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2018年10月11日 (木)

昭和天皇の大御心が共産革命の機運をしぼませたのである

ーー以下「伊勢雅臣コラム」より抜粋編集

江崎道朗『日本占領と「敗戦革命」の危機』から

終戦から5か月の昭和21(1946)年1月12日、野坂参三は釜山からの連絡船に乗って、博多港に上陸した。

博多港で待ち構えていた朝日新聞は、このニュースを社会面トップ、4段ぶち抜きで報じた。

ーー

「平和時代から支那事変大東亜戦下の十五年を外国生活に過し

中国共産党の本拠延安において日本人解放運動の最高指導者として

反戦解放運動を活発に続けていた中共(JOG注: 中国共産党)幹部の野坂参貳氏(筆名岡野進)は

戦犯者処分、軍国主義者追放など民主主義旋風裡の祖国日本に帰国、十二日正午釜山経由、博釜連絡船で博多港に上陸した」

ーー

記事はこの後も、「長い四箇月の旅路を祖国再建への熱情で踏破」「大きな役割を示すものとして期待されている」などと。

まるで凱旋将軍のような書きぶりであった。

ーー

野坂が東京入りすると、「人民の英雄、同志野坂」「働かせろ、食わせろ、家を与えろ」「人民共和政権樹立」などの幟(のぼり)やプラカードが林立する。

そんななか、共産主義者の愛唱歌「インターナショナル」を斉唱する群衆に迎えられた。

ーー

野坂参三の凱旋帰国は、敗戦直後のわが国が迎えた共産革命の危機の幕開けであった。

ーー

野坂参三は、世界共産革命を目指してソ連が設立した国際共産主義者組織コミンテルンの日本代表であった。

かつコミンテルン日本支部として創設された日本共産党のメンバー。

その野坂が、モスクワから支那共産党の本拠地・延安に入ったのは1940年のことだった。

ーー

支那共産党は、延安に支那事変で捕虜となった日本軍兵士を洗脳して、将来の日本における共産革命の戦士に仕立てあげる日本労農学校を設立した。

野坂はその校長となった。

日本軍兵士たちはそこで厚遇され、日本の支配者層を打倒し、日本の人民を解放すべきだ、という洗脳がなされた。

この方法は有効で、情にもろい日本軍兵士らは、このようにして洗脳されたのだった。

ーー

アメリカ軍事使節団は、1944(昭和19)年に延安を訪れ、洗脳の効果に驚く。

ここから、終戦後、アメリカ占領軍は、戦争責任教育計画WGIPを実行し、日本人に罪悪感を強制することに成功する。

ーー

アメリカの使節団は、野坂を「明晰な思想家でかつ指導者たる器である」と高く評価した。

野坂はソ連、支那、アメリカの共産主義者たちから見れば、日本で共産革命を起こすための第一人者(エース)であった。

その期待の第一人者が日本に上陸したのだ。

ーー

日本の占領行政を行ったGHQ(総司令部)は、共産主義者の巣窟だった。

当時は大恐慌の後で、資本主義の失敗は誰の目にも明らかであった。

知識人らは、人類の未来は共産主義にある、と信しこんだ。

ーー

さらに、独裁的な帝政を倒して史上初の共産主義政権を樹立したソ連に親近感を持つ人々が少なくなかった。

ルーズベルト政権が大恐慌克復のために始めた新政策(ニューディール)は有効需要を増やす目的をもって、公共投資を中心とするものだった。

それまで小さな政府だった連邦政府を急拡大した。

その際、多くの共産主義者が政府に入り込んだ。

ーー

ソ連は世界の共産革命を狙って、各地の共産主義共鳴者(シンパ)の組織(ネットワーク)コミンテルンを造った。

彼らは各国の政権の中枢に入って、ソ連の工作員として働くようになった。

ーー

尾崎秀実は日本と蒋介石との戦いを煽って、「祖国」ソ連を守ろうとした。

同様にルーズベルト政権内にも200人以上の共産主義者が入り込んで、アメリカをドイツや日本と戦わせようとした。

こうした工作員、共産主義者が、GHQ職員として日本にやってきて、共産革命を起こそうとしたのである。

ーー

GHQが矢継ぎ早に打ち出した占領政策は共産主義国家がとる政策と本質的に同じであった。

まず報道や言論、思想の自由の抑圧である。

報道や出版、私信の検閲など、総勢6千人を超える陣容で、戦時中よりはるかに厳格な検閲がなされた。

その上で、日本人に罪悪感を植え付ける戦争責任教育計画WGIPが実行された。

ーー

ついで反対勢力の弾圧としては、国内法にも国際法にもない「侵略の罪」や「人道の罪」による東條英機元首相ら39人の逮捕。

さらには「公職追放」という名の粛正で、21万人以上の追放。

大学や出版社などで多くのポストが空き、それを共産主義シンパやGHQに媚びをうる輩が埋めた。

ーー

GHQのスタッフとして日本共産党を支援したのがハーバート・ノーマンであった。

ノーマンは、日本に赴任したカナダ人牧師の息子として、17歳まで日本で育った。

ケンブリッジ大学在学中にはイギリス共産党に入り、その後、カナダの外交官となっている。

「日本は天皇制を中核とするファシズム国家である」との博士論文を書いて有名になり、マッカーサーによってGHQに採用された。

ーー

そのノーマンが起草した「人権指令」が10月4日に発表された。

治安維持法など思想犯を取り締まる法律をすべて廃止し、それによる拘留者を10月10日までに釈放するように命じた。

同時に10月5日には特別高等警察(特高)の警察官全員の罷免を要求する覚え書きも発した。

特高、治安維持法などは、日本が共産主義と戦うための手段であった。

それらを全廃し、なおかつ、共産主義者を野に放って、共産革命に火をつけようという魂胆であった。

ーー

日本共産党幹部、徳田球一、志賀義雄らは、府中刑務所から釈放された。

彼らは、その日のうちに声明を出した。

GHQに謝意を表し、その平和政策を支持するが、「天皇制」を打倒することなしには、ポツダム宣言に謳われた「日本の民主化」も、飢餓の克服もできない、と訴えた。

こうしてGHQによる共産革命の下地作りが進んだところに、野坂参三が帰国したのである。

ーー

その頃の国内は、食糧事情が悪化していた。

昭和天皇は

「食糧事情の悪化は、このまま推移すれば多数の餓死者を出すようになるというが、戦争に塗炭の苦しみをした国民に、このうえさらに多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたいことである」

と、心配され、皇室御物の目録を作らせて、これを代償にマッカーサーに食料供給を求められた。

ーーー

マッカーサーは感動して、

「皇室の御物をとりあげる事など面目にかけてもできないが、国民のことを思う天皇の心持ちは十分に了解される」

「かならず食料を本国から移入する方法を講ずるから、安心されたい」

と答えた。

ーー

一方、共産党にとっては、国民が苦しむ時こそ混乱に乗じて共産革命の絶好の機会であった。

野坂参三と、釈放された共産党幹部たちは、昭和21(1946)年4月7日、日比谷公園で「幣原反動内閣打倒人民大会」を開催して7万人を集めた。

翌5月19日には、25万人も集めて「米飯獲得人民大会(食料メーデー)」を皇居前で開催した。

この時、「朕はタラフク食っているぞ ナンジ人民飢えて死ね」などと書いたプラカードをデモ隊は掲げ、暴徒の一部が坂下門を突破して皇居に乱入した。

ーー

この頃、警視庁が行った調査では、大半の世帯が米飯を一日に一回小盛りで食べるのがせいぜいで、あとは雑炊やいもなどの代用食でつないでいたのだった。

一日に米一粒も食べられない世帯も少なくなかった。

ーー

マッカーサーは昭和天皇の御要望に答えようと、ワシントンに対して214万トンの対日食糧輸出を要請した。

しかしアメリカ本国は、その要請を1946年2月に却下している。

ソ連もメンバーとなっている極東委員会からは「日本はいかなる連合国または解放諸国より食糧補給の優先的取扱ひを受けざる」よう掣肘を受けた。

3月から小麦・雑穀の輸入が始まったものの、食料不足に苦しむ国民が増えるほど、反政府・反米の感情が盛り上がるからである。

ーー

食料・経済危機を背景に、共産党は労働争議を盛り上げていった。

特に8月、9月は労働争議への参加が60万人規模に達した。

激しいインフレに対応するための賃上げ要求などが中心だった。

が、やがて運動は急速に政治化し、12月17日には「吉田内閣打倒国民大会」が「人民広場」と呼ばれた皇居前広場で開催され、50万人が集結した。

ーー

労働組合の組織化も急速に進み、官公庁、民間含め、組合員は600万人に膨れあがった。

吉田首相は昭和22(1947)年1月1日の年頭の辞において、こうした動きへの危機感を訴えている。

ーー

「昨年以来労働争議、ストライキなど頻発し、生産減退、インフレおよび生活不安を激化し、いわゆる経済危機を助成せしめつつある現状であります」

「いわゆる労働攻勢、波状攻撃などと称して市内に日日デモを行い、人心を刺激し、社会不安を激化せしめて、あえて顧みざるものあるは私のまことに意外として、また心外にたえぬところであります」

「(この後、吉田首相は)しかれども私は、かかる不逞のやからが、わが国民中に多数あるとは信じられません」と語ったのだった。

ーー

この「不逞のやから」発言を批判して、組合側は2月1日のゼネスト実施を宣言した。

ゼネスト、すなわちゼネラル・ストライキは多数の産業にまたがる諸組合が一斉にストをして、経済を麻痺させる戦術である。

共産党は「民族の独立と産業再建を妨げる吉田内閣を倒し、民主人民政府の樹立されるまで断乎として戦う」と、革命を宣言した。

ーー

野坂は東京のソ連代表部の参事官に対して、定期的に共産党の活動を報告していた。

(1991年のソ連崩壊で流出した公文書から野中がソ連の工作員(スパイ)をしていたことがわかった)

吉田首相は「ソ連の代表などは、当時の労働不安、社会不安は、むしろ歓迎している」と指摘している。

ーー

ゼネスト予定日2月1日の前日、マッカーサーが禁止命令を出した。

「余は現下の困窮かつ衰弱せる日本の状態において、かくの如き致命的な社会的武器を行使することを許容しない」と、共産革命を許さない姿勢を示した。

この背景には、GHQ内部で、共産革命を支援する動きを封じるために立ち上がった人物がいたのだった。

GHQ参謀第2本部の部長チャールズ・ウィロビー将軍である。

ウィロビーはある日本人から示唆を受けて、ソ連とアメリカ共産党の関係を知り、GHQ内での共産主義シンパの追い出しにかかっていた。

ーー

マッカーサー自身も、日本の民主化は求めていたが、共産化は欲していなかった。

ゼネストの動きを見ていて、日本の状況が、これ以上放任すれば、秩序を紊(みだ)し、治安の上からも危険であると判断したのだった。

果たして、ゼネスト中止命令に対して、ソ連から抗議が来たが、マッカーサーは一蹴した。

ーー

こうして間一髪の処で、ゼネストは回避された。

吉田首相は次のように言った。

「もしもあの時、総司令部の断が下らず、二・一ストが実行されていたとしたら、その後の日本の状況はどうなっていたであろうか」

ーー

共産革命が不発に終わったのは、昭和天皇がマッカーサーに皇室御物の目録まで添えて頼まれた食料輸入が、昭和21(1946)年6月頃から本格化し始めた事も寄与した。

たとえば東京都民が配給を受けた食料のうち、8月、9月は輸入分が90%以上となっていた。

これが国民を餓死から救った。

ーー

もう一つ、日本国民を覚醒させたのは、昭和天皇の全国御巡幸だった。

昭和天皇は「この際、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ」との御決意をなされた。

昭和21(1946)年2月から、沖縄を除く全都道府県を8年半かけて回られた。

御巡幸については、拙著『日本人が知らない 世界が称賛する日本』で紹介したが、敗戦直後では宿舎もままならず、陛下は列車の中や学校の教室に泊まられたこともあった。

「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われた。

ーー

常磐炭坑では、地下450メートルの坑内を歩かれ、40度の暑さの中を背広、ネクタイ姿で、上半身裸の鉱夫たちを激励された。

深い坑内で万歳の声が轟(とどろ)いた。

昭和天皇が訪れられる先々で、国民は勇気づけられ、生産高は飛躍的に上がった。

ソ連抑留中に洗脳され、革命の尖兵として帰国したが、昭和天皇と国民の心の通い合いを見て、涙ながらに「天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります」と語った引き揚げ者もいた。

ーー

共産主義者らは、ゼネストで国民の生活をさらに苦しめて、混乱の中から革命につなげようとした。

それに対して、陛下は、「国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へ」らたのであった。

昭和天皇の大御心が共産革命の機運をしぼませたのである。                                     

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>何故、日本では「赤狩り」の大虐殺は起らなかったか
 私は、極東の戦後史を勉強して居る裡に、極東で起こった戦後の大事件である、朝鮮・済州島の4・3事件、本土での保導連盟事件、台湾での2・28事件が、全て、容共から突然反共に変わったGHQの施政方針に有った事は明らかでㇲ。

 ですから、日本国内で25年までに繰り返された、労働運動に名を借りた、共産革命が現存したのだから、日本でも虐殺事件が起こって居ても可笑しくないと思って居ましたが、其れは起こって居ません。

 然し、当時の日本政府には、暴徒を制圧できるダケの武力を与えられていないのだし、GHQの内部にも、マダマダ、コミンテルンの細胞が大勢いたので、ソ連は、成り行きで共産革命は成就できると踏んで居たのでしょう。

 その頂点に有ったのが、ご紹介の 2・1ゼネストで、吉田首相の述懐を訊くまでも無く、 国民の餓死寸前の窮乏は、ゼネストに拠って更に拡大して、天皇陛下の戦争責任を問う声が、高まり、陛下は、日本人同士の戦争を回避する為に、ご退位した可能性が有ります。 すると、日本が無くなって、共産国になっていたでしょうね。 

 然し、此処で、天佑神助が働き、当時の日本の実質的な支配者だった、GHQ総司令官マッカーサー将軍に拠る、
「余は現下の困窮かつ衰弱せる日本の状態において、かくの如き致命的な社会的武器を行使することを許容しない」
 と言う一言が、その多くが、戦地帰りの歴戦の兵士であった、デモ隊の指導者に戦闘の記憶・常識を甦らせたのでしょう。 10万人もの重武装の米兵に、丸腰の日本人が、例え百万人以上いたとしても、死体の山が出来るダケであろう。 是で一気に鎮静化したと思う。

 更に、陛下がマッカーサー指令に対し、陛下の私財全てを擲って、「国民に満足な食事を」と仰った事は、既に、陛下の「西洋の支配者にはいない、無私な、国民を思う心」に感動して,すっかり陛下のファンであったから、全面的に受け容れ、僅か、2~3年前間では、血で血を洗う死闘を演じて居た相手の国民に、食糧の援助を行う等、前代未聞の出来事だったろう。

 斯うして、日本の共産革命は回避され、随い、虐殺事件は起こらなかったのだろう。 然し、GHQが未だ容共の頃、共産革命の導火線とするべく起したのが、下山事件で有り、松川事件で有り、帝銀事件で有ったと私は、勝手に妄想している。

 その証拠に、この3件とも、事件の動機、犯罪が行われた証拠。犯人の特定が何れも不十分なのに。下山事件は迷宮入り、松川事件は全員無罪、帝銀事件は逮捕されてしけ判決が確定した受刑者は、50年近い収監の後に老衰死している。 オソラク、真犯人は、全て、GHQ内の密命を受けたコミンテルン分子の仕業であろう。

 そして、ゼネストの件でもそうだが、是等の事件の背景にはソ連の謀略組織コミンテルンが居た事は、確実だと言って良いだろう。 この時分には、未だ、朝日新聞は赤化して居なかった様ですがね。

 確かに、1930年に起こった世界大恐慌は、人類が初めて経験した経済不全状態「=恐慌」で、自由主義経済の特徴である、「好不況を周期的に繰り返す」と言う経験知の無いものだったから、資本主義は、「社会に格差と貧困と対立しか生まない、間違った、思想である」と印象付けた。

 其処へ18~19世紀の社会を背景に書かれた、共産主義が、資本主義の対局として紹介され、あっと言う間に、世界に広がった、 特に当時は、そう言う知見は、相当の知識人で無くては得られなかったから、余計に「箔」が着いて、未だ実現されて居ないのに、恰も、人類を救済する最後の理想的な思想・政体の様に、人々を魅了した。

 ダカラ、冷害と旱魃で、娘を売らねば、生きて行け無い東北の出身者が多かった軍隊にも影響が出て、陸軍の近衛師団の一部に拠る、2・26 事件が昭和6年に起こって居る。 然し、当時は、何処の国も、真の共産主義の国は、実現して居なかったのである。

 ロシア革命で出来たソ連でしたが、中身を除いて看れば、文明開化が遅れていたロシで、ロシア人と同じ、スラブ系民族なのに、ロシア人を蔑む、ハザール系ユダヤ人が、金の力で、日露戦争に負けた事で、求心力を失って居た帝政ロシアを打倒し、共産主義革命を為す事を、ロシア人に提唱、必要な資金は、ハザール人が出すと言う話に乗った、ロシア人達が、革命を成し遂げたが、グルジア人のスターリンが、ハザール系の幹部「=レーニン、トロツキー、ブハーリン・・」の懐疑と警戒をかい潜って、トップにたち、ハザール革命ならぬ、ロシア革命とした。

 謂わば、共産主義革命を装った、民族紛争で有ったのだと私は思って居ます。 それが故に、ハザール人は戦後、イスラエル建国を目指したのでしょう。

 スターリンは、生来のゴロツキで、殺人・強盗・強姦・詐欺とあらゆる犯罪を犯して居た、謂わば、「何処から見ても、犯罪者」で、事実、約束や規則を破るに、何の良心の呵責も痛痒も感じて居ない点は、犯罪者的な思考形態を持って居るとしか思えない。 その結果が、歴史上最大の虐殺者数のタイトルホルダーと言うわけだ。

 虐殺者と共産主義者とはどうも親和性が有って、第二位は、同じく共産主義者の、毛沢東である。 日本人には、こんな真似をせよと言っても、あの信長でも、無理だろう。

 然し、結果論ではあるが、日本で敗戦革命と呼ばれていた、共産革命が、日本人同士の血を流す事無く、平和な組合活動に収束、それでも、共産主義の毒に、免疫の無い若者は、道を踏み外して、人生を台無しにした人々が大勢いましたね。

 この原因は、日本古来の相互扶助は、一種の自然社会主義である事を、洋尊倭卑の誤った風潮が、自ずと、共産主義を、恰も新興宗教の如く崇め奉った、明治・大正期の頭の軽い、左巻き学者と政治指導者、そして、白人文明の中で苦闘する日本を鼓舞する意味で、結果、神道を歪めて終った国家神道推進者の、冷静さが、足りなかったと言うべきだろう。

 日本人が繰り返してはならないのは、「幾ら、他の文明が野蛮で未開でも、日本文明至上主義の姿勢を取ってはならない」、然し、日本文明が言わんとする、「我らは等しく神の子にて神聖である」と言う、我らとは、「この地球上に生きとして生ける全てのモノ」である事を識り、以て、相互扶助を推進しさえすれば、造物主「=神」は、この先も、地球上での人類と言う生物の繁栄を許し賜うであろう。

自宅に御巡幸された折の写真があったりマッカーサーとの経緯を知るに従い日本人としてどう生きなければいけないか教えられて来たように思っています。
直接頂けなかったとは言え頂ける資格があり平成天皇より勲章を頂いた父親。
葬儀の際には祭壇に置き送りました。子供として誇らしく思っています。

父は百姓でしたが、どんなに他人に馬鹿らしく思われても責任を持ちやり遂げた結果の勲章と思っています。意見の相違はあっても子供として見習う事項と思っています。
思うにこうした人が先人に綺羅星の如く世間にいて日本を支えて居たのでしょう。
その中で地方の指導者が現れ国会議員が現れる。例外も多かったけれど...長い時代の時間の流れはあろうと本物は形は変えても生き残るものと思ってます。

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