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2018年9月 5日 (水)

自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している

ーー以下「伊勢雅臣コラム」より抜粋編集

東京・上野の国立博物館での縄文展を見た。

大変な人気である。

特に縄文時代の火炎土器の立体的な造形はとても美しかった。

また、細かい縄紋、すなわち縄目の模様の精巧さにも驚かされた。  

ーー

現在、世界最古と考えられている土器の一つが、青森県大平山元(おおだいらやまもと)遺跡から出土したもので約1万6500年前。

これは模様のない無文土器だが、約1万4500年前ごろには、粘土ひもをはりつけた「隆線文土器」が生まれ、日本全国に広がっている。  

南アジア、西アジア、アフリカでの最古は約9千年前、ヨーロッパが約8500年前で、これらに比べると、飛び抜けて古い。

ーー

岡村道雄・元文化庁主任文化財調査官は、日本列島の土器は「質量ともに世界の他の時代や地域のものとくらべても際立っている」と述べている。

しかし、なぜユーラシア大陸の東端にある日本列島で、世界最古の土器が出てくるのだろうか?

ーー

石器時代の人類は狩猟・採集による移動生活を送っていた。

やがて、約1万2千年前くらいから、世界の各地で農耕と牧畜を始めて定住し、そこから文明が始まったと言われてきた。

1万5千年前くらいから始まった日本の縄文時代は、この文明観から完全にはみ出している。

我々の先人たちは狩猟や採集のまま定住を始めたからである。  

ーー

日本列島を巡る海では寒流と暖流がぶつかり合って世界有数の漁場をなし、森林からは木の実やキノコなどが豊富にとれた。

さらにイノシシやシカ、ウサギなどの動物もたくさんいた。

こうした自然の恵みで、縄文人は農耕や牧畜をしなくとも、四季折々の豊かな食物に恵まれていたのである。  

ーー

一般に、農耕・牧畜は狩猟・採集よりは進んだ文明段階であると考えられているが、メソポタミア、エジプト、インダス、支那の黄河流域等はみな砂漠化している。

この事実を考えれば、農耕・牧畜が自然破壊を伴っていたことが分かる。

ーー

森を切り開いて畑にすれば、樹木がなくなって水田は別だが、やがて表面の土壌が失われる。

牧畜でも家畜が草の芽まで食べてしまうので、植生が失われ、土壌が劣化する。

ーー

それに比べ、縄文人たちは1万年以上もこの日本列島で暮らしながら、豊かな自然を残しながら生活し続けたのである。  

近年、国連が「持続可能な開発」(Sustainable Development) という概念を打ち出したが、縄文人たちの生活はまさにそのお手本なのである。

ーー

しかも縄文人たちは自然の恵みをむやみにむさぼっていたのではなかった。

それぞれの品目ごとに「旬」を知って採っていたようなのだ。

シジミやハマグリは貝の断面の成長線を調べると、全体の70%が4月から6月にかけて採取されたものだと分かった。

現代の潮干狩りと同様で、この時期がもっともおいしいからである。

ーー

同じくイワシ、ニシンも春に盛りを迎える。

夏はアジ、サバ、クロダイ、秋はサケ、ブリ等々。

秋はクリ、クルミ、シイ、トチなどの木の実の採取。  

冬になると、脂肪を蓄えたキジ、ヤマドリ、カモ、イノシシ、シカ狩り。

春のなればワラビ、クズ、セリ、ゼンマイなどの若葉、若芽が採られ食べられた。

これらの他の木の実や野菜、果物、キノコなどが加わる。

ーー

縄文遺跡の食料の残滓からこれら獣60種類以上、魚70種類以上、貝350種類以上が食べられていたことが明らかとなった。

ーー

今日の日本料理は多種多様な食材を、それも「旬」を考えて出す。

これは世界の料理の中でも独特だといわれているが、それは縄文時代から続いていることになる。

この数百種類の食材に対して、どれが食べられるのか、どこで採れるのか、いつが旬なのか、どう料理するのかを縄文人たちは考えながら、食べていた。

一口に狩猟・採集とは言っても、麦だけを植え、牛だけを育てる農耕・牧畜よりは、複雑な知識を使っていたと思われる。

ーー

縄文人の食の多様性をさらに大きく広げたのが土器だった。

土器による煮炊きによって、木の実のアクを抜き、植物の根や茎を柔らかくして食べやすくし、魚や獣の肉の腐敗を防げるようになった。

土器は保存容器としても、通気性や通水性によって表面の水分が気化して低温を保つので、食物の長期間保存を可能とした。  

縄文人たちは定住することで、大きな重い土器を作り、使う事ができるようになった。

ーー

一定の場所から粘土を見つけ、それを形にし、火で焼くという作業は定住していなければできない。  

また、定住生活では体力の衰えた年寄りも、その経験や知識を次の世代に伝える事によって集団生活に貢献することができる。

それによって様々な食材を食べられるかどうか判別し、いつどこで採ったら良いかを考える、という知識と経験の積み重ねが容易になった。

土器は、定住ができるようになって、一層洗練されたものになったはずだ。

ーー

定住が土器を発達させ、食材に関する知識を蓄積できるようにした。

逆に土器と食材に関する知識が定住を可能とさせた。

この定住と技術・知識の蓄積は、車の両輪として暮らしを改善していったと思われる。

ーー

こうして自然の中に抱かれて暮らしていた縄文人の世界観は、また独特のものがあった。

それを明治学院大学・武光誠教授は「循環(円)の思想」と表現している。

「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という世界観である。

ーー

「夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる」

「縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた」

ーー

獣も魚も貝も木も草も、生きとし生けるものにはすべて命が宿っている。

人間もその一部である。

その命を少しだけ戴いて自分たちは生かされている。

その無限の命の循環の中に自分たちは暮らしている。

ーー

とすれば、魚を取り尽くしたり、獣を小さいうちに食べてしまうなどということは、縄文人にとっては許されない行為であった。  

これが、自然環境とともに生きる民の世界観であった。

1万年以上もの間、自然環境と共生してきた生活の基盤には、こういう生命観があった。  

ーー

自然に抱かれた縄文人たちは「自然との共感共鳴」をしていて、それが日本語の中にも残っている。

小林達雄・國學院大學名誉教授は、こう語る。

ーー

「風が「そよそよ」吹くというのがありますが、あれは風が吹いて、音を立てているのではない」

「ささやいているのです」

「どういうことかと言うと、音を、聞き耳を立ててキャッチしているのではなく、自然が発する声を聞いているのです」

「音ではなくて「声」です」

ーーと。

縄文人は、人間同士が語り合うように、自然の「声」にも聞き入っていたのである。

ーー

人間は自然の一部として、生まれ、育ち、老い、そして子孫を残して死んでいく。

そこには階級分化もありえず、すべての人間は平等だった。  

縄文人は集落の中心に円形の広場を作り、そこで自然を司る精霊を祀った。

そして、その周りに竪穴住居を円の形に配置した。

どの家も神聖な広場からは等距離である。

このような「環状集落」は5千年前頃から、東北地方から中部地方まで広い範囲で作られた。

(地球温暖化のため当時の最も快適な居住地は東北地方にあったと考えられている)  

ーー

後に神社(かみのやしろ)ができ、人々は、その祭りで、歌や踊りに興じたり、神輿(みこし)とともに練り歩いたりするようになった。

が、縄文時代から同様の祭りがあったことだろう。

特に盆踊(祖先にささげる踊り)りは「円(循環)」を作って、一緒に回る。

こうして、みんなで一緒に楽しむと共に、祖先に思いを寄せた。  

ーー

人間が明るく楽しく過ごすことが、命に活力を与える最も大切なこととされた。

縁ある男女が結ばれて、明るい気持ちで仲良く過ごし、多くの子供をつくる事を縁産(えんむすび)と呼んだ。

そして、人々は夫婦になった二人を祝福して、賑やかな婚礼の宴(縁)を開き祝った。

ーー

出土品から、縄文時代には、各地の集落間で広域の交易が行われていたことがわかっている。

新潟県糸魚川市の山中で上質なヒスイが採れるところがある。

このヒスイを用いた勾玉(まがたま)の祭器が日本全国から出土しているのだ。

ーー

また、秋田、山形、新潟の油田地帯では、石油が地上に染み出してできたアスファルトが採れる。

このアスファルトは、石の矢尻(やじり)を矢柄の先端にくっつけたり、壊れた土器を修理する接着剤として使われた。

これらアスファルトを使った出土品が北海道南端から、東北地方全域、北陸地方に及ぶ広い範囲で見つかっている。  

ーー

こうした交易がどのようになされたのか。

たとえば青森の三内丸山の集落で祭りにヒスイが必要となると、集落の中から選ばれた勇者たちがヒスイの採れる新潟の糸魚川近辺まで出かけていく。

そういう旅人が来くと、糸魚川の住民は快く場所を教えてやる。

すべての自然物は自然の命の恵みなので、独占すべきものではないからだ。  

ーー

武光教授は、これが「旅」の始まりだと指摘する。

「旅」とは「賜(た)べ」、すなわち「何かを下さい」という言葉から出た。

自分が欲しい物がある所に行って、そこの集落に「何々を賜(た)べ(ください)」とお願いする行為が旅だった。  

ーー

旅人たちは、糸魚川の住民に自分たちの集落の話をする。

そこから、自分の集落から何か、お返しに持ってこられる物を知る。

そして、次回、ヒスイを求めてまた旅人がやって来る時には、それを贈り物として持参するのである。  

ーー

こうして旅人は、貴重な情報や贈り物をもってきてくれる「まれにしか来ることのない大切な客人」と歓迎された。

これが「まれ人」の語源である。  

縄文時代には、このように全国の村落が交易、交流、友好の輪(ネットワーク)で結ばれていた。

これも「循環の思想」の表れであろう。

ーー

縄文時代の代表的な遺跡、三内丸山遺跡に関して、自由社版の中学歴史教科書は次のように述べている。

ーー

「1万年以上にわたる縄文時代の大きな特徴は、遺跡から戦争の武器が出土しないことです」

「三内丸山のような巨大遺跡からでさえ、動物を狩るための弓矢や槍はありましたが、武器は見つかりませんでした」

「おたがいが助け合う和の社会が維持され、精神的な豊かさを持ち合わせた社会であったと考えられます」

「私たちの祖先である縄文の人々は、「和の文明」とも呼べるこのようなおだやかな社会を築いていたのです」

ーー

土地もヒスイも魚も、すべて自然の恵みと考えれば、そこには私有財産という概念は生じ得なかったろう。

そして、その自然の恵みを人々が感謝しつつ、使いすぎないように注意深く使っている社会では、争いは生まれない。  

ーー

一方、農耕社会では、自分が汗水垂らして耕して作った畑は自分のものだ、という意識が生ずる。

その土地を増やそうとすると、土地を巡って隣人と争いが生ずる。  

ーー

北米のインディアンは縄文人と同様の精神を持っていたようだ。

イギリスからの移住者たちが辿り着いた時、彼らはインディアンから、「まれ人」として温かく迎えられた。

しかし、その移住者たちは土地を自分たちの財産と主張して、インディアンを駆逐し始める。

インディアンたちは、自然が与えてくれた大地を、なぜ特定の人間が自分の所有物だと主張するのか、理解できなかったのだ。  

ーー

農業・牧畜を始めた人間は、自然環境を破壊し、土地を巡って争うようになった。

そこから継承された環境破壊と戦争が、現代社会にも大きな危機をもたらしている。

その一方で「循環の思想」を継承した日本文化は和を大切にし、環境との共存共栄を実現している。

小林教授は次のように結論づけている。

ーー

「1万年以上も続いた自然との共生の体験の中で縄文世界観が醸成され、日本人的心の基盤が形成されていったと言えます」

「それは、文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間だったとも言えます」

ーー

そのような世界でも独特な1万年以上もの縄文時代を経験し、それが現在にも伝えられている。

それが日本人の生き方であるということができましょう。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>天皇制の政体が日本に定着する迄
 偶然にも、私は宮崎さんの処から、昨日この伊勢さんのコメントを発見し、個人のアーカイブとして、保存させていただきました。 日本の縄文時代の端緒は、以前は氷期明け辺り、と考えられていたのに、ご紹介が有った、土器の出土で一気に16500年前迄に遡って終いました。

 私が思うに、当時の気候分布は、今とはかなり違って居て、つまりは、ベーリング海峡が氷結して居て南下する寒流のリマン海流(親潮)の量が、北上して来る暖流の北赤道海流(黒潮)に比べて、今より弱かったので、現在の大西洋の様に、暖流「=メキシコ湾流」の到達点が、北極圏のベーリング海に及んでいたと考えます。

 するとオホーツク海沿岸の東北海道は、今よりかなり温暖で、更には、シベリアを流れて来たアムール川(黒竜江)の氷結水が造る流氷現象も、もっと規模が小さかった、若しくは、なかったと思われます。 つまり、氷期の北海道にも、人間が文化を営める環境が有ったと言う事です。

 その予想通り、北海道には、大陸の半農半牧民である、ツングース系のヤクート人やギリヤーク人と言った、白系の人々の生活痕跡が見つかっており、気候変動でそれらの民族が、大陸に引き上げて行った後に遺されたオロチョン族は、本土から追われて移住して来たアイヌ族に吸収されて終ったようですがつい500年程前までは、棲息して居た様です。

 そして、南の方では、貝紋土器と言う1万4千年前辺りの土器が出土しているし、鹿児島県内にも、28000年前、3000年前の遺跡が見つかっている、種子島では、3万5千年前の炊事場の跡が見つかっています。

 然し、考えて看れば、伊勢さんが指摘している様に、日本列島は南北に長いダケで無く、特異な場所に在ると言えましょう。 

 大陸島の東端に在る事で、基点をアフリカの大地溝帯を15万~20万円前だとすれば、7万年前に始まったピュルム氷期の前、凡そ、8~13万年間は、未だ温暖だった、大陸島の殆どを占めるシベリア~中央アジアのステップ地帯で、巨大哺乳類を追って、哺乳類の移動に連れて、移動して居たと思います。

 処が、氷期が始まり、植生が変わって、捕食対象の鹿や牛などの草食動物が激減すると、自然の法則である、「強者の弱者依存」の理によって、大型の捕食獣から姿を消して行きました。

 結局、氷期全盛の2万年前後まで生き残って居た、大型哺乳類はマンモスと大角鹿位で、それらの獣も食べ物を求めて、北海道や更には本州迄、逃げて来たと推測します。

 是を追いかけてきたのが、前述したツングース系の北狄族で、彼らが、蝦夷族の祖先では、ないかと、私は思います。 つまり、三内丸山遺跡などは、蝦夷族の先祖のものであり、現日本人とは、蝦夷族の事を指すと思います。

 然し、海流の向きから考えれば、民族の移動は南から北への方が、危険は大きいけれど、簡単です。 すると、氷期中は東シナ海も、南西、先島諸島と台湾・九州を結ぶ島嶼が地続き、内海を形成していたと考えられ、其処へ5万年前から少しづつ、スンダ・ランドから北上して来た、海洋民=東夷族が、海人族として棲み着いて居ました。

 彼らは、海洋民族だけあって行動範囲が広く、内海の東シナ海沿岸全域とは勿論、同じく内海の日本海沿岸、日本列島全域、更には、オホーツク海に至る迄、その足跡が発見されている。 

 然し、海人族は、上半身に比べ、下半身が発達して居ない為に、内陸への侵攻は、正に「陸に上がったカッパ」の態だったので、他国、他民族を侵略する事も無かった。 ダカラ、紀元前⒛世紀ごろに、起こった、北方遊牧民に拠る南侵に拠って、長江文明が滅び去り、少なくない人々が、列島に逃げて来た時も、既に交流が有った人々と同様、優しく向かい入れたし、彼らも、自分達の食糧は、水田を開墾する事で賄ったから、争いは起きて居ない。

 東夷族が持ち込んだ水田耕作法を蝦夷族は、かなり前から知ってはいたが、「寡品種大量栽培」の得失から、民族の生活のバランスを崩す基になる要素が大きいと言う理由で、敢えて、水田耕作をしなかった面があったと思う。 ですから、五穀の中に入って居る米は、陸稲でしょう。

 然し、東夷族である越人は、次第に水田を広げて行き、低湿地帯や平野部は勿論、蝦夷族の生活圏で有る、山林や山麓部にも入り込んで来たので、話し合いが行われ、夫々の生活圏を護る為に境界を設け、そこに神社を建てて、問題点が生じた時は、其処で、平和的に話し合う事とした。 是が、縄文の終わり、つまりは、弥生の始まりだろう。

 この後、越人の開墾意欲は更に発揮され、水田面積も広がり、越人の人口も増えて行ったが、逆に蝦夷族は、獲物になる動物が生息域を潰されて、数が減少し、その生息数では、蝦夷族自体の食糧を賄えなくなった、是は、農耕民の文化的な侵略だと言える。

 この現象は、やや時を隔てて、南でも見られた、特に、平野部の多い中部九で、西側の筑紫平野の勢力は、東側の日向平野と比べ、大陸からの難民の流入が多く、逸早く弥生化を果たし、九州の最強勢力は熊曽族になりつつあった。 

 モゥこうなると、弥生化=近代化であり、近代化が齎す、人口の爆発的な増加、争いの激化、排他的で自分の利益を守り、広げる為の効果的な方法が、国を形成する事であったから、そうして出来た小国家は九州だけでも、100ヶ国を超えた。 互いの争いが、援軍と言う形で戦いを周辺に広げて終い、西日本全土が戦争状態になった、是が「倭国大乱」だろう。

戦いは、オソラク100~200年に亘って続き、この争いに加ららなかった、蝦夷族は、東北に逃げ込んだが、東北は、蝦夷族に取って、嘗て、温暖だった頃の本拠地だった処だし、北関東に在る白河の関以北に籠ったのは、稲は元々、熱帯性の植物なので、北限が有る事は、蝦夷族が知って居たからだと思われます。 

この判断が功を奏して、大和朝廷は、この後、平安初期の坂上田村麻呂征夷大将軍の北伐、中期の源頼義・義家親子の前九年後三年の役迄、凡そ千年間、東北を不治の地として、放置しましたから、蝦夷族は、大和朝廷の実効支配から逃れます。

一方南の方は、7400~6900なん迄続いた、鬼界島辺りの海底火山の火砕流の影響で、南九州は勿論、中部・北部まで影響が遺って居た、九州では、筑紫勢の回復が早かった事で、海人族の本故地とされ、半島を足掛かりにシナ本土をも窺う勢いさえあった。
処が、倭国大乱で、勝っても負けても、被害甚大と言う痛手を負い、亦、近隣国への反感から、纏まった勢力にはならなかった事は、日本に取っては僥倖だった。

 度重なる火山の爆発の所為で、不毛化して居た南九州を、根城を置いて居た、薩摩の豊族や大隅の吾平(アビラ)族は、困窮して居ました。 火山の噴出物で覆われた大地は、ほとんどシラス層やボラ・コラ層で、保水性が少なく、新たに、棚田耕作法が伝えられたのに、其れを活かせる、土地が無かったのです。

 其処で、長江民の南蛮族、呉の王族で、同じく長江民の遺民である半島の新羅側の代表として伽耶国の長だった、宇伽耶不葺合命に相談を持ち掛けると、ウガヤ王は、倭族とも言われる海人族が、新羅が半島で開鑿した鉄をシナに売る貿易で上がって来た富を資本を手にして居たので、未だ、戦火が収まって居ない、混乱した本州の畿内を平定すれば、大きな飛躍を果たせると、隼人系豪族と画策、三人の息子達に、国運を託します。 

 是が神武東征で、倭国の大乱は未だ収まっておらず、武力で攻めたら、戦いは必ず遠征側の不利は明らかだったから、相手の調略用に、山岳部の棚田開発法と水利法を以て、平和裏に恭順させる手法を考え出し、16年の時間を懸けて、中つ国々を平定して行き、最後に縄文派蝦夷族が蟠踞する播磨・摂津を攻めますが、水田耕作をやらない蝦夷には、和平策は通じず失敗し、3人の息子の裡、2人が亡くなります。

 その為に、畿内の蝦夷族と相反している、紀伊半島に棲む、弥生化に同調する蝦夷族を説得しようと、打算的な取引も経て、何とか、長脛彦率いる蝦夷軍を破って、畿内を手に入れます。

 然し固より、武力だけで圧倒できたわけでは無く、当時として一番大事な食糧増産法を伝授した事で、異民族に築き上げた信頼で、勝ち得たモノだったとの教訓を得ました。
戦いが、不幸な死と破壊しか齎さず、結果、恨み・憎しみしか残らないのとは、対称的で有り、国を造るのに一番大切な民からの信頼・信用を得る手段であると、気が着いた。

 この現実を、ウガヤ最後の息子に着いて来た、中つ国の豪族や、畿内で、長脛彦に支配されて居た、蝦夷の葛城等の豪族の皆で話し合い。 先ずは、国内で燻って居る、戦乱を平定し終わらせる。 

 そして、終わらせた後を治めるに必要な王として、ウガヤの息子を立てて、スメラミコトと言う特別な存在とし、蝦夷族が守って来た1万年の平和の世を再現する仕組みとして、スメラミコトが、「神が遣わした、日本を護る神の代理人」と言う事として祀り上げた。 この時点では、豪族とスメラミコトは、主従関係を結んだ、大和「=三族の大きな和」朝廷の誕生です。

 其れから、国内の平定の時期が、50~100年近く有り、崇神帝の御代に、畿内・中国・北陸の平定が粗終わり、以後、崇神帝から2代後の、景行天皇の皇子大和武尊に拠って、東北・北海道を除く日本は平定され、大和朝廷は安定期に向かいます。

 この後、仲哀帝の時に、九州の熊曽族「=熊襲族と曽於族で長江民系の海人族」が、半島勢力と共謀して、半島利権の譲渡を巡って、反乱を起こしそうだったので、仲哀帝は和泉・河内の大規模水田開発事業を任せて、妊娠中の皇后と共に、三韓征伐に向かいますが、流れ矢に当たって敢え無く戦死し、神功皇后が同伴して居た父親の武内の宿祢と共に三韓を平定し河内に凱旋します。

 河内の水田開発事業は、この時、赤ん坊だった応神帝が成人し、帝位を即位する頃までかかって完成しますが、この事業の完成に拠って、大和王朝は大きな食糧源=財源を得て、力を着けて、当時のシナの王朝から「倭の五王」として懼れられます。

 列島の統一国家としての日本の誕生と言って良いでしょうが、この凡そ200年後に起こった、家臣の大伴金村に拠る武烈帝の暗殺でも、金村は、帝位を簒奪する様な真似はせず、応神帝五代の末孫と言う、丹波を勢力地にして居た、海人族系豪族のオオド王を、後継帝として、指名し、武烈帝の姉君を妻として送り込むなど、懐柔策を取ったが、オオド王は、丹波の南端に在る樟葉に王宮を建てて、其処から金村が死ぬまで、20年間動かなかった。

 然し、この金村の行動に拠って、豪族は一歩も動けず、戦乱は起きなかった事から、日本の皇統の維持が即ち国家・国民の安寧に繋がると言う認識になったのでしょう。

近年になって弥生時代よりも、縄文時代に日本の歴史の比重が掛かってきた気がします。
義務教育の頃は、縄文時代は原始時代に近い生活をしていたと覚えていたのですが、最近になって縄文時代の土器の素晴らしさ、食べ物の豊かさが発見され、語られるようになってきました。

そして驚くのは、この縄文時代には武器が発見されないことです。
文明の発達と共に軍事的な部分が進歩するのが、基本的なこととされてきたのに、それが認められないと言うことは、尋常ではないもので、縄文時代の日本がいかに素晴らしいものであったかと思います。

そして、そこに暮らしていた人々は階級文化もあり得ず、全ての人間は平等であったとするならば、今の社会が求めている政治形態がその当時に既に実現されていたと言うことでしょう。

此処に大和民族の目指す、理想があったのかも知れません。
人間が発祥したアフリカから、遠く離れたアジアの東端において、平和で豊かな生活を実現出来た人間は、その後の好戦的な種族のために苦しめられたのでしょうけれど、穏やかで豊かな生活を送れた時代には、日本列島の存する土地が海と山の自然に囲まれていたことに、感謝しなければならないのだと思います。

現在の日本を説明するときには、先ず、土地が狭い上に平野は少なく山林が多い、また、資源は産出されずと言うような説明をしてしまいます。
でも、過去には金の産出量は世界でも抜けており、黄金の国とされていたのです。それを食い尽くしてしまったから仕方ないのですが、その代わりに西欧から植民地にされなかったと考えますと、幸運な国であり、民族なのだと思います。

ソロさん ポッポです。
お元気だったようで、ホッとしています。
毎日のように、お互いがこちらへ投稿しているのですが、個人のことは中々書きにくいもので・・・・・・・

中韓さんの処での#のコメンテーターには、私もHNを勧めた覚えがあるのですが、どうも嫌がるようです。しかし、名無しである限り、本人が以前の投稿のことを言うのは無理だと思いまして、HNを作るように勧めました。

中韓さんのことですが、投稿者の前にブログ主様に元気がないような気がして気にしていたのです。
なにしろ70代も後半になりますし、健康にも不安のある方ですから精神力は何をするにも直結すると思うのです。

投稿者の変化には困っています。
両班野郎さんは忙しいと思うのですが、その他の方は理由がもう一つ想像出来ないのです。士心さんは、大丈夫だと思います。
そして、最近の投稿者は、ブログ主様の記事への反応が少なくて、個人の主張が多いです。これでは、中韓の特徴が生かせません。

それから、ソロさんの投稿がなくなっているのも寂しいです。
ソロさんが投稿を自粛していたと思っていたのですが、アク禁だとは困ります。ちりちゃんもアク禁状態で10日程前に、投稿後その日のうちにBANでした。

何とか元にに戻って貰わないと、○信の妄想のためにこんなことになっていたのでは、離間策に掛かったようなものです。
○信は、自分のブログの閲覧者を増やすことだけが目的のような気がします。トンデモ科学は苦し紛れなのかも知れません。

縦椅子様

今日も
≪人間は自然の一部として、生まれ、育ち、老い、そして子孫を残して死んでいく。そこには階級分化もありえず、すべての人間は平等だった≫
≪縄文時代には、このように全国の村落が交易、交流、友好の輪(ネットワーク)で結ばれていた。これも「循環の思想」の表れであろう≫≪「循環の思想」を継承した日本文化は和を大切にし、環境との共存共栄を実現している。≫との素晴らしいブログ有難うございます。このような縄文人のDNAを少しでも自分の中にあるということに何だか誇りを覚えます。
今日私は心配になっていた公園に行きました。一番大切な松の木は根元から倒れ、無残な姿になって公園の中央に倒れています。道はもぎ取られた重い木でふさがれており、私たちの力ではとても動かすことはできません。うれしいことに、樹齢400年の木は、少し腕木を損傷したものの、その美しい姿を保っています。公園事務局に電話をすると、「倒木は危険ですから、一切触らないでそのままにして置いてください。私達が順番に片づけますから・・・」とのこと、その言葉に甘えて、「倒木危険につき立ち入り禁止」との張り紙を入り口に掲示して、公園局にお任せすることにしてその場を後にしましたら、するとどうでしょう!5時の時点でも、きをきるおとがし、それが今も続いているのです!なんと有り難いことでしょうか。多量の木をこんなに遅くまでかかって片づけてくださる、ありがたいことです。いま上からのぞいてみましたら、犬を連れた人が散歩するいつもの光景が見られます。公園は綺麗さっぱり!もとどおりの公園になっています。本当に感謝です!
そして、今日は町会のごみの日です。台風の残骸がうず高く積まれています。こんな時間でも、満載の清掃車が動いています。「どうぞお疲れのでませんように」と祈るばかりです。感謝!

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