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2018年9月20日 (木)

即ち、西郷も我が国の歴史のなかの、自らの生を切断することによって、 巨大な思想を後世に伝える人々の系譜のなかにある

ーー以下「宮崎正弘ブログ(西村慎吾コラム)」より抜粋編集

元禄十五(1702)年、播州赤穂藩家老大石内蔵助と赤穂浪士四十七人が、主君浅野内匠頭の無念を晴らすために幕府高家筆頭吉良上野介の首を取った。

江戸の庶民は、

 楠(くすのき)の 今大石に なりにける なおも朽ちせぬ忠孝をなす  

(楠木正成が大石内蔵助に生まれ変わって吉良の首を取り忠孝を尽くした)と詠んだ。

ーー

建武三(1336)年五月二十五日、楠木正成は、後醍醐天皇の命を受け、七百騎を率い、兵庫の湊川(みなとがわ)で数万の足利軍を迎撃した。

六時間に十六回の突撃を繰り返した後に「七度生まれ変わって朝敵を討たん」と誓い弟とともに自決した。

この楠木正成の峻烈な天皇への忠孝の志(こころざし)と死に臨んだ誓いは長く語り伝えられた。

ーー

水戸の徳川光圀は、元禄五(1692、356年後)年、 湊川の楠木正成戦死の地に、楠公の忠孝と武勇を顕彰し、巨大な碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てた(湊川建碑)。

後世の日本人が天皇を戴く日本の忠孝の道義に目覚めるようにという願いが込められた。

ーー

以後、この墓にぬかずき碑文に発憤する者が年々増えていき、広く庶民に至る迄楠木正成の忠孝を知るに至ったのだった。

ーー

大石内蔵助以下赤穂浪士の思想は、山鹿素行によって形成された。

儒者軍学者・山鹿素行は、天皇を戴(いただ)く日本こそ万邦無比の國であり中華であると説き、「中朝事実」を書いた。

幕府によって江戸を追放され赤穂藩に来た山鹿素行は、大石内蔵助らにその尊皇忠孝の教えを説いた。

ーー

時に幕府の方針は、禁中並びに公家諸法度等を定めて天皇と朝廷を全て京都所司代の統制下に置くというものである。

従って高家筆頭の吉良上野介は、この幕府の方針通り、江戸に来る天皇の勅使を待遇しようとした。

しかし、赤穂の浅野内匠頭は、山鹿素行の教えを受けた尊皇の藩主である。

その吉良上野介を天皇に対する不敬者と看た。

ここにとっさの刃傷(にんじょう)の原因がある。

よって大石等四十七士は吉良の首を取って主君のその無念を晴らしたのだ。

ーー

亡き山鹿素行から観れば、 赤穂浪士達の決起は自らの思想、尊皇の志の実践である。

(しかしこの事実は幕末まで封印された)  

この赤穂事件即ち忠臣蔵として語り伝えられてきた事件は、 江戸時代における我が国の国民精神に最大の影響を与えた。

ーー

セオドア・ルーズベルト米大統領は、日露戦争の講和条約締結の仲介をした。

その際、仲介の労を執った理由として日本全権の小村寿太郎に「少年の頃、忠臣蔵の物語を読んで血湧き肉躍ったからだ」と述べたという。

ーー

そして幕末の志士たちで楠木正成を思わない者はいない。

吉田松陰は、短い生涯のなかで、三度、湊川の「嗚呼忠臣楠子之墓」に参り「楠木兄弟は未だ死なず」と涙を流した。

この松蔭の安政の大獄に連座してからの死に急ぐような姿は、楠木と同じ、「死して生きる」という確信の故かと思う。

満二十九歳で伝馬町牢屋敷で斬首されるときに松蔭が詠んだ辞世の句がある。

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

これには「死して生きる」というその確信に満ちている。

ーー

この幕末維新を経て、我が国は、国家の存亡をかけて日清、日露戦争そして大東亜戦争を戦う。

その戦場に赴く将兵で、楠木正成の「七生報国」、「死して生きる」を意識しない者はいない。

ーー

楠木正成は日本が日本である限り甦(よみがえ)り続けてきた。

軍司令官から戦死確実の作戦を命じられた指揮官は、「つまり閣下は、私に湊川をやれと言われるのですな」 とつぶやいた。

そして、「俺は湊川をやる」と納得して死地に赴いた。

ーー

昭和二十年四月二十二日午前十時、台湾の桃園飛行場から若い十四名の陸軍特攻隊員が沖縄に特攻出撃した。

その際・彼らは、「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方です」と言って飛び立っていった。

彼らのこの「死して生きる」という猛攻によって米軍に多大なる人的損害を与えた。

このことがなければ、敗戦後、恐らく憲法に天皇が残されることはなかったであろう。

ーー

戦後の昭和四十五年十一月二十五日三島由紀夫が市ヶ谷台(現在防衛省が置かれている)で自決した。

晩年の三島由紀夫は、西郷南洲に、次のように語りかけている。

「あなたは賊として死んだが、すべての日本人はあなたをもっとも代表的な日本人とみています」

ーー

鹿児島の桜島・錦江湾が見わたせる丘に南洲墓地がある。

そこには、西郷隆盛の墓を中心に西南の役を戦って戦死した二千余の薩摩軍将士の墓が、桜島に向かって直立している。

平成三十年九月八日、私はその地を訪れ、それらの墓標を前に佇んでいた。

ーー

そして、日本が日本である限り、西郷南洲の名は、日本人に忘れられることはないと感じた。

明治維新の勲章をぶら下げた元勲達が、皆その名を忘れられた後においてさえもなお、西郷南洲の名は記憶されるであろうと。

ーー

城山を包囲した官軍は、明治十年九月二十四日午前四時から西郷軍に対する総攻撃を開始した。

戦闘が終わった後、 官軍の指揮を執っていた山県有朋は、この墓の近くで、砂の付いた西郷の首を清水で洗わせてから両手で受け取って、西郷を凝視した。

ーー

この時のことを、江藤淳は「南洲残影」の中にこう記している。

ーー

「このとき実は山県は、自裁せず戦死した西郷南洲という強烈な思想と対決していたのである」

「陽明学でもない、『敬天愛人』ですらない、国粋主義でも、拝外思想でもない、それらをすべて超えながら」

「日本人の真情を深く揺り動かして止まない『西郷南洲』という思想」

「共産主義も無政府主義のそのあらゆる変種も、近代化論も近代化後論(ポストモダニズム)も」

「日本人はかつて『西郷南洲』以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった」

ーー

西郷は、沖永良部島で虜囚の身であった。

その頃に「獄中所感」を詠んだ。

そしてその最後を次のように結んでいる。

「生死何ぞ疑わん天の附與するを、願わくば魂魄を留めて皇城を護らん」

ーー

そして、その言葉通り、 生を終えるまさにその時、西郷は、遥か東方の天皇陛下を拝して別府晋介に首を打たせたのだった。

即ち、西郷も我が国の歴史のなかの、自らの生を切断することによって、 巨大な思想を後世に伝える人々の系譜のなかにある。

ーー

昭和二十年九月二日から我が国に進駐してきた占領軍は、忠臣蔵の映画演劇を禁止した。

そして占領政策の協力者、在日・反日勢力を使って、日本の教育界を形成して居た人々や、国に忠誠を誓う人たち20万人以上を公職から追放した。

占領軍は、その空いた公職に在日・反日勢力を置き、日本的精神を徹底的に破壊させた。

ーー

在日・反日勢力は、日本が主権を回復した後も、メディアを支配し、以下のような謬説を日本人に繰り返し強制したのだった。

騎馬民族によって征服されたとか、母音は8種類あったとか、帝国軍は性奴隷(従軍慰安婦)を引き連れていたとか。

しかも騎馬民族征服王朝説の謬説(びゅうせつ)を出した江上波夫は文化勲章を受賞している。

ーー

それにもかかわらず「死して生きる」という考えは、現在にも生きている。

ーー

東日本大震災の際、多くの人々は、あの巨大な津波に向かって走ってゆく警察官の最後の姿を見ている。

ーー

同じ頃、南三陸町危機管理課職員遠藤未希さん(24歳)は、午後2時46分から30分間にわたって防災庁舎二階から

「大津波警報が発令されました」

「高台に避難してください」

「6mの津波が予想されます、逃げてください」

「異常な潮の引き方です、逃げてください」

と避難を促す放送を続け、ご自身はやってきた大津波にのまれ殉職された。

ーー

さらに、福島第一原発の爆発して破壊された灼熱の原子炉建屋の真上にホバリングして、 約四十トンの水を落とした二機の巨大ヘリCH47チヌークを世界が見た。

支那共産党軍将校は「自衛隊の将校(日本人)は、戦前戦後、まったく変わっていない」「簡単に命をかけてくる」と言った。

アメリカ軍将校は、「人の命を何とも思わないような作戦をするな」と言ったのだった。

(にしむらしんご氏は前衆議院議員)

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>日本人とは何か
  感動的な話を幾つも紹介して頂き、有難うございました。

 先ず驚いたのは、神戸の湊川神社「=楠公神社」の話が出てきた事で、私はその東隣に、10年程棲んで居て、阪神大震災も此処で経験しました。

 鹿児島に棲んで居る私の姪「=姉の子」が、PL学園に進学の為に神戸の家に来たときには、丁度,NHKの大河ドラマで、足利尊氏をやって居て、楠正成は、武田鉄矢さんが好演して居ました。 そして、PL学園が有る場所は、南河内ですので、楠公さんの出身地である千早赤阪村の直ぐ近くだったので、「こりゃあ、今年は、楠公さんと縁が有るのかなぁ」と思って居ましたが、それ以上の事は、何も有りませんでした。

 然しその数年後に震災で、震度6を経験しましたが、後で見ると、楠公神社の有る地域を含む一帯だけ、大倉山の稜線がセリ出して居て、淡路島から来た地震波が、その地域だけ、山の地肌に直接杭を打って居る分、震度7を免れて居る事が分りました。

 当時、大楠公の忠公の心を「国学の復古もあって、戦前に、過大評価されたモノ」と言う評論を幾つか眼にしましたが、「でも、一人の人間として、大義の為に生き且つ死ぬ事は、誰が何と言おうが、素晴らしい」と、私は思って、そういう評論を書いた人を軽蔑するようになりました。

 そして、驚いたのは、日本人が最も好きな話だと言われる、忠臣蔵も、楠公さん由来の話だったとは知らず、戦後のGHQの焚書の目的が「天皇陛下を頂点とした日本精神の破壊」にあった事が、良く分りますね。 

 ですから、私は、NHKの太河ドラマで、「足利尊氏をやるのに、何故楠正成をやらないのだろう?」と言う、至極単純な疑問を持って居ましたが、楠正成と言う尊王の象徴的な人物に対する敬意を復活させる事で、戦前の国学の復活~国家神道の復活、を懼れて居たわけですね。 日本嫌いのロックフェラーのやりそうな事です。 

 処で、セオドア・ルーズベルト大統領の名前が上がって居ましたが、彼は、確かに小村寿太郎から教わった、忠臣蔵が大好きで、英訳した忠臣蔵を幾度も読み返す様な人で、勿論、親日家でしいたが、ポーツマス条約で、日本は戦勝国なのに、ロシアからの賠償を得られず、領土も従来曖昧だったものがハッキリしただけでしたから、小村全権は、帰国して国民に合わせる顔が無い思いだったでしょう。

 ですから、ロシアが持って居た満州利権だけは、我が物にし様と思って居ましたが、其処へ、満州の共同開発を初代ロックフェラー「=ビッグジョン」が、彼の成功の基である、「硫酸に拠る原油からのガソリン他の抽出法」と、「鉄道屋ハリマンと組んでの、原油産出地から、大消費地への運送」と言う手法を、「満州で、もう一度」と目論見を持って、小村全権に接触して来ましたが、ハザール系の金融屋、シフに大金を借りて居る日本ですから、小村は、「満州利権を盗られる」と判断、一蹴しました。

 此の事件を基に、セオドア氏の対日感情の、変化して、最後は反日だったそうです。 悲しい事ですが、金に振り回されて生きるのが、ハザール人の宿命なのでしょう。

 亦、ロックフェラー家の反日も、此の事由から始まり、2014年に3代目のディビッドが、死ぬ迄、日本を呪い続けて、現在のシナ・朝鮮人の反日の影の支援者でした。

 ディビッドの死が、現在の米支戦争の発端となって居る事を考えれば、ロックフェラーの失脚は、古いアメリカの終わりだと言えるでしょう。 新たに出発するには、古くて使い物にならなくなったモノを、捨て去る処から始まるのでしょう。

 でも、日本文明の底流に流れる精神は、数万年変わりが有りません。 其れは、公の為=自分や身内以外の顔も知らない運命共同体を形成する人々の為」に、自分の命を賭けると言う事です。 「誰かがやらねばならないが、遣れば命は無い」事が、環境に常在して居たからで、災害列島に棲んで来た、日本人に自然と培われた、自然に対する生き方だと思います。

 是は、江戸時代の、百姓一揆でも一揆を主催した「=一揆とは、暴動では無く、領地の管理者を飛び越した、幕府への直訴を行う為の寄合を云ったモノ」、御法度である直訴を、したモノも、それを計画したモノ「=連座したモノ」も、全員死罪と決まって居たから、一揆を起すのなら、農民側は、端から相当な犠牲を覚悟でやるわけですが、直訴されて終えば、管理者の武士も切腹ですからね。 刑死された方々は、地方の神社に、神として合祀されている場合が多い様です。

 この「死んで、生きる」と言う事ですが、この考えは、最新の科学である、遺伝子工学に中で、「遺伝子の利己的な振る舞い」と言う現象で、「或る、個体が生きて行くのに必須な状況で、その個体を形成するより小さな個体が、進んで犠牲になる事で、例えば、胎児の指を形作る際、必要なアポトーシスも惹き起こして居る。 

 つまり、遺伝子には、そのような命令・情報が組み込まれている」ワケです。 「死んで・生きる」のは、生物の、基本的な部分での性質・機能と同じで有る事に気が着きます。現象が、フラクタルに出来ている、とも言えましょう。

 最後に、西郷南洲翁は、云わずと知れた私の故郷の薩摩の英雄です。 彼の、気取らず、正直で、一つの目標達成の為に、全てを自分の命と引き換えにしても、成し遂げようと言う、その強く偉大な魂に、圧倒されます。

 然し彼が、覇道王であった事は一度も無く、譬え、罪人の身であっても、皆から好意を持たれ、尊敬され、そして、彼も亦、その中に溶け込めるダケの、幅を持った、王道を生きた人物だと思います。

 思えば、楠公さんも西郷さんも、武家とはいえ、出自は庶民だと言って良く、日本で持て囃されて居た、天皇の血筋等は、毛頭関係が有りません。 然し、その2人が、天皇の為に、命を惜しまない生き方をした事が、我々庶民の心に、大きく遺って居るのは、彼ら2人が護ろうとしたのは、実は公家や天皇と言った特定の個人や団体では無く、日本と言う、公だったからだと思います。 「公の為に死んで、生きる」生き方こそ、日本人です。

今日のテーマは、日本人になら理解出来るものですが、外国人にとっては、日本人が恐ろしく見えても仕方がないと思います。


>この楠木正成の峻烈な天皇への忠孝の志(こころざし)と死に臨んだ誓いは長く語り伝えられた。

楠木正成のことは子供の頃に見た映画を思い出します。
最後の湊川の戦いだけが映像の記憶であるのですが、何分にも子供の頃のことで、それ以上の記憶はありません。

ただ、成人してから楠木正成のことを知るにつれ、天皇への忠孝の志と、しを覚悟しての出陣には共感するものがありました。
これは、日本人が大東亜戦争において行った特別攻撃隊を知っているからで、世界でも日本人にしか理解出来ないものだと思います。


>幕府によって江戸を追放され赤穂藩に来た山鹿素行は、大石内蔵助らにその尊皇忠孝の教えを説いた。

江戸時代の忠臣蔵が、楠木正成に繋がっているとは、想像もしたことがなかったのですが、平和な江戸時代が強烈な尊皇に繋がっていたことに驚きを感じます。


>この幕末維新を経て、我が国は、国家の存亡をかけて日清、日露戦争そして大東亜戦争を戦う。

近年、日露戦争や大東亜戦争は国の危機と感じても、日清戦争はたいしたことがなく、楽勝だったとの感覚があるように思います。

しかし、日清戦争の前には世界で清国は大国であり、日本は維新を戦ったけれども、まだアジアの小国としか認識されず、日本自体も清国と戦うにどれだけの覚悟を、要したかを忘れられていることに懸念を覚えます。

当時の兵隊は、日本の歴史にない外地の戦争であることと、支那人の有利なときの残虐性を知っていたと思いますし、日清戦争での戦死者は、戊辰戦争の戦死者と並ぶものだったと考えますと、決して楽な戦争だったとは思えません。
ただ、その後の日露戦争での戦死が余りにも大過ぎたため、今の日本人にはそれが認識されないのだと思います。


>昭和二十年四月二十二日午前十時、台湾の桃園飛行場から若い十四名の陸軍特攻隊員が沖縄に特攻出撃した。

私が生まれたのは戦後ですから、特攻出撃をした費とは知りませんが、就職したときには、まだ特攻帰りの先輩がいました。
職場で揉めたとき、その人は「私は特攻帰りで、~」と口にしたことを覚えています。

命を無くす覚悟を経験をした人は、強いと思いました。
そんな人が終戦後には沢山いて、戦後日本の復興に努力されたのだと思いますが、占領軍は彼等が反乱を起こす可能性を消すのに必死だったし、そのために日本の歴史認識を無茶苦茶にしました。


>「日本人はかつて『西郷南洲』以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった」

西郷南洲の思想は、まだ理解出来ていません。
鹿児島育ちの人にとって、あれほど巨大な存在である人はいないと思うのですが、行動は知り得ても思想は分かりません。


>さらに、福島第一原発の爆発して破壊された灼熱の原子炉建屋の真上にホバリングして、 約四十トンの水を落とした二機の巨大ヘリCH47チヌークを世界が見た。

東日本大震災における日本人の行動は、日本人が国を愛し、国を信頼している姿が発露されたものだと思います。
考えてみれば、「我が身を危険にさらして何が仕事だ」と思って「全てを放り出して逃げるのが支那であり、日本人以外の行動なのだと思いますが、此処に掲載されているのは極一般の公務員なのです(しかも、結婚を控えた女性を含んでいるのです。)。

でも、そんな普通の公務員が、いざというときには死を賭けて職務に邁進するのが、日本人だと思います。
残念なのは、この災害の時の政府が在日・反日勢力であったことで、政府自体の幹部には命を賭け、責任を取る覚悟がありませんでした。

彼等は、部下であり配下の者には過酷な要求をしましたが、自分は安全な場所で、訳の分からない「ただちに影響ない」を繰り返していたのです。

私が尤も腹立たしく思うのは海江田万里で、彼は経済産業大臣であるに関わらず東京消防庁に対し、福島第一原子力発電所3号炉建物への放水活動を命じ、「速やかにやらなければ処分する」との圧力的発言をしたことです。

東京消防庁は東京都の部局で、東京都は総務省に東京消防庁は総務省消防庁に関係するのですから、東京消防庁に命じるのならば、当時総務大臣であった片山善博総務大臣が石原慎太郎東京都知事に命令し、石原都知事が東京消防庁にこれを命令することが順序なのです。

これを全部すっ飛ばして、経済産業大臣が東京消防庁に「速やかにならなければ処分する」との恫喝付きで命令してどうするのかと思いますし、片山総務大臣もこれを知っていたはずなので、海江田大臣に抗議をして、総務大臣から命令を出すべきでした。

危機管理が全く分かっていなかった政権だったと思っています。「簡単に命をかけてくる」と言うのは間違いで、「簡単に命を賭けさせる」のです。これは、南京城攻略戦において、国民党軍が逃げ込んだ南京城で一般市民に拉致に等しい徴兵を掛け、その兵隊を日本軍が進攻するトーチカの守備兵として、足に鎖を付けて逃げられないようにしてから、国民党軍が逃げるとの戦術をとったのと同じです。
ただし、日本人は「その無茶苦茶な命令をも完遂するという」類い希な気質を持っているだけです。

そして、この作戦のことを知った石原都知事は、後で消防隊に感謝されたのです。
石原都知事は、大戦中に米軍の戦闘機に機銃掃射をされており、危険について身を以て体験しているから、その危険性が理解出来たのです。

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