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2018年8月31日 (金)

年を取れば「自分が知って居る人も自分を知って居る人も、次第に消えて行く」

障碍を持つ子供がいじめられた。

いじめを受けた人物、いじめた人物とそれを許した人々、それぞれの人生に影響していく。

「聲の形」はそれを丁寧に物語にしたものである。

ーー

ある人は、いじめについて口を極めて非難し、ある人は作者が描く子供が大人になっていく過程を楽しむ。

もちろん作者は後者を意図しているのだと思われる。

それで要約を書くにあたっては、子供が成長し、他者を認め、自分より大切なものを見出していく過程を描いた。

ーー

しかしやはり、いじめという問題行動の方が、話題とされたようだ。

(要約が下手糞だったこともありますが)

ソロさんは自分のいじめについて、いじめに堂々と対処したという、その武勇伝を披歴された。

そして年を取れば「自分が知って居る人も自分を知って居る人も、次第に消えて行く」と、しみじみと書かれた。

バラさんは、秘密にしておきたい「いじめにあった体験」を披歴し、その対策は逃げることだとされた。

ポッポさんは、いじめられた経験からそれはやはり許されないと書かれている。

ーー

ソロです。

歳を取って、「異性の気持ち」を、変な思い入れで慮(おもんばか)ることが無くなった。

そして相手に良く見せようと言う気持ちも無くなった。  

私は宗教団体(崇教真光)に属して居ますので、月初めには、信者「組み手」の集まりが有ります。

年寄の女性が多いので、気を張らずに済みます。

が、やはり、年を取れば、「自分が知って居る人も自分を知って居る人も、次第に消えて行く」と感じて、このところ、寂しい気持ちが止まりません。

ーー

ポッポです。

子供の1日は長いから永遠のように思うでしょう。

けれど、人生80年の時代です。

その人生に比べれば子供の頃の時間は、そんなに長いものではありません。

ーー

ただ、虐められているときには、無理に学校に行く必要はないと思います。

「しんどい」と思ったときには休めば良いのです。

大人だって息抜きをするのですから、子供だって必死になって学校に行く必要はないと思います。

ーー

そして、学年末のクラス替えや中学・高校への進学。

これらが、虐める連中と別れるチャンスです。

これらを最大限に生かせば良いと思います。

そのためには、学力を上げることだと思います。

ーー

私は、十年後、二十年後に虐めたやつに会いました。

その時にはもう仕返しをして犯罪者になる気にはなれませんでした。

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映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>人間にとっての時間
 本を読まれた感動を読者と共有したくて、「言葉の形」をご紹介されたのでしょうが、受け手の我々のこの本が提起している問題の捉え方が、経験に拠って様々なのは、寧ろ当然ですが、其れで、今日の掲題の「老いる事の現実」を嘆く言葉を挙げられているのは、縦椅子様の方に何かあったのかなぁと、私の勘ぐりの虫が起きて居ます。ww

 人は、幾ら大切な人であろうと、何れは、死別しなくてはならない宿命を背負って居ます。 最近、そのような経験を為さったのではないのかなと、勝手に想像してしまいました。

 折角、お題に取り上げて下さったので、今日は、「時の無常」について、考えを述べて看たいと思います。 このフ、」レーズは、もぅ十数年前に93歳で亡くなった、女房の御祖母様が、生前、述懐されて居た事です、誰かが云った名言でもなんでもなく、只、彼女が感じて居る現実を、そのままに短い言葉で言い表したものだけに、貴重だなととその時思い、時々思い出して居ます。
 
 それにしても、正に「光陰矢の如し」で、「早く、強い大人になりたい」と願って居た、小学生の私も、60歳半端を過ぎ、人生の終わりを待って居る様な生活を続けて居ます。

 時間は、時に色んな辛い事や、中には憎悪の炎を消してくれる有り難いものですが、その本質は、時に応じて変化する無常なモノで、残酷な面を持って居ます。 私も、未だ御婆ちゃん程では無いにせよ、多くの大事な人を失って来ました。 特に若い人は、死にたくないと言う残念な気持ちが、伝わってきましたから、尚の事哀れでした。

 この前、ある女性のブログで、1枚の雑草の花が掲って居ましたが、掲題が「正義とは何か」でしたから、「種を存続させる事」は、人間を含む動植物にとっての基本的な正義だが、動植物の違いは、主に、その種が持って居る「許された生の時間」の違いで、で区別されている。と、回答しました。

 命の長さを「人間百年、木は千年、山は万年」と申します。 然し、掲って居る雑草の花は、1年にも満たない人間の一生に比べれば、僅かな時間の命でしかないのですから、人の100年足らずの命も、木や山から見れば、あっと言う間の儚いモノでしょう。

 然し花は、何万年も何百万年も、命を未来の繋ごうとする試みを繰り返して居ます。 結局、我々人類も、この一輪の花の命と同じで、全て、この「種の保存」の法則に則って、「種の永遠の保存」に、挑戦を繰り返して居ると、見做せないだろうか。 命と時間の関係と言うのは、他の生物から見れば,永かろうが短かろうが、その生物個々に取っては一生なんだなぁ、と思うのです。

 ダカラ、釈尊は、例えば、野辺の一輪の花に憐れみを感じる、その無償の愛こそが、愛の本質であり、発心「=仏の途に目覚める契機」であり、己を覚者「=ブッダ」に近づける、と説いておられます。

 宗教、特に仏教系は、西洋の一神教とは、根本的に違って、原初の此の世づくりの事を多く語りません。 仏教は己の中に宇宙を仮想して、現実の宇宙を類推して行く、非常に科学的なもので、民族宗教を加工しただけの西洋にインチキ宗教とは基本的に次元が違いますが、惜しむらくは、其処には、絶対神が居ない事です。

 是では、限界的な環境故に、生存慾だけで生きて居る人類の7割以上を占める人々を導く事は、出来ませんね、彼らには祖の生存慾すら押さえ込む強大な力の持主が必要だからです。

 仏教は基本的に、釈尊が「解釈自由」とした所為で、後世の賢人たちが「如是我聞「=私はこう聞いた」を手始めに、色んな付加や、推論を基にした異論を立てて、仏教は宗教なのか哲学なのかもわから無くなっていますが、私は、真の仏教は、科学だと思って居ます。

 今年亡くなった、英国のスティーブン・ホーキング博士は、量子論の中で、極小の世界二は、次元跳躍「=異次元を通る≒ワープ」が起こって居る、つまり、我々が三次元と認識しているこの空間も、そして、時間も絶対のものでは無く、相対的な現象に過ぎない、と言っておられました。

 すると、此の次元では、「質量を持ったものは、光速を超える速度は出せない」事が真理でも。次元跳躍すれば、瞬間移動が可能になります。 時間や距離と言うものが陳腐化するワケです。 残念乍、この事は、仏教でも辿り着けて居なかった様です。

 この様に時間も空間も実は、絶対なものでは無く、可変なものであると、判りましたが、でも、我々の日常の時間は、何一つ変わりません。 でも、釈尊が言う、「智を極めて覚者となれば、輪廻から解脱する」と言いますが、解脱した覚者って、一体如何なるのでしょうね?

 私の勝手な空想ですが、私と言う存在は、現世では肉体を持つ存在ですし、亡くなる直前と直後では、測った体重に、数g~数十gの差が生じ、それが魂の重さだと言う人が居ますが、もし、魂に重さが有るのなら、見えませんがこの世に、半生物として居る事になり、悲惨な目に遭う事になります、だって誰も見えませんからね。何処かに隠れて居るしかない。

 私はそうでは無く、存在と言う点こそ、自己(我)の本質であって、異次元のものだと考えます。 其処では、時間を自在に旅行できますが歴史を変えるには、何処かの時間で、現世に戻る必要があります。

 未だ生まれる前の胎児に、或いは、生まれる瞬間に赤ん坊の中に入って、人生をやり直すのですが、勿論、記憶蓄積装置の脳を失って居ますから、前世の細かい記憶は消えて居ます、でも前世の人格や性質が、残って居る場合が有り、特に生まれて1,2年の赤ん坊には、その傾向が見えて、笑って終います。

 人類が急速に科学を発展させる事が出来たのも、そういう仕組みが有るからでhないかと、この頃真剣に思って居ます。 魂が連綿として繋がって行くと、人類は、余計な努力をしなくても済むように思いますがその為には、その知識を、正確に記録した書物やデータバンクが必要です。 亦、嘘や捏造の無い歴史やそれを管理する国家・国民が、必要です。

 覚者になれば、こういうやり直しなどは、下らないので望まないし、未練や執着も無くなっているので生まれ変ろうともしないでしょう。 只管、人類を眺めて世の正義を支えるダケになります、是をつまらないと思うのなら、覚者にはまだまだなれそうにないと言う事でしょうねww

 生まれ変わり現象が起こって居るとすれば、近世に於いて急速に科学が発達した事にも寄与しているのではないか、例えば、本の発行によって閉鎖的だった知識が、多くの人に開示され、更に蓄積された事で、生まれ変わった人々が、容易にその知識に辿り着け、その知識を引き続き活用、或いは付加して事業を完成しているのではないでしょうか。 最初から使命感を持って居る人は、生まれ変わりが多いので派内でしょうか。

 まぁ、ハッキリ言って、死んで見ないと判りませんがw、謂えるのは、死ぬ事は、そんなに悲観ばかりする様な事でも無いと言う事です。 唯、魂の拠り所は、自分の家や家族になりますから、子孫に生まれ変わる場合が多く、先祖を大事にせず、却って恨む様な子孫を育てると、「重々無尽の理」で、倍旧して自分に還って来る、或いは、生まれ変われる子孫が居ない事になりかねません。

 その為には、家族も世間も大事にして、食事の毎に、「天地一切にの恵みと、是を造られた人々に感謝して、慎んでいただきます。」と祈りを捧げて、自分や家族の安寧な生活は、見も知らぬ多くの人々のご苦労や犠牲の上に成り立ってしているのだと、日々感謝を述べ、身を慎むべきなんです。

虐めのテーマが3回も続くとは思っていなかったのですけれど、自分の考え方も深く掘ることが出来ることに感謝です。

虐めを受けた人のことは、自分だけでなく、色々な人の話も聞きます。
そして、それぞれの人が心に傷を負いながらも、対抗・対応してそれを乗り越えなければならないのです。
子供の頃の出来事は、個人的には取っても大きな負担ですが、大人になれば仕事をするときには、解決(色々な方法がありますけれど)をしないと社会の荒波に飲み込まれるのです。
それで、頑張るしかないのです。


ソロさんの虐めに対する武勇伝は、私にとっては羨ましいと言う他ないものです。
私だってそう出来たらと思いましたが、親の躾が妙なところで厳しく、それに体力的な問題は大きかったので、悔しいことですが私には出来ないものでした。

ばらさんの対策は、必要なら使いました。災難を避ける方法があれば何でも使えば良いのです。

自分については母の躾は人に優しくと言う物でしたが、考えてみれば、自分は我慢して人に優しくでしたから、自分はいつも末席に居ろとなりましたから、子供には辛いものでした。
しかし、今思いますと家の暮らしが貧しかったので、ねだるなと言うための親の要求が染みついていたから、子供にとっては大変で、親が良いこと言ってたけれど、何でも譲らされる子供にとっては不幸という他はなかったです。
貧しかった理由は、今なら分かっています。父親は博打が好きだったのです。

父が稼がないと言うことは、当たり前ですが家族の生活に直結します。母は宗教に逃げます。
結果として、体力不足や運動面に影響していたと思いますが、公務員として採用されたときに、学校に何ヶ月か入って研修を受けたのですけれど、それ以上に体力の強化をしました。
すると、他の人はこれまでの不摂生が祟って痩せていきます。それなのに、私一人が太って行きますし、体力も向上するのです。

この時思いました。自分は生まれつき虚弱体質で、運動は不適当と思っていたのですが、これの原因は栄養不足が体力不足と運動をしないから運動能力も低かっただけだと、尤も20才を過ぎていたら、慌てて運動しても何ともなりませんでした。

マァ、どんな動物でも、その社会に適応出来ているから生きている。社会に適応出来なかったら、しぬしかないのです。
人間は地球上で尤も強力な動物ですし、自分も人間だから何とかなるだろう。その代わりに取り柄を大切にして、強力にすることは大事だと考えました。

体力面では自分は全く自信がなかったのですが、学校で思ったことは体力強化が終わって、次の課程に進んだときにそれ程キツイ体力を要求されなかったことです。
この時に、安堵すると共に余裕が出来たのですが、これの安心感は大きく、自分の体力は人並みにあると思いました。
このときに、本来業務の訓練である消防と救助を一通りやりまして、綱渡りも覚えました。ただし、覚えたのは最低限のもので、救助隊員のレベルと較べると大変な差がありました。

考えてみると、体力に不安を持っているのに消防に就職したのは、採用案内に適材適所の仕事と書かれていたのです。
私が思ったのは、適材適所を考える職場なら私を観て体力・運動面が十分と考える人事は居ないはずだ。だから、現場からは外すのが当然であるというものでした。

結果的には、人事を適材適所と考えている人事は居ず、この程度の体力と運動能力なら現場は可能と判断されたようです。
これで今思うのは、昔の陸軍もこれ位の体力・運動能力で良としたのだろうと言うことで、それなら、日本の守りも大丈夫だろうと思っています。

虐めの内容とはずいぶんずれてしまいましたが、人は他の人が思う程には観察されていないのです。
ですから、虐められているのは他の人も知っているし、観てるはずだと思っても、そんなに観られていることはないと思います。
それなら、学校で虐められて耐えられないなら、1日でも一週間でも、しばらく休めば良いのです。
そして精神面での余裕が出来たら、学校に行けば良いのです。
学校は義務教育ですけれど、これは憲法で子供に教育を受けなければならないとは決まって居ず、親が子供に義務教育を受けさせなければならないと決めていて、親は子供が教育を受ける環境を整えなければならないことを決めているだけですから、親は環境を整えたら、アトは子供が受けられる状態にあるかどうかで、ここからは行政の問題だと思います。

虐めに遭った子供が頑張りすぎて、完全な不登校になる位なら、頑張りすぎないように息抜きをさせれば良いと思うのです。
虐めに遭った子供は、虐めに遭うのが嫌なのですから、それから逃れる方法を考え、それに対しては努力しなければならないと思いますが、その方法を思いつくまでは、無理をせずに学校を休めば良いと思います(その間の学力は、自分の努力で維持するように努力しなければなりません。)。

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