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2018年7月13日 (金)

言語・文化を習得できなければ、人間は人間にはなれ無いのです

ーー以下「宮崎正弘ブログ読者の声(稲村正治)」より抜粋編集

我々が生活している世界は、科学がそうであるように合理的に理解できるというのが、人類がたどり着いた現代の考え方です。

ということは、その世界を説明するのに、この世界以外の論理を持ち込んで説明するというのは、現代的ではないということになります。

ーー

宗教は、この世界以外の論理を持ち込んで説明されている。

「王権神授説」も、王権の正当性をこの世界以外の神に求めたものです。

そして「人権」も、その根拠は、この世界以外の「自然権」なのです。

例えば「自然権」で人権ならぬ「動物・植物権」があると主張することもできる。

それを人権同様に認めればたちまち人類は食物を失い生存できなくなってしまう。

ーー

つまり、「人権」というのは、合理的に理解できるものとは違い、政治的に作られた概念であるということになります。

ーー

「人間は生まれながらに天から与えられた自然権があって自由で平等な人権を持っている」

というこの考え方は、フランス革命など高揚した状態においては盛り上がったものの、熱狂が覚めて現実に戻ると、説得力を失ってしまった。

ーー

「人間は生まれながらに自由でもなく平等でもない」ことが明らかだからです。

ーー

それを「人間は生まれながらに自由であり平等である」とし、人類は、自然権として「人権」を持つというのです。

しかもこの「人権」の概念は、個人が単位であり、その個人は、国と無関係に存在できる。

個人が、国とは関係なく、「人権」を主張できるようになっている。

ーー

つまりこの自然権としての「人権」という概念は、国を否定し、国の力を弱めようという意図をもって作られたものであることがわかります。

ーー

これは、国を捨て、他国に寄生し、人の嫌がる仕事もいとわずにやって財力を蓄えて、金融資本勢力となった人々の存在を抜きにしては語れないのです。

国は国民としての例えば納税の義務を要求する。

金融資本は、寄生しているだけなので、義務を果たすのなどまっぴらごめんなのだ。

義務を果たすように要求する国の存在が邪魔になる。

その意図を実現する思想を、彼らの代弁者に作らせた。

それが現在世界中を席巻している「人権」思想ということになります。

ーー

この場合の、自由というのが、特に問題です。

というのは、その自由は、主に国(権力)を否定する自由を、意味するものだからです。

何故そうなるのかは、かれらが他国の公共財に「ただ乗り」して儲けようとしているからです。

ーー

したがって、国の教育への介入は、教育の自由への侵害ということになります。

じつは、これこそが、この「人権」概念が、如何に正しくないかを示す、有力な証拠となるものです。

何故ならば、この自由には、人類が、本能的な生き方を捨て、その結果、人類はどういう存在になったのか?が、いささかも踏まえられていないからです。

ーー

人類は、環境に合うように設計された本能をあえて捨てた。

そして、発展性を持つ外界認識を学習していくという、仕組みを創り上げた。

本能に代わる外界認識の学習は、言語による作用であるのです。

したがって、言語単位での教育が必要となる。

その教育は当然、その言語・文化を持つ社会が行うべきものであり、国の出現後は、国が行うべきものなのです。

ーー

言語・文化を習得できなければ、人間は人間には成れないのです。

ーー

人間は、生まれながら人間としてあるのではなく、社会や国に人間として育てられて初めて人間となる。

つまり、個人に、「社会や国とは無関係に生まれながらの「人権」を付与する」のがいかに不自然な行為であるかがわかる。

(この不自然さが、「動・植物権の存在」の主張につながる)

ーーヘーゲルは、次のように述べています。

「国は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ」

「諸個人の統合そのものが国の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである」

「個人のその他の特殊的満足、活動、ふるまい方は、この実体的なもの、普遍妥当するものをその出発点とするとともに成果とする」

ーー(「法の哲学」より)

これは、国を、言語・文化をになう主体と見て、人はそれとの統一において人間になることを意味します。

その国の言語・文化(精神)を自らの精神とすることで人間になれる。

つまり、その国の言語・文化の発展に寄与することが、その国によって作られた人間(国民)の喜びとなるのです。

言い換えると、国民に寄与することこそがあらまほしき国民の自由のあり方です。

ーー

すなわち、規範(義務)を強制する国が、国民の自由を保障するということが、ありうるのです。

ーー

弱肉強食・奴隷主義の延長線上から脱皮できない国にとって、それは、経験したことのないことでありましょう。

ところがじつは、「国民に寄与することこそがあらまほしき国民の自由のあり方」であるとする、その自由を見事に実現した国が存在するのです。

その国とは、世界の中で、唯一日本だけなのです。

ーー

その意味で、日本人は、ヘーゲルを唯一正しく理解できる素質を持っていると言えるでしょう。

ーーここまで抜粋編集

ーー(実際日本では教育を次のように考えていた

初代・神武天皇は東征を終えて、わが国の建国宣言とも言うべき詔(みことのり)を出された。

そこで天皇は、民を大御宝(おおみたから)と呼び、「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」と呼びかけられておられる。  

(国に「家」の字をつけるのも、外国語にはない表現である)

ーー  

歴代天皇は、この精神を受け継がれて、民を大御宝(おおみたから)として、ひたすらその幸せを祈られてきた。

わが国はこのような徳を基盤として建てられた国家であった。

ーー

われわれは家庭では親であったり、職場では上司であったり、地域では町内会の役員であったりする。

我々は、他者との関係に従ってさまざまな役割を負い、それを立派に果たすことによって自らの処を得て、生き甲斐を感じることができる。  

教育勅語の説く徳目はそのような「他者とのつながりの中で人間となる」ことを示しており、他者とは断絶した「個人」の人格的完成を説くものではない。

ーー

この「他者とのつながりの中で人間となる」という人間観は、教育勅語の冒頭の一文に記されている。

朕(ちん、天皇の自称)惟(おも)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ

(私が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇(はじ)めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられる)

(現代語訳は文部省図書局『聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書』(昭和15年)より)

ーー

教育勅語には12の徳目が示されてある。

1)父母ニ孝ニ 
2)兄弟ニ友ニ 
3)夫婦相和シ  
4)朋友相信シ

5)恭儉己レヲ持シ
6)博愛衆ニ及ホシ
7)學ヲ修メ業ヲ習ヒ 
8)智能ヲ啓發シ
9)公器ヲ成就シ  

10)公益ヲ廣メ世務ヲ開キ 
11)國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ  
12)義勇公ニ奉シ

ーー

1)から4)は、家庭や交友という日常生活の中で習得・実践すべき徳目である。

5)から9)で社会生活をしていく上で必要な性格や能力。

最後に、10)から12)で公(国民)のために尽くすべきことを示している。  

すなわち、まず家庭や交友を通して生き方を学び、次に社会に出るための素養を習得し、その上で国家公共のために尽くす。

これによって日本人になるということを示しているのです。

ーー

我カ臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ此(こ)レ我カ國體(こくたい)ノ精華ニシテ教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。

(我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある)

ーー

歴代の天皇がひたすら祈られてきた大御宝(おおみたから)の幸福を実現すべく、代々の国民もそれぞれの持ち場で、国民全体の幸せのために心を合わせて力を尽くしてきた。

それがわが国の美しい国柄であり、その美風を次代の皇室と国民に伝えていくことが、わが国の教育の目標であったのです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>国が有ってこその人権であると言う現実から想起するモノ
 読んで居て、成る程と膝を打つ話が幾つもありましたね。 確かに人間は、個人の集合である国が、個人個人を護らなくては、個人は生きてイケません。 国の保護を離れては、個人は国内ならまだしも、国を離れたら生き抜くためには犯罪でも、犯す他は無くなり、何処かで排除されるでしょう。 然し、国も、個人の納税や勤労の義務の履行なしには、そして、公共心と言う、公共財を大事にする心無しには、国も成り立ちません。 個人と国は、斯う言う共依存の関係にあると言えましょう。 

 然し、両者は決して対等の関係には無い事は明らかです。 国が消えたら多くの個人が死に瀕するが、個人が滅亡しても、国の生死には関わり合いが無いのは、国が多くの個人の集合だからです。

 先帝陛下は、前大戦の終戦の詔の中で、「沢山の国民が、原子爆弾や空襲で攻撃の対象とされた。 国民の殲滅の目論見から国民を護る為には、降伏する他は無い」と言う意味のお言葉を述べられています。  つまり、国も国民と言う個人の犠牲を慮り、当時の御自らのお立場から言って、降伏即ち刑死で有る事は明白なのに、戦争を止める事をご決断なされたのです。 だから、「終戦」の詔なのでしょう。

 第二次世界大戦で、日本が失った国民の数は325万柱、(3%)ですが、ソ連は2千万人(7%)と遥かに多いし、他の欧州国家も、失った国民の数は、相当数に上り、パーセンテージの数字の上だけなら、日本だけが、特別に戦死者が多かったワケであはりません。 事実、職業軍人の中には、「まだ戦える、何故、降伏するのだ」と、陛下の玉音放送のレコードを血眼で探して、放送させてはならじ、と動いて居た形跡が有ります。

 然し、玉音放送は流れて終い、戦争は終わり、武装解除が全軍に通達され、全軍も亦是に素直に従って居ますが、前日まで激しい戦いを繰り広げて居た相手に投降するのですから、その後の状況は、極めて危険なものである事は、謂うまでも無い事だったでしょう。 然し、日本軍は、陛下のお言葉に従い、相手が野蛮人なのを承知の上で、被害を懼れる事無く随いました、其れに対する反発も、ごく一部に過ぎなかった。
  
 この事象が、ヘーゲルが言う、「規範(義務)を強制する国が、国民の自由を保障する」という事が、戦後の日本の現実にあり得た具体的な例示であり、其処で、陛下のご判断に委ねた国民のお上に対する、驚く程厚い信頼が見て取れるのです。 そして、戦後は、ヘーゲルの言う通り、国民は、図らずも戦争からの自由「=国家を護る義務からの自由」を得ました。 是は、日本軍の強さを懼れた米国が考えた、日本を非戦国にし様と言う事から出た、単なる偶然なのかもしれません。

 彼らが日本軍を懼れて居たのは、日本軍が投稿してからの国際法違反の、無抵抗の日本軍将兵に対する復讐行為が、主に、英米豪軍の将兵に拠って行われ、是等、卑怯千万な行為で、少なくない犠牲を払い乍も、武装解除と終戦を実践して見せた日本人こそが、唯一ヘーゲルの言って居る事を、理解していた国民で有った事を示す証拠であると、私も思います。

 そして、遠く離れた島国の君主である日本の天皇が、ドイツ観念哲学の泰斗、ヘーゲルの言わんとした事を、具現している唯一の国家であった事は、日本の威力分離の「民をオホミタカラとする、権威の祭祀王を頂点とする政体」こそが、人類が辿り着くべき、理想の国の政体である事を示して居るのだ、と思います。

 然し、この措置に不満を抱いて居たのが、実は、昭和初期生まれの当時18~15歳の少年達であった事は、国家が、個人を他者との社会での関わりに置いて、教え、良き国民となる様に育む途上の人達であった事は、教育に一番大事な時期を戦争に奪われたのだから、致し方ない事であろうと考えます。

 この世代は私の父親や叔父叔母の世代ですが、このお話を聴くまで、彼らは、国と個人の関係の理解が一様に歪んで居て、実は良く分って居ない様に感じていました。 そして彼らの中から、朝鮮族の鳩山由紀夫や小泉純一郎が、純粋の日本人で有る筈の河野洋平と言う売国政治家が出た事は、教育は一貫し完結させねば、その結果が、大きく歪んでしまい、その本質迄も損なって伝わってしまうのだと、確信します。

 今一番、イケないな、と感じるのは、斯うした宮崎さんの様な、庶民を啓蒙して、日本の真の精神を教え、歴史の重大性に全く気が着けない、野蛮人共の、嘘だらけの空っぽの文明を、妄想と史実をないまぜにして、あやふやなものから、自分勝手に、無かった事を捏造したり、あった事を抹消したりして居る事でしょう。

 韓国やシナがそう言う事をやって居るのは、他国の話なので無視するとして、日本人は、ちゃんとした歴史を学び、我々の先人が決して野蛮な戦いや振る舞いををしたのでは無かった事を後世に伝える知見を、我々は持つべきです。

>つまり、「人権」というのは、合理的に理解できるものとは違い、政治的に作られた概念であるということになります。

戦後の教育では、人権は天賦のものと考えられている気がしますけれど、実際は政治的に作られた概念だと思います。

昔、SFを読んでいるとき、人間は一つの人権を持っているが、猿はそれの2分の1の権利を有する。そして○○は猿の2分の1の権利を有する、と言う短編小説があったのを思い出しました。

勉強もせずにSFばかり読んでいたのですが、あの頃のSFは日本SFの勃興期であり、少年達に夢を与えてくれ、未来は輝かしいと同時に柔軟な発想を持つ頭を養ってくれたと思います。


>そこで天皇は、民を大御宝(おおみたから)と呼び、「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」と呼びかけられておられる。  

外国の場合、王は国の全てを所有しているから国民を富ませるという発想はないが、天皇は民を大御宝と呼び、一つ屋根の下の大家族との発想を呼びかけられるのは日本だけのものだし、国ではなく国家として一体感のあるのも日本だけである。
これを考えると、外国の場合起業して成功したらその会社を売って、後は余生を豊かに過ごすとの発想が素晴らしいとされているけれども、日本は会社も従業員も一緒に豊かになろうという発想がある。
その中で、経営者も従業員も家族という発想は、日本だけだと思う。

本来はそんな考えで生活してきたのが日本で会ったのかも知れないが、戦後はその考えはなかったものとされ、経営者は資本家であり従業員とは相容れないとの考え方は主流となりました。

しかし、戦後の経営者と従業員の立場は、終戦までとは違っており、この対立は連合軍が植え付けることで、日本の中を分断させるものであったのかも知れません。
これは、日本人に分断を認識させ、経営者と労働者に対立を持ち込む計画の下に実施させられたのが、本当のところであったと思いますが、それの真偽を確かめる方法はありません。

それから、終戦後の日本には、戦地から戻ってきた兵隊達は仕事はがなかったのですが、聞いてみますと、出生する前の会社に戻っていった人が結構多かったように思いますので、これは経営者と従業員の関係が良かったからこそ、成り立ったことだと思いますし、戦後の教育は嘘を教えることで、国民に対して分断を図ったのかも知れません。

それから、松下電器の創業家は、松下電器が苦しくなったときに会社の経営から離れていたにも関わらず、資金を融通したと聞いています。こんな損しかしないことは、外国の企業ならばないことだったとも思います。
これは、家族型の経営の素晴らしい部分だったと思うのです。尤も、これに対して助けられた会社は、社名から松下を無くすことで恩に報いたと思います。

日本の国は、八紘一宇を天皇がこれを信じる家族として唱えたと思いますし、これの実行のために教育勅語も教えられて、進められたと思います。

そして、この無私の精神を連合軍は恐怖に思って、真っ先に教育勅語を日本国民から取り上げて、民族内の対立を作り、煽ることで日本の国力が復活しないようにと考えたと思います。

縦椅子様

今日も素晴らしいブログ有難うございます
≪人間は、生まれながら人間としてあるのではなく、社会や国に人間として育てられて初めて人間となる。≫、
≪「国民に寄与することこそがあらまほしき国民の自由のあり方」であるとする、その自由を見事に実現した国が存在するのです。世界の中で、唯一日本だけなのです≫
≪教育勅語の説く徳目はそのような「他者とのつながりの中で人間となる」ことを示しており、他者とは断絶した「個人」の人格的完成を説くものではない。≫
ホッポさんのおっしゃるように松下幸之助氏をはじめとする企業人は家族型の素晴らしい経営を実践され、徳を従業員一人ひとりに及ぼされました。私事なのですが、結婚してすぐに重篤な病気になり、その後も入退院を繰り返してきた人が、会社から見捨てrられず、なんとか定年まて面倒を見ていただき、個人におおみたからのように接していただいた経緯がありまして、日本の企業の人を大切にする経営に大変恩義を感じております。昨今では、昔のような長いスパンの終身雇用を維持するのが厳しい状況ですが、何とか次世代が、存続できるようにと祈るばかりです。

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