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2018年6月 5日 (火)

天皇公家による統治を武家が代行するという政治力学の要諦に触れたものである

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

里見岸雄『天皇とプロレタリア』(展転社)

本書は日本の国の形(国体)を考える上で、重要な文献だ。

1300年以上も前から日本人は、国というものについて熱い思いを持っていた。

実際に人々は、国についてどう思っていたのか、柿本人麿から山鹿素行へと、その思いを1300年間に人々がどう考えていたかを紹介している。  

ーー

柿本人麿は、次のように詠んだ。  

大君は神にしませばあま雲の いかづちのうえにいほりせるかも(万葉集)  

ーー

北畠親房の『神皇正統記』からの抜粋は圧巻である。

「鏡は明を形とせり。心性明なれば、慈悲決断はその中にあり。また正しく御影を模し給ひしかば、深き御心を留め給ひけむかし」

「天にある物日月より明なるはなし。よりて文字を制するにも日月を明とすといへり。我神大日の霊に坐せば、明徳を以って照臨し給ふ事陰陽に於いて測り難し」

「冥顕に就きて頼あり、君も臣も神明の光胤を受け、或いは正しく勅を受けし神達の苗裔なり」

ーー

『神皇正統記』は足利の北朝に理はなく、後醍醐天皇の南朝を万世一系の基盤とした、三種の神器を正統とする天皇論である。

ーー

この作品以前には慈円の『愚管抄』がある。  

ふたつは戦国時代にも読み継がれ、語り継がれ、筆写され続けた。  

徳治を尊び、天皇公家による統治を武家が代行するという政治力学の要諦に触れたものである。

ーー

しかし信長は、これを読んだ気配はなく、秀吉も右へ倣えであったことがうかがえる。

ひとり明智光秀が細川藤孝らとの交遊を通じて熟読したのであろう。

それが本能寺の変となって現れたと評者(宮崎)は考えている。

徳川政権初期には忘れ去られていた。

家康の座右の銘は『貞観政要』であった。

ーー

(日光東照宮の陽明門随身が光秀の桔梗紋(ききょうもん)の狩衣(かりぎぬ)をまとっていることから、尊王を忘れたのではなく隠していたのであろう)

ーー

突如、南朝の正統性を言い出したのが徳川御三家水戸光圀であったことは皮肉だ。

が、爾来、皇室論の中枢に副えられたのが神皇正統記と愚管抄であった。  

ーー

終戦を疎開先の秋田で迎えた里見は言論活動の再開を目指すが、GHQによって公職追放になった。

解除後、論壇にもどるが、そこには過激な左翼学者が跋扈していた。

里見は国体を貶めるような議論に立ち向かい、火のような論説を次々と発表した。

里見の国体論には、古典への目配りが詳細になされているのである。

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コメント

端的に言えば、日本人が、真のヘブライ人・ユダヤ人とすれば、三種の神器と聖櫃(アーク)の本物を所持して居れば、天皇が、戦前現人神で有った意味が解明できるのである。
現人神は、アークから啓示・神示を受けけるレビ族の末裔で有りモーゼの末裔となるからである。
過去に和気清麻呂が、道鏡の天皇に関する神示を宇佐神宮に伺いに行った話があるが、その時まではそのアークは、宇佐神宮に有ったわけで神職のレビによって守られていたことになる。
東大寺大仏開眼に伴い参席後、宇佐に戻っていない。
最終的には、伊勢にまつられている。元伊勢はアークが移動した痕跡である。
天皇の刻印である御名御璽の璽が、アークの形を示していると言われる。
所謂ユダヤのアークとも形的に似ている。
日本では、祭に使う神輿に相当する。
伊勢が何故20年ごとに移動するのかアークの故事にも20年と言う文言と符合する一文が、有るのである。
私は、ほぼ間違いないと思っている。
しかも裏付ける様に日本人男性のY染色体がDグループとなる決定的な要素となる
アークは、出エジプト記に出てくるが、時代背景的にはそんなスーパーボックスが、有ったのか不思議であり正にオーパーツ物である。
最近サウジのメッカでガブリエルの箱成る物が、寺院の修築中に偶然掘り出され、箱が突然発光現象を起こして巡礼者数百人単位が、死亡しているニュースが出て、未だ新しい。
インディージョーンズの映画「アーク」と現象が、よく似ている。
ハリウッド映画は、特に宇宙物とかオーパーツ物に関しては虚実織り交ぜて製作するから信憑性は、有る。

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>先人たちが守り継いだ皇統の価値とは何か
 天照大神の末孫であらせられる神武帝以来と伝えられている皇統は、2676年の長きに亘って、護りぬかれて来たモノですが、史実を眺めて看れば、皇統の継承の危機が、少なくとも3回はあったと私は思います。

 先ず最初の危機は、初代神武帝~十代崇神帝に至るまでの、欠史八代の時期に、国内で内紛が多発しました、九州の熊曽と隼人、四国の伊予と土佐、阿波と讃岐、中国の周防と安芸、出雲と吉備、そして、近畿では、丹波と河内、北陸では、蝦夷と越族(東夷族)、中部東海では、尾張と高麗(坂東)と言った具合に、水耕稲作が本格的に広まった結果、人口が急増して、その食糧を確保する為に、豪族はコメを増産しなくてはならなかった。

 よって、新たな水田を開墾する必要があったが、日本は元々山地が多く、棚田耕作法が未だ一般的で無い状況では、良田は限られて居た。 なので、開墾した新田に引き込む水利争いやより恵まれた条件の耕地の奪い合いで、戦になっていたと思われますが、是を、シナの王朝は「倭国大乱」と記して居ます。 

 この争いに終止符を打ったのは、棚田耕作法を伝えた外来人だと思われます。 その耕作法を、崇神帝がお取り上げられて、近畿一円から順番に施行して行き、争いも収まったと思われます。 然し、同時に豪族の力が増して来たので、王朝としては、自身の統率力を維持する為に、大きなコメの産地を確保する必要に迫られて居ました。 是が、4代後の仲哀帝の御代に計画、着手された大阪平野の大開墾で、この時、吉備や丹波、尾張からも開拓民が集まって来て、凡そ、100年近くの工事の末に、大水田地帯が完成させました。

 大阪平野は、大和朝廷の大きな経済基盤になりました。 民は、此の偉業を称えて、水田開墾で出た余分な土と工事力を使って、歴代の帝の陵を造ります。 大和朝廷の国力は、朝鮮半島の鉄貿易を通して、シナ王朝にも伝わって、シナ王朝は此の大和朝廷の王を「倭の五王」と呼んで、その力を畏れます。

 この次の危は、其れからほんの200年後に現れます、倭の五王時代の終わる頃に、雄略帝(倭王武)が登場しますが、彼は猜疑心が強く、自分の直径以外の王子たちを次々に、追放、廃位した為に、彼の死後、帝位を継いだ武烈帝は、周りが敵だらけと言う有り様、重臣の謀反を未然に察知したは、良かったが、その誅し方が余りに残酷だったので、却って、他の家臣の反感を持たれました。

 武烈帝の暴君ぶりは、収シナや朝鮮なら、此処で大伴氏が、皇位を簒奪する話になるでしょうが、大和朝廷は、豪族連合で成り立って居たのですから、大伴氏が皇位を簒奪すれば、朝廷自体が、空中分解して終うのは見え見えですから、自浄するしか無かったのでしょう。

 代わりの皇子を探しますが、皆、金村を懼れて、帝位につきたがらず、迎えに行くと、逃げ出す在り様、 其処で、考えぬぃた挙句、河内王朝には、必ずしも服従して居なかった、海人族の丹波の王、オオド王を調べると、「応神帝、五代の末孫」で有る事が分り、皇位継承を打診しますが、今迄、敵対して居たモノを、「主殺しの金村」からイキナリ皇位につけとの申し出を、容易く信じるわけが無く、その後も金村は武烈帝の姉君を嫁がせたり、懐柔しますが、オオド王は、自領を背後にした、樟葉宮(今の高槻市)から、一歩も動こうとはしませんでした。

 結局、オオド王が皇位を受けたのは、其れから20年後、金村が死んで後の事でした。 然し、このオオド王が継体帝となり、その血統が、現在の皇室に引き継がれているものです。 時は、5世紀末~6世紀の頃です。

 そして、3回目の皇統の危機は、謂わずと知れた、日本の敗戦時でしょう。 此の件については皆様、ご承知の事なので、割愛させていただきます。

 其処へ行くまでに、継承できる男子が居ないと言う事態が多発して居ますが、一代限りの女帝で中を継いでいるのは、男系Y型遺伝子の存在を知る由も無い当時なのに、驚くべき決断だとお私は思いますね。 何故、女帝が自身の子を持って、皇位に付けようとは思わなかったのか、判りません。 まぁ、男親が、自分の子が皇位に着いた事を嵩に着て、権勢を揮い、結果、世の中が乱れると言う惧れは、十分に予想出来たのですがね。

 何れにしても、日本の皇統の2678年に亘る連続は、奇跡的だと思いますが、その陰には、色々な人の努力や犠牲があった、然し、その志は皆同じで、「世の平和の為、国民の為」です。 

 大和民族の主神様を天照大神と仰ぎ奉り、その大司祭としてご神孫であらせられるスメラミコトを戴くと言う政体こそが、日本の古に見出した、大和(ヤマト)の心の誓いを形にしたモノだから、此の列島に暮らして居る民族全てが、心を一つにして、皆で代々守り抜いて来たと言う事でしょう。

 皇統が絶えぬ限り、我々は、天孫なのです。

里見氏が帰って来たときには、学校は左翼に乗っ取られていたとは慚愧に堪えません。
今も、その頃とさほど変わらないとは想いますが、日本の歴史は古く、真実を確実する日とは、此れからもでてくるとおもいます。

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