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2018年10月20日 (土)

完全な自由などというものは空虚で危険な概念です

以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

西尾幹二『あなたは自由か』(ちくま新書)

本書は随筆ではなく、やさしい哲学の書である。

例えば我々は社会生活をしている。

そこでは、会話によって意思疎通をし、社会の中で知的物質的に何かを生産し、社会に貢献することでお互いが生かされている。

「会話」「生産」「生きる」これらには、社会の規律や規範の存在があって初めて可能となる。

それら規律や規範からの自由を求め自由になると、会話は成り立たなくなり、生産は滞り途端に生きていけなくなる。

ーー

しかし例えば、誰かから何かを強制されている場合、それから解放されることも自由と表現しているが、この自由は、手に入れても生きていける。

ーー

社会の規律や規範が個人の生活を強制し束縛するものだと考える人は、その規律や規範を破壊しようとする。

しかし社会が存在し、その構成員である個人が社会生活を営めているのはその規律や規範があるからなのだ。

ーー

規律や規範が社会生活をするのにどれほど大切で必要かという事実が個々人に理解されていない場合、どうなるか。

社会は崩壊していく。

ーー

戦後占領軍が日本人に押し付けた占領政策は、日本国憲法、東京裁判史観、侮日だった。

戦後、占領軍に協力し、「憲法を否定し、東京裁判をみとめず、侮日しない」言論を検閲し弾圧し、

旧体制協力者を公職から追放し、自分たちがその地位に成りすました人たちがいた。

現在ネット上で彼らは在日・反日勢力と呼ばれている。

ーー

その在日・反日勢力は、ひたすら平等と自由を絶叫し続けた。

それは日本社会の規律と規範を「平等」と「自由」という誰も否定できない言葉を使って破壊するためだったのだ。

ーー

三分の一あたりまで読み進むうちに、まず評者(宮崎)の脳裏を去来したことは、「日本人が変わってしまった」という不思議な感覚だった。

ーー

在日・反日勢力が言論・メディアを支配し、自由を際限なく拡大することで、日本の規律や規範を破壊してきた。

それに反対する知識人の意見は検閲され弾圧されて無視された。

ーー

また平等という言葉は、差別という言葉とともに日本人を直撃した。

被差別部落人、被差別朝鮮人等が「差別された」と訴えることで、彼らに日本人差別を許す特権を与えてしまった。

そして日本という存在の存立そのものが脅かされだした。

ーー

日本人は、社会生活を成り立たせている規律や規範が壊れていくのを日々目撃している。

道徳的に言えば、戦後日本人から徐々に失われてしまった倫理観だ。

ーー

著者の西尾氏は終戦時には、自意識に目覚めており、伝統的な道徳の喪失、価値観の転換、人間の変節を目の当たりにしてきた。

評者は戦後生まれだから、戦前戦後の倫理観、道徳観に感覚的差違があることは自然なことと理解している。

ーー

評者は、日教組教育の直撃的な洗脳を受けてしまった世代なのだ。

だが、それでも「蛍の光」、「仰げば尊し」を唱って、涙した。

小学校の校庭か玄関にはかならず二宮金次郎の像が置かれていた。

ーー

そんな評者も、自分勝手を律する「神の見えざる手」が不在になったと考えている。

「三歩さがって師の影を踏まず」という道徳律を教わって、それが当然の道徳、行動規範だと思ってきた」

「大学へ入って最初の衝撃は学生が先生に噛みつき、ぼろくそに批判し、殴りかかっていたことだった」

「道徳、倫理がそこにはなかった」

「日本の何かが崩壊している!」

ーー

自由を、自分勝手と区別できない状況が生じているのだ。

弱者が平等をいい、それを擁護拡大したのがオバマだった。

が、自由とは激烈な競争のことを意味すると古代からの原則を主張したのがトランプだった。

アメリカは両者の価値観がせめぎ合う、と西尾氏は言う。

ーー

そうこう思索しながら読み進んでいくとハンナ・アーレントや、ソルジェニーツィンの箴言を考察していく章に行き当たる。

かつてニーチェが「ツァラツストラはかく語りき」で書いたような体裁になっている。

なるほどこの本は帯に書かれているように、「西尾幹二による『ツァラトゥストラはかく語りき』」である。

ということは西尾氏の思索の原点はニーチェということになる。

ーー

評者は、およそ半世紀近く前、三島由紀夫の四部作『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』のなかのインド・ベナレスの描写に衝撃を受けた。

そして評者は最初の海外旅行先をインドに決めたのだった。

ーー

三島は「さるにても恐るべきはインドだった」と記した。

聖なるガンジスで沐浴し、歯を磨き、排便をする人々がいる。

その隣で遺体を燃やし、遺灰をガンジス河に散布する人々。

ベナレスでは、森羅万象が「聖なる河」に溶け込んで流れ、去る。

我々日本人が、聖と俗として区別していたものが、全否定され破壊される光景を目の当たりにすることができる。

そんな光景を三島由紀夫は活写した。

ーー

このようにしてヒンズー教徒は聖なるガンジスで社会的束縛からも宗教的教義からも「自由」になるのだ。

ーー

インドの津々浦々からベナレスを死地と決めてやってくる人々の列がある。

早朝、日の出を見ようとして、夜明け前にベナレス市の門に集まる人たちが引きも切らない。

かと言って市井の日常生活には、辻々にヒンズーの神々の小祠(しょうし、ちいさなほこら)がある他に取り立てての特異性もない。

ーー

評者も、小型のボートを雇い、ガンジスの中央から日の出を見ようと望遠レンズを向けた。

そして、崇高と卑猥と猥雑、もろもろの価値が否定される様を撮影し、小さな灯籠を買い求め、願いを込めてガンジスに流した。

ここベナレスには、近代文明の病理から解放された空間が、時間を超えて古代からそうであったように存在していた。

ーー

永劫回帰、そうか、ニーチェの思想の原点は、人が古代から現在にまで何度も繰り返してきた営みから、絞り出された思考なのか。

そう思いながら、ホテルに戻って、旅行鞄(かばん)から、携行してきたニーチェを論じた西尾幹二氏の新書本を開いたのだった。

ーー

前置きが長くなった。

「自由は光とともに闇です」と西尾氏は言う。

この場合、「光」と「闇」は自由と不自由の比喩である。

「自由は量的概念ではもとよりなく、質と量の対立概念でもありません」

「光と闇も同じことで、両者は重なっているのです」

「光は同時に闇なのです」(p255)

ーー

なるほど光がなければ闇も生まれない。

ーー

「現代人はとかく何かを主張するのに、何か別のものに依存するのではまだ真の自由ではないなどと言いたがる」

「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です」

「素っ裸の自由はありえない」

「私は生涯かけてそう言い続けてきました」

「『個人』が自律的であるのは『社会』からの解放や自由や独立を意味してはいません」(p204−205)

ーー

自由を求めると社会生活が破壊され人間は生きていけなくなる。

社会がなければ人は生きていけない。

この議論が繰り返される。

ーー

「自由と平等というのはある種の相反概念です」

「と同時に相関概念でもあります」

「自由というのは単独では成り立たないからです」

「しかし、平等は自由の反対概念ではありません」

「自由の反対概念は必然、または宿命です」

「自由と平等は相互に対応する対概念です」

ーー

そして西尾幹二氏は、『自由は物狂いの思想』であり、平等は『狂気の思想』である、と言われる(p124)。

現代は自由を律した『神の見えざる手』(その民族の持つ規律や規範)をなくした。

「ベルリンの壁の崩落のあと、西側は自己規律を失ったのです」

「果てしない『自由』の拡大を目指して暴走し始めた」

「東側も釣られるようにその後を追った」

「われわれの現代社会は、自由が自己崩壊に面していることを告知しています」(p99)

ーー

自由や平等という言葉が、その民族の持つ規律や規範を破壊しつつある。

現代日本人は当然のことのように存在した規律や規範が、意識的に求めないと手にできない。

大げさに言うと、深刻な生存の危機に直面させられている。 

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>自由と平等についての文明比較
 一読して思ったのは、「自由と平等」と言う言葉は、西洋文明のものだが、では日本文明では、ドゥ捉えて来たのか?と言う疑問でした。

 日本文明は自然の流れの中で、人類が生き延びて行く、否、生かされて行く為の解を求めて、色々な犠牲を払いながらも、一つづつ工夫や発見を重ねて、自然の中に潜んで居る最適解を探し出して、人間にとっての脅威を乗り越え、此処まで来たのです。

 然し、膨大な力を持つ自然の脅威の中で生き残るだけでも、日本人達はお互いが力を併せなければ、全滅する惧れが有ったから、「個の自由」と言う、欲求は、=勝手気まま。と言う理解しか得られなかっただろう。 そして、その自由を強行すればは、即、死につながった。

 譬え、個の主張が正しく、他のモノが間違って居て、間違った方が全滅したとしても、生き残った個も、その後生きてはイケナイから、合議で決まった事に従うのは、昔の人間の集合体は、「運命共同体」的、つまり、大海の中の船に乗り組んだ人々と同じだったと考えるべきですね。 ダカラ、自由と言う概念が、人々に受け容れられる事は、無かったのでしょう。

 然るに、西洋では、日本程、集団拘束力は強くなかったが、代わりに、異民族や異宗教徒と言う脅威が存在した。 つまり、日本人にとっては、脅威なのは自然であったが、西洋人にとっての脅威は同じ人間だった、と言う事になる。

 人間同士の争いには、民族や国単位の争いから、収穫時に非生産民が、やがて来る飢餓の時期「=冬」を、予想して、農耕民の集落を襲うものまで、大小様々にあったが、共通するのは、「生存権の行使」であろう。

 人間の個は、幾ら強くても、三国志の張飛の様に、眠る時、無防備になる時が、必ずあるので、敵中では一人では生きてはイケない。 ダカラ、自分が生きて行くのには、他人が必要なのは言うまでもない事である。 こんな切迫した、生存権を脅かされた状況下では、「自由になりたい」のなら、死ぬしか無かったと思います。

 ダカラ、日本文明の中には自由と言う概念が存在しません。 つまり、自由と言うのは固より、非自然のものだと言えます。 例えば、生きて居る事自体が、自由では無い状態です、肉体が有る限り、その肉体に拠って、苦を得、快楽を得るが、その一つ一つが、人間を自由から遠ざけますよね。

 終局、生きて居る状態で完全な自由など有り得ない話だと言う事です。 肉体を持って居るから生きて居るのですから、生きて居る事自体、「不自由な状態」なのです。 ダカラ、「生まれながらに自由だ」と言うのは、全くの妄想です。

 然し、平等については、我らは「神の子として、同じく神聖な存在」と定義されているのですから、基本的には平等なのです、然し、其れは神が定めし、自然の法則の中での平等であり、例えば、弱肉強食も自然の法則なので、亦、気候変動や環境の変化は、宇宙生命体である地球の、生理現象に過ぎないが、生物にとっては、その変化の幅や度合いによって、絶滅が予想されます、例えば、氷期の到来は、銀河系に属する太陽系に周期的に表れる現象でしかありませんが、4億年/46億年中に、生物の大絶滅「=既存生物の90%以上が死滅する現象」が、4度も起こって居ます。

 その変化に順応して生き残るものが、種として遺されるのも自然の法則です。 其処では、多数のモノに、少数のモノが依存している状況が生まれます。 自然界には、状況を維持しようとする力も働いて居るカラ、弱いものは沢山、子孫を残そうとするのです。 例えば、魚類のマンボウは、一回の産卵で、1億個以上の卵を産みますが、生き残るのは、0.1%以下でしょう。

 この2つの相反する法則が、実は絶妙に相互を補完して、生物の数を一定に保って居るのです。 自然は安定して居る様に見えるが、絶えず、種の絶滅が起こっているし、亦、環境の変化に対応した新種が誕生しているのでしょう。 そういう意味で、自然は公平に、且つ、バランスを保つように、出来て居ます。

 人工の西洋文明が言う自由とは、社会と言う桎梏からの自由であって、そんなものは、一人で無人島や、人知れぬ深山にでも行って生活すれば、直ぐに手に入るものです、然し、其処に待って居るのは、生存の危機だけである様に、完全な自由とは、死ぬ事でしか得られないのが、自然の法則なんです。

 自然文明の日本は、人工文明の西洋の中に、維新以来、漕ぎだしたワケですが、待って居たのは、自然な平等状態とは、ほど遠い差別社会であった。 一番質が悪い事には、西洋人は、キリスト教と言う道徳規範を持っていたが、この規範自体が差別を容認し、助長すらする様に、改竄や付加を受けていた事であろう。

 明治以来の日本人達は、相対的な差でしかない差別を絶対とする様な、低次元の世界の中で、悪戦苦闘しながら、日清・日露と言う何れも自軍の数十倍の資力や規模の軍隊を持った国と戦い、多大な犠牲を払いながら自国を護り通しましたが、自国が優れた武力を持つ事に拠って、この差別観に溢れた世界でも、一定の発言権を持てることに気が着いたのでしょう。

 然し、西洋文明の言う権利とは、この様に、武力「=相手に対する強制力」を伴って居なければ、認められないモノであり、それは、獣の世界とさほど変わる事は無い話で、所詮人工の文明も、自然界の法則から抜け出せる話では無い事に悟りを開かねばならなかった。

 自然界の「弱肉強食」の法則を補完しているのは、「少数派の多数依存」と言う事でありますから、謂わば、強者は、弱者に依存・寄生しているに等しく、多数の弱者が多く死んで数を減らして終えば、強者の方が先に滅びて終うのが、自然の法則です。 ですから、「驕るもの久しからず」と言うフレーズが、真実なのです。

 何れ西洋文明は、自分達が過去に犯して来た過ちに拠って、滅んでしまう事でしょう。 そういう予感を持った人々が、西洋文明の中にも沢山いる様です。 其れは、世界に出て看ると、様々な価値観に出遭う事を契機とした事が、多い様に思います。

 ご紹介のインドのガンジス河口域の聖地ベナレスでの、我々が持って居る聖俗の境界を超えた、人間が唯の生物に成った状態で、神に相対する事の価値を、ヒンドゥー教に帰依している数億人の人々が共有している現実の凄さと言うのは、感動的ですね。 こうした、異文明に接触した西洋人は、西洋社会には決して無い、死生観や世界観は、彼らの価値観の偏狭さや、人類としての生物としての、良心を揺さぶるに十分だと思います。

 例えば、マザーテレサの様なキリスト教に帰依した人でも、神が其処に「い坐す」事を感得されていたら「神は神であろう。」との判断が働いていたと思います。 神を信じると言う事は、「神の存在を感じる処から始めるモノ」で無ければ、本物では無いからです。

 でも、世界には、神を感得できずとも、神の教えを守り、帰依して、神の教えに従い慎ましやかに暮らして居る人は、幾らでもいます。 そして、私の様に何回も、神のご降臨を経験したかもしれないのに、気が付けないバカ者も居ます。 そういう「気づき」は自分を「築く」事に繋がって居ると、私は、教わって居ます。

 そんな不出来な私も、死ぬ迄には、神様のお役に立てる自分で有りたいと思うこの頃です。

縦椅子さま
今日も素晴らしいブログ有難うございます≪三分の一あたりまで読み進むうちに、まず評者(宮崎)の脳裏を去来したことは、「日本人が変わってしまった」という不思議な感覚だった≫ーーと同じような感覚というより、腹立たしい憤りを感じました。
 私はいつも公園を掃除していて、アジサイに似ているがあじさいと似ても似つかない、どすぐろいあじさいふうの葉の形をし、紫色の花とは違ったどすぐろいショッツキングピンクのアジサイ風の花をつける偽アジサイーそれが公園の入り口にはびこっているのを見ると、引き抜きたくなる衝動に駆られます。これを抜かないで放置していると、至る所にはびこってしまい、木化してしまい、ぬくのが大変なので、「見かけたら直ぐ引き抜かなければならない」と花に罪はないけれど、私は抜くことにしています。これには理由―つまり、≪在日・反日勢力が言論・メディアを支配し、自由を際限なく拡大することで、日本の規律や規範を破壊してきた。≫と同じようなやり方で偽あじさいは繁茂しているからです。これを許してはおけません。私は見つけたら一人でも抜くことにしています。偽アジサイが繁殖することを恐れているからです。私の手には偽のアジサイ独特の匂いが染みついています。「花よ、ごめんね」とおもいますが、その生命力にはこちらが負けそうです。今日は怒りに震え、感情的になって申し訳ありません。「日本人は変わってしまった」というより、「偽日本人が多くなってしまった」ということだと思います。これからも抜いて行こうと思っています。

縦椅子さま 

≪「自由の反対概念は必然、または宿命です」

「自由と平等は相互に対応する対概念です」 ーー≫

 浅薄な考えで申し訳ありませんが、私は「自由の反対概念」は「束縛」だという風にとらえておりました。子供の頃の愛読書「愛の妖精」の作者ジョルジュ・サンドは娘の頃に入れられた修道院から如何にして逃げ出すかをいつも考えていたようですし、一時は憧れた反抗の詩人と言われるランボーも中世から続いた退屈なカトリックの教理に耐え切れなくて、あのような反抗的と思えるような数々の詩篇を書いたように思われます。ランボーは子供時代母親から虐待をうけており、悲惨な子供時代を送ったようです。カトリックの教理は自分を縛るものでしかなく、珠玉のような詩をのこしているのですが、私は「カトリックから脱出を試みた人」として共感できますが、左翼に利用された感があり、毛嫌いする人もありますが…兎に角その重圧「神に対して絶対的服従」はは耐え難かったに違いありません。悪いことをしたら、「神に懺悔をする」とか絶えず罪の意識に苛まれたりする人もいたかもしれません。
私たち日本人にとって「かみさまは明るく、いつもみまもってくださっている」という存在でーいつも「私たちは風のように自由でいられるのだ」という有り難い認識を持っています。思い付きで色々書いてみました。失礼しました。

初めて、コメントします。
自由と平等、これを使って文章をつくると、
「自由な競争によって起きた結果は、平等ではない。」
最近、これに気がつきました。

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