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2018年6月 8日 (金)

マルクスはヘーゲルを破壊することで社会に混乱をもたらそうとした

ーー以下「宮崎正弘ブログ読者の声(稲村正治)」より抜粋編集

1、人類の使命とは何か?

哲学と宗教とは同じ観念論の立場に立って、同じく絶対性を追究するものです。

宗教は、絶対性を既にあるものとして外部に求め、一方、哲学は、絶対性の中身を追究していきました。  

やがて、宗教は、発展することを止め(というよりそれ以上の発展は不可能となり)、もっぱら現世の人間の支配の方に力を注ぎだすのです。

哲学の方は、ヘーゲルに至って、哲学と宗教を止揚するために自らの内部に絶対性を構造化すべきだと説いた。

ーー

つまり彼は、宗教について、絶対性への信仰を外部に向けるのではなく、己自身の内部にある絶対性を目指すべきだとした。

そして、修行によって自らを高め、自らの主体性を確立することによって、真の人間として自立するという、人類の歩むべき道を説いたのです。  

ーー

(これはまるで禅宗の僧が千年も前に到達した境地「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」だ)

ーー

これによって宗教が人間の自立の道を阻んでいる、という深刻な偽らざる現実を、解決できる。

そして神の威を借りて正当化する形で行われている理不尽を、解決できる道が切り拓かれた。

かくして人間は、自ら<絶対理念=神>となって、あらまほしき世界創造をして、世界の発展を牽引していくことができる。

つまり宗教は従来の宗教を超え、かつ哲学は従来の哲学をこえたのだった。

ーー

そういう世界創造を古事記は国家という形で成し遂げている。

(これこそがつまり「和をもって貴しとなせ」で始まる17条憲法が創造した世界であったということがわかる)

ーー

2、なぜ人類が誕生したのか?

それは、<絶対的真理>を追究するためだ。

<絶対的真理>を手に入れるために人類は人間になった。

思惟能力の鍛錬は、したがって人類が人間になるための必須の過程だった。

それが、哲学の歴史であり、哲学は人類の歩みを照らす光であるべきなのだ。

ーー

ところが、マルクスは、哲学は観念論に過ぎないとし、「哲学の歴史はヘーゲルとともに終焉する」と規定した。

しかし現実の人間は精神世界に生きており、マルクスの唯物論では、生きていけないことが明らかとなっている。

したがってマルクスの規定は、人類の人間への道を閉ざす妄言でしかなかったのです。

ーー

3、ヘーゲルのどこがすごいのか?

例えば動く物体を静止する物体の合成であるという哲学者の考えはゼノンの詭弁と呼ばれているが、その考えは今、アニメに応用されている。

時が過ぎ、19世紀のドイツで、カントが相反する正反対の論理がそれぞれに成立することを、反証の方法を用いて論理的に証明する。

しかしながらこれはあくまでも、命題と命題との間の矛盾であって、命題(文章)内部では矛盾のないものでした。  

ーー

ヘーゲルは、命題間の矛盾を解消する形で、新たな命題を生む、弁証法を完成させた。

そのヒントとなったのが、ギリシャ哲学のヘラクレイトスの、有も、無も、肯定した上で、その両者の統一によって成が生じるとした論理です。

ところがギリシャ哲学の時代においては、このヘラクレイトスの論理はパルメニデスやゼノン以上に理解されなかったのです。

ーー

プラトンも、はじめはこのヘラクレイトスの論理に注目したようですが、途中で放棄している。

ギリシャ哲学の段階で、弁証法の萌芽がすでに存在していたということになります。

ーー

ヘーゲルは、このヘラクレイトスの論理を、はじめて正しく評価し、弁証法の祖をヘラクレイトスである、と明確に述べる。

そしてヘーゲルの「大論理学」は、このヘラクレイトスの論理を基礎にして展開されているのです。

ーー

ヘラクレイトスの論理を、分かるためには、形式論理学的な判断を破壊する必要があった。

ギリシャ哲学の哲人たちは形式論理の枠から抜け出せず、ヘラクレイトスの真価を見抜くことができなかったのです。  

ーー

たとえば、有は無であると云われると、有は無でないから有なのに、それが無だなどと無茶苦茶だとなる。

こういう感覚は、形式論理学的な常識の中で創られたものですから、それを壊さなければならない、ということです。

ーー

(まるで禅の公案を見るようだ)  

ーー

それを行ったのが、ヘーゲルの形式論理学の判断破壊です。

これをマルクスは、ヘーゲルの弁証法を、常識にとらわれたまま形式論理で、批判した。

つまりマルクスは、命題間の対立を解決できず、対立のまま放置するほかなかったのだ。

マルクスは、ヘーゲルの学問を形式論理で破壊しただけだった。

ーー

(マルクスはヘーゲルを破壊することで社会に混乱をもたらそうとした)

ーー

結果として、世界は混乱し、出口の見えない状況になっている。

具体的に云いますと、民衆政治と独裁政治、国境を築きたい勢力と国境をなくしたい勢力、科学と宗教、国と民衆、自由と強制等、の対立。

これらの対立の状況を解決するためには、ヘーゲルの弁証法が必要なのです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>ヘーゲルの学理的挑戦とマルクスの世俗的野望が西洋文明の限界
 稲村さんの哲学や宗教観は、分り易い言葉で表して居るので、助かります。 然し、私が知りたい、或いは、世間に訴えたいのは、西洋哲学の歴史や現状のマルキシズムの構造批判ではありません、 そう言う話は、大学の教養課程で行われるべきものだと考えます。
 
 我々現代の日本に生きるものは、寧ろ、日本の伝統の精神をもっと知って、「幾万年も懸けて、神性を磨いて来た(森鴎外林太郎が、ドイツのナウマンに向かって云った言葉)と言う日本人の「如何に生きるべきか」をしりたいのです。

 とはいえ、マルキシズムへの正しい批判は、未だ確立されて居ないのかもしれません。 現にグローバリズムと言う、国家を否定する共産主義者、否、アナキスト集団が、EUを中心に活動を継続し拡大を謀って居るのですから、ちゃんとした、マルキシズム批判は個々が持っているべきです。

 私が思うに、西洋の哲学は、マルクスが言うように、ヘーゲルに拠って完成して終ったのだろうと思います。それ以上は、西洋が置かれた厳しい環境では、考え出せたとしても、周囲に共感を持たれる事は無かったでしょう。

 彼らの環境には、一体何が足りなかったのか、其れは利他愛だと思います、他を思いやって、他の為に自分の命を捧げる、ブッダの話に出て来る、我が身を犠牲にして、飢えた人を救った兎の様な話は、弱肉強食の世界に棲んで来た西洋人には、一体何の話なのか分らないでしょう。 かれらにとって、自分の命は一つだけしかないし、それが終われば、世界も終わる。としか考えられないのです。

 然し、自然界の有る多くの命の様を看て居れば、命と言うものは、本来、決してぽつんとして有るものでは無い、群生すや植物の様に、見えない地下で繋がって居る。 鳥や獣も、集団で行動する事で、皆、現世の生命を保とうとしている。 そして彼らは自分の命をts銀世代に繋ぐ事だけの為に生涯を捧げて居るのです。 生命と言うモノの在り方は、皆見え無い処で繋がって居るのが、自然の有り様なのだ、我々の魂はその一部に過ぎないのだと、自然の姿は、教えてくれるのです。

 人間だって彼らと同じ地球の欠片なんです。 其処に気付いていくのが、東洋哲学だと思います。つまり、東洋哲学は、造物主「=自然の意志」を読み取り、その法則や隠されれている真理を見出す術、学問なのだと、私は思います。 其れを環境の改善に生かして、地球を健全に保つ事が、神が与えし、我ら人類の使命でしょう。

 世界史を紐解けば、此処で挙げられたヘラクレイトスが、出現したギリシャのBC2~3世紀には、奇しくも、インドでも百家争鳴の時代が有りました。今残って居るのは仏教、ヒンドゥー教(バラモン教)、そしてジャイナ教ダケの様でㇲが、シナでも孔孟荀子が出て、「世の正義は、如何に有るべきか、人は如何に生きるべきか」を、為政者に説いた。 是は、キット神の意志の反映だと私は思って居ます。

 では、神は一体どんなメッセージを我々人類に送って来かtのだろうか、其れは、「如何に、この地球と言う生物の生存の為に与えられた環境を守りながら、生きとし、生けるものの全てが、如何に幸せに生きそして死ねる状況を保持するか」と言う命題だと思います。

 その為に、神は環境の違う西洋と東洋に、同じ命題を賢哲を通じて、人類に降ろしましたが、自然の生の力に恵まれた東洋では、「人間同士が、早く争いを止めれば、可能で有る」と言う結論に釈尊の時代には、辿り着いたが、西洋の環境は、高緯度地方が故に、常に死と隣り合わせの環境だったから、人々は、死への恐怖から、争いを止める事が中々出来無かった。

 混乱の果てに、白人にとっては異教で有るキリスト教「=ゲッセネ派ユダヤ教」を、唯一の道徳規範として、結果、民族宗教ユダヤ教の排他性ゆえに、多様性を容認しない「=滅びに繋がる」差別を容認する道徳=正義を掲げて終った。それ故に、中世の千年に亘り、大戦争時代を経験し、その経験を世界制覇に結びつけて、平和に暮らして居た多くの異民族や異教徒を、悪魔と称して殺害して来たのです。

 そしてその宗教に限界が見えると今度は、唯物論「=神の存在を否定したモノ」で、極めて近視眼的な死生観で、自身の利己主義を最大化しただけに終わったのに、亦その主義を、単に、「ソ連時代の栄光」を求める、単なる懐古主義に溺れたグローバル主義者が、台頭しつつあるのは世界の平和にとって、非常に危険な兆候だといえましょう。

 確かに近代文明は、西洋文明の競争に拠って齎される進歩を利して、長足の発展を遂げてきましたが、私は、西洋文明の果てに有るのは、共滅しかないと思って居ます。 此処で、日本伝統の和の心「=全体の為に、自身を犠牲にする心」を学び、身につけて貰いたいですね。 それには、先ず、日本人の我々が、日本文化とは何か、日本の歴史とは何かを正しく知って、外国人に説明できなければなりません。 頑張りましょう。

いつも拝見しています。有難うございます。
DNAの解析から日本人はずいぶん以前に隣の大陸から別れ、いわゆる縄文人との位置付けがされている方が少なからずおられる様です。以前ご紹介のあった偽書と言われるホツマツタエもまだ読んでない方はご覧になるのも良いかも知れません。偽書かも知れませんがアマテル様の言葉も味わいがあります。ネット上もあります。その中にトとヲシテという言葉が出ます。それが何を意味しているか中味までは残念ながら残されていませんが、共同生活での取り決めでしょうか。ホツマツタエでは、スサ(スサノウ)さんの処罰の様子から伺う事は可能かと思います。日本を考える時に参考になると思います。
伊勢神宮や多くの神社の清らかさ。

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