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2018年8月 9日 (木)

いかに鉄面皮で恥知らずになるか、そしてどこまでも腹黒く、自分の利益のために何でもすることが重要だ

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

石平『支那五千年の虚言史』(徳間書店)

先週から支那で大騒ぎとなっているのは長春・偽ワクチン事件だ。

7月11日、支那のワクチン製造大手の長春市長生生物科技有限責任公司の職員が実名で、この企業の偽造ワクチンの存在を告発した。

すでに45万人分が、投与された。

いまのところ死人が出ていないが、当局は製薬メーカーの16人を逮捕した。

吉林省のこの長春市長生生物科技有限責任公司は、かつて共産党営(公営)のれっきとしたワクチン・メーカーであった。

それが共産党員に払い下げられ、偽薬で大儲けするようになったのだ。

ーー

かつては支那製ペットフーズで、米国の犬猫およそ一万匹が死亡した。

爾来、米国では支那製食品や薬には慎重である。

粉ミルクでは支那国内で赤ちゃんの死亡事件が続出した。

日本に来る支那人観光客は必ず日本製の粉ミルクを爆買いした。  

ーー

日本では「支那製餃子を食べた子供が死ぬ事件」があった。

(日本共産党が関与する生協が支那から輸入したものだった)

ーー

前々から評者(宮崎)も、口すっぱく言ってきた。

「支那人は朝起きてから寝るまで、生まれてから死ぬまで嘘をつく」のだと。

五千年、一貫してそうなのである。  

ーー

元支那人であった石平氏は、「嘘が支那の文化なのだ」と断言する。

ーー

そもそも「五千年」という歴史そのものが真っ赤な嘘であり、支那史は、秦の始皇帝から延々と、ひたすら嘘だけが述べられている。  

本書は、それを王朝ごとに、きわめて簡潔に、何が嘘であり、真実が奈辺にあるかを秦、漢、新、後漢、三国鼎立、随・唐、宋、元、明、清、忠仮眠国(中華民国)。

(最も日本人になじみの深い唐は鮮卑人の起こした国である)

そして現代の習王朝までの偽史を適格に暴いて見せている。  

ーー

支那人は、生活も出世も、すべてが嘘で塗り固められている。

イデオロギーも、文学も、嘘に満ちている。

だから共産支那には一級の芸術がまだ一つも出てきていない。

ーー

なぜこうなったのか。

石平氏曰く、「日本では『嘘つきは泥棒の始まり』であるが、支那では『嘘つきほど成功する』なのだ」と。

「清王朝末期の李宗吾という儒学者は歴代の皇帝や古来の英雄を分析し、1911年から『厚黒学』『厚黒経』といった、乱世を生きる支那四千年の成功哲学についての論考を発表した」

「成功の要諦は、『面の皮は城壁より厚く、腹は石炭より黒く生きよ』というものであ」る。

「いかに鉄面皮で恥知らずになるか、そしてどこまでも腹黒く、自分の利益のために何でもすることが重要だと説いている」  

ーー

いまの支那人は学校で、共産党が抗日戦争を戦った主体であり、いかに由緒正しく、権力に合法性があるかを徹底的に学ぶ。

ところが実際は、共産党は匪賊(集団的に略奪などを行う賊)、山賊が本質であり、抗日戦争は国民党が戦ったのである。

「偽史」でっち上げの大成功例が「南京大虐殺」「731部隊」などだ。

(NHKは今も「731部隊」の虚報を報道し続けている)  

ーー

なにしろ「第一回共産党大会」なるものが、すこぶる怪しいのである。  

上海の観光名所「新天地」にひっそりと支那共産党第一回大会記念館がある。

嘘で固められた歴史改竄の原点がこれだ。

この場所は元フランス租界である。

会場となったのは李漢俊の自宅だった。

ーー

評者(宮崎)も、何回か上海にある「支那共産党第一次全国代表大会跡地記念館」を見学したことがある。  

飾ってある金ぴかの銅像、初回参加者十三名の浮彫の像(レリーフ)。

当時毛沢東は、確かに参加はしたが、チンピラでしかなかった。

その彼が、会議で発言している像も飾られていた。

それを見て、思わず吹き出しそうになった。  

ーー

共産党は陳独秀が創立した。

しかしこの指導者は歴史から殆ど抹消された。

周恩来はこのとき巴里にいて会議には欠席している。

戴季陶は、このときすでに党を離れて、日本にいた。  

ーー

ならば誰々が参加したのか?

李漢俊(東大)、李達(東大)、陳公博、包恵僧(陳独秀の代理)、張国寿、劉仁静、陳譚秋、董必武(日本大学)、毛沢東、何淑衝、トウ恩銘、王尽美、周仏海(東大)、この十三人。

それに国際共産党組織(コミンテルン)からマーリンと、ニコリスキーが派遣されていた。

ーー

欠席にもかかわらず陳独秀が委員長となり、役員も決められていた。

しかし、そこに毛沢東の名前はない。

つまり、毛沢東はこの時点でヒラでしかなく、彼の主導権が確立されるのは、鄭義会議以後である。  

ーー

さて石平氏は、その後、この創立メンバーの悲運をたどる。

共産党史が決して語らない事実とは、李達はいったん離党し、共産党政権成立後復党する。

が、「毛沢東を批判したため、文化大革命で惨殺された。李漢俊ものちに支那共産党を離党、国民党に加入したが、国民党の分裂・紛争の中で処刑」された。

ーー

「陳公博と周仏海は王兆銘政権に参加し、日支戦争でも日本に協力したため、戦後の支那では『売国奴』扱いされた」

「結局、支那共産党のなかで順調に生き延びたのは、毛沢東と董必武の二人しかいない」のである。  

つまり、彼らが共産党などと名乗るのは僭越であり、実態は国際共産党組織(コミンテルン)支那支部でしかなかったのだ。  

目から鱗の、真実の支那史は、それならいったいどうなるのだろう?

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>真実の支那史は、それならいったいどうなるのだろう?
 読んで居て思わず吹き出す話でしたね。 まぁ、元シナ人の石平さんが言って居る事だから、余計に真実味が有るんでしょうがw 秦以前の王朝に関しての話を持ち出すと、抑々のシナの文明が、長江文明の剽窃で有る事が顕かとなり、非常に都合が悪いのだろうから、シナの文明史は、嘘を基点として居る事は自明の理であろう。

 下記に私が考えるシナの真実の歴史を書いてみます。

 大陸島の東側のシナ平原(中原)には、2つの大河に、挟まれた肥沃な大地が有ったのだから、7万年前に、ピュルム氷期が本格化して、然も、寒冷化は急速だったようで、其れまで温暖だったシベリア平原から南下逃げて来た、巨大哺乳類が沢山いたのではないか、ダカラ、逆に未だ、巨大な捕食獣に対して優位さを確保出来ていなかった人類は、片隅でこっそりと生きる他は無かったと推測します。

 但し、其れは、氷期の最中でも温暖さを確保出来ていたのだから黄河よりずっと南の地域だと思われ、然も、湖沼地帯だったから、捕食獣の生息密度も高く、生き延びられた人類の数は、極少なかったかもしれない。 弱い哺乳類の人類は、生きて行ける空間が限られて居て、オソラク、水を利用できる大河の畔だったろう。

 時間が其れから5~6万年経過して、水没現象が始めった南のスンダ・ランドからの山の民=焼畑耕作民が、長江を下ってスンダ・ランドでの主食で有った、浮稲を持ち込み、栽培したが、水害で失われる浮稲の収穫量を増やす目的で陸稲を始めるが、上手く行かなかったが、天才が現れて水田を考案、実施して、長江文明の基を創った。 是が1万6千年前だと言われている。 

 炭水化物の穀物では、耕地面積当たりの収穫量が、最大の稲ですから、彼らは、見る間に人口を増やし、更なる水田の拡大を図る必要に迫られた、是が、BC1万1千年~1万年前、 水田を創るのに適した土地を探して、生活圏を次第に下流域に広げますが、其処で、同じスンダ・ランドから海岸伝いに移り住んでいた、海岸縁に暮らして漁労・海産で生計を立てて居た人々=東夷族と、数万年の時を隔てて邂逅する。

 是が、氷期が終わって直の、9千年位前では無かったか、彼らは、海洋民だから、船を自由に操る事が出来るので、建設財や造船の材料にする重たい木材を川の上流の山岳部で伐り出して運ぶ事で、生活圏=勢力圏を広げる事に長けて居た。

 最初は、お互いに異民族と思って居たが、元々同根の民族だから、習俗に似た部分が有り、抑々、2つの民族に区分されるのも生活の仕方が違うが、其れは、山と海では、直面する自然の驚異に対する対応策や、育まれる集団の常識の形成仕方やその質が変化して来るのだと思います。 ですから、習俗の面でお互いの共通項を見出した当初(9~7千年前)は、上手く行って居たのですが、時間を経るごとに、それが次第に具体化して、対立点として顕在化した(5千年~3千年前)のではないかと思います。

 先ず、山間の焼畑耕作民である南蛮族と、海洋民である東夷族の土地に対する価値観や交易上の振る舞い、つまり、信用に対する考え方にも差異が生じるでしょう。 相互の信頼関係を築きのは、情報の伝達速度が飛躍的に上がった今でもそうですが、カナリ難しいと思います。

 斯うした、様々な「違い」を内包して居たので、長江文明も呉越に分かれて永らく戦争をする話になったし、それ故、BC20世紀の、元々は、交易の民東夷族が開発した、黄河中流域の長安「=商、或いは夏」を乗っ取った黄帝「=北狄の殷か、西戎の周なのかは、分らない」が、更に南侵して、三苗「=南蛮族」の蚩尤(しゆう)率いる長江文明軍と激突「=拓鹿の戦い」、長江軍は惨敗して、長江文明は滅びます。

 唯、撃滅されて地理尻になったのは南蛮軍ダケで 東夷に当たる越は、祖の主力が列島に逃げ出している可能性が高い。是は、イザという時に、呉越間の長い戦いから醸成された相互不信から、新たな外敵に団結出来なかったのかもしれませんね。

 逃げ遅れて、遺された長江民は、食糧生産手段を持たない侵略民にとっては、水田耕作を行う技能集団ですから、当然の如く、食糧生産の手段とされ、是を「楚民」と呼んで居ますが、是こそ、シナの文明の漢字も含めての原点です。 後に明王朝の祖の朱元璋が、「自分の出自は、楚民である」と言って居ますが、明代と言えば、⒕世紀で、3千年以上も前の話ですから、全く宛てになりません。

 遊牧民出自の侵略軍に、文明創造力も発進力も無いのは当然ですから、中華文明≒長江文明と言っても可笑しくないのです。 つまり、漢民族自体が文化的には、匪賊であり、歴史に謂われている「文化の進んだ方が、勝利する」と言うのは真逆の話で、逆に野蛮な勝者が、滅ぼした進んだ文明を剽窃して来た、と言うのが正しいのです。

 その典型的な例が、半牧半農の満州族が17世紀の明の弱体化に着け込んで、創った清王朝ですが、彼らは長江文明以来綿々と続けて来た江南の無錫辺りを中心とした焼き物が、極東の侵略に来ていた英仏蘭軍に気に入られて、欧州全土に需要が高まった為に、此の陶磁器輸出で大儲けしました(景徳鎮)。

 然し、それ以上の開発は磁器の焼成温度を上げる事が必要だったが、石油も過給気バーナーも無い時代ですから、出来なかった為に、頭打ちとなり、更にデルフート焼を始めとする、欧州独自の焼き物も出回って、下火となりましたが、欧州にロココ文化と言う東洋趣味を齎しました。

 その清王朝が20世紀初頭までの275年続いたのですから、長江民が死に絶え自己発信能力を失ったシナ文明は、辛亥革命の時代には、既に虫の息で有ったでしょう。

 加えて、共産党支配の政治下で起こった文化大革命は、民間伝承として僅かに生き残って居た長江文明の背骨を叩き折ったと、見るべきで、随い、現在のシナの文明には、文化創造力は固より、文化に対する敬意すら失われていると言った方がいいでしょう。 ダカラ復活もしないし、彼らは、嘘や法螺が商売になる裡h、叫び続けるでしょうね。(嗤)

 そして、現実にシナ大衆を構成しているのは、連続性の全く無い、雑種・雑多な民族・文化でしかなく、当然、世界で文明と見て取れる様な高度の文芸作品や美術品は、何処にも存在しない。 残っているのは、全て、4千年以上も前の長江文明の残骸だけでしょう。

 シナ人に取って、自分の一族以外は全て敵、或いは、騙す対象ですから、本当の事を云わねばならない理由が無いのです。 彼らの死生観も一族だけのもので、随い、子は親を親は子を・・と言う絆を強調して「世界一親子の絆が強い民族」と言い張りますが、では、他人の親子関係に着いては、ドゥなのかと訊けば、「他人の事迄知りません」で澄ましている、と言うのが現実でから、石平さんが言うように、「嘘を基調とした利己的社会が肯定されている」のです。

 2千年前ならいざ知らず、現在のシナは、文化創造力も発信力も無い、「我利我利亡者の巨大な群れ」だと考えるべきですから、彼らに心を許すべきではありません。

嘘の捉え方について、日本と支那とでは全く異なっており、日本においては嘘は嫌われているが、支那では褒められているとのことですから、日本人が支那人のことを理解出来るはずはないと思いました。
そして、石平氏の「嘘が支那の文化なのだ」には、それでは「本当のこと」にどれだけの意味があるのかと思います。
「本当のこと」になど意味はなく、どんなことでも「アトで本当のこと」にすれば良いのでしょう。

そう思えば、支那の社会主義も又理解出来るものであり、70年程前に支那共産党で政権を取ったから共産主義を標榜しているだけで、これが、どんな政体であっても毛沢東は良かったのだと思います。
面倒なのは、日本人が共産主義を読んで、支那がこれを目標に思っていると信じていることであり、支那ではそんな共産主義よりも、支那人が政治をしていることを、忘れてはならないのだと思います。

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