自分を愛するには、それを肯定してくれる他人が必要なのです
9月2日に「聲の形」が再放送されました。
ご覧になりましたか。
もう感動に次ぐ感動で、おそらくこれからも評価が高まっていく作品であろうと思います。
それでネタバレがありますが、その作品の深い内容を解説している人がいましたので紹介します。
ーー以下「しのの雑文部屋」より抜粋編集
作者は完璧な善人に近い者として硝子を登場させる。
しかも、会話できない状態で。
硝子が善なる存在であることは、我々読者(観客)にはわかる。
ーー
ところが、ある行動が善なのか、偽善なのかは、それを見る人が判断している。
「この行動は善、この行動は偽善」などとは決まってはいない。
つまり行動について、受け手がどう判断するかが問題だということになります。
ーー
『聲の形』の中ではそのことはどう表現されているのか。
ーー
主人公の将也は、観客ではなく当事者であり、硝子と対応した結果「硝子は偽善者である」との判断を下す。
将也は硝子に「お前怒ってるんだろ?(怒れよ)」「何言ってんのかわかんねーよ!」「気持ち悪い」という。
それは、互いに会話することができず、良い関係性が築けなかったことが原因だった。
ーー
結絃(ゆずる)の場合もそうです。
結絃は硝子の妹で有り、身近に硝子を見ていて、硝子が将也にいじめられ自殺しようとしたのを知っている。
ところが硝子と喧嘩して家出していたところを偶然・将也に助けられた。
ーー
将也が5年後に「自殺する前に謝っておきたい」という自分の都合で硝子の前に現れた。
将也は、美しい娘に成長した硝子を見て、手話で「友達になりたい」といってしまう。
その将也の行為を結絃は偽善だとみなす。
そして、「それで真人間にでもなったつもりなのか」と批判する。
ーー
すると将也は、「俺は最低の人間なんだ、本当は生きていてはダメな人間なんだ、だだ西宮の涙をこれ以上見たくないんだ」という。
結絃が硝子の彼氏だと説明していたのを受けて、「俺は2たりの中を邪魔するつもりはないから」ともいう。
ーー
結絃の家近くまで送っていくと、結絃は自分が硝子の妹であると告げる。
その時、結絃を探していた母親は、結絃と将也を見つけ、将也のもとに近づくと思い切り平手打ちをする。
結絃は、黙って叩かれている将也を見て、これまで抱いていた評価を変える。
ーー
結絃は祖母が「他人のことを、自分のためにやること」と言っていたのを思い出す。
他人のためになにかをするときの動機とは、得てしてそういうものなのだ。
ひょっとすると将也の行為は、本当に硝子のためになりたいという純粋な気持ちからきているのかもしれない。
ーー
つまり、「偽善」の問題すらも、「相手を自分勝手に解釈」した結果起きているということです。
ーー
例えば、植野の「今でも私はあんた(西宮)が嫌いだし、あんたも私が嫌い」という宣言。
橋で将也が友達の面々に吐き捨てた言葉。
どれも、相手のことを自分勝手に解釈し、決めつけてしまっている台詞(せりふ)なのです。
ーー
誰しも相手の真意を間違える。
それは、誰しもがその時々の感情に流されたり、経験不足で相手の立場を理解できなかったりするからです。
将也は間違った会話をしたり、会話するのを諦めたりします。
植野は障害の有無に関係なく相手に自分の思いを伝えようとします。
川井は自分が正しいと他者から思われないと気が済まない。
佐原は優しいが、周りの人々の顔色を見てその優しさを貫く勇気がない。
硝子は相手を傷つけまいとして自己犠牲を選んだり、愛想笑いで丸く収めようとしたりする。
どれもこれも現実にみられる人物像で、読者(観客)の誰もが持ち合わせている。
だから、登場人物のうち誰かを非難しようとすると、その非難がそのまま自分に返ってくる。
ーー
自分の存在は将也を不幸にすると考えた硝子は自宅のマンションベランダから飛び降りる。
それを助けようとして将也が代わりに転落して、昏睡状態になる。
将也を小学校時代から好きだった植野は、硝子に対して「テメーの頭ん中でしか物事を考えられないやつが一番キライなんだよ!」と言い放ちます。
ーー
「自分の頭でしか物事を考えられない」、これは人であればだれもに当てはまる。
我々は、自分の頭でしか物事を考えられないからです。
そして自分勝手に物事を決めつけてしまう。
ーー
自分だったら怒るから、相手も怒っていると思ってしまう。
自分だったら嫌いになるから、相手も自分を嫌ってると思ってしまう。
この物語は、そのような人間の関係の仕方を繰り返し描いている。
ーー
「自分の頭でしか」物事を考えないでいるとどうなるか。
つまり会話を拒絶していると、例えば自分のことが嫌いになったとき、その人は自殺を選んでしまう。
自分のことが嫌いになったとき、自分を肯定してくれる人が誰もいないのは、恐ろしいことなのです。
我々はそれを回避するために、他者と会話している。
それが「聲の形」の主張なのです。
ーー
川井は「自分のダメなところも愛して、進んでいかなくちゃ」と言います。
しかし、自分を愛するためには、それを肯定してくれる他人が必要なのです。
ーー
映画の最後の場面で、将也と硝子の2たりは水門橋で会う。
将也の硝子に会いたいという思いと、硝子の将也に死なないでいてほしいという思いが通じたのです。
そこで2たりは会い話し合う。
そして将也は、「君(硝子)に、生きるのを手伝ってほしい」という。
硝子は手伝うと約束する。
ーー
将也の言葉は、まさに「自分を肯定してくれる他人の必要性」を表現している。
ーー
「肯定してくれる他人」を得た将也は、ずっと下に向けていた顔を上げ、耳を覆っていた手を離します。
そう、これはまさに、会話をする第一歩です。
その瞬間、道行く人の声が聞こえはじめ、顔に印されたバツ印がとれます。
ーー
将也は、相手が自分のことをどう思っているか、何を考えているかということを自分勝手に解釈するのを止める。
このとき彼の耳に入ってきた声は、決して全てが良いものではなかった。
注意して聴くと、「よく学校来れるよな」という声も混じっていた。
しかし、将也は良いことも、悪いことも、どんな形の「声」であろうと、全て受け止める決意をしたわけです。
ーー
登場人物たちの欠点が消え去ることはこれから先もないでしょう。
植野は、自分勝手に判断してそれを言わずにはおれないし、川井の自分が良い子になろうとする行動も変わらない。
硝子もすぐに謝ってしまう。
ーー
しかし、すぐに謝る癖の抜けない硝子に対し、植野はこう言います、「まぁ、それがアンタか」と。
つまり、彼女はあれだけ嫌っていた硝子の人間的欠点を許し、一人の人間として認めたのです。
会話を繰り返すことで相手を理解することができた。
ここに救いがあるわけです。
ーー
「聲の形」は、会話を交わすことで、相手を深く傷つけることがあることを描き、それでもなお相手を知ろうとして会話することが大切だと観客に感じさせてくれる。
一度壊れたものは、それを壊したものによって再び取り戻せる。
顔を上げ、人の声を聞く。
このものすごく簡単な行動こそが、相手を傷つけ、自分も傷ついたときに「希望をもたらす」のだと。
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コメント
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縦椅子様
今日も感動的な素晴らしいブログ有難うございます
≪誰しも相手の真意を間違える。≫という命題を深く突き詰めたのが、「聲の形」の真意であるということをしらしめてくださり、人間関係を表層で見ていた自分を振り返っております。
9月2日の再放送で、≪将也は、「俺は最低の人間なんだ、本当は生きていてはダメな人間なんだ、だだ西宮の涙をこれ以上見たくないんだ」と≫と猛省し、手話教室にかよっつたり、何度も拒絶されても関係を修復しようとする強い気持ちに、心を動かされました。
紆余曲折の後 ≪最後に橋で2たりすねは会い話し合う。将也は、ずっと下に向けていた顔を上げ、耳を覆っていた手を離します。その瞬間、道行く人の声が聞こえはじめ、顔に印されたバツ印がとれます。≫ーー最初見たとき、バツ印がどういう意味かわかりませんでした。将也が心を閉ざして、真の声を聞こうとしなかったから、バツ印がついていたのですね。奥深い作品ですね。
≪「自分の頭でしか物事を考えられない」を繰り返しているとどうなるか。会話することの拒絶であり、すなわち自殺なのです。自分のことが嫌いになったとき、自分を肯定してくれる人が誰もいないのは、恐ろしいことです。 我々はそれを回避するために、他者と会話している。それが「聲の形」の主張なのです。≫≪一度壊れたものは、それを壊したものによって再び取り戻せる。≫を戦い抜いた将也の顔は明るく希望にみちています。≪顔を上げ、人の声を聞く。≫は会話の鉄則です。私は憶測で物事を判断し、ご迷惑をお掛け致しているようで申し訳なく思っております。この悪癖をなくすよう「顔を上げ、人の話を聞く」を励行したいと思います。よろしくお願いいたします。
投稿: ばら | 2018年9月 6日 (木) 09時42分
>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>心の壁、人間同士が分り合うには
弱視・難聴の私には、基本、チャンネル権が無いのでww その放送は見て居ません。 残念。 でも、ダイジェストして戴いたお蔭で、内容の主旨が、やっとわかり始めました、要は、主題は、「いじめ」では無く、人間同士に存在する、「心の壁」「言葉の壁」だったわけですね。
確かに、言葉を交わして居ても、自分が云い放った言葉では、自分の考えや感情を上手く伝えられない事は、幾らでも有ります。 特に言葉による表現方法が稚拙な、小学校の低学年の頃は勿論、中学生、高校生になっても、自分の真意を、言葉だけで相手に伝えるには、難渋しました。 自分の意思を¥伝えられるようになったには、40前で、それも仕事が、現状をより具に、数字を使って表現する手法を覚えたからだったと思います。
でも、歳を重ねれば重ねる程、自己表現に、相手と共有するより多くのボキャブラリーが必要になりましたが、是は、社会経験を経るごとに、伝えたい事が多くなり、且つ、深化するし、複雑化するからでしょう。 でも現場管理の仕事をした事で、その場に居ない人に、如何に現場・現状を再現する表現が出来るか、と言う、仕事を通じた訓練は大きかったですね、是で、悩みが半分に減りましたからね。
中々相手に伝わらない現象に突当ると、伝わらないもどかしさから、表現できて居ない所為でも有るのを、棚に上げて、つい怒鳴ったり、決め付けて看たりして、相手を傷つけてしまう事が有りました。
唯、云われて傷つく方が多かったので、誰かに酷い事を云って、傷つけたのか覚えて居ませんがね。 其れに云った事は端から消えて行くので、書いた事よりも残らず、云われて傷ついた方ばかりを覚えて居る場合が多いですね。
上手く伝わらないのは、基本的に我々は、違う個体だからで、固より限界があります。 然も、個体は常に変化・進化を続けて居るのですから、共感し、深く分り合えたと思って居た友人も、違った環境に置かれ時を経れば、共感した事すら、思いだせなくなって終う。 然し、人間は今を生きて居るので、昔の事は順々に忘れて行かねば、新たなものは、入ってきません。 謂わば、忘却も進化の一形態だと思う事にして居ますwww。
唯、何れ忘れ去られる存在だとしても、相手と共感して、トコトン分り合う経験は、人間の一生でそんなに度々あるものではありません。
何故なら、基本、人間は自身の姿を知るには、他人を必要とします。 背が高いだの、太って居るだの、顔が整って居るだのと言う視覚的な認識も、他人との比較であるし、世の実効的な評価は、他人の目を通した自分だったりしますから、一番自分を知らないのは、往々にして自分自身だったりします。
すると、特定の他人ではありますが、客観的に見える自分の姿、主観的に見た自分の評価迄、突っ込んで、訊き出す。 それがお互いの関係を通して、言葉だけでなく、「肚を割って」分り合えた時、双方が得難い友人を見出したと言えるでしょうね。
でも、其れは、彼の評価を自身が、全部受け容れる事が出来た場合のみで、相性が悪かったり、我が強かったりすれば、中には、深刻な喧嘩や対立に、発展する場合もあります。
人類は、世界の75億人前後も居るのに、一生を通して、斯うして分り合える人に出遭えるか如何かすら、判りません。 寂しい話です。
その原因は、自分を分ってほしいと言う、原欲求が確かにあるのに、自分自身が自身を客観的に分って居ない事を筆頭に、大抵の場合、端的な事象でさえ、相手にわからせるには不十分な事です。 ダカラ、同じ環境に居る近しい間柄程、口喧嘩もするし、伝わらないもどかしさから、暴力の行使に至ったりする。
暴力になると、恐怖感や殴られた痛さが、其れまでの相手への思いを吹き飛ばして終い、「兎に角、関わりたくない」と思い始める、或いは、そういう兆しも察知できる様になる、すると、どんどん、自分は周囲に対して閉鎖的になり、孤独化する。
孤独かすれば、原欲求が自分を苦しめ始めるわけで、「自分は、他人とコミュニケーションが取れない、ダメな奴だ」と評価されているのだとか、「その能力が劣って居るか、元々ないんだ」と、ネガティブに落ち込んでしまう。 そんな葛藤を抱えて居るとは思わず、只、人並みでは無い事を咎める、肉親に、暴力を振るう様になる。
実は、私も通った道ですが、幸いにも、当時は学校の寮で暮らして居た為に、周りから孤立しただけで、親や身内を自含む人には、暴力は揮って居ません。 是は、幸運な事だ。と思って居ます。
でも私は、数人の人々に、孤独な生活から救い出してもらいました。 不思議な事に、そういう人々は、皆さんB型で、一時は、話し相手になる友人は、全部B型だった事が有りました。B型は、「考え方が独特で、自分主義な処が有るが、その分、人に親切で面倒見が良い」と、云う話ですが、皆さんその類型に当てはまる人ばかりでしたね。 唯、B型同志は、余り仲良くない迄、当たっていましたがね。ww
私はA型ですので、相性から言えば、私が相手の意見に圧倒されるパターンの様ですが、確かにそう言う傾向にありましたが、私が黙って聞いて居ると、意見を求めて来るので、思って居た事を一気呵成に喋ると、面食らった様な顔になって、始めて会話がスタートすると言う具合でしたが、私は、A型やO型の人と話すより、常識に囚われない分、楽でしたね。唯、高齢になってから、そうした人たちとは、全部縁が薄くなって、今は、元の孤独な生活に戻っています(笑)。
人間は、等身大の自分を知って、認めてくれる人がいると、その人と居れば安心です、其れは、自分が「らしくない」事をした時に、注意をしてくれると言う確信が有るからで、「外付けの自己補正装置」wとして依存して、頼りにして居るわけです。 大抵は、伴侶でしょうね。
高齢者ばかりの人工透析の現場で、看護助手のアルバイトをして居る女房の言に拠れば、「ボケて居て、難しい人だけど、奧さんの話をすると顔が途端に輝いて、奥さんを褒めると嬉しそうにして居る」と言う話を何回か聞きました。人間って、特に男は、自分が築いて来たモノが、全て、対社会、外界ばかりで、内側の世界での自己表現は稚拙なママの人が多いと云う事なのかも、しれませんね
投稿: ナポレオン・ソロ | 2018年9月 6日 (木) 10時21分