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2018年6月23日 (土)

長期戦になればアメリカの経済動員により日本もドイツも勝利の機会はない

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』(新潮撰書)

副題に「秋丸機関『幻の報告書』の謎を解く」とあって、本書がその報告書の内容について論じたものであることを示唆している。

「秋丸機関」とは日米開戦を前にして、敵側に回りそうな米国、英国、ドイツ、そしてロシア(ソ連)の国力、その資源、人力、産業基盤(インフラ)等を精密に事前調査・分析する組織だった。

「秋丸機関」は、その国力、戦力を経済の視点から分析し、戦争の勝ち負けを大胆に予測した。

陸軍の『有識者会議』とでも言おうか。

ーー

表向き陸軍の頭脳集団(シンクタンク)といえるかも知れない。

創設を発案し、学者を動員して組織化した中心にいたのは岩畔豪雄(いわくろひでお)である。  

岩畔豪雄は、秀逸な官僚だった秋丸次朗を満州から呼びよせ、正確な情報にもとづく情勢判断と戦争の予測を集中して研究させたのだった。  

かれの率いた岩畔機関とは、あの時代に軍内に存在した「藤原機関」「南機関」同様の諜報謀略機関だった。

登戸(のぼりと)研究所創設、陸軍中野学校創設、偽札技術の導入と青幇(ちんぱん、支那ヤクザ)を使っての後方攪乱など、当時日本軍が実行したあらゆる謀略に岩畔機関が関与していた。    

ーー

表題にある秋丸機関は岩畔がつくらせた特定目的(アドホック)頭脳集団(シンクタンク)であり、責任者は岩畔だった。

しかも構成員(メンバー)には裁判で保釈中だった有沢広己(アカの統計学者)や中山伊知郎(理論経済学者)、竹村忠雄(戦争経済学者)など経済学者が多数、加わっていた。

その研究成果をまとめた報告書(ペーパー)は、日本の敗戦直前にすべて焼却されたとされた。  

ところが、そのうちの一冊が有沢の死後に、かれの蔵書の中から見つかった。  

幻とされ、焼却処分された筈の「秋丸機関報告書」がでてきたことは、研究者にとっては朗報である。

ーー

この発見で戦前の陸軍が列強の経済実態を研究し、正確な分析をしていたことが分かった。    

ーー

その時代背景を著者はいう。  

「多くの資源を輸入に頼る『持たざる国』日本が経済力を超えた軍事費支出を行うことで経済統制が必要となり、それは日中戦争により一層深刻になっていた」

「そのために資本主義原理そのものを変革し、公益優先の原則の下で『資本と経営の分離』を実行して私益を追求する資本家から企業の経営を切り離して国家の方針に従って経営する『経済新体制』の実現」が志向されることになる」(p42)  

ーー

なんだか、この状況は、いまの共産支那みたいである。  

ーー

日米開戦にいたった場合、資源供給はうまく行くのかという事前調査(シミュレーション)がなされた。  

「英米とソ連に対して宣戦を布告し南方を占領した場合の経済国力の推移予測(応急物動計画試案)を策定していた」

「が、その結果は鋼材生産額は三分の二に減少し、民需は殆どの重要物資が五割以下に切り下げされるという悲惨はものだった」(p66)  

ーー

ならばと秋丸機関で熟慮された提言とは、次のようである。  

「対英戦略は英本土攻略により一挙に本拠を覆滅することが正攻法だが、イギリスの弱点である人的・物的資源の消耗を急速化する方略を取り」

「『空襲による生産力の破壊』『潜水艦戦による海上遮断』を強化徹底する一方で『英国抗戦力の外郭をなす属領・植民地』に戦線を拡大して全面的消耗戦に導き、補給を絶ってイギリス戦争経済の崩壊を目指す」

そのうえで「アメリカを速やかに対独戦へ追い込み、その経済力を消耗させて『軍備強化の余裕を与えざる』ようにする」

「同時に、自由主義体制の脆弱性に乗じて『内部攪乱を企図して生産力の低下及反戦気運の醸成』を目指し、合わせてイギリス・ソ連・南米諸国との離間に努める」(p92)  

ーー

なるほど、合理的戦略だが、机上の空論である。

ま、学者の研究と提言というのはいつの時代にもそうしたものだろう。  

そして秋丸機関の戦争の結果予測だけはやけに正確だった。  

ーー

「長期戦になればアメリカの経済動員により日本もドイツも勝利の機会はない」

「独ソ戦が短期で終われば少なくともイギリスに勝つことはできるかもしれない」(p102) 

ーー

さて本書の主人公は秋丸次朗だ。

が、評者(宮崎)は、かれは歴史の駒でしかなく、あくまで中心人物は岩畔豪雄(いわくろひでお)であると考えている。

ところが本書では岩畔のことは数カ所でてくるものの具体的には殆ど触れられていない。

そればかりか「日中戦争」とか「太平洋戦争」とか、左翼用語が無造作に使われている。

つまり、その認識に怪しさが伴うのだが、そのことは措く。

ーー

岩畔豪雄(いわくろひでお)は昭和の裏面史を知り尽くしていた。

「大東亜戦争」の名付け親であり、ノモンハンからシナ事変、大東亜戦争の背後で獅子奮迅の活躍をなした。

日米開戦回避のために渡米して交渉したのも岩畔だった。

ーー

戦後も隠然たる影響力を保持したが、特筆すべきは京都産業大学の創始者であること。

知る人ぞ知るが、京都産業大学は設立当初、受験生の人気が薄く、こんにちの就職率ナンバーワンという現実とは乖離がある。

ーー

岩畔は、京都産業大学に今日出海、岡潔、桶谷繁雄、村松剛、小谷豪二郎、福田恒存ら錚々たる保守系文化人を教授陣に招いた。

その一番の愛弟子が佐藤政権下で、沖縄返還秘密交渉の密使だった若泉敬だった。  

じつはその若泉の関係で評者も何回か、この伝説上の人物・岩畔豪雄(いわくろひでお)と会った。

が、三島由紀夫事件の直前、1970年11月22日に忽然と世を去った。  

ーー

岩畔には戦後に数冊の著作がある。

その代表作が『戦争史論』だ。

「昭和のクラウゼウィッツ」とも言われ、学生時代に評者も読んだ記憶がある。  

ーー

敗戦からまだ20年前後のころ、旧財閥は以前ほどの力がなく、働き盛りの4人(小林中、水野成夫、櫻田武、永野重雄)が日本の財界を牛耳った。

この4人が相談すると、日本国の大抵のことは決められるともいわれた。

戦後の高度成長をささえた日本経済の機関(エンジン)「財界四天王」といわれた。

その鹿内信隆、水野成夫なども、岩畔の弟子筋であり、児玉誉士夫なども、岩畔機関に出入りしていた。  

著者には次回作として、この昭和史を裏側で支えた岩畔の評伝を期待したい。 

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>戦前日本の諜報機関
 私の母方の伯父は、大連生まれ・育ちなので、近所に外国人の居留者が沢山いたので、幼い頃から、シナ語を始めとする、外国語に触れる機会が多く、オマケに本土の大学は、早稲田の英文だったので、4~5ヶ国語が話せたそうです。」

 大卒後、伯父は大倉商事に就職したのですが直ぐに、陸軍からの引き合いで、中野学校に入れられ、シナの各地を諜報部員として転戦、終戦直前に、揚子江に墜ちた新型戦闘機烈風の調査に行きますが、其処で、日本が降伏する事を知って、逸早く日本に帰って終戦を迎えたと言って居ました、終戦の時の階級は、中尉か大尉だった様です。

 ですから、日本陸軍に諜報機関があった事は早くから知って居ました、でも、戦史を幾ら漁っても、諜報機関に関する記事は、ほんの少ししか無く、ロシア革命を背後から煽った、明石少佐だとか、TVドラマにも取り上げられたハリマオを使って居た、藤原機関だとか出てきましたが、詳述した本には、終に出遭えませんでしたね。
 
 秋丸機関や岩畔豪雄なんて、全く知りませんでした。 ご紹介有難うございました。 

 どうも、秋丸氏と岩畔氏の間には、確執が有った様な気がしますね。 WGIPと言う国際法違反の、暴挙を背にし乍ら、自分の利益を理由に看過・沈黙して居た当時の学者層ですから、信用が置けません。 秋丸氏の「日中戦争」だの「太平洋戦争」だのの記述は、岩畔氏に対する反発からのものではない加とは思いますが、其処に、GHQへの阿りも有ったかもしれませんね。

 どうも、戦前の右翼系の人は、戦後の記述者が、WGPの関連で、印象操作を多用している所為も、多分あって、高圧的で傲岸なイメージがつきまといますが、岩畔氏の処に出入りして居た財界人は、何れも、戦後の日本を支えた大物ばかりですし、氏が京産大を立ち上げた時に、集まった教授陣の錚々たる顔ぶれを見れば、岩畔氏が如何に隠然とした力を、戦前持って居たかが判りますが、流石に、児玉誉士夫だの出て来ると、ダーティなイメージを受けますねw

 其れに、私は、2・26クーデタ―に関与した北一輝だの極東裁判で、裁判中に発狂した大川周明だの思想家には、余り良いイメージを持って居ません。 前線で絶望的な戦いを強いられていた一般の庶民が、兵士として勇敢な戦いぶりを発揮したのとは、大きな乖離が有る様に思うからだし、同じ国民として許し難く思う部分が有るからです。 でも、一番悪いのは、公家出身の癖に、共産主義被れで、コミンテルンのスパイだった近衛文麿だと言う事は、今は良く分って居ます。

 結局、日本は思想統制なんてできは、しないと端から諦めて居る処があるから、そう言うマヌケな結果になるんですが、戦争で無くなった側は、其れこそ冗談では無いと思いますね。 日本は、元々、民は皆平等で神聖な存在です。 ですから、差別をするのを恥とする部分が有りますが、是が全くて徹底できて居ない。 寧ろ、何某かの力を持つと、途端に世界を征服したかの様に威張りたがる、卑怯で傲岸な小悪党が如何に多いか。

 日本は世界に比すれば、確かに、立派な国であると私もオモイマsが、ガウスの正規分布に有る様に、「集団には、一定の優良な成分と粗悪な成分を持つモノが、各々30%ずつ存在し、集団の動向は、残る40%のどっち着かずの曖昧層に委ねられている」と言う、理論に全面的に賛同しますね。

 日本を変えて行くには、この40%の大部分を占める「サイレントマジョリティ」を覚醒させる必要がありますね。

縦椅子さま

 今日は陸軍の頭脳集団といえるかも知れない、組織化した中心にいた岩畔豪雄の人物像を克明に知らしめてくださり、ありがとうございます。
 ≪岩畔豪雄は、秀逸な官僚だった秋丸次朗を満州から呼びよせ、正確な情報にもとづく情勢判断と戦争の予測を集中して研究させたのだった。  かれの率いた岩畔機関は、当時日本軍が実行したあらゆる謀略に関与していた。 ≫ 
≪ 日米開戦回避のために渡米して交渉したのも岩畔だった。 ーー戦後も隠然たる影響力を保持したが、特筆すべきは京都産業大学の創始者であること。≫
≪岩畔には戦後に数冊の著作がある。その代表作が『戦争史論』だ。≫とあり、昭和史に偉大な業績を残された方を本日沖縄戦の「慰霊の日」にご紹介いただけ、慰霊の気持ちを強く致しております。
 昨日の出来事ですがーー「たまたま上六のバス停で、バスを待っておりますと、上品な老婦人から、お声をかけられ、お話を伺ううちに―その方が二十歳の時に、終戦を迎えられ、許嫁だった方は特攻隊で十八歳でなくなれ、そのお兄様と結婚されたとのこと―激動の人生を送ってこられたのに、とても優雅に赤い、イヴサンローランきこなされ、まるで映画の一コマにでてくるような素敵な方と出会いまして、お別れするとき何度も何度も手をふってくださり、その光景が心に残っております。「昭和」という時代は不都合なものに蓋をされ、記録と記憶から抹消されつつあります。今日のブログのように検証していただくことで、昭和史の記録に残ることでございましょう。本当に有難うございます。

ーー

>「秋丸機関」は、その国力、戦力を経済の視点から分析し、戦争の勝ち負けを大胆に予測した。

仮想的の国力、戦力を経済の視点から分析し、戦争の勝ち負けを予測するのなら、これの予測を元に開戦の是非を政府と陸海軍に知らせることで、その後の政治に生かすことが出来たのだろうかと思いました。


支那事変は、1937年7月7日の盧溝橋での発砲によって始まったものですが、この発砲は支那共産党の陰謀によるものとされていますが、この事件は4日間で事態が収集されました。
しかし、盧溝橋事件の後、7月25日の廊坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の通州事件では民間人を含む230名が虐さつされたことで、第2に上海事件となって日本は支那事変は拡大の一途となったのです。
第2次上海事変は、日本軍が大きな損害を受けつつも中国国民党軍に勝利しましたが、国民党軍は南京に逃げ込み、さらに、南京から重慶に移りました。

この内の盧溝橋事件から通州事件、そして第2次上海事変まではどう考えても日本は、事態の収拾と収束を図っているとしか思えません。
そして、第2次上海事変から南京攻城戦後からは泥沼で休戦は望めなくなり、米国の義勇軍であるフライング・タイガースが編成されてからは目処が立たなくなったと思います。

これは、支那大陸における戦闘で、太平洋や蘭印を含んでいません。


陸軍において、米国や英国・仏蘭西・和蘭・支那の国力・資源・尽力・産業構造を調査・分析した結果、日本に戦勝の結果を得られないとして、政府にこれ以上の戦線拡大は日本に不利益をもたらすから、戦闘の収束を進言できたのでしょうか。

また、海軍だって米国を中心とする国々との戦争を始めた場合、勝利を収めることが出来るとはしていなかったと思います。

そして、戦争を避けられなかった最も大きい理由は、米国・英国は日本と戦争をする意思があり、しかも、日本を追い込むことで、日本に開戦させるつもりだったのです。

日本は、日華事変を戦いながら、米国・英国・和蘭と戦争することが避けられなかったのです。
このようなシンクタンクがあったのなら、戦争の終結を研究して、上手に終わらせる方法を考えて欲しかったと思います。

尤も、開戦初期は勝利が続きましたから、その頃には誰も浮かれて休戦を考えないし、日本が苦しくなった頃には米国が応じないだろうから、休戦はとても難しいことだとは思います。
戦争は、始めるよりも終わる法が難しいし、実際のところ日本はどうにもならなくなってからしか、終わることが出来ませんでした。

京都産業大学は、京都市の北区にある大学で山の中腹にあり、街道からエスカレーターで学校に行けます。大学は広くて整備されており、学生の多い、大きな大学だと思います。

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