無料ブログはココログ

« 秀吉の朝鮮出兵は、世界を植民地化し、太陽の沈むことなき大帝国を築きあげていたスペインの日本侵略を思いとどまらせるための行為であった | トップページ | スイス氷河の氷断片を化学分析することで、自然活動と人の活動を知ることができる »

2018年11月23日 (金)

最終的に人は、あらゆるものを尊重し感謝することができます

ーー以下「伊勢雅臣コラム」より抜粋編集

精神科医で「対人関係療法」の第一人者と言われる水島広子氏は、「自己肯定感」という用語を、次のように定義している。

ーー

「自己肯定感」とは、「優れた自分」を誇りに思うことではありません。

「ありのままの自分」をこれでよいと思える気持ちです。

ーー

自己肯定感が低い人は:
・「ありのままの自分」をさらけ出す事ができない。
・批判を受けたり、悪口を言われると、みな自分のせいだと思い込む。
・周囲の人に、自分を理解して欲しい、気遣って欲しいと思う。
・自分が相手のために何かできる、という事に気がつかない。

ーー

ナサニエル・ブランデンは、「自尊心(Self-esteem)」に関する研究の先駆者である。

1960年代から研究を始め、今日の熱烈な支持(ブーム)を築いた。

彼によれば、自尊心は人間の基本的な欲求であり、次の二つからなる。

・自分の人生に取り組んでいく能力に関する「自信(self-efficacy)」
・自分が価値ある存在であるという「自負(Self-respect)」

ーー「自信」と「自負」の訳は伊勢氏による

自信ある人は高い目標に挑戦し、困難にもよく耐え、その結果、成功すれば、さらに自信を深めるという善い循環が生ずる。

たとえ失敗しても、自信を持っているから、次は別のやり方で挑戦しようと、すぐに立ち上がる。

自信がない人は、はじめから挑戦を諦めてしまうので、いつまでも成長できない。

ーー

自負ある人は、自分の目指すものの価値を信じ、それを目指す自分自身の価値を疑わない。

自分が取り組んでいることの価値を信じ、それを追求する自分の能力に自信を持っている。

そういう生き方をしている人は成功の確率も高くなる。

ーー

自尊心が強すぎると傲慢になってしまうのでは、と何事にも控えめな日本人は考えてしまうが、ブランデンはこう答える。

傲慢になるのは、自尊心が足りず、自分を護るために他者を見下す必要があるからだと。

自尊心が十分にあれば、他人と比べる必要など感じないから、他者にも自然に振る舞うことができる。

ーー

「自尊心は精神の健康状態であるから、肉体が健康すぎて良くない、という事があり得ないように、自尊心がありすぎてよくない、という事はない」

ーーと彼は言う。

個人の心理について言えることは、集団についてもいえる。

例えば、ことさら我が国に対して傲慢尊大に振る南北朝鮮人であるが、その原因は自尊心が不十分だからだろう。

なにしろ、2千年ほども支那に臣従してきたのだから自尊心など持ちようがないのだ。

ーー

自尊心に関するノウハウ本で100万部も売れたベストセラー『うまくいっている人の考え方』で著者ジェリー・ミンチントンは次のように言っている。

ーー

「すべての人は、「自分の思いどおりに生きる」という他人の権利を犯さないかぎり、自分の思いどおりに生きる権利がある・・・」

ーー

思えば戦後、占領軍の占領政策に協力することで、旧体制を支えていた人々を20万人以上も公職から追放し、その地位に成りすますことで敗戦利得者となった人々がいる。

彼らは、在日・反日勢力と呼称されているのだが、戦後社会の政財界、教育界、言論・メディア、法曹界の支配者となった。

彼らは特に、言論・メディアを支配し、70年以上もの長きにわたり占領軍由来の禁止用語集によって言論を検閲し弾圧し「護憲、東京裁判史観、侮日」を日本人に強制してきた。

しかも彼らは、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」などを捏造し、日本人に、謝罪と賠償を求め続けてきたのである。

ーー

このような人々に対しては、ミンチントンは「もしあなたがこういう人の言うとおりになっているとしたら、あなたはさらにひどい思い違いをしていることになる」と指摘している。

ーー

自尊心の研究は、当然、自尊心を育てるにはどうするか、という課題に向かう。

自尊心は他者との比較の上に成り立つものではないから、「一流大学を卒業した」とか「一流企業の社員だ」などという自慢からは真の自尊心は得られない。

上には上がいるし、下を見下して成り立つのは傲慢さだけで、それは自尊心の欠如でしかない。

ーー

水島広子氏は「他人を尊重し感謝すること(リスペクト(英)、オマージュ(仏))」を勧めている。

「尊重し感謝する」とは、相手のそのままの姿を認め、そこに価値を見いだすことである。

そして、この尊重し感謝することはあらゆる人やものに対して持つことができるという。

ーー

「通りすがりの人、いつも見慣れた環境、いつも応対してくれる店員、自宅まで荷物を配送してくれる宅配便の人、たった今食べているもの、あるいは「今この瞬間」…」

「これらを改めて尊重し感謝してみると、人生の質がぐっと上がるのが感じられると思います」

「なぜかと言うと、かけがえのないものに囲まれて、一生懸命生きている自分や他人の姿を感じられるからです」

ーー

他者が「一生懸命に生きている」その姿そのものが尊い、という感覚が得られれば、それらの人々とのつながりも感じられ、小さな親切も気軽にやれるようになる。

そして、そういう姿勢で生きている自分自身の価値も感じられるだろう。

ーー

「他者を尊重し感謝する」という方法は、日本人を育てるのにも有効である。

さらに筆者は国際社会で生きていくには、日本人としての「根っこ」が必要だと説いてきた。

その「根っこ」を太く、深く伸ばすためには、我が先人たちがそれぞれの時代の環境や制約の中で、「一生懸命に生きてきた」姿を尊重し感謝することが有効だと考える。

ーー

我が先人たちの足跡には、成功もあれば、失敗もあった。

成功したから偉いのではなく、失敗したからダメなのではない。

多くの先人たちが、当時の国民同胞のために、そして後世の我々のために、懸命な努力をしてくれた。

その生き様を素直に尊い、有り難い、と思う処から、自己肯定感が育つ。

日本人の「根っこ」とは、祖国に対する肯定感に他ならない。

ーー

水島広子氏はこの著書のあとがきを、次のように結んでいる。

ーー

「最終的に人は、あらゆるものを尊重し感謝することができます」

「それは、今この地球に生きていること全体を恵みとして受け取るということ」

「そうすれば、自分がここに生きていることがすばらしい奇跡のように感じられるでしょう」

「そんな心境に達することができたとき、私たちの自己肯定感はかぎりなく高まっていると言えます」

ーー

我が先人たちは自然の中のすべての「生きとし生けるもの」を神の「分け命」と見て「尊重し感謝」した。

自然の中で生かされている事への感謝から、毎朝、朝日を拝み、食事の際には食べ物となってくれた命に対して「(感謝して)いただきます」と手を合わせる。

自然を尊重し感謝する中で、日本人の自己肯定感が育(はぐく)まれた。

世界一古くから日本人はこのようにして自己肯定感を育(はぐく)んできた。

そのことを思い出せば、それはそのまま現在の日本人を支える「根っこ」となるだろう。               

« 秀吉の朝鮮出兵は、世界を植民地化し、太陽の沈むことなき大帝国を築きあげていたスペインの日本侵略を思いとどまらせるための行為であった | トップページ | スイス氷河の氷断片を化学分析することで、自然活動と人の活動を知ることができる »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>自然への感謝、他への感謝が育む真の自尊心
 通読して、感動して号泣して終いました。 早速今日のダイジェストは、私のアーカイブにさせていただきました。

 考えて看れば、世に言う自尊心は、誤解されて居ますし、水島先生が仰る、自己肯定感も、その自己肯定と言う意味に置いて、全く別の意味に解釈されているのではないかと思います。 「傲慢になるのは、自尊心が足りないからだ」と言う言葉に、頭を殴られた様な、気がしましたし、「自尊心が足りない人は、現象の原因を全て自分の所為だと思い込む」に、ハッとさせられました。

 何せ私は、昔から典型的な薩摩人で、「自恃の心」が強い傾向が有り、「自分が正しいと思ったら、敵は幾万有とても」の口ですからねw、負けを認めなければならない時の心の葛藤は、他人には説明できないモノが有りました。

 試合とか、試験とかは、公正なジャッジの下に、勝ち負けが判定されていると信じて居るので、結果が出てから勝負の結果をあれこれ引き摺るのは、愚かな事だと思って居ます。 けれども、喧嘩や諍いの場合相手が卑怯な真似をした事が許し難く、仏教に遭うまでは、過去にされた仕打ちを覚えて居て、何時かは、仕返ししてやろう思って居た処が有りましたね。

 ご紹介の水島弘子先生の説明の中に、
 自己肯定感が低い人は:
・「ありのままの自分」をさらけ出す事ができない。
・批判を受けたり、悪口を言われると、みな自分のせいだと思い込む。
・周囲の人に、自分を理解して欲しい、気遣って欲しいと思う。
・自分が相手のために何かできる、という事に気がつかない
と、挙げておられましたが、1番目を除いて、自分に当てはまるのですが、特に4番目は、身障者になってからの葛藤の原因ですね。

 「自分で、他人や社会の為になる事を探して、出来る事をすれば良い」のではないかとは、思うのですが、自恃の心が、邪魔をして居ますね。 其れで、無理な運動を始めて、肩を痛めたり、足底筋を痛めたり、医者から呆れられています。ww

 是は、自分にの心の中に、不可逆な障害を背負った事を、受け容れて居ない部分が存在するからなのだろうと思いますね。まぁ、今の処、他人に迷惑がかかる様な事はして居ないつもりですので、「使える部分のメンテナンス」の心算で、痛めたり、壊れない程度で、続けます。 そうして行く裡に、自分が他の為に出来る事に、出遭えるのではないかと思って居ます。

 処で、私は前から感じて居たのですが、根っこは、同じ神道なので、偶然かどうかは知りませんが、私が属している、崇教真光の教えと殆ど同じなので、ちょっと驚いて居ます。 違うのは、崇教真光が言う、「手かざし」を云わないだけの事ですからね。

 私は、自分でも科学的な思考が出来る人間だと思って居ますが、現実に、複数の医者から「脳腫瘍だから、開頭手術が必要だ」と言われて居た、「突発性斜視」を手術を待つ3週間の手かざしと、「気休めダケド」と渡された抗生物質だけで治したり、他にも、椎間板ヘルニア、帯状疱疹、顔面神経麻痺(両顔)とetcと、幾らでも有ったのです。

 然し、一昨年の、脳梗塞や昨年の感染症から敗血症を惹き起こしたMRSA迄、「お前には、未だ、この世にやり残した事が有るぞ」と、神様に追い返されているww様な現象が起こって居るので、今は、其れが何なのかを、毎日探して居る毎日です。

 でも、斯うして、私の神様への信仰心を補強して下さる様な、お話に出遭える事も、神様のお導き・お仕組みだと、素直に思えるようになり、自分の中で、科学と信仰が、完全につながった様な気がして居ますが、是も亦、私の中では、大きな一歩なので、ご紹介いただきました、縦椅子様には感謝に絶えません。

縦椅子さま

 今日も素晴らしいブログありがとうございます。
≪我が先人たちは自然の中のすべての「生きとし生けるもの」を神の「分け命」と見て「尊重し感謝」した。≫
≪最終的に人は、あらゆるものを尊重し感謝することができます」≫
≪それは、今この地球に生きていること全体を恵みとして受け取るということ≫
≪そうすれば、自分がここに生きていることがすばらしい奇跡のように感じられるでしょう≫
-本当にいま自分がここにいるのが奇跡なら、自分と出会うかけがえのない人もみな奇跡的存在と言えます。
-だから≪水島広子氏は「他人を尊重し感謝すること(リスペクト(英)、オマージュ(仏))」を勧めている。≫ように尊重しましょう。
 星降る夜、銀河鉄道に乗った二人の会話です。---
 ジョバンニはああと深く息しました。
 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」
 「うん。ぼくだってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
 「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧くようにふうと息をしながらいいました。
 ジョバンニは眼を開きました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。そして、親友が川に落ちた友を助けたあと行方が知れないという・・・そんな、銀河の夜のお話を宮沢賢治は遺してくれている。ありがたいことです。

>自信ある人は高い目標に挑戦し、困難にもよく耐え、その結果、成功すれば、さらに自信を深めるという善い循環が生ずる。

物事を出来る人は、物事を捉えるときに出来る要素を探し出して、出来ると考えます。
物事を出来ない(やらない)人は、物事を捉えるときに自分に出来ない事柄を探し出して、出来ない(やらない)ことにします。

日本人は自分に出来ない事柄は、他人と協力すれば出来ると考えて、出来ないことも出来るようにしてきたと思います。
みんなと力を合わせれば、出来ないことも出来るとしてきたのです。

これが、最近は個人主義が大きくなったため、出来ないときには、自分一人が出来ないから誰にも出来ないという、出来ないことを肯定するための要素にすることが多くなったように思います。


子供の頃は、自分は何も出来ないと思っており、何事にも消極的でした。

高校に入った頃、当たった同級生が良かったのですが、何故か自分が積極的になっていきました。日頃にみんなと話すときにも、主体性が感じられるようになりました。
それでも、体力的な面は駄目でしたが、これは運動面は繰り返しの鍛錬が必要だったと思いますが、生まれてから全くやらなかったもので、どうしようもなかったと思います。

しかし、不思議なもので、体力・運動も無理矢理やりますと、それなりのものに出来るとの感覚は、出来たようです。
尤も、運動嫌いは直らずですから、何にも出来ませんけどね。

でも、その後に覚えたのは、やれば出来る。そして、必要なときにはやらなければならないことがあるでした。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 秀吉の朝鮮出兵は、世界を植民地化し、太陽の沈むことなき大帝国を築きあげていたスペインの日本侵略を思いとどまらせるための行為であった | トップページ | スイス氷河の氷断片を化学分析することで、自然活動と人の活動を知ることができる »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31