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2018年7月24日 (火)

武士は幼い頃から公のために学問と武藝に励み、絶えず精進することを強いられた

ーー以下「黒木頼景ブログ」より抜粋編集

政治に関心の無い民衆が政治家を選ぶ民衆政治なんて制度は、利益よりも害の方が多いのではないだろうか。

藝人やスポーツ選手ばかりではなく、日本国を破壊しようとしている反日分子まで議員になるんだから。

「こいつに入れたのは誰だ?」と叫びたくなるじゃないか。

ーー

我が国の民衆政治には疑問点がいっぱいだ。

庶民に参政権がなかった武家社会からは、庶民の生活をよくしようとして政治をした人材が次々と輩出された。

ところが、戦後、誰もが等しく政治に参加できるようになると状況が一変した。

議員が民衆を搾取し、国益を損なうことを平然と行なうようになったのだ。

ーー

日本人は武家政治と民衆政治の両方を“社会実験”してみて、「民衆政治」に幻滅したというのが本音なのかも知れない。   

ーー

日本人には民衆政治に関して深刻な誤解がある。

みんなで投票すれば、素晴らしい議員が選ばれる、という幻想だ。

民衆から選ばれた人でも、民衆のために働くとは限らない。

むしろ、国民を騙したり、国家に害を為す法案を通したりする。

ーー

制限選挙の時は皆が投票権を欲しがった。

ところが普通選挙が当り前になると、急にその熱気が冷め、「無党派層」が4割も出てきてしまった。

中には投票所に行かない人まで現れてきた。

ーー

多くの国民にとって、政治は「他人事」あるいは「自分の一票ではどうにもならない巨大な化け物」となっていた。

だから「優秀な役人にお願いしまぁ~す」、とか「政治家に丸投げしとけ!」という態度になる。

ーー

一般的に、アホが凄い人に憧れる事はあっても、愚者が天才を見出すことはない。

英雄は運命の女神によって導かれるし、逸材は名君によって「一本釣り」されて輝く。

我々は歴史上こうした例を幾つも見てきた。

ーー

例えば西郷隆盛は、明治維新が生んだ傑作である。

島津斉彬が、名も無き農政事務員(郡方書役助)から、彼に仕える小姓(御庭方役)に西郷を抜擢したことで、西郷は後に天下を動かす元勲となった。

もし、斉彬公が西郷吉之助の意見書に目もくれず、単なる下級藩士の嘆願書と捨て去っていれば、西郷が日本史に刻まれることは無かった。

ーー

殿様は普段から藩政を考え、有能な人材を求めている。

「これぞっ!」と思った藩士に出逢うと、ためらわず登用し、懸案の仕事を任せることがよくある。

たとえ、重臣たちが反対しても、「余の勝手じゃ !」の一声で決めることができた。

今の政治家にしたら溜息が出るほど羨ましいことだろう。

ーー

だいたい、最初から藩主だから、それ以上の出世は望まないし、家臣や領民に媚びる必要も無い。

しかも、手元に豊富な資金を有しているから、仕事を任せた者に気前よく活動資金を渡すことができる。

ーー

主君に一本釣りされた西郷だが、その西郷も人を見る目があった。

この人にまつわる逸話は幾つもあるが、幕末の知識人、橋本左内との邂逅(かいこう)は特に素晴らしい。

越前福井藩に生まれた左内は、京都や大阪で学を修めると、医者である父・彦世(ひこよ)の後を継ぐはずであった。

しかし、藩主の松平慶永(春嶽)は左内の才能を惜しんだ。

そして、「汝こそは、人心の病を癒やすより、国家の病を癒やすに足る者だ」と評した。(松波治郎 『武士の子』 彰文館 昭和17年 p. 82)

ーー

維新の功労者となる春嶽は、左内を親衛隊に編入させ、江戸に遊学させようとした。

これを耳にした左内は感泣し、天下の志士となろうと決意する。   

左内の素質は幼い頃から抜きん出ており、その頴才(えいさい、優れた才能)は周囲の者を仰天させている。

ーー

例えば、彼が10歳くらいの時、父に連れられ御典医である半井仲庵(なからい・ちゅうあん)の家に赴き、蘭学の講義を受けた。

仲庵が講義を終えると、左内は半井先生の前に進み出て、次の講義会までその蘭学書を貸してくれと申し出た。

仲庵先生は「馬鹿な事を言っちゃいけない。面白い絵などないんだから」と諭したが、それでも左内は引かず「ぜひ読みたい」と言って懇願する。

仲庵は「生意気な小僧だ」と思ったが、父親の彦世も「大切にさせますから」と頼むので、仕方なく貸した。   

ーー

そして、次の講義の日が訪れた。

左内が約束通り蘭学書を返しに来たので、仲庵は「どうだ、読んだか?」と冷やかし半分に尋ねた。

すると、左内は怖じ気づくこともなく、「読みました」と答えた。

仲庵は「10歳程度で蘭書が読めてたまるか!」と心の中で思った。

ーー

そこで、仲庵は蘭学書を開いて、「じゃあ、ここを読んでみないさい」と突きつけた。

すると、この児童はニッコリ微笑んで、すらすら読んだ。

仲庵先生、「どうして読めるようになったのか?」と小さい声で訊ねた。

左内、「あれから家に帰って、母親に蘭学字典を買ってくれとせがみ、昼も夜もずっと本を読み続け、貸してもらった蘭書を半分くらい読んでしまいました」と。

仲庵は「参った !」と頭を下げた。

そして、左内に「その書をあげます」といった。

ーー

こうした神童が鬼才のまま成長し、西郷南洲と出逢うことになる。

ーー

橋本左内が西郷に面会を申し込んだとき、西郷は大好きな相撲を取っているところだった。

当時、西郷は丁度30歳。

活力に満ちたその巨体はまだ肥満で病んでいなかった。

晩年の西郷は馬にも乗れぬほど太って、明治天皇が心配されホフマン医師を派遣して診察させるくらいだった。

ーー

一方、左内は五尺(155cm)ほどの小柄な男で、どちらかと言えば女のような体型をしており、しかも色白ときている。

とても、豪傑の風采ではない。

しかし、この対照的な二人には共通点があって、それは祖国に対する献身であった。

ーー

安政四年、左内は、芝田町にある薩摩邸を訪れ、西郷の高名を慕って来た、ぜひともその高説を聴きたいと願い出た。

左内は、西郷に向かうと、ペリー来航で激動する天下の政治を滔々と語り始めた。

すると、西郷、「この吉之助は天下の大事ぢゃの、国家の安危ぢゃのという事は一向に申さぬ」。

「ただ、土俵をこしらえて毎日相撲をやるばかりぢゃ。角力(すもう)の事なら少しは詳しい。御身も角力がやりたくば、オイどんの處までおいでなさい」とあしらおうとした。

ーー

左内は、「左様でござるか、先生は御体格が御立派であるから、角力取りにおなりなすったら、なるほど幕内くらいにはなれるでしよう」。

「が、惜しいかな、国事多端、先生の御本望である角力取りにはなれないでしょう。御心中お察しします」と応えた。

西郷がそんな佐内を見つめると、好機到来とばかりに、左内は自分の意見を口にした。

ーー

左内は、懐からアジアの絵図を取り出すと、西郷に冷徹なる世界の情勢を示したのだった。

左内は清朝皇帝の逃亡や、英仏に侵食されている支那の惨状、将来における英米との貿易について語った。

膝をつき合わせる西郷の目を見据えると、「先生の御意見はいかがでござる」と迫った。

ーー

この説を聞いた西郷は、すぐに左内の炯眼(けいがん)を見抜く。

西郷は、自ら膝を前に進め、我を忘れたかのように両手を突いて頭を垂れた。

「これは恐れ入った御卓見、先刻来の御無礼はお許しください」

「どうか今日はこのままお引き取り願い、改めて不肖西郷の門を叩いていただき、さすれば我が所見をの述べましょう」と謝った。

左内、「この後、御交際下さらば、我が身の為め喜ばしきのみならず、国家の為め喜ばしく存ずる。瓢(ひさご)も三個よれば転ばずに立ちます」と返した。(小金井蘆洲 『西郷南洲』 博多成象堂、大正7年 pp.108-109)   

ーー

この両雄はたった一回の会見で、百年来の友人であるかの如く親しくなったという。

以来、西郷は左内と交際を続け、周囲に向かってこう述べている。   

「先輩では藤田東湖先生、同輩では越前の橋本、人物としてはこの両人を推す」(『西郷隆盛』 文永館、大正4年 p.47)   

ーー

天下に尽くそうとして、勤皇の志士となった左内は、一橋慶喜を将軍に立てようと奔走した。

京都では名前を桃井亮太郎、あるいは伊織と改め、日夜、志(こころざし)を同じくする人物と交わった。

安政五年九月、井伊大老は「安政の大獄」を起こし、左内は多くの同志と共に捕縛されてしまう。

幕府に捕まっても左内の信念は揺るがず、獄吏からの拷問にも耐えていた。

左内は獄吏から厳しい尋問を受け、水戸斉昭に送った内旨(ないし)について吐くよう強いられたが、決して口を割ることはなかった。

ーー

それどころか、左内は獄吏に向かって「内旨は秘密だから内旨と言うのだ、分からぬか!」と反対に叱り飛ばしている。

1859年(安政6年)、橋本左内は、伝馬町牢屋敷で斬首となった。享年25。

ーー

幕末維新には、数多くの有能な人物が志半ばで亡くなっている。

もし、左内が明治維新を迎えていたら、どんな役職を担っていたことか。

本当に惜しい逸材を失ったものである。

ーー

昔の武士と現在の議員との決定的な違いは、公(おおやけ)に対する態度である。

情けないが、投票で選ばれる国会議員には、当選してから“勉強”する者が少なくない。

しかし、その勉強も狡猾な官僚からの「講義」だから、実質的には官僚による「洗脳」と変わらない。

いつの間にか官僚の言いなり、役所の代弁者になる。

ーー

武士は幼い頃から公のために学問と武藝に励み、絶えず精進することを強いられた。

物心ついた頃から、「世の為、人の為に尽くせ」と周囲から諭されるので、10歳くらいでもその心構えが出来ている。

書物を読むのも、剣の腕を磨くのも、すべては公に捧げるためで、私的な欲望を満たすためではない。

ーー

西郷が学問を修めたのも公のためで、国家や庶民を救うためなら自分の命は省みない。

農民を担当する下級役人となった西郷は、心の底から百姓をいたわり、何の見返りも求めず、只ひたすら彼らの生活を案じた。

ーー

西南戦争のときも、薩摩の不平士族を満足させるために、敢えて担がれたのだ。

つまり、戦(いくさ)で痛い目に遭わないと桐野利秋たちは納得しないから、勝てないと判っていても、西郷は文句も言わず「担がれて」やったのだ。

いや、むしろ西郷は自滅をわざと選んでいたのかも知れない。

ーー

蘭学を修めた左内も公に尽くすことを当然と見なし、貧しい者や憐れな者に救いの手を差し延べていた。

例えば、彼が適塾にいた頃、夜中に度々、外出することがあったという。

実は、夜遊びではなく、病に苦しむ貧乏人を診ていたのだ。

鼻を突くほど臭い乞食であったが、左内は一向に気にせず、親身になって診断し、無償で薬を与えてやったという。

そして、天下の政治(まつりごと)に係われば、命を惜しまず、危険な事でも敢えて行った。

左内には、他人に知識をひけらかして出世しようとする打算は一切ない。

全身が「お国の為」という精神で満ちていた。

(そう思わざるを得ない証拠がある)

ーー

昔の武士には、たとえ我が身が朽ち果てようとも、きっと誰かが自分の意思を引き継いでくれる、という信念があった。

実際、斬首刑になる前、牢獄に繋がれた吉田松陰は『留魂録(りゅうこんろく)』を執筆し、そのほとばしる情熱は高杉晋作らに引き継がれた。

たぶん、多くの志士が同じような育ち方をしていたから、左内や松蔭の魂に“共振”したのだろう。

こう考えると、両雄の死は決して無駄ではない。

彼らの肉体が灰になって土に還ろうとも、その精神は不死鳥のように蘇り、同じ肉体を持つ日本人へと受け継がれて行く。   

ーー

今の多くの代議士には、祖国日本への限りない愛と大義に殉ずる士魂が無いように思える。

彼ら、特に反日野党の代議士にとっての祖国はこの日本国ではないのだろう。

彼らは、当選すると彼らの祖国のために活動しだす。

ーー

そして、目出度く役職に就けば、利権漁りと再選への準備をしだす。

国家の經綸は官僚任せだ。

彼らにとっては、地元で開催される運動会や、後援者の結婚式と葬式に出席することの方が遙かに重要だ。

また、議員らしく見せるための演説には、自分の決意というものがほとんどなく、官僚が作成した原稿を読むだけ。

ーー

政務次官や大臣になっても、専門知識が無いから、単に威張っているだけだ。

しかも、国政を任された為政者という意識がないから、国家の命運を左右する軍事・外政には関心が無い。

というより、議員は、票にならない苦労はしないのだ。

ーー

そもそも、投票権を持つ一般国民が国益に無頓着なんだから、代議士が無視するのも当然だろう。

ーー

中高年の有権者はこの議員の実態を知ると怒りで血圧が上がってしまうはずだ。

が、大多数の議員はだいたいこんな調子である。

どおりで、国家破壊を悲願とするような反日左翼議員が幅を利かすようになる訳だ。

「民衆政治」だと民衆が不幸になるんだから、何とも皮肉な現象である。

ーー

民衆政治は凡庸な議員を大量に作り出す。

それはもう仕方ないが、せめて彼ら議員には、「公の職務」に就いているという自覚だけは持ってもらいたい。

反日売国行為はもちろんのこと、文書交通費のネコババとか、政務活動費の不正使用なんて論外だ。

いやしくも、国会議員たる者は、日本人としての矜持(きょうじ)を持つべし。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>幕藩体制下の郷中教育が輩出したエリート達
 「民衆政治は、政治を俗化するだけで、結局、人気投票になる」と言う黒木さんのご指摘は、私も常々感じて居た事で、其処を、日本人が、尊欧卑日で、斬り捨てた265年も世を平和に保った幕藩制度を顧みると、日本伝統の分業制度で、士農工商の頂点に立つエリート層である武士階級の子弟教育に辿り着いた、 と言う事だろうと思います。

 此処で、黒木様が仰有ってているのは、大衆の啓蒙の仕方では無く、傑物の育て方、見出し方、だと思います。

 国が危難の中にある時に、身を挺してでも、国を護らんとするモノが、そして、其れを束ね、導けるダケの知見と度量・胆力を持った人物を、社会が要求している時に、輩出できる制度が有ると言う事は、世界でも稀な話ではないかと思います。

 そう言う意味で、日本の幕藩制度における、郷中教育は、基本的に読み書き算盤を教え、生活の質、社会の質を高める事を目的とした優れたモノで有る、一方、黒木様が挙げた橋本佐内や、吉田松陰、西郷隆盛等々の、傑物を見出し、育て、活躍させるシステムとしても、うまく機能したのは、黒木様のご指摘通りでしょう。

 では、「その危難から国を救うのに、大衆の啓蒙が必要なのか?」と、枠を広げて考えれば、大衆が為政者を敵としか見做さないシナや朝鮮社会は、いざ知らず、欧州や米国の様に、「力こそ正義」と言う、倫理観無視な癖に、犯罪者を救済する事だけに熱心な、どう考えても実態は偏狭な民族宗教のユダヤ教である、似非キリスト教のいう正義に騙されている民衆は、「その差別主義が、全ての元凶である」と啓蒙して、その偽善を気付かせて行くべきではないかと思います。 

 然し、殊、国家と言う考えに立てば、そも日本と、欧米国家とでは、民族対立の延長に国家が有る欧州と、神の子の国で先祖の累々たる屍を国土として居る、国民とは、自ずと、国に対する志が違うだろう、と私は思います。

 欧米庶民には、個人に与えられた僅か100年にも満たない生命しか無く、日本の様に、我々は死しても、その士魂は死なず、必ず志を引き継いでゆくものが現れる、と、固く信じる事が出来るのですから、その差は大きいですね。

 然し、日本の幕藩制度の士農工商制度が、階層差別よりも分業システムの色合いの方が強かった、証拠に、国内の戦争では、生産民である農民は、戦いや政治には、一切口を出して居ません。 戦ったのは飽く迄、士分にあったモノだけです。

 亦、「知らしめず、由らしめよ」と言う諺が有る様に、政治には、政治に関心の無いものが関わると、人気だけが独り歩きを始めて、何時かしら、本人の実力以上の評価が集まって、結局、無知が故に、大きな過ちを犯す原因となる、と、先人は看破して居たと言う事でしょう。

 是は、現在の大臣経験も無い小泉進次郎が、「次の総理大臣に最も相応しい」と言う、マスコミの捏造アンケート調査平気で報道する事にも通じる話ですね。

 何でもかんでも「知らしめす」事が、使命だと勘違いをして居るフリをして居るマスコミが、放送法改正法が成立すれば、失うであろう自分達の既得権益を護らんと、フェイクニュース「=欺瞞情報」や偏向報道で、自身の信用毀損も意に介さず、正に必死で、ジタバタしているのを、新聞やTVで散々見せ着けているが、是を看破できない、情弱層や反日層が一定数居る事は、大衆政治の宿命だとしか思えません。

 然し、世界の潮流と言うのは確かにあって、「其れに、乗れなかったのが、戦前日本の過ち」だった、と考えれば、生半可に、財閥系の駐在員としての経験から、欧州の事情を知って居た松岡洋右を、全権に任命して、三国同盟を結ばせ、先帝陛下をファシストの道化に仕立て上げた時点で、日本は、大きく道を踏み外したと言って良い。 頴娃奥のジョージ5世と親子のような間柄だった先帝陛下が、松岡をとても嫌っておいでだったのは、有名な話です。

 この松岡も、その背後に居た山形有朋も、そして数多のエリート官僚たちも、幕藩政治の郷中教育が輩出したエリートであったのに、軍人ばかりが生き残った、元勲制度を徴用したが為に、本物のエリートの登用は出来無かったと考えるべきでしょう。そして、近衛文麿の様な、確信的売国政治家が、政治を壟断して、日本を態と、敗戦に導き敗戦革命を企てて居た、日本を共産主義国にしようと考えて居たのですから、日本は負けるべきして負けたと言えますし、江戸期以来のエリート教育は終焉したと言う事でしょう。

 そうは言っても、戦後の民主政治は、「政治はエリート層のモノ」と言う、其れまでの日本の常識から言って、正に、最初の一歩からの歩みで有ったといえましょう。 

 然し、その隙を衝かれて、朝鮮族に政治の中枢を握られた時代が出来した事、日本の大衆に取って、大きな障害となりましたが、其れを機に、今迄、隠匿されて来た、WGIPやプレス・ラジオコードといった、米国に拠る日本民族の洗脳手段や、シナ・朝鮮・韓国と言った隣国の侵略行為を、彼らとつるんだレガシィ・マスコミを介さず、ネットで得られる様になった大衆が、世論形成を自らの手で、初めて行おうとしている、と言えましょう。

 この先、放送法の改正が可決したら、本格的な目に見えるマスコミ改革が始まりますが、同時に、日本が自力で国家を護れるような体制を目指して、情報管理の公的な省庁を創設して、防諜と情報収集、情報管理を、スパイ防止法の制定を軸に、行っていただきたいですね。

日本での政治の選挙は、明治に始まって、徐々にその有権者が増えて行き、戦前においても男性全員が投票する選挙制度になっていました。 
それが、終戦後は女性にまで拡大されて、今では20才以上だったのが18才以上に拡大されています。
しかし、国民全体で国政の政治家を選出することに問題があるとされますと、考え込む他ありません。

だって、生まれたときから選挙は多数が投票権を持っている方が、より公平に代議員を選出されるとの考えてきましたので、選出される側の質に問題があることは、想定外であった気がします。

考えてみれば、選挙に出る者は日本のことを考えており、有権者よりも立候補者の方が、政治を行うのに適正であることを前提にしてきたのです。

これが、立候補者だからと言って優秀なものではないと考えますと、困って答えがないというのが実態でしょう。
そう思いますと、武士社会の時には、生まれたときから民のために働くとの前提で生活してきたから、武士は生まれながらに民のことを考えていなければならなかったと考えるのは、なる程と思います。
後は、その者を大名が、取り立てるか否かだけであった。
日本は何事も、餅は餅屋の世界です。

これらは、日本は、乱世の時に人材が豊富であったと言うことに繋がると思いますが、これは反面で、乱世の時に困らない程に、常に人材を準備していたからこそ出来たことなのだと思います。


今の政治家を考えるとき、特徴は責任を取らないし、取りたがらないが、権力は欲しがることだと思います。
権力と責任は付きまとうものですが、責任から逃れようとすることには呆れます。
それだけ覚悟というものを、忘れてしまったと言うことでしょう。

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