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2018年7月27日 (金)

仏教について

ーー以下「中韓を知りすぎた男ブログコメント欄」より抜粋編集qazx

ソロです。

ブッダは漢字音表示は仏陀、サンスクリット語の意味は、覚者です。

覚者の三法(三つの教え)は以下の様に表現されています。

1、人生は、苦しみである。永遠に満たされないものだ。
2、全てのものは変化する。変わらないものは無い。
3、自分という存在が知覚している世界は実在しない。

ーー

言うまでもなく、仏教は、古代インドの釈迦が開いた宗教(教え)であります。

彼は、人間が生まれるなり、「生老病死」に苦しむことを怪(あや)しみ、その苦しみの根源を絶とうとしてある考えに至った。

それが、悟りであり、上記の3法だと伝えられているのです。

ーー

彼が、王子つまりバラモン教の最上位のバラモン階級ではなかったが故に、3法は、全ての人々が対象となる内容でした。

バラモンの教えでは、生きとし生けるものは、輪廻転生し、人生は決められており、幾ら努力をしようと、願おうと、変えられない。

この考えは今もインド社会に生きており、カースト制とよばれて、階級間の移動を妨げている。

だから「生老病死」の苦から逃れるためには、この輪廻を絶つ以外にない。

その方法が、3法であるという事なのです。

ーー

そして、高齢になった釈迦は、「その教えを知りたい」と言う弟子たちの為に、「記録しない」事を条件に、質問を受けた。   

これは、彼が、悟りを、「個人が啓くもの」と考えていたからで、自分の悟りについても、「解釈自在(人によって違ってもよい)」と考えていたからなのです。

ーー

そこには、「全てのものは変化する、変わらないものは無い」という考えがあることは明らかです。

そして確かに、これでは、経世済民(世をおさめ民を救う)ことは出来ないでしょう。

日本においては、むしろ済民に注力され、仏教は大変化を遂げています。

念仏(阿弥陀仏を信じますと言えば極楽浄土に行ける)

あるいは念題目(法華経を信じますと言えば現生利益が得られる)

と言うような、「御釈迦様でもご存じあるめえ」というような教えが仏教とされたのです。

ーー

しかし、戦国時代、利己的な生存慾に基づく覇権を求めて死闘が繰り返されているとき、3法は、武将たちの視界を広げた。

「全てのものは変化する、変わらないものは無い」ような社会の中に、お互いの信頼を頼りに生きれるような社会にしたい。

あるいは、「人生は、苦しみである、永遠に満たされないものだ」が、「平和で、安全な社会」を作りたいと考えた。

それは、信長・秀吉・家康が、支配完成前後に為した政策で分ります。

例えば、未だに米国ではそれが出来ない、「刀狩り」は、特筆ものでしょう。

これは、武士階級への信頼感が無ければ到底出来ないことであると言えるでしょう。

また武士の俸禄が治世を誤るとそれが減る米という現物であったこと、

そして平等な税制を施行する為に「検地」が行われたこと。

これらは、社会安定のために必須なことでした。

ーー

このような仏教が持ついわば、「利己的な生存慾」から異次元の世界に行ける作用は、否定できないと思われるのです。

般若心経(知恵についての教え)に曰く、「我々の五感と意識が作り出す世界は実在しない。したがって、生老病死は実在しない(意訳)」と。

つまり仏教は、「利己的な生存慾」とは別次元の世界を垣間見せてくれる。

日本社会独特の思考を仏教が洗練したことは確かだと言えるでしょう。

2015/07/26(日) 10:05:59|  URL|  ナポレオン・ソロ #c5NzTaeA

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>15年7月26日付けの拙稿の仏教に着いての考察
 丁度4年前の話ですね、手元の記録から引っ張り出してみましたが、是は、私が常時投稿して居た、辻本さんのブログで、現在は、神職で絵も画いておられると言う、コメンターが仏教に対する誹謗が酷いので、諫める心算で書いたものです。

 キリスト教も、イエスの復活がもし作り話で有れば、キリスト教は、ゲッセネ派ユダヤ教であり、その後を引き継いだファイサイ派ユダヤ教の士師、パウロにその内容の編纂が委ねられ、其処を基とした新約聖書が、キリスト教=メシア教の原点となっているのですから、その本来のゲッセネ派の始祖ヨハネの教えは勿論、肝腎のイエスの教えも、ファリサイ派の教義に拠る付加や改竄が有ると思われます、 つまり、キリスト教は初発からして、その出自に疑問点がある、と言えましょう。

 然し、この原初の教えが、後世の付加や改竄に拠って、祖の本質さえも全く伝わって居ないと言う傾向は、度の宗教にもみられる話の様で、仏教もその弊害を免れて居ません。

 件の人が、批判しているのは、斯うした付加や改竄の挙句、仏教同士で対立して、釈尊が望んでいる、「心の平安」@社会の平安」を、仏教の名の下に乱し、略奪や支配を恣にする、仏教が支配の道具に使われて居た事でした。

 この仏教の危険な兆候を阻止して見せたのが、信長だと言われて居ますが、彼も実は敬虔な仏教徒です。

 比叡山延暦寺攻めは、延暦寺が、非戦闘員の女子供老人を大量に寺の中に集め、謂わば、「人間の盾」にした、と考えれば、誠に卑怯な話になります。 長は、自らの悪名を懼れず、是を踏みつぶしただけの事。 信長の宗教に対する考え方は、決して無信仰ではないが、相当に厳しいものだったと言う事だと思います。 ダカラ、平気でキリスト教の不況も許したし、天下布武「武力で天下を糺す」がスローガンだったのでしょう。
 
 確かに仏教は、解釈自由を謳って居ますが、「自己実現の為に、世を歪めてよい」との教えは、何処にも有りません。 世直しの為だと言いながら、自分達の意に沿わないモノを武力で滅ぼして居ては、悪辣な戦国武将と何処に違いがあろうか、其れは、大義なき唯の暴力集団でしかない。

 そして、現代の仏教諸派は、島原の乱を鎮圧した、松平伊豆守の行った、「宗門改め」に拠って、新たな布教力を失い、葬式仏教に堕して終って久しいですね。

 


 私は嘗て、仏教の原理運動などは無いのか、と、文献を探した事が有りました、すると、中村〇さんと言う、仏教者の方が、サンスクリット語や、釈尊が生きて居た時代に使われて居た言語に近いパーリ語まで学んで、仏教の原点に迫ろうとして書いた本に出遭いました。

 不覚にも如何して本の名前が思い出せませんが、書いてある事は、非常に比喩的ですが、殆ど直喩ばかりで、判り易かったのを覚えて居ますが、現在に仏教でも、同じ事を教えて居ます、つまり、矢経「=恨みや執着はそれを持った人を、まるで矢が刺さったぞの様に苦しめる」等です。

 日本には、元々悪霊信仰と言うものが存在し、例えば、英邁で有名だった菅原道真公を、九州に流した、藤原不比等の息子、4人が、道真公が大宰府で、無念の客死そして直ぐに、京で悪政の病が流行り、4人とも次々に死んだ事から、惧れを成して、菅原道真公所縁の場所に神社を建てて、天満宮や天神さまにしてお鎮まり戴いた、と言うのは有名な話ですね。

 仏教の恨みや執着を、人間の悩みや苦しみの原点として忌避する考え方は、支持を受けて居たのでしょう。 然し、権力を握ったものは、藤原氏にしても平清盛にしても、足利義満や織田信長にしても、思い上がった自分を統御出来無かったが、その有様を看て居た周りの日本人は、神のご意志が奈辺に有るのかを悟った事でしょう。

 原理運動の話の時は、知見が足りて居なかったのですが、イスラム教も、キリスト教も、原理主義をと、問えば、全てユダヤ教になって終うのは、理の当然でしょう。 ダカラ、イスラム教の原理運動なんて、ユダヤ教回帰運動でしかないのに。イスラム教と対峙しているのは、宗教を政治利用して居るダケの話でしょうね。

 こういった面は、自分の宗教の歴史が事実の積み重ねでは無い事に由縁しているワケで、其処を糺して行かねば、三宗教共、将来は無いように思えます。

 では、仏教にはこういった面は無いのか? と私は、危惧を持って居ましたが、仏教の成り立ちから言って、インド・アーリア族の教えである、ウパニシャッド哲学やアーユル・ヴェーダに並ぶ、死生観=輪廻転生を軸にしたバラモン教徒は、仏教とは、根が異なっているのは、ブッダの生涯の前半部が、バラモンとの戦いであった事を知れば、疑問は氷解します。

 一旦は、仏教に帰依したインドの人々でしたが、現在の姿を見れば、再び、現在のバラモン教の姿であるヒンドゥー教徒になっていますね。 

 是は、現世と冥界包括している考えだから、人々に常在する、死への恐怖を、輪廻転生を信じる事で、和らげているのが、習俗化しているから、殆ど無意識でやって居ると考えるべきだと思います。 謂わば、日本人が、盆や正月を何の行事化も知らない癖に、唯メデタイと言うから祝って居るのと同じ現象でしょう。

 然し、日本の場合、古事記を読み解く運動をしていただいて居た結果、日本の古神道とも言うべき教えを総括すれば、「我らは、皆、神の子にして、等しく、且つ神聖である」という一事のみで、日本文明が、世界の何処を探しても見つあらない、「森羅万象には、皆悉く、神の本体に通じる窓が開かれており、謂わば、地球全体、否、宇宙全体が、神の御姿の一部なのだ」と言う、結論に至らざるを得ない。 故に、あらゆる生物にも、等しく神の分け御霊が宿っている、と考えるべきだと、納得しました。。


 

縦椅子様


今日も素晴らしいブログ有難うございます
最近テレビで、インドに帰化した日本人僧であり、、現在一億を超すといわれるインド仏教の最高指導者、佐々木秀雄氏の精力的な布教の映像をみました。以前qazxsamaのブログでご紹介いただいたアンベードカルの著作「ブッダとそのダンマ」に心酔され、仏教を取り戻そうと命をかけていらっしゃる凄い映像でした。仏教は救いです。生きとし生けるものが、平等に生きられると思います。

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