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2018年7月26日 (木)

日本は偉大でなければならず、未来永劫生き永らえねばならない

ーー以下「宮崎正弘ブログ読者の声(稲村正治)」より抜粋編集

ヘーゲルは物質の歩み、生命の歩み、人類の歩みを、精神の自己運動として、壮大な物語(スケール)で描いた。

その後、それらを総括して、<生命ー認識ー教育>の三項の論理としてまとめた。  

1、生命とは、その環境に合っ た完成された生き方つまり本能を意味する。

2、認識とは、その本能を一旦否定し、消去して、自力で生き方を言葉によって再構築すること。

3、教育とは、その認識を覚え理解しやすいように体系化したものを意味する。

つまり教育とは、本能(生命)を捨て言葉を手にした人類が生きるために必要な道具であるということになる。

ーー

本能は、ある特定の環境を生きるために最も合理的な生き方である。

したがって、環境が変わると不合理な生き方となりその個体は死滅してしまう。

つまり本能は、環境の変化によって合理性を失ってしまうのである。

本能のその限界を克服するためには、環境を言葉で認識し、環境を変えるか利用する必要がある。

そしてその認識を、子孫に伝えるために工夫した認識体系が教育なのである。

ーー

人間は、環境が変化しても生きる残るために、あえて本能を捨てた。

そして、あらたな環境に適応するために、環境と自分を言葉で認識し、自分を環境に適応させる、あるいは環境を変えることによって生き続けた。

生き続ける過程で、つまり環境を言葉で認識する過程で、言葉で自由に思考できることを知る。

そして、自分の感覚以外の世界が、言葉によって自由に構築できることを知るに至る。

ーー

このいわば抽象的な言葉を手にすることによって、人類は、環境(天上界から世界)を丸ごと論理的に俯瞰することが可能となった。

こうして人類は、本能の限界を克服したのだった。

つまり、人類は、自分が住む世界を超える宇宙までも言葉で理解し、それを教育によって後世の人類に伝えることができるようになった。

ーー

言葉で自由に思考できることを知ると、人類は世界を丸ごと捉えようとする。

ギリシャの哲学者パルメニデスは、「世界は一にして不動」と考えるに至った。

またアリストレスは、有為転変する現象世界の上に真理が存在する、と考えた。

この考えこそが、ニュートンの万有引力の法則の発見の背後に存在していた考えだったのである。

ーー

つまり、知識や思考を、覚え易く理解しやすいように体系化することによって後世の人類にそれを引き渡すことができる。

厳密に定義された言葉を道具に使い、人類の個別の感覚を超えた認識の世界までを記述する。

それがヘーゲルが創り上げた弁証法なのだ。

この認識は通常の日常生活や個別科学の中からは絶対に生み出されないのである。

ーー

幸いなことに、その貴重な哲学は、学ぼうと思えば学べる環境にある。

ところが、マルクスによって「哲学はヘーゲルとともに終焉する」と宣告され、そしてマルクスの仲間たちによって、哲学は過去のものにされてしまった。

ーー

これによって、言葉による世界についての認識の方法論が、失われることとなった。

このことは極端な言い方をすれば、人類が本能を捨て、言語による認識によって生きる道、すなわち他の生物とは違う人間として生きる道が、閉ざされてしまったことになる。  

ーー

国の形態は、大きく分けて人治国・法治国・人倫国の三種に分けることができる。

人治国とは、権力者が強い力を持っている無法国。

二番目の法治国とは、法に権力者を従わせている国。

三番目の人倫国は、江戸期に実現されていた日本国である。

日本社会は、権力者も住人も人倫(自分たちで作り上げた道徳)に従う国を実現していた。

その日本社会を記した外国人がいたことを、河添恵子さんが紹介している。

ーー

それは日露戦争当時母国の再建を志して日本に支援を求めて来日したという、ポーランドのドモフスク氏だ。

彼の著書「光は東方から」には以下のような記述がある。

ーー

「日本は偉大でなければならず、未来永劫生き永らえねばならない」

「それをその全ての息子が望み、そのためなら全てを投げうつ覚悟がある」

「この熱意、全てを捧げるという心構え、それこそがまさしく日本の財産であり、強さの源なのであり、勝利の秘訣なのだ!」

「二十世紀もの長きにわたり、国として存続してきたというその連続性の力は、この民族を統合し団結させた」

「その結果、日本人においては集団的本能が個人的本能をしのぐことになった」

「日本人は個人である以上に社会の成員なのであり、自らの行動においては個人的利益より全体の利益を優先する」

ーー

動物の社会には外から縛る法は存在せず、本能によつて社会が保たれている。

人類は、その本能をあえて壊して、人間になった。

つまり人間は本能に代わる道徳を教育しなければ社会が維持できなくなった。

その道徳教育を否定してしまうと、社会が維持できなくなるので、強権的に社会に従わせる法がどうしても必要になる。

ーー

これに対して日本は、早くから国の理念としての17条憲法のもとに国創りをしてきた。

これはまさにヘーゲルが説く、人倫国における国民のあり方そのものなのだ。

だから、このドモフスク氏が熱く説くように「日本は偉大でなければならず、未来永劫生き永らえねばならない」のだ。

それは日本が、人類史の中で人倫国を実現した唯一の国だからである。

そして、マルクスによって人倫国への道が閉ざされてしまった世界において、唯一、人類を救えるのは日本しかないからです。

(稲村生)

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本文明が人倫政治を、行える迄に通過した事
 このコメントを書くちょっと前迄、他のブログに「日本人の戦争に対する認識と東京空襲の話」をA4用紙2枚分(約2千字)を書きおわった際に、突如文章が全部消えて終い、朝から発狂して居たのですw 

 今年も「鎮魂の夏」が近づいて居ますので、TV(特にNHK)が終戦特集を亦ゾロやって居ますが、あの「火垂るの墓」的な悲惨な話ばかり聴かされると、気が滅入って終います、 あの話は、野坂昭如と言う、所謂「焼け跡派」を自称する作家が、書いたものですが、その話の契機になった、と思われる、一枚の写真がある事を思い出します。

 それは、「火葬の順番を待って居る兄」と言うキャプションが着いたもので、中学生くらいの男の子が、亡くなった小さな妹を背にして、茫然と佇む写真でした。

 今でも、そ写真を思い出すと涙が溢れて来て困るのですが、このお兄ちゃん、妹を護ってやれなかった事への悔しさ、父母に対する申し訳なさ等々、たった一枚の写真ですが、色んな空想が、しかし、多分現実であっただろと確信できるその共感こそ、日本人同士と言う証拠なのだろうと思います。

 人治や法治国家は世界に数多あるが、人倫国家と言うのは、日本だけだ、と仰有っている意味は、例えば、昭和19年の暮れに東京空襲が、再開されましたが、久我山の15センチの高角砲にでもやられたか、1機のB29爆撃機が、市街地に墜落して来た、幸いに墜落した事で、家は壊れたけれども、住民側に死者は出て居なかった様ですが、B29の搭乗員は、全員死亡しているのが発見されました。

 空爆と言うものを経験した事は勿論ありませんが、普通に想像しても、戦闘では無く、唯の計画殺人ですから、怖いのは当然で、墜落した爆撃機の搭乗員は、袋叩きにして殺されるのは当たり前だと、私も思って居ました。

 処がです、その空爆を受けて居た住民が、その爆撃機の搭乗員の死体をかき集めて供養し、慰霊碑まで造ってやって、通信が回復した戦後に、遺族を探し出して、遺骨や遺品を手渡したそうです。

 米国は、この約4ヵ月後に、同じ東京を300機を超えるB29の大集団で、絨毯爆撃を行い、1晩で10万人を超える民間人を焼き殺したのですから、同じ人類だとは思えない仕打ちですね。 仰有る通り、法治国家と人倫国家の戦争に対する、或いは、人間の生命観の違いは明らかですね。 

 それは、戦後の70年代に、人気ロックバンドレッド・ツエッペリンが広島公園を行った時に、グループのリーダー的役割を担っていた、ギタリストのジミー・ペイジが、平和祈念館を訪れ、数多の写真を看て「こんな酷い事は、人間が人間に対して出来る事では無い、ごめんなさい」と、泣き崩れたと言う話を聞いて、やはり、人間の本質には、良心と言うものが眠って居ると確信しました。 

 日本人にとっての戦争は、「したくは無いが、国民として、しなければならない仕事であり、義務である」だったのですが、仕事となれば、其れ形の自身の誇りと、命を惜しむ気持ちがないまぜになりそうなモノですが、一旦、軍隊に入れば。そういう個人の事は、無視されます。 そして、日本人派それを無条件で受け容れます、何故か? 仕事だからです。

 特に日本人は、ポーランドのドモフスク氏が仰有る様に、団体の一部な完全になり切れる組織への信頼感、忠誠心を持って居ます。 是は、普段でも社会で、「自分の持ち場」を与えられ、その仕事を全うできないと全体がうまく機能しない事を、子供の頃から、知って行きます。

 是が出来無いと、皆からお荷物扱いされたり、虐めにあったりします。 ダカラ、皆必死になるのですが、戦前の集団には、相互扶助の精神が働いて居て、レベルより劣ったものも、優れたもの、自分の責務を果たしながら、助けて行き、自然にその集団のリーダー的な役割を担う様になっていました。

 欧米の兵士の殆ども、普段は日本と同じく一般の市民です。でも、日本の様に社会が閉塞的ではなく、地域にも出入りは自由です。 ですから、日本の様に、地域の代表だの家門の誉れだとか、余程のエリートでもない限り、背負って居るものは有りません。 軍隊などの組織に入れば、当然規律に縛られますが、軍隊の中での相互扶助は、それ程なさそうです。 ですから、愛国心が生まれる理由が希薄ですね。

 では、なぜ戦うのか、と言えば、一番は金の為、そして、名誉の為、然し何と言っても、社会や国が、人間の生存本能を人為的に危機感を募らせて、自国の正義と戦意識を高揚させている、全く、外的な刺激に拠るもので、日本の様に内発する義務感とか、愛国心と言うものとは縁遠いでしょう。 ダカラ、劣勢に立つと総崩れし易いのですね。

 とはいえ、戦争行為は、単純に言えば、人殺しでしかありません、戦って居る人は全て、戦争と言う自動的に自分の身を極限に置くシステムに入れられて、戦闘行為をして居る時は、結果について、あれこれと考える余地など無いでしょう。考えた人は、生き残れない様にできているのが戦争です。

 然し戦争が終わったら、自分がやった事がどういう結果を齎したのか位、確認するべきではないだろうか、 処が、原爆を広島に落したエノラ・ゲイの搭乗員は、終に一人も平和祈念館で自分達が投下した爆弾が破裂した結果を看て居ませんでしたね。 クリスチャンって、神に贖罪さえすれば、全てが許されると思って居るのでしょうね。 

 大事なのは、「こういう過ちを繰り返さない事で有って、復讐を受け容れるとか、容れないとかと言う話では無い」と、日本人の多くが考えて居る事が分らないのは、自分達が被害者になった、「リメンバー・パールハーバー」を旗印に復讐戦をやって、散々残酷な事を自分に赦して来たからでしょう。 謂わば、是が法治国家の限界なんですね、彼らが日本的な愛国心を持つ事が未来永劫に有りますまい。

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