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2018年9月23日 (日)

これは世界最長の記録を持つ政治体制です

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

律令体制では、天皇の直下に「太政官、神祇官、弾正台」という三つの役所が置かれていました。

太政官は政治の意思決定機関であり、政治的意思決定の実行機能を持ちました。

その示達は、もちろん国司を使ったルートもありますが、主に神祇官がその機能を担っていました。

ーー

神祇官は、天皇の祭祀を所轄するとともに、全国の神社を統合する機能です。

神社には、民衆は氏子となって氏神(うじがみ)様のもとに必ず月に一度は集(つど)います。

そこで一緒に飯を食いながら、互いの交流をはかっていました。

全国の神社は、神祇官のもとに、全国の庶民への太政官の意思の示達と、民衆の状況をつぶさに天皇にあげることができた。

ーー

そして太政官、神祇官がちゃんと機能しているのかをしらべ、必要があれば武力を用いてでも太政官、神祇官の不埒を排除する役割を担っていたのが弾正台です。

歴史上、この弾正台が動いて、太政官を滅ぼしたといった事件は、幸いにしてひとつも起きていません。

そのため、いまではまるで弾正台がなかったもののように言われることが多いのです。

それは大きな間違いで、弾正台がしっかりと機能していたからこそ、弾正台が動くまでに事態が至らなかったのです。

ーー

日本は17条憲法の第11条にあるような明察功過(功績と過誤をはっきり見抜きなさい)の国。

つまり事件や事故が起きてから動くのではなく、事件や事故が起こる前に、先に察して手を打つ国であったことを忘れてはなりません。

いまでも刑事ドラマなどでは、捜査官が正義のために必死で動く姿が放映されます。

ーー

明治以降の警察という肩書以上に、弾正というのは、その当事者にものすごく影響を与えた肩書でした。

ひとたび弾正を拝命したならば、その生涯は「正す司(ただすつかさ、不条理を正す役職)」にのみ尽くされる。

そのような誇りと自負を弾正の家系(例えば織田信長の家系)は持つことになったのです。

信長は「織田弾正忠、平信長」と名乗っています。

ーー

いまの日本は三権分立といいますが、たとえば国会議員や行政の閣僚には原則として司法権が及びません。

いわゆる議員特権というものです。

そのために、明らかに人心を惑わすような不埒な者が、特定の利権者達の代表となって議会を壟断(ろうだん)している。

そして正常な立法府運営を妨げていることは、さまざまな事実が示す通りです。

ーー

政治は、国の悪さを明らかにするところだとか、国民の代表だとか、さまざまなことがもっともらしく言われています。

しかし、悪さを明らかにされなければならないのは、国会議員そのものでしょう。

議員が選挙による以上、議員は特定利権者の代表とならざるを得ません。

ーー

権力行使には、必ず責任が伴います。

その責任を負うという仕組みがなければ、議員が悪さをするのを防ぐことはできない。

ーー

そこでメディアが登場するのです。

メディアが議員の悪さを報道することで、選挙民にそれが知られ、議員でいられなくなる(選挙されなくなる)。

これがメディアの第4の権力ともいわれた機能でした。

ところが、日本のメディアは、野党議員の悪さを報道しない。

これでは、悪さをする議員に責任を取らせることができない。

ーー

これに対し律令制度下では、意思決定者は、同時に責任を負う者でした。

ーー

太政大臣は、天皇によって親任される。

天皇が退位され、次の天皇が即位されたとき、その太政大臣が再び親任されるかは、それは新しい天皇の意思に基づきます。

多くの天皇が、きわめて短期間でご退位されています。

それは、政治体制を一新するのに必要なことであったからです。

ーー

もちろんこうした体制が、摂関政治によって崩れて失われたという人もいますが、それもまた違うと思います。

ーー

律令体制が構築されたのは645年の大化の改新を起点として良いと思いますが、その体制が廃止になったのは、明治18(1886)年です。

つまり律令体制は1240年も続けられたのです。

これは世界最長の記録を持つ政治体制です。

ーー

もちろん律令体制の中身は、貴族政治の時代から武家政治の時代へと変遷しました。

しかし摂関政治といっても、それは律令体制の部分変形にすぎないし、武家政治といっても、将軍はそもそも左大臣か右大臣です。

秀吉に至っては関白太政大臣です。

ーー

要するに律令体制は維持されていたのです。

ーー

ではなぜ摂関家政治の時代になったり、あるいは武家の台頭による将軍体制になったりと変遷したのか。

それは、神社の氏子となるだけだった国内に、新たに仏教寺院に人々が信者として属すという、それまでの日本にない仕組みが生まれたことによります。

ーー

要するに実態に合わせて、律令体制に必要な改良を施しながら、日本はなんと1240年も、ひとつの政治体制を保持してきたのです。

問題はその結果です。

その結果が人々の生活の豊かさを奪い、安全や安心を脅かすものであっのなら、それは本来、あってはならない体制ということができます。

ーー

けれど千年以上続いた律令体制によって生まれたのは、以下です。

平安時代の平和と繁栄
鎌倉時代の剛勇
室町の経済的繁栄
戦国時代の地方経済の発展
江戸時代の全国規模の平和と繁栄と高い民度

ーー

この政治体制が、世襲によって行われていたという一点をもって、否定する人たちがいます。

しかし、これもまた大きな間違いです。

なぜなら世襲は、あくまでも「私を捨てる、責任を取る」ためのものであったからです。

ーー

公家であれ、武士であれ、何かあったら責任を負うのです。

ーー

町奉行であれば、所轄内に不祥事があれば、その責任をとって腹を切ります。

大名であっても、藩内に不祥事があれば、藩はお取り潰しになり、大名は切腹です。

そして自ら腹を切るという行為は、生まれたときから、そうしなければならないという教育を徹底して施された。

また代々、そのことを名誉と考える血統がなければ、なかなかできることではないのです。

その証拠に、現代政治において、現実に腹を切った政治家は、誰一人いません。

ーー

古代の律令体制を、ただ古いものだからいけないものだったとか、あたかも不出来なものであったように考えて、ただやみくもに否定する人たちがいます。

ーー

しかし、たとえば企業の支店の経営なら、支店長が代わって3ヶ月経つと、だいたいその支店の業績結果の傾向が現れる。

半年経つとその成果業績ははっきりとした数字になって現れます。

つまり支店長が代わって半年経って、支店の業績が下降傾向となるなら、その支店は、その後は何年経っても、業績は下がる一方となります。

逆に上昇傾向なら、その支店の業績は、その後3年間、上がり続けます。

このことは、部下に優秀な人がいるとかいないとかの問題ではなく、要するに支店長の力量による影響です。

ーー

同様に県や市町村でも、県長や市長が変わると、地方行政が変わるのと同じです。

国の場合は、全体の消費行動になりますので、もう少し時間がかかります。

が、それでも3年経つと傾向が明らかに出始め、6年経つとその結果が明確に出るようになります。

首相というのは、それだけ責任が重いものです。

ーー

にもかかわらず、責任を負わない長、あるいは責任を問えないような政治体制(民衆政治)を、あたかも人類普遍の絶対の政治体制のように考えることはおかしなことです。

ーー

現実に、米国は、日本に原爆を二発も落として何十万人もの民間人を殺戮した。

現在の日本の政治体制では、その責任を問えないのです。

あるいは共産支那では、人民を億単位で殺しまくっていながら、その殺人鬼を英雄として称えている。

このような共産主義体制は、いわば癌細胞のようなもので、自己の増殖(利益)のために正常細胞(人民)を殺すのです。

20世紀の世界のメディアは、そんな共産主義体制を、理想化し讃えてきたわけです。

ーー

古いから良いという気はありません。

そうではなく、古いものにも時代に耐えてきた良さがあるということです。

古いものの良さを学ぶことで、より良い未来を築いていくことこそが大切なのではないかと思います。

日本は次のような国なのです。

3万年前の磨製石器の時代から神語(かむがた)りを語り継ぎ、
1万4千年の縄文時代を生き継ぎ、
3千年の弥生時代を生き、
1千年以上もの間・律令体制を保持してきた

それだけの生き延びた体制というのは、それなりに尊重され、学び直されても良いものであるように思うのです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難う御座います。
>>新たな支持を得る政体は、人類史上最善のものか?
 通読して看て感じたのは、↑の疑問でした。 1200有余年続いた、日本の律令体制の三権分立制度「=太政官、神祇官、弾正台」のバランスの良さが、1200年もの間、変遷した日本の社会で支持されたのは、是に替わる考え(idea)が、生まれなかったのではなく、この政体を上回るものが無かったからだと考える方が正しいと思います。

 例えば、宗教と言う、其れまでの日本社会には無かったモノが、輸入されたのは、律令体制が発足してすぐの事だった。 17条の憲法を書いた聖徳太子は、一方では、熱心な仏教の布教者だった。

 但し、釈尊がブッダ「=目覚めた人」が説いた教えが、仏教だし、釈尊の教えは、彼の説法の口伝だけで、後世に遺る様な書物は一切遺して居ないのだから、その上、後世、仏教を宗教足しめた布教も、釈尊のモノは、信者を増やす事が目的ではなく、純粋に「無償の愛」を実践して見せたダケだと考える事が出来ます。

 後世の様に、信者を率いて悪政を打倒する様な、弾正台に代わって「正義を行う」、多くの犠牲者を伴う事が、端から分って居る行動の基になる「=宗教的行動を惹起するモノ」になる等、釈尊は考えたくも無い事だったでしょう。

 然し、釈尊は人間だから、永遠の命など持ちようがない、其れに、世界に9億人の信者を持つまでに拡散したのです。 ダカラ、釈尊は、後世の賢者たちを信頼して「教えの解釈は自由」としたのでしょうが、聖徳太子が目指した「仏一途の仏国土」とは、具体的に如何なるものであったか、尤も、太子は、仏教も神道も、宗教だとは、全く思ってなかったのは確かです。

 この2つの自然の法則に根差した教えを、宗教として利用したのは、後世の人間が、「その時代に必要だから」行った事でしょう。 争いは、人間の生存慾が様々に変化しても、発動するからには、決して、「衣食足って礼節を知る」と言う儒京の現実的な、考えも、底が浅いとs化いいようがりません。

 日本において、宗教を手段として世の中を改変しようとした行為の例を挙げますと、比叡山延暦寺や興福寺は、長引く戦乱に、生存権を発動された民衆「=信者」の希望の依代であったのだから、律令体制に代わる政体が、計画されて居たとしてもおかしくない。 律令体制確立以来、凡そ、700年の時を隔てて、聖徳太子の「仏一途の仏国土」の理想は、太子が思い描いて居なかった形で、実現しそうだったのでしょう。 

 他にも、近畿、東海、北陸と広範に亘った、一向一揆などは、あちこちに一揆「=この時代では暴動」を広げ、戦国大名は、その鎮圧に追われています。  実際に、山城の国「=今の大阪、京都、奈良を跨ぐ地域」を、凡そ100年に亘って、一揆衆が占領・支配して居たと言う記録が有りますが、後世に何も影響を遺せなかったのは、信長の所為か、将又、内部崩壊の所為かは定かではありません。

 この様に、仏教勢力の指揮による信者の結束は、律令体制の最大に危機であったと思います。 是に、信長が、台頭する仏教勢力を「毒には毒を以て制する」つもりで、布教を看過したイエズス会によるキリスト教は、実は日本への侵略の手段で有った事に、信長の後継の秀吉や家康が気付き、禁教を行ったから、つまりは「火消が早かったから」大火に成らずに済んだ面が大きいと思います。

 何にせよ、宗教は元々、日本文明には無いモノですから、扱い方が分らなかったと言うべきでしょう。 鎌倉幕府が、「現世利益を説く」日蓮に行った弾圧は、仏教を宗教化したものだと言う事に気付き、押さえ込もうとした施策の一端であると、私は思います。

 こうした現代の3大宗教の裡、2つの宗教の浸透・感化に拠る内乱と言った治験を通しても、律令体制は護り抜かれましたが、西欧列強のアジア侵略に拠って、俄かに、国防と言う観点が、最重要課題として浮上して、知見有る国民層は、上から下まで、その脅威に対する、最適な政体を考え、皆が、情報を欲しがりました。

 総合的に考えて、西洋の侵略を食い止めるには、国内向けに考案された律令体制では、外国の調略に対応が難しい点が続出して、亦、幕藩体制における弾正台の権限だけでは、外国の勢力に雄藩の力が加算した場合、日本の国土を安寧に保ち得ない現実に気付いた幕府は、大政を天子に奉還します(1867)

 この後、2つの雄藩が担いだのは天子でしたが、其れまでの天子の立場であった、権力者の上に、権威者として君臨するが、その現実的な仕事は、様々な「勅許」を、事務的に発行する機関だったのでした。 然し、西欧列強の軍事的脅威に伍するに、西洋の専制王の様に、国の中心に皇帝が座し、国家・国民の中心としての機能・権限が、与えられたのでした。

 然し、この辺り、未来に起きる事態の想定が不十分であった事が、後の「統帥権の干犯」問題につながって終うのでしたが、維新に拠る急激な変化に対応するのが、精一杯だった政府に、50年以上先の事を見通せなった事を責めるのは、余りに酷だと思います。

 然し私は思うに、この後に日本に登場した共産主義は、主に西洋の情報を得やすい、日本の上層の知識人の間に蔓延して居ました。 彼らには、1200年の律令体制を失った事で生じたストレス、或いは、日本が否応なしに世界の1等国を目指して突き進む上での不安感を、例えば、戦国時代の不安定な民衆心理が、仏教を宗教化させたように、共産主義に求めた人が多かった様に思います。 そして、其れは、実際に陛下の襲撃や暗殺未遂と言う形で具現化しました。

 第二次世界大戦を、俯瞰して看れば、ヤルタ会談の有名な写真に写って居る、3人の巨頭の裡、英国のチャーチル以外は、何れも共産主義者のスターリンとFDRなのですから、表向きの「自由主義者と全体主義者の戦い」は、完全なデマゴギーに過ぎず、実際は、共産主義者が世界制覇の為に、巻き起こした戦争であった事が分ります。

 然も、全体主義の枢軸側とされた日本の内部にも、相当な割合で、国家の指導者から戦争の指揮者に至る迄、共産主義に汚染・蚕食されていた事実が、今も隠蔽されて居ます。

 つまり、政体改新を伴うような、新たな政治思想は、まるで宗教の様に、人々を魅了すると言う事です。 然し、その結果は、施行してみなくては、その好し悪しも、判じ得ないのですが、政体の改新は、現実には革命であり、具体的には、内乱、戦争と言う、殺人と破壊行為を伴うのですから、おいそれと、実験して看るべきではありません。

 事実、共産主義は、20世紀に凡そ、1億人の命を奪ったと言われて居ますが、それでも、共産主義に魅入られ続ける人々が未だに居るのは、如何に、自分の感性を客観に繋げて比較できない人が多いか、を表していると思います。 何かを絶対善と置く事は、信仰に等しいのですから、熱心になればなる程、視野狭窄に陥り、狂信的になるのです。

 この先、共産主義に代わる様な思想が、何れ現れて来るでしょうが、人類は、先ず正しい歴史を知って、「新しいカラ良い」のではなく、長い年月をかけて、そのアイデアの基になった考えや政体が、時代に併せて絶えず変革・改善を行って来たか、時代への親和性を徒r柔軟性が有ったか、或いは、外乱に対する靭性が「有る、無し」はどうなのか、と言うあらゆる、検証を基準とするべきでしょう。 

 如何に、目先の事象に関して、正しく不可欠な思想・理念の様に思えても、政体の改変には、共産主義や宗教の様に、多くの犠牲者を伴う事を忘れてはいけません。

 科学の著しい発展に拠って、様々な便利や新たな世界を手にした人類ですが、この先、目指して居るのは、古の釈尊が目指したように、人々の「安寧な毎日」であり、その実現には、相互扶助の精神、独立不羈の精神が各々に求められているのは、普遍的な事です。

 新たな、未経験の思想を試すよりも、先ずは、この神が人類に与えし、宿題を達成するに、現状、何が障害になって居るか、を見抜き、人類は、そうした障害を齎すものと戦い続けねばならないのですが、是は、100年しか生きられない人間の宿命です。

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