたものであり、日本の文化と一致するものではないと言うことです。
夢という文字でも、支那の文字を日本が使っただけで、意味は日本と異なっていて当たり前だったのです。

そして、意味の異なることを支那人は知っていて、日本人を騙していたのですが、後ろではほくそ笑んでいたと思います。
だから、文字通り騙す人より、騙される人が悪いと考える国でなら、支那人は日本を騙したことを気にしないし、13億人の市場があるとして日本の企業は引きずり込まれたと思います。


想い出したことに、民という文字があるのですけれど、この文字を見ると日本人なら民主的とか国民とかを示す言わば良い文字に思うのですが、支那ではこの文字は目を潰された庶民という意味だそうで、悪い意味に捉えます。

同じ文字でも支那人と日本人では使い方が異なるのですから、これに気がつかなければ騙されていることは幾らでもあると思います。
個人でも騙されることは不愉快ですが、支那との外交に際しては、十分に注意して欲しいです。(文字だけではないです。)

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