無料ブログはココログ

« 国際金融資本が、国家を超えて利益を追求すると、国家が破壊されると同度に国際金融資本も自滅する | トップページ | 復活は、余計なことのように思える »

2018年5月15日 (火)

しかし日本国憲法に書かれた「人権」と、欧米における「人権」とは、実はまったく異なる概念なのです

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

日本国憲法には、人間は、誰もが生まれながらに基本的人権を持つと記載されています。

学校では、「人権」は、  

1215年の英国のマグナ・カルタ
1628年の権利の請願、  
1679年の人身保護法、  
1689年の権利章典等において権利や自由の尊重を求めた

と教えられます。  

そしてさらに国王の絶対主義的支配から、民衆が自分たちの権利を護るためにこれらの要求が行われ、これが近代人権思想へとつながり、

18世紀には市民革命として王制が否定され、  
1776年には米国バージニア権利章典、  
そして1789年のフランス革命での市民の権利の宣言へとつながった

と教わる。

ーー

しかし日本国憲法に書かれた「人権」と、欧米における「人権」とは、実はまったく異なる概念なのです。

アメリカの独立宣言に米国での人権という概念が書かれています。

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.

(訳) われわれは、以下の事実を自明のことと考えている。すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている。 その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている。

(学研M文庫訳)我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、 生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている。

ーー

ここで述べられているように米国では、 「人間が持っている生命、生存(Life)自由(Liberty)幸福追求(Pursuit of Happiness)の権利は、「神から与えられた」 としているのです。

「神から与えられた」のですから、当然のことながら西欧的な意味においては、神を信じない者、異教徒、神を信じる者に害をもたらす犯罪者、非合法手段を用いる者などには、人権も権利もありません。

もっというなら、

悪党が暴力を振るう権利、
人が泥棒や強姦などの悪事を働く権利、  
未成年の少女が自分の意思で売春をする権利、  
他民族が自国に住み着いて勝手し放題をする権利、  
国家転覆を企む反国家行為を行う権利、  
自国の領空や領海を侵犯する他国の権利

などの一切の権利は、神の意思として否定されます。

ーー

ですから米国の独立宣言にしても、不義を許さないということを、「創造主(=神、Creator)」と 「通義(義を行うこと、権利=Right)」という語で、示している。

ーー

しかし日本での権利は、不義を行う者にも生命、生存、自由、幸福追求することができるとされている。

さらに人権は、国籍や出自、思想にかかわらず、すべての人に備わった憲法以前の自然権であり、その自然権を憲法は保証している。

だから、外国人に対しても日本人に対するのと同様の社会保障(生活保護)が行われています。

ーー

しかし「Right」という言葉は、本来、神が与えたもうたものなのです。

例えば、欧米では、領空領海を侵犯された時点で、即刻撃墜、撃沈するのが、あたりまえだと考えられている。

それこそが「Right」(権利(通義、人の道を行う))であるとされているのです。

国民の生存権を護ることが国家の役割と考えられているからです。

ーー

「権利」という日本語は、幕末の秀才、西周(にしあまね)が「Right」を訳した言葉です。

これについて福沢諭吉は、「権利」という訳に、猛然と反発しています。

そして福沢諭吉は、「権利」という訳語では必ず道を誤る、「Right」は「通義」と訳すべきであると主張したのです。

ーー

米国の独立宣言も、福沢諭吉訳では、通義を使って訳しています。

「天の人を生ずるは、億兆みな同一轍(わだち)にて、これに附与するに動かすべからざるの通義を以ってす。すなわち通義とは、人の自から生命を保ち、自由を求め、幸福を祈るのたぐいにて、他よりこれをいかんともすべからざるものなり」

「わだち」というのは、道路などにある車輪の跡のへこみです。

つまり人の道です。

ーー

諭吉は「Right」を「通義」と訳し、これは「人の道である」と説いたのです。

現行憲法の、もとになっている英文も、基本的人権の原文は「Right」です。

つまり、現行憲法で言われている人権は、「人の道を行う」ことをいうのです。

ーー

日本においては、欧米における神の地位にある存在は、アマテルカミの血筋である天皇です。

従って人権も権利も日本人なら、 「天皇によって与えられた人の道である」 とするのが、本来あるべき解釈です。

つまり、基本的人権というのは、まともな日本人にのみ与えられるべきものであったのです。

しかし日本人は、権利という言葉を使ったために、福沢が懼(おそ、心配)れていたように、人権を、誰もが生まれながらにして持っている権利だと誤解してしまった。

その結果、在日・反日勢力や犯罪を犯した悪党が、「お前らは国民の敵だ」という人に対して、レイシスト(差別主義者)だといって批判している。

ーー

世界の常識に従えば、日本は天皇を中心とする君主国です。

そして君主国であれば、その国の人権(Human Right)や権利(Right)とは、 「皇民としての道」 だけを意味します。

それ以外の一切の意味を持ちません。

ーー

人権というのは、人間が持つ当然の権利ではないのです。

欧米人なら、神を信じ、神の意思としての正義を貫くことが、人権(Human Right)であり権利(Right)です。

日本なら皇民としての道こそが「権利、通議(Right)」です。

そもそも権利が生まれながらにあるというならば、犬には犬権、猫に猫権、蚊には蚊権、ゴキブリにはゴキ権がなければなりません。

蚊やゴキブリが血を吸ったり台所を荒す行為さえも、これを彼らが生まれながらにして持つ当然の権利であって、何人もこれを侵害してはならない、とするのでしょうか。

実に馬鹿げた発想です。

ーー

人権や権利なる言葉は、非常に誤解を招きやすい言葉です。

使い方を間違えれば、悪党のわがままや身勝手を擁護するものになってしまう。

ですから、Rightが「人の道を行う」を意味することを、ちゃんと教育しなければならないのです。

ーー

それを「無条件に主張できる」ことだと教えられているから、「人の道を行う」まっとうな民衆が、悪党や侵略者たちによって虐げられるという結果になるのです。

ーー

欧米では、この「Right」の意味は、学校でかなり厳しく教え込まれます。

かつて、国王の権力は神の名のもとに正当化され、国王は民衆の生命財産を、欲しいままに奪うことができた。

つまり民衆は王の奴隷であり、それが正当化されていたわけです。

けれども本来、人は神のもとに平等である。

だから、人は奴隷としてではなく、「生まれながらにして神の意思に沿って清く正しく生きる正当なRight(権利)がある」と教えられるのです。

ーー

そして王権から、そうした民衆が正しく生きようとする行為(RIght)を守るために、大憲章(マグナカルタ)が書かれた。

そのようにして民衆の権利が請願され、民衆の意思が尊重される民衆政治democracyを構築してきた。

これが、彼ら欧米人の発想であるわけです。

ーー

ですから欧米人は、外国人が自国内で悪辣な行為に及べば、それは神の意思、民衆の意思によって、これを排除します。

悪党が拳銃を持って家宅侵入すれば、これを容赦なく撃ち殺す。

なぜなら神のもとに正しく生きることを邪魔だてする者は、人が神のもとに正しく生きようとする行為(RIght)を侵害する者だからです。

きわめて合理的な発想です。

ーー

これに対し日本にはもともと奴隷という制度はありません。

日本では、民は天皇の「おほみたから」であり、権力者(臣)は天皇の民の幸せな生活を守り護るためにこそ存在する。

日本における権力者は、天皇から委託を受けて、天皇の民の安全と安心と生存を守るためにこそ存在する者です。

日本書紀では、天皇は「大君(おおきみ)」です。

そして、民衆は「おおみたから」です。

ーー

そしてその「おおみたから」に対して、日本書紀は「黎元」という字をあてています。

「黎元」というのは、稲作をする人たち、つまりお百姓さんのことをいいます。

民衆は天皇の宝であり、権力者というのは、その宝を守るために存在したのです。

それがシラスという古くからある大和言葉の意味です。

ですから全国の大名は、もともとは守護大名です。

ーー

守護というのは、天皇の宝である民を守り、護るから、守護なのです。

ーー

「人権」は、人の持つ通義、すなわち「人の道を行う」ことです。

そして「人の道」は、天賦のものではありません。

人として教育を受け、人の道をわきまえるようになって、はじめて人の道としての権利を主張できるのです。

生まれながらにあるものではないのです。

ーー

たとえば、人には自分の生命を守る権利(生存権)がある、といいます。

それは人の道に外れない者にのみ許される権利です。

だからこそ、人殺しや悪党には、死刑が課される。

ーー

要するに、人殺しや悪党には権利も人権も、はなから存在しない。

そうしないと社会も文化も維持できなくなり、崩壊してしまうからです。 

お読みいただき、ありがとうございました。

« 国際金融資本が、国家を超えて利益を追求すると、国家が破壊されると同度に国際金融資本も自滅する | トップページ | 復活は、余計なことのように思える »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>「権利」の成り立ちの日本と西洋の違い。
 私が認識している歴史の内容から考えて、日本と西洋には、社会の基礎的な様々な考えにも、大きな違いがあると、思って居ましたので、このエントリーは、私の知見を広げる事が出来て、非常に嬉しいですね。

 先ず、日本人が西洋の文明を知る意味で、日本語に訳して行く作業がひつようでしたが、東洋文明で、是が出来る文明力を持って居たのは日本だけと言う有り様であった事も。本来は問題にしなくてはならなかったと思います。 釈迦入滅後600年程の起源4世紀ごろ、シナに北伝仏教が伝わりましたが、その時は、鳩摩羅什と言うインド人が長安に居て、仏教の経典を漢訳したとあります。 然し、日本はそれを市井の武士階級がやって居る、しかも、英語もフランス語もオランダ語(チュートン語?)も完全ではなかった筈なのにです。

 私は、先ずこうした日本文明の、「学問を何の為にするのか?」と言う、事象に対する取り組みが、端から、「世の為、他人の為」であり、西洋の様に王命や貴族からの出資を受けてする所謂プロフェッシオナルに拠って成されているのとは、全く違う動機でなされている事に日本文明の素晴らしさを感じます。 つまり、学問が庶民の直ぐ近くに有る環境と言う、然も、学問に対する敬意を損なわない形で存在させて居たのは、今から考えても理想的だと思いますね。

 その中で、西周が、「right」を「権利」と訳したのを、福沢諭吉は「其の訳語では、将来に危険を齎す。此処は通義と訳すべきだ」と主張したと言うお話が乗っていますが、是も断然素晴らしい話で、其処には、自分達がやって居る、高度な学問的な作業の意義の重さと、同時に、後世の人に与える危険性まで考慮されている事が分ります。 感動しました。

 西洋文明と言うのは、善くも悪くも、キリスト教の影響を大きく受けて居るのですが、キリスト教自体の成り立ちが、ユダヤ教ゲッセネ派の士師イエスと、ファリサイ派士師のパウロの合作、或いは、パウロに拠る付加や改竄、それに、マリア信仰の様な土着宗教の混在によって、オリジナルのパウロ神学からすら、似て非なるモノになって居て、謂わば、欧州の民族主教と言う方が正鵠を得て居ると思います。

 欧州は高緯度にある為、遅くまで氷に閉ざされた世界でした。 特に、アルプス以北には、山岳部に大きな氷河が遺って居て、人間の侵入を拒んで居ました、然し、BC20 世紀頃の温暖化現象に拠って氷河が融けて川の水量が増し、黒海に注ぐドナウ川流域が文明化し、黒海周辺に居た、白人種が川を遡上して、欧州北方の森林地帯に辿り着きます。 是がのゲルマン族でしょう。

 彼らは、更に北上して、スカゲラック海峡を船で越えて、亦は、ユトランド半島を徒歩で横断して、ノルマンディ海岸からドーバー海峡を渡ってブリテン島に、或る尾は、スカンジナビア半島に辿り着いて、漁労海産で生計を建てる様になります。(バイキングの誕生) 是が、BC10世紀ごろですから、定住した生活を開始した年代が非常に浅い事が分ります。

 現在の世界を牛耳って居るハザール人(白系ユダヤ人)などは、更に2千年を経なければ、自分の国を持つ事も出来なかったのですが、中東は、西アジア、中央アジア、アフリカ。南欧州、北欧州からの、様々な民族が交流しましたが、流動人口の多い割に、諸生産される食糧が少なかった事と、異人種ゆえの不信感から、紛争~戦争~虐殺が起こって、、現在に至っても、根深い不信感を持って居るのが似て取れます。

 こんな、中で、ローマが、欧州を統一する大帝国を築いたのですが、ローマは奇妙な事に、社会での哲学や科学は発達して居ても、宗教は、第二次ポエニ戦争の時分でも、子供や若者を、祭祀の際に、生贄にする様な、野蛮さを持って居たのですが、是は所謂、青人文明の特徴でもあると思います。

 ローマ人は、自分達の習俗に遺るこの野蛮さを恥じて居ましたから、生贄を必要としないで、且つ、人々の規範となる教えや戒律もった宗教を求めて居たのです。 ユダヤ教はその最右翼でしたが、ユダヤ族の「選民思想」が災いして、結局ユダヤ人はAC70年のエルサレム神殿の虐殺を機に、絶滅します(ディアスポラ)。

 然し、絶滅した10万人のユダヤ人の殆どはファリサイ派であったので、パウロ達、ゲッセネ派は生き延びます。 しかし、ローマに拠る弾圧は続いて、パウロも刑死して居ます。 キリスト教がローマ帝国の国教となったのは、其れから凡そ300年も後ですから、その間に、土着信仰の色々な要素が入りこんで、キリスト教は大きく変質したと言って良いでしょう。

 ローマ帝国により、欧州の混乱も収まり、定住した民族が、めいめいに国を名乗る様になり、自然発生的に、国境が設けられ、所有と言う概念が芽生えました。 つまり、土地の所有のみならずそれを耕作して、食糧を生産する農民も、所有物の対象となり、其れを獲得する事が戦争の目的にすらなって居ましたが、戦争を実際にやるのは、農民から徴用した兵士ですから、この時代には、人の命など全く重要視されて居なかったと言う事です。

 この様に、自分より力の劣る他人を、殊に、自分とは異なった人種を排斥し、甚だしきは、殺害、殲滅する道徳観は、青人文化を継承した白人社会にも見られました、国教となったキリスト教にそれを戒める戒律が有るのに、其れを態々曲解~捏造して居ます。

 「異なるモノの排斥」は、民族宗教の域を出て居ないとしか云いようが無いのですが、現在の世界は、その民族収容でしかない、キリスト教徒とイスラム教徒で、地球人口の半分を占めて居るのですから、戦争が絶えないのは当然ですね。

 是は男女差別も同じ事で、女性は。力が弱いが故に、庇護が必要だと言う理由で、「一人前では無い」と見做されて、庇護の対象=差別の対象にされて居ますが、是は、多くの宗派に拘わらず、イスラム圏全体にに広がっています。 女性差別は、イスラム圏の社会常識です。

 白人文明を簡単に言えば、青人文明の継承者ですから、イスラム圏をみれば、白人文明圏にある問題の病因も分ると言う事でしょう。 私が思うには、白人文明は、キリスト教を道徳規範として作って来た自分達の社会の現状が、決して、理想的なものでは無い事に気付いて居ます。 その最たるは、男女平等ですが、ジェンダーフリー「=性差無視」では、女性の差別問題は決して解決せず、問題は寧ろ増加して居ますし、性差無視が行き過ぎて、男女分離や、同性愛の蔓延の原因にもなっています。

 この様に、自然の摂理を無視した、差別の歴史や社会常識に対する反動だけで、色々規範を設ける事は、自大を悪くして居るダケで、この施策を取り続ければ、やがて、その民族派、自然消滅する、と言う事に、白人文明は薄々気が着いて居ます。

 しかし、その傾向は、WGIPに協力した、功利主義者達に拠って、日本にも広められ、流行りに乗ったつもりのバカな学者たちが、日本の伝統を歪めようとして居ますが、大抵の日本女性は、母親や祖母から「女とは何か?」を学んでいます。 

 然し、人権に着いては、元々、日本では、個人が精進して、其れを他人が認めて、初めて権利が生じると言う考えですから、謂わば、国家と言う全体の為に、細胞でしかない自分は、自分の卑小さを悟って、自分の命をより大きなものの為に使おう、と決心さえすれば、細かい権利など、どうでも良くなる。 他人の評価も気にならなくなったら、他人が、自分では気づけなかった行為や言葉を、評価してくれる場合が有りますね。 その多くの例は、家族ですがね。w

日本人は、人権のことを天賦のものであるから、誰もが持っていると考えるから、西欧人の言うことが理解できないと思います。

米国の南北戦争(1861年~1865年)は北軍の勝利として終わり、リンカーンはこれによって奴隷制度を廃止したと、日本では習っているのです。

日本人は、これによって米国では人間は等しく平等に扱われるようになったと思っていたのですが、差にあらずでした。
米国で白人と黒人が平等に扱われるようになったのは、1964年のキング牧師の公民権運動の結果と言っても良い位です。
それまでは、米国においても人種差別は厳然として残っていたのです。


これを考えるとき、日本の弁護士が2000年頃に日本人が慰安婦を性奴隷としていたと、国連で言い回っていたのですがその弁護士は奴隷の意味を知らなかったと思いました。
だって、奴隷とは人の形をしていても、人間扱いをされないのです。

だから、性奴隷は西欧人の発想からですと獣かんのようなことになってしまいます。
日本の兵隊は、そんなことをする異常性欲の集団として認識されたと考えますと、弁護士の知識不足による頓珍漢なのでしょう。
奴隷のいなかった国で、人権をまともに勉強しなかった人権派弁護士の不幸です。


>しかし日本国憲法に書かれた「人権」と、欧米における「人権」とは、実はまったく異なる概念なのです。

このことが、日本の人権を歪なものにしていると思います。
そして、犯罪の加害者を大事にして、犯罪の被害者の人権を低く見る社会を作り出そうとしているのではないでしょうか。

犯罪被害者を晒し者にするマスコミが、犯罪者の処遇について擁護する報道を作り出しているのではないでしょうか。


>我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、 生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている。
>「神から与えられた」のですから、当然のことながら西欧的な意味においては、神を信じない者、異教徒、神を信じる者に害をもたらす犯罪者、非合法手段を用いる者などには、人権も権利もありません。

日本人の考える神と西欧人の考える神とは、神の定義が異なるので全く異なってしまうから、神に繋がることは意味が変わったものになる。それが理解できて、初めて欧米人との認識が共通のものになります。
そして、>「基本的人権というのは、まともな日本人にのみ与えられるべきものであった」ということが認識される。


>かつて、国王の権力は神の名のもとに正当化され、国王は民衆の生命財産を、欲しいままに奪うことができた。
つまり民衆は王の奴隷であり、それが正当化されていたわけです。
これは、日本の天皇の元では全く異なっていたことから、日本人には全く理解できなかったし、左翼の人には想像も出来なかったことだと思います。

そして、彼等は戦後のGHQ体制の中で、誤った奴隷や農奴の姿が、日本にもあったと大声で言い回った結果、本当にあった戦前の農家の姿や農家の実態が消されてしまい、作られた農家の貧しい形が今のドラマにも観られる気がします。


人権とは通義のこと、そして「人の道を行う」こと。
恥ずかしくないように生きる努力をしてこそ得られるものと考えて、自分の生活にも注意するようにと思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 国際金融資本が、国家を超えて利益を追求すると、国家が破壊されると同度に国際金融資本も自滅する | トップページ | 復活は、余計なことのように思える »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31