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2018年10月15日 (月)

「知らす」「不親政の原則」「合議の伝統」、これらがセットとなって日本の政治伝統を形成してきた

ーー以下「伊勢雅臣コラム」より抜粋編集

「主権」という言葉が日本人にはピンと来ないのは何故か?

東京書籍版中学公民教科書(東書)は「国民主権」に関して、次のように説明する。

ーー p40

国民主権は,国の政治の決定権は国民が持ち,政治は国民の意思に基づいて行われるべきであるという原理です。

全ての人間は自由で平等であるため,国の政治は,一部の人々だけでなく,国民全員によって決定されなければなりません。

国民主権とは,このような民主主義の思想の現れです。

ーー引用ここまで

しかし一般国民は、政治の決定に選挙以外ほとんど参加していない。

それゆえ、「国の政治の決定権は国民が持ち,政治は国民の意思に基づいて行われる」と言われても、中学生どころか一般国民もピンと来ないだろう。

育鵬社版(育鵬)はこう説明する。

ーーp50

日本国憲法は前文で「主権が国民に存すること」を宣言しています.

主権とはその国のあり方を最終的に決定する権力のことであり,その中には憲法を制定したり,改正するなどの大きな権限も含まれています.

この主権が国民にあることを国民主権といいます。

ーー引用ここまで

「国のあり方を最終的に決定する権力」という説明は、もう一段踏み込んでいるが、これでも主権の説明として腑に落ちない。

「主権」という概念自体が外国製で、日本人には歴史的になじみがないからだろう。

ーー

小室直樹氏の『日本人のための憲法原論』では次のように説明している。

フランスの思想家ジャン・ボダンが絶対王権の理論的根拠を与えるために主権概念を提唱したとして、

ーーp101

彼は1576年、『国家に関する6章』を著わして、その中で「主権」という概念を提唱しました。

ボダンは主権を定義して「国家の絶対にして永続的な権力である」としました。

国家主権が絶対であるというのは、他の何者の拘束も受けないということです。

教会が何と言おうと、大貴族が文句を言おうと知ったことではない。

国家は主権者たる国王の所有物なのだから、それを自由に扱うことができる。

ーー引用ここまで

ヨーロッパ絶対王権の典型は1643年から72年間も王位にあったフランスのルイ14世だろう。

太陽王と呼ばれ、ベルサイユ宮殿を建設した。

ルイ14世が発したとされる「朕は国家なり」の言葉は絶対王権の本質を表している。

小室氏の解説によれば、王は主権者として、好きなように法律を作ることができる。

国民に自由に課税したり、徴兵できる。

立法権、課税権、徴兵権などは国家統治の中核的な権限で、それが国王にあったのだから、まさに「朕は国家なり」であった。

ーー

王が独占していた主権を、民衆が様々な闘争や革命を通じて自分たちのものにしていく。

これが、現在の「国民主権」という原理になった。

こういうヨーロッパの主権を巡る闘争の歴史を踏まえないと、「国民主権」と言われてもピンと来ないのも当然である。

ーー

東書は「大日本帝国憲法と日本国憲法との比較」(p39)で、大日本帝国憲法では「天皇主権」だったのが、日本国憲法では「国民主権」となった、

そして天皇は「神聖不可侵で統治権を持つ元首」だったのが、「日本国・日本国民統合の象徴」になったと記述している。

ーー

この説明が正しいとすれば、天皇はフランスのルイ14世のように、好き勝手に法律を作り、必要なだけ国民に課税し、勝手に国民を徴兵しては戦争を起こしてはいたことになる。

ーー

ところが育鵬では、「大日本帝国憲法の制定」の項で天皇の地位について、次のように述べている。

ーー p48

天皇は国の元首であり,国の統治権を総撹する(すべてまとめてもつ)のであるが,法の規定に従って統治権を行使するものと定められました。

具体的には,法律の制定は国民の意思が反映された議会の協賛(承認)によること,行政は国務大臣の輔弼(助言)によること,司法は裁判所が行うこととされました。

ーー引用ここまで

議会、大臣、裁判所を無視しては天皇は何もできなかった。

これではルイ14世とは似ても似つかない。

「統治権を総攬する」のと「主権を行使する」のとは、だいぶ違っているようなのだ。

ーー

自由社版では「立憲主義を受け入れやすかった日本の政治文化」と題した2ページのコラムで、次のように説明している。

ーーp48

明治維新により国民国家が形成され、大日本帝国憲法の制定により、立憲君主制の立憲主義の国家が成立した。

この立憲君主制は欧米の政治体制を参考にしながら、わが国の伝統的な政治文化に調和させてつくったものである。

古代、天皇の重要な役割は民のために神に祈ることだった。

同時に天皇は、実際に政治を行う政治的権力ももっていた。

しかし、歴史が進むにつれ、政治的権力から遠ざかっていった。

特に鎌倉幕府が開かれてからは、天皇は自ら権力を行使することはなかった。

それでも、天皇の存在は政治権力に対し、政治を行う地位を与える権威として存在し続け、政治権力は、天皇の権威を押しいただいて政治を行うことが日本の政治文化としての伝統となった。

政治権力は、天皇のもとで築いた古い文化を破壊したりすることは少なく、「民安かれ」と願う天皇の思いを受け止めて、民を過酷に扱うようなことは少なかったとも考えられる。

権威としての天皇が存在し続け、政治が大いに安定し、外国に比べて平和な時代が長く続き、文化は着実に成熟していったと考えられている。

大日本帝国憲法下の天皇が統治権を総攬する一方、実際の政治は立法、司法、行政の三権に任せる立憲君主であり続けた背景には、このような権威と権力の分離があったのである。

ーー引用ここまで

「権威と権力の分離」とは、日本の政治文化を語る上での重要な鍵である。

主権とは最高の「権力」であるから、「権力」を持たない以上、「天皇主権」とは言えないことになる。

ーー

実際の史実を見てみよう。

日清戦争の前、清国は西洋から世界最新最大級の巨艦を購入し、日本をはるかに上回る海軍力でわが国に脅威を与えていた。

しかし、日本国内では政争のために海軍拡張の予算が国会を通らないので、明治26(1893)年、明治天皇は宮廷費の一割にあたる30万円を6年間削って軍艦建造費に充てるという勅語を出された。

この勅語に議員たちはただちに政争をやめて、年俸の4分の1を上納することを決議した。

国民からも多額の寄付が寄せられた。

ーー

この国をあげての建艦によって、我が国は小型でも高速航行のできる艦隊を建設し、日清戦争に勝つことができたのだった

ーー

もし明治天皇がルイ14世のような主権を持っていたら、そもそも自ら宮廷費を削る必要などなかったはずだ。

国会は無視して、他の予算を建艦費に回すよう、一言命令すれば済んだはずである。

国庫に金がなかったら、必要なだけ課税すれば良い。

しかし、このやり方ではすぐに予算は手当できても、勝手に課税されたり、予算を流用された国民はそっぽを向いて、国家の危機を我がこととして立ち上がることなど、しなかったろう。

ーー

天皇の自らの出費を抑えても建艦費を捻出するという姿勢によって、議員も国民も国家の危機に目覚めて、年俸を削ったり、寄付をしたりしたのである。

これが真の国民国家の姿である。

ーー

一方、清国の西太后は自らの還暦を祝うために、軍艦購入費約45百万円を流用して、頤和園という庭園を造った。

ルイ14世に匹敵する堂々たる「主権者」であった。

ーー

自由社は同じコラムの後半で、「合議の伝統」と題して次のように述べている。

ーーp49

日本では古くから話し合って物事を解決し、できるだけ力の争いは避けるべきだという考え方が存在していた。

7世紀、聖徳太子は、十七条憲法の第1条において「和を以って尊しとなす」と謳い、政治は一人だけの独断ではなく、人々が議論をつくして行わなければならないと説いた。

天皇が政治の中心であった古代律令国家でも、重要な事項は、有力貴族が集まる公卿会議で決めていた。

合議の伝統は、鎌倉時代からの武家政治においても引きつがれ、江戸時代でも、幕府の重要な役職は複数の人間が担当し、全員の合議で決めていた。

合議によってものごとを決めれば、極端な結論が避けられ、多くの人も納得する結論になりやすい。

庶民の社会でも、村寄合(むらよりあい)や町寄合によって村や町の方針が決められていた。

その経験が、近代において町村議会を生み出していく基礎になっている。

このような歴史的背景のもとに、明治政府を樹立するにあたつて、いちはやく「五箇条の御誓文」を出し、その第1条で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言することもできたのである。

日本ではこのように、古くから合議を重んじる伝統があったために、近代西洋で発達した議会での話し合いを重んじる立憲主義を容易に受け入れることができたのである。

ーー引用ここまで

古代ギリシャ、ローマ、ゲルマン部族には「民会」の伝統があった。

この伝統の「根っこ」が生きていたからであろう。

一時期、絶対王政が発達したが、やがて抑えつけられていた民衆が立ち上がって、王と民衆のせめぎ合いの中から、近代の議会制民衆政治が発達した。

ーー

わが国では、「合議の伝統」がずっと生き続け、その根っこにつながる形でスムーズに近代的な立憲政治に移行できたのである。

ただし「主権」を巡っての争いを経験していないから、「国民主権」と言われても、ピンとこないのは当然である。

ーー

一方、合議や民会の伝統を持たない国は、そもそもの「根っこ」がないから、いきなり民衆政治democracyを教わっても、定着しない。

朝鮮民主主義人民共和国Democratic People's Republic of Koreaなどという国名をつけても、一向に民衆政治が行われないのは「根っこ」がないからなのである。

朝鮮人が実際に行っているのは古代と変わらない王政なのだ。

ーー

東書は「戦前は天皇主権、戦後は国民主権」としている。

これは、国王主権から革命や内戦を経て国民主権に移行したという西洋の歴史をそのまま日本に当てはめているように見える。

これは、西洋の学問を直輸入して、それを先進的と崇め奉る後進国的姿勢である。

ーー

大日本帝国憲法起草にあたったのは伊藤博文であった。

彼は19世紀ヨーロッパにおける政治・社会学の権威、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授から、以下のように教えられたと言われている。

「法は民族精神・国民精神の発露」であり、国民の歴史の中から発達していくものとする、当時ヨーロッパを席巻していた歴史法学の説明を受けた。

そこで、伊藤のもとで条文の起草にあたった井上毅(こわし)は『古事記』を研究し、そこに「知らす」という言葉を見つけた。

この点について、自由社は次のように説明する。

ーーp46

(側注1)大日本帝国憲法第1条 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

明治政府が刊行した憲法の解説書は、天皇の「統治」を「シラス」という古語で説明し、

天皇は国民に権力をふるう存在ではなく、国民の幸不幸を一身に受けとめながら国を統治する、と説明している。

ーー引用ここまで

国民の幸せを祈るのが天皇の役割であり、その祈りを受けて、政治家たちがよく議論をしながら国政を行っていくのが、合議の伝統である。

そこでは、天皇は直接的な意志決定を行わない。

これを「天皇不親政の原則」という(p89)。

ーー

「知らす」「不親政の原則」「合議の伝統」、これらがセットとなって日本の政治伝統を形成してきた。

こういう史実を知れば、「天皇主権」などという言葉が軽々しく出てくるはずもない。

ーー

大日本帝国憲法を起草した伊藤博文や井上毅の見識の高さが窺われる。

シュタイン博士の「法は民族精神・国民精神の発露」という主張は、公民教育においても重大な示唆を投げかけている。

わが国の法・政治制度をさらに発展させていくためにも、「民族精神・国民精神」の涵養が欠かせないことになる。

ーー

上述の「知らす」「不親政の原則」「合議の伝統」のような歴史は日本人の「根っこ」である。

そこから栄養分を得て、国民は現在の法や政治制度を生かし、発展させていくことができる。

わが国の民族精神・国民精神をまるで無視した公民教科書では「根無し草」しか育たない。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本文明の政治の先進性
 この伊勢さんのお話を読んで居る始終、「日本の本当の主権者とは、神である。 スメラミコトは、その、預言者「=神の言葉を預かるもの、仲立ちするモノ」に過ぎない。と叫びたかったが、読み進んでゆくと、伊勢さんも、ダイジェストを書かれた縦椅子様も、その話を読者の分り易く、西洋文明との比較を利用して説明しているのだなぁ、と感じ、納得しました。

 伊藤博文やその前に居た大久保利通も、双方共、元は武士とは雖も、下級武士ダカラ、天皇の扱いについては、最大級の敬意を払って、勉強した筈である。 その基礎的な認識を固めた上で、欧州に、当時の世界文明であった白人支配文明を学びに行ったのである。

 是は、誠に賢明なやり方で、その後の日本に現れた、「洋尊倭卑」の風潮を創り出した明治後期の知識人層の日本文明の不勉強さが手に取る様に解る。 特に、国学が歪んで居て、民衆の信用を無くして居たのが、惜しまれる。

 3万年も懸けて先祖に拠って創られた日本の政体だが、西洋文明は、多寡高、3千年程度の遊牧民の知見で造られた、非自然発の神から与えられた「モウシェの十戒」を道徳の拠り所とする他は無かったのだから、その差は歴然としている。

 然し固より、中東と呼ばれたアジア・アフリカとヨーロッパの陸橋に当たる場所で、様々な異種民族の生存競争の中では、社会を平安にする目的で、秩序を創り出す「一貫して且つ皆に支持されるきまり」を、成立させる為には、必ず、強い強制力が必要になるが、その強制力を行使すれば、道徳も何も「元の木阿弥」であろう。

 そういう蒙昧な繰り返しを続けていたが、ローマと言う絶大な力を持つモノが、地中海沿岸、黒海周辺、中東レバントそして、古代文明のメソポタミアやエジプトまで勢力を広げ、遥か、インドやシナ迄その勢力を誇示する大帝国を創った事が、西洋人に、道徳や法律の必要性を定着させる基盤となった安定した社会を齎した訳で、其処には、「島国の単民族の閉鎖社会と、他民族の開かれた社会の差」が、ハッキリと出て居る。

 そういう事を、江戸期に教育を受けて居た、人々は、例えば、森「鴎外」林太郎の様に、留学先のドイツで、招かれた酒宴の席で、知日学者と知られていたナウマンが、「最近、日本と言う東洋の黄色い猿が、西洋の文明を学び、急速にその力を着けつつあるが、所詮は、猿真似、砂上の楼閣である」と日本を嘲笑した。 

 すると森林太郎は、ドイツ語で「我ら日本人は、2千500年の伝統を維持する中で、神性を磨き、神の教えに拠って、決して他の民族を虐げたり、その利益を収奪する様な傲岸で野蛮な真似等した事が無い。先ほどの貴殿の言は、我ら日本人を深く侮辱し、傷つけるものであった。 前言に訂正、且つ、陳謝無くば、是を看過する事こそ、武士の名折れ。 貴殿に決闘を申し込む」と言い放ち、白手袋を投げた。

 と言う故事が有りますが、森は軍人とはいえ、専門は医者ですが、同席して居た日本人留学姿勢の中には。大山巌他軍人多数が居たが、ナウマンのドイツ語が分かったのは、森一人で有ったと言う事でした。

 森家の長州藩内での家格など知りませんが、彼らの「我らの国日本」と言う心根は、日本人として不滅のものでなくてはいけませんね。

 我々の先祖が、人間の工作物をご神体とするのではなく、自然のモノ、例えば、異形の巨岩だとか巨木、樹齢2千年を超す様な木をご神木とするのも、日本の国土が、延いては、この地球が、ご神体であると言う考えが有るからで、その神の子である我々も、自然の一部「=神の一部」であると言う事なのです。

 日本に古くからあり、村々にまで浸透している「合議制」が、民主主義とさほど変わらぬ事を、明治の留学生たちは、気付いたであろう、中には板垣退助の様に、「かぶれ」て終ったと思われる様な人物も居たが、武士道の一面には「身を立て、名を上げて」郷土や家の誉れとなる事が、永らくの日本人の価値観であったから是も致し方がない事だろう。

 天皇の為すべき事の根本は、スメラミコト「=祭祀王」であるが、その祭祀を阻害する、異神を信奉する民が居たのは、西洋と同じ理屈である。 つまり、強制力となる武力の王「=オホキミ」の役割もこなさなければならなかった。

 処が、弘文帝の時に起こった、「壬申の乱」は、謂わば、天皇家の内紛で有る。 天智帝の同腹の弟であると謂われていた大海人皇子だが、兄である天智帝の子、大友皇子「=弘文天皇つまり甥」から、追討令を出されて、「皇敵」にされて終ったのである。 

 天智帝と天武帝の兄弟関係を否定した朝鮮の学者がいたが、私も、その点には同意する。 幾らなんでも、自分の姪に当たる皇女を3人も、自分の妻には、しないだろうし、甥の方も、幾ら親の言いつけとはいえ、吉野の山奥に隠棲している叔父に追討令など出さないだろう。

 常識から言って、大海人皇子は、丹波の海人族の姫の子で、幼少期を丹波で過ごした。 一方の中大兄皇子「=後の天智天皇」は、舒明天皇の后「=宝皇女」は、吉備「=今の岡山」勢力の出自で、後の皇極天皇(重祚して斉明天皇)の皇子である。 即ち、天皇の血筋は受けているが、実の兄弟では無い、と思います。

 何故、天智天皇が、大海人皇子を敵と見做したかについては、長くなるので、割愛するが、その当時は皇族間でも争いが絶えなかったのは、皇極殿で、蘇我入鹿の首を刎ねた「乙巳の変」が、起こるまで、蘇我氏の勢力が、皇族の間に充満していたからでしょう。

 大海人皇子は、そうした身内の争いには、懲り懲りして居たし、新たに国を建てるには、新たな法律が必要であると言うのは、共謀者の中臣鎌足「=後の藤原氏」や兄と、乙巳の変を計画して居た時からの夢でもあった。

 ダカラ、天智帝の大化の改新も天武帝の「浄御原の令」に在る「八色の姓」や「十二階位」も、そして、「威力分離」も、大海人皇子「=天武帝」が、長年温めていた腹案では無かったか。

 そして、天武帝は、聖徳太子以来、日本に持ち込まれて、急速に広がって居た仏教を、その擁護者で有った蘇我氏が滅亡しても、排斥する事無く、却って、国分寺を地方の行政の拠点と替えたのは、為政者としても優秀で有ったと思いますね。 そして、彼は、国号を日本と初めて名乗った、為政者であり、自らをスメラミコトとし、息子をオホキミとしたのです。 その伝統は、天智帝の息女であり、天武帝の妻であった、持統天皇拠り引き継がれる。 

 つまり、日本における天皇と言うのは、既にこうした紆余曲折と多くの血を場がして、7世紀に出来上がったもので、その時点で、合議制と言う、多くの人が意見を出し合えば、争いを避けた、より良い妥協点が結論を先送りにして、時間を懸けて、皆で最適解を求めると言う制度が、庶民にも身近なものとしてあったのだから、民主主義は日本の庶民にも殊更目新しいものではなかった筈である。

 天皇のお立場が、現実に合わないのは、西洋には天皇の様な、祭祀王を兼ねた皇帝など、居なかったし、居ても、西洋は祭祀王を教皇が、覇王を国王が任じていた訳だから、双方が納得する解は、得られなかった。

 ダカラ、連合軍は最初天皇の処刑に拘泥したわけだし、天皇をてっきり覇王だと思って居たマッカーサーが、先帝陛下の「民あっての天皇」と言う姿勢を看て、感動したのだろう。

私は、この辺りにも、ご先祖様達の御守護の力が働いて居る様に感じます。 そして、世界を統御する神様も、日本文明を人類の将来の為に使おうとしているとも関jます。 そういう意味で、我々日本人に懸けられた期待は、大きいと思いますね。

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