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2018年10月27日 (土)

人はめいめい考えが違うものであるから、軽々しく人の悪口を言うものではありません

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

戦前の『尋常小学修身書巻四』に「人の名誉を重んぜよ」という章があります。

(文語表現を現代文にあらためています)

尋常小学修身書巻四 人の名誉を重んぜよ

昔、京都に、伊藤東涯(いとうとうがい)という人がありました。

父・仁斎(じんさい)から二代続いた名高い学者で、いろいろの有益な本をあらわし、弟子もたくさんありました。

ーー

同じ頃、江戸には荻生徂徠(おぎゅうそらい)という有名な学者がありました。

徂徠は、少しも遠慮をしない人したから、はじめは仁斎をそしったこともありました。

しかし東涯はすこしも相手にならず、また人のことを決してかれこれ言いませんでした。

ーー

あるとき、東涯の弟子が、徂徠の作った文を持って来て東涯に見せました。

そこに来合わせていた二人の客も、その文を見て、文字の使い方おかしいとか、意味が通じないとか、さかんに悪口を言いました。

しまいに東涯に向かって、 「先生がご覧になったら、傷だらけでございましょう」 と言いました。

ーー

すると東涯は、次のように言いました。

「人をそしるのは、天に向かってつばきするようなものです」

「人はめいめい考えが違うものであるから、軽々しく人の悪口を言うものではありません」

「ましてこの文はむずかしいことを上手に書き表してあります」

「今の世に、これだけの文のできる者は、まずないでしょう」 と。

これを聞いた人々は、皆は恥じ入ったということです。

ーー

文に出てくる伊藤 東涯(いとう とうがい)は、江戸時代中期の儒学者で、1670年生まれ、1736年に67歳で没しています。

儒学者伊藤仁斎の長男で、母は尾形光琳の従姉(じゅうし、年上の女のいとこ)です。

ーー

父のはじめた私塾「古義堂」の二代目となるのですが、父の教えを忠実に伝え広めた温厚な人としてもよく知られていました。

その父の伊藤仁斎に次の言葉があります。

「学問は卑近を厭ふことなし」

「卑近を忽(ゆるがせ)にするは者は、道を識(し)る者に非ざるなり」

ーー

伊藤仁斎は、儒学を、ただ支那古典のままではなく、日本人合うように工夫し新たな学問を拓(ひら)いた人です。

だからこそ、学問をすることは、世間知らずを作ることではない。

世間を知らなくては、道を識(し)る人とはいえない。

身近なこと(卑近なこと)に立派に対処できてこそ、学問をしたと言えると言っているのです。

ーー

荻生徂徠と伊藤東涯は、先々、互いにたいへん仲良くなります。

互いがまだ噂話程度でしか知らない頃、荻生徂徠が伊藤東涯を厳しく批判したわけです。

しかし東涯は、荻生徂徠の文を、「むずかしいことを上手に書き表してあり、今の世に、これだけの文が書ける人は、まずないでしょう」 と言う。

自分を批判している人からも学ぼうとしたことがわかります。

ーー

肉体は魂の乗り物です。

魂を成長させるには、自分のことを批判する他者からも、学ぶ。

そうすることで成長できる。

ーー

このことがわからない人は、年齢を重ねても成長できない。

他者は、自分とは異なる考え方をしているものです。

そうであれば、意見が違ってあたりまえなのです。

ーー

もちろん、客観的な視点が存在し、それは例えば科学が対象とする内容です。

それらは誰であっても同じ内容になります。

また事実は変えようがありません。

ーー

例えば、新聞社が、販売店に押し紙を押し付け、発行部数を増やし、広告主から押し紙を加えた分の広告料を取ること。

これはだれが考えても犯罪行為です。

ーー

他にも、外国人の生活保護の不正取得
通名を用いた犯罪の隠蔽
悪事を指摘すると、それは差別だとひらきなおる

これらは叩かなければなりません。

ーー

このような事実を指摘することと、いたずらに対立をあおって人の尊厳を奪うこととは、意味が違います。

ーー

十七条憲法の第十にも次の文があります。

ーー十にいわく

忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、 人の違(たが)うを怒らざれ。

人みな心あり、心おのおのに執あり。

彼是(ぜ)し我を非し、我を是し彼を非す。

我、必ずしも聖ならず。

彼必ずしも愚ならず。

ーー

共にこれ凡夫(ぼんぷ)の耳、 是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。

相共に賢愚なり。

鐶(みみがね、輪状のイヤリング)の如くして端(はし)なし。

ここをもって彼人、 瞋(いか)ると雖(いえど)も、 かえってわが失(あやまち)を恐れよ。

われ独(ひと)り得たりと雖も、 衆に従いて同じく挙(おこな)え。

ーー

「かえってわが失(あやまち)を恐れよ」そして「われ独(ひと)り得たりと雖も、 衆に従いて同じく挙(おこな)え」と。

ーー

伊藤東涯は次のように書いています。

「君子は己を省みる」
「人を毀(そし)る(非難中傷する)暇あらんや」

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本の儒学と中韓の儒学との違い
 私は昔から、疑問に思っていたのは、日本も儒学を学び、社会の規律の支柱とした様な処が有ったのに、所謂、「儒毒」と呼ばれる様な現象が現れて居ないのは、何故なのかと言う事でした。

 ご紹介いただいた、荻生徂徠や伊藤仁斎は、何かの本で、度々引用をして居たので、名前だけは知って居ましたが、息子の東涯については、浅学故、全く知りません。 然し、江戸期には、多くの儒学者が、江戸にも、上方にもいた様で、儒学が盛んで、寺子屋の描写となると、先ず論語や孟子を子供達が暗踊其する場面が定番になっていましたね。 逆に、それだけに、何故日本には、「儒毒」が、孫差しなのかと不思議でした。

 然し、良く考えて看ると、日本には儒学よりも先に、日本古来からの教え「=自然の中で生きて行く為に、自然の法則を明らかにしたモノ」が存在して居ました。 ダカラ、人は先ず、皆平等に神の子であると言う意識が有れば、目先の階級差等、浮世の仮の習わしに過ぎず、人間は魂では平等だ、と切り離して考える事が出来ます。

 ですから、日本では、儒学は世の仕組みの基礎にはならなかったのですが、その個人に対する教えは、仏教にも、神道にも通じる処が有ったから、人間の嗜み、秩序社会の上で個人が為すべき在り方、を教える道徳や哲学として、受け容れられたから、差別を肯定する事には、結びつかなかったのだろう。

 然し、中韓には固より是が無いので、「我は、王になるべく生まれたのだ」と、本人も周りも、信じて居る様な、差別当然の社会なら、正義は、時と場所に拠って変わったりするのに、「一つしかない」と、決め着けるのでは、争いは、相手を亡ぼす迄終わりませんね。

 双方が正義を主張すれば、争いは絶対に終わりません、其れを避けるには、「相互に相手の正しさを認め合う」事しかありません。

 支配者は大抵の場合、戦争の勝利者だから、儒学の教えを自分の都合の良い様に解釈を歪めたし、更には、歴史も都合の良い様に改竄して「正史」としたので、孔孟の教えも、次第に変質を遂げたのではないか、否元々、孔子も孟子も、世の為に、儒学を説いたのではなく、自分の立身出世の為だったのだから、そういう方向性を元々持って居たのではないか、と、思うのです。

 つまりは、仏教や儒学の様に、世を理想郷に近づけることを目的とした、思想や哲学は、仏教が戒める様に、権力や、世の中の支持を狙ったものであってはイケないのではないか、つまり、どちらが正しいのか、と言う、争いが有って良い話ではないのである、謂わば、両方正しいと言う視点でモノを見なければ、社会の、否、人間の進歩は無い。

 何故なら、人間を進歩させるのは、賢者の言葉を覚える・それを闇雲に実行する事では無く、その言葉に拠って、自分の知見を築き、思考力を養い、他人の見方も知って、その時々に一番適した結論を途武き出せる客観性を備える事であるが、そうした知見・経験を経て、何れ、客観を超えた処に在るであろう、真理に辿り着く「=気付く」事ダカラであろう。

 この過程が出来て居ないと、幾ら知識を詰め込んでも、稀な体験を積んでも、感性が磨かれて居ないので、真理に目覚める事は出来ないでしょうね。

 例えば、前川喜平の様に、恵まれた環境に育ち、日本の最高学府に学び、着いた役人の世界で位を極めても、「面従腹背」が座右の銘だと、云う様な、アホにしかなれなかったのでは、日本の戦後教育が間違っていたと言う他はないであろう。

 面従腹背と言うなら、何か、上部の意向や方針に、「間違い」を感じていて、自分形の正義を心に潜ませていたと言う事に成るが、彼のやった事で、そういう正義を感じる様な事は、寡聞にして知らない。

 それに、自分の正義を通せなかったのなら、8千万円の退職金を有り難く拝領しているのは、どういう事か。 この人物が、殊の外叩かれるのは、そう言った言動の端々に、俺様主義「=自分は特別に選ばれた人間だと言う、傲慢な自己評価の考え」が見え隠れする事が、余計に不快な臭気をただよわせるからだろう。 

 確かに紛争は、人の感情を摺減らさせるし、時に、軽蔑は憎悪も産み出してしまう。 ダカラ、東涯の様に、相手の言の葉の様は聞き流し、その書き手の力量や洞察力や表現力と言った部分を、冷静に評価する材料としたのは、極めて妥当で、賢い方法であろう。 

 議論をするモノは、先ず「相手に自分の意見が、ちゃんと伝わるか」に腐心しなくてはイケないし、相手の表現が、どの様な見方の上に為されているかも見抜く洞察力も必要だろう。

 冷静な議論と言うのは、こういう議論の有り様を云うので、所謂、西洋式のディベート「=云い負かし」の段階では、全く生産的では無く、唯の時間の無駄だろう。

 こうして考えて看れば、昔の儒学者同士の方が、今の評論家や学識経験者と呼ばれて居る人の話し方よりも、遥かにその言動に深みも、重みも感じるし、たとえ自分を批判するな内容であろうと「この人の言う事なら、最後まで聞いてから、判断した方が良い」と感じさせる信頼感を起させる魅力があると見ますね。現代委で言えば、モゥかなり前に亡くなられましたが、高坂正暁さんを思い出します。

 彼は、どちらかと言えばサヨク系の歴史の先生でしたが、話しっぷりが教養人として申し分のない、柔和な喋り方をする人でしたが、然し、時には、食い下がって、一歩も引かない硬骨さも感じる人でした。

 こういう、学問がその人格迄を、優れたものに形成する時代では無くなって終ったのかなぁ、と、この頃、残念な気持ちで一杯ですね。

戦前の小学校の修身では、人の名誉を重んぜよと言う章があったとのことですが、凄いなあと思うしかないです。
今の自分を振り返るとき、これが出来ているかと考えますと、疑問を持つ他ありません。
自分の話す内容は、論旨が通っているのか、誤解されることはないだろうかと気にするばかりで、他の人の名誉まで気にする余裕がないのです。

話すことなら意思の伝達は早いし、会話ですから判りにくいことの訂正もすぐに出来ることですから、簡単に言えば話し合いなら何とでもなるのです。
それでも、会話のことですから他の人の名誉を傷つけることは度々で、しまったと思えばすぐに訂正できることですが、相手によってはその後の話がなくなってしまうこともあります。


しかし、会話ではなく文書による場合は、その形が文字であるだけに記述した内容がそのまま残っているのです。

こちらの書いた文を読む人は、見た上でこちらへの回答を書くのですから、正確にこちらの意図が伝わらなければ誤解した回答になりますし、時にこちらにそのつもりがなくとも悪意に伝わることもあります。
そんなとき、文章は難しいと思います。

こちらのことを書くつもりだけでも苦労しいるのですから、相手の名誉を重んじて書く余裕は、中々ないというのが自分にとっては実状かなと思います。
これを実践するのは、今後も努力しかないので頑張ろうと今一度思います。


十七憲法は、日本の財産だと思います。
西暦604年に、このような官僚や貴族に対する道徳的な規範を示す憲法が、聖徳太子によって作られた日本です。
穿った考えでは、その当時には官僚や貴族が多かったから、これを必要としたのかもしれませんが、道徳的な規範を重視して官僚や貴族にその権力を正しく行うように規制する姿は、他国に類が見られないと思うのです。
日本人はこれの有り難さを知らなければならないのですが、余りにも普通になっているのでしょう。
日本の国は、七世紀から民主的な国家であった素晴らしい国だと思います。

今の憲法は、国民の権利は大きく表現していますが、国民の義務は小さくされており、マスコミなどは憲法は国がしてはならないことを喧伝していますが、このことを民主党政権の時には言いませんでした。
民主党政権の時は、中国漁船の巡視船の衝突事件のビデオ隠蔽事件に代表されますけれど、尤も日本の民主政治が失われていたときだったと思います。

縦椅子さま
今日も素晴らしいブログ有難うございます
昨日以前のブログ9月26日「三葉が・・・こそ、カタワレ時に二人は会うことができた」を拝見していますと、11頁にもわたる精魂込めた御作だということを、発見致しました。初めにRADWIMPSの「前前前世」の歌の紹介があって、歌詞があって・・・クリックすれば、すぐに音楽が聴けるように親切に至れり尽くせりしていただいているのに・・・それに気づかないで、レコード店などで探したり、≪我、必ずしも聖ならず。彼必ずしも愚ならず。≫と愚のみの我にいつも忖度していてくださる・・・と気づいたのです。今頃になって…愚かですね。
≪「君子は己を省みる」「人を毀(そし)る(非難中傷する)暇あらんや」≫と己をいつも省み、心をこめてブログづくりにいそしまれているお姿は、まさに君子といえましょう!いつも本当にありがとうございます。感謝!!

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