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2018年5月25日 (金)

日本人であれば誰でも、「日本の歴史を見直して感動し直す」ことができる

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

義経紀に、「吉野山の別れ」という有名な一節があります。

ざっとあらすじを申し上げますと、義経が兄の頼朝に疎(うと)まれて追っ手をかけられる。

最初義経一行は、京を出て尼崎から船で九州を目指します。

ところが途中、暴風雨に遭って難破して散り散りになってしまう。

嵐の夜が開けて芦屋の里に漂着、義経と静御前、それに、弁慶、源有綱、堀景光が生き残った。

ーー

一行は今度は陸路で頼朝の力がまだ及んでいない奥州平泉を目指すこととします。

まず大和へと向かうのですが、吉野山に到着した義経らは、吉水院という僧坊で一夜を明かします。

そこからは、大峰山の山越えです。

ところが問題がありました。

大峰山は修験の山で、女人禁制なのです。

女の身の静御前は立ち入ることができません。

ーー

やむなく義経は、静御前に都へ帰るようにと告げます。

「ここからなら、都もさほど遠くない。 これから先は、ひどく苦しい旅路ともなろう。 そなたは都の生まれ。 必ず戻るから都に帰って待っていておくれ」

静御前は、 「私は義経さまの子を身ごもっています」 と打ちあけます。

そして、 「別れるくらいならいっそここで殺してください」 と涙ぐむ。

このときの静御前は、鎧(よろい)をつけ大薙刀(おおなぎなた)を持っています。

ーー

鎧姿の静御前は次のように口ずさみながら舞う。

見るとても  嬉しくもなし  ます鏡  恋しき人の  影を止めねば

(もういそいそと化粧をすることも有りません。鏡を見るたびにお別れする貴方を益々恋しく思うことでしょう)

義経一行は、雪の吉野山をあとにしました。

ーー

その姿を、いつまでも見送る静御前。

一行の姿が見えなくなった山道には、義経たちの足跡が、転々と、ずっと向こうのほうまで続いています。

文治元(1185)年11月のことでした。

ーー

源義経は、多くの作家が小説に仕立てていますが、上の場面はたいてい以上の流れで終わっています。

場面はかわって、静御前が、義経を追って山狩りをする僧兵達に捕まる場面へと進んでしまいます。

では、この場面の、いわゆる「泣かせどころ」はどこでしょうか。

ーー

義経を見送りながら、「そっと涙を流す」男装の女性の姿でしょうか。

あるいは、ただ分かれる場面だから悲しいのでしょうか。

もちろん、そうした解釈が「よくない」と言っているのではありません。

ーー

ただかつては、「ここが一番の見せ場」とされていたものが、あるのです。

しかし昨今では見落とされている。

それが大峰山が女人禁制であったという点です。

ーー

しかし、義経一行は、頼朝に追われての逃避行の最中です。

いわば緊急非常時の活動をしている。

しかも人気のない山中であり、さらに大峰山に入る姿を誰かに見られているわけではありません。

(見られていればすぐに追ってがかかっています)

つまり、いくら女人禁制の山だとはいっても、女性を連れて入ろうと思えば、いくらでも入ることができたのです。

しかも、一山越えるだけで、その先は普通に女人も入れる山です。

ーー

そもそもその前の場面で、嵐にあって遭難して助かった身です。

嵐に揉まれ、船が沈んでも、義経と静御前は生きており離れることはなかった。

だから、嵐がおさまったあと、二人は一緒にいるのです。

それでいながら、目の前にある山が女人禁制の山だからと、誰も見ているわけではないのに、義経も静御前もそれが当然という風に別れる。

しかも静御前は身重の体です。

お腹には義経の子がいるのです。

それでも女人禁制の山だからと、二人は納得の上別れるのです。

ーー

誰も見ていなくたって、お天道さまが見ている。

ーー

もし仮に誰かに見られたとしても、静御前のこのときの服装は、鎧に身を包み、大薙刀を手にして男装しているのです。

誰か村人にでも誰何(すいか)されたなら、「この者は男にござる」と言い逃れすることもできた。

それでも、二人は、女人禁制の山だからと、ここで別れている。

静御前も、そんな義経だから愛したのだし、そんな静御前だから、目の前の山が女人禁制と知ったとき、「わかりました」と涙を飲んだのです。

ーー

その後、義経は奥州平泉で鎌倉方の追っ手に遭って死にます。

静御前は捕らえられて鎌倉に送られ、生んだ赤ちゃんも取り上げられる。

そして、保釈されたあと、そのまま行方知れずとなってしまうのです。

ーー

つまり、二人は二度と逢うことはなかった。

こんな結末を知っているだけに、なぜそこで別れたのかと思ってしまう。

それは人が見ていなくても、神仏はちゃんと見ているからです。

そこまでして決められた約束事を守ろうとする。

そこが哀れを誘うのです。

ーー

このような文化は、日本独特のものといえるでしょう。

支那・朝鮮では、法は破るためにあるとか、見つかりさえしなければ何をやっても良いと考える。

(あるいは武力や政治力があればなにをしてもよいと考える)

このような文化の下では、この義経一行の行動は単なるバカ者たちの行動にしか見えない。

ましてや深い哀れを感じることもない。

ーー

昨今では、このような哀れを理解できない人々が、言論・メディアを支配している。

彼らは、支那・朝鮮からの莫大な資金を得て駄作をあたかも優良図書のように宣伝して販売部数を上げている。

しかし残念なことに、微妙なところで視点がズレる。

(ネット上ではこのためにパヨクがバカにされまくっている)

これは頭の善し悪しとか文の上手下手の問題ではなくて、その人の持つ文化の問題なのだろうと思います。

ーー

戦後教育を受けた私たちは、日本文化が理解できない人々が作り上げた言論に接してきた。

古来からある日本人としての感性(文化)にふれる機会が極端に少なくなっているのです。

ーー

それでも面白いもので、普通の日本人なら、言えばわかる。

ところが在日・反日勢力の彼らには、言ってもわからないのです。

これは本当に不思議なほど理解できないようです。

ーー

ひとクラス40人なら、そのうちの5〜6人が目覚めるだけで、

つまり13〜15%の人が、日本は独自の長い歴史と文化を持つ、すごい国なのだという自覚を持つ人がそのくらいになるだけで、

日本は必ず変わります。

ーー

イザナミが死ぬとイザナギは恋しさのあまり、黄泉(よみ)の国にでかけ、「死んだ私を見ないでほしい」と言っていたイザナミの姿を見てしまう。

怒ったイザナミはイザナギに「毎日千人をくびり殺す」と呪(のろ)う。

するとイザナギは、 「では毎日千五百(チイモ)の産屋(うぶや)を建てよう」と応じたのです。

ーー

在日・反日勢力が、日本はつまらない国だと宣伝するのなら、日本はすごい国だという自覚を持つ人を増やしていこうではありませんか。

日本人であれば誰でも、「日本の歴史を見直して感動し直す」ことができるからです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本人の遵法は、社会常識と言う凄さ
 私は、商船学校の出身ですが、鹿児島の中学を出て、山口県の瀬戸内の西端にある島に有る、商船高専に入学しましたが全寮制で、入学して翌日から、分刻みの日課が始まり、3日目の夜には、1年生全員、寮の屋上に整列させられて、気合を入れるとか言って。目を瞑って立って居る顔を平手で殴り着けて、洗礼を施されました。「世の中より20年は遅れて居るなぁ」と、不満で一杯だったんですが、1年上の先輩から「去年はもっと酷かったんだぞ」と言われて、我慢して居ました。

 寮で不思議に思って居たのは寮の庭の一角に、慰霊塔が経って居て、何百人もの人の名前が、刻んでありました。 塔には、戦没者慰霊塔と有りましたので、先輩に訊きますが、「戦争で死んだ人だロ」と言う当たり前の答えしか帰って来ないので、忘れて居ました。

 処が、其れは2か月後に、オリエンテーリング(遠足)で、江田島の海上自衛隊の術科学校「=旧海軍の海兵学校」に、学校の船で行った時のことです。 甲標的と言う真珠湾攻撃に使われた2人乗りの小型潜水艦を前に、戦時中改装空母の運用長で乗り組んで居ましたが、米潜水艦に3度の雷撃を食らって約4千人の乗員・乗客と敵方捕虜を含む兵士を載せた空母を沈められて、3日3晩海中を漂い、救助されたと言う経験を持つ、学校の先輩でもある教官が、説明を始めました。

 私は甲標的については、予備知識が有ったのでいい加減に聴いていましたら、「貴様達は、平和な時代に、生まれて良かったなぁ」と、急に涙声になったので、吃驚しいました処。例の慰霊塔の話になりました。 

  「あの戦没者の方々は、機関科の人が圧倒的に多いのだが、何故だかわかるか?」、「機関科員は、一旦乗船したら、外から水密扉を閉めて、出られない様になるんだ、ダカラ、機関室に被弾したら、譬え船は沈むのを免れても、機関員は殆ど全員助からないんだ」と、私は、「え!何で? 船が沈めば死んでも仕方が無いけど、機関室浸水だけなら、助かるかもしれないじゃないか?」と疑問に思ったので、其れを訊くと、「ダカラ、外から水密扉を締めるんだよ」と言う答えが帰って来たので、人命軽視だったんだなぁ、と一人ごちていました。

 然し、よく考えて看ると、もし、内側から扉を閉めた場合、錯乱したモノが扉を開けるかもしれません。 そうすれば、浸水被害が船全体に広がって、全員が死ぬ事になるし、何より船足も止まって終う、船足が止まった舟は潜水艦のカモにしか過ぎないので、高い確率で沈められて終う。 それより、命が尽きるまで、自分の仕事を全うして僅かでも生き残る可能性を追求した方が良い。 との考えに至りました。 その後、オリエンテーションの感想文を書く段になった時、その事をかきました。

 其れから2年後、その教官の授業があった時、授業の冒頭で、「昔、機関科の水密扉の話をした事があるが、諸君から感想文を戴いた、人命軽視ではないかとの、現代らしい感想も多々あったが、中には、私が言いたかった、『自分に与えられた持ち分の責任を果たすべく、先輩達は従容として死んでいった』事を、理解してくれたモノが居た事に、私は感謝したい」と、言っておられたのを思い出しました。

 この義経・静御前の話も、感情的な話なら、女人禁制の高野山でも、少し位、決まりを破ってもいいではないか、自分の都合を優先して考えて終いそうな話です。 然し、他所常一行は、静が、上手く教徒に辿り着く事に賭けます。 義経も静もその後、再び会う事は 無く、死んで終うのですが、世の儀(正しい事、約束)は、曲げない決断を採る処に。武士の統領たる源氏の若君が示す、理性の強さが示されていると思います。

 日本のしきたりや文化には、ちゃんとした理性的な裏付けがあって、皆が納得してやっているカラ、機関室に浸水して来ても、誰もも持ち場を離れず、船は危機を脱する事が出来たケースもあったし、トンデモ無く不利な状況でも、逆に相手を全滅させた利できたのだと思思います。

 例えば、服部半蔵に家康が、「お前の得意な忍術とやらを披露して見せよ」と、家康が乞うた処、半蔵は、イキナリ襖を開け放ち、その襖の道スタスタとてみせて、「以上にございます」と告げたので、家康が、揶揄われたと思って半端怒って、「そんな事は儂でもできる」と言った処。「畏れ乍ら、此の襖道が千丈の高さにあったらどうでしょうか、それが出来るのが忍術なのです」と答えたと言います。

 つまり、日本文化は、人間の可能性の追及に通じる処があるのだと思います。

縦椅子さま
今日は心打つ素晴らしいブログにかんどうしています。

ある高名な指揮者の息子の結婚について、「弟が結婚していないのは、『魂のレベルのの出会い』をしていないから」だと姉が言っていたとの話に成程と感心いたしました。「魂ののレベル」の出会いがあれば、人は結婚をしていようといまいと関係はありません。義経と身ごもった静御前の別れは本当に今生の別れで涙を誘います。二人は魂がむすびあっているので、どこにいようと、たとえどうなろうと、会えなくても、それはつらいことですが、誇りをもって、義をとおそうとするのです。大峰山は女人きんせいです。大峰山に男子が登っているいる間、私たち女子は身を切るように冷たい洞川ですごした夏の林間学校のことを思い出しました。とても遠い記憶です。

日本人だから大峰山は、修験道の女人禁制の意味が理解できるので、これが外国人だと理解できないです。

最近、これも緩和されているそうですが、昔からの言い伝えや習わしにはそれが決められたときには、現在にも通じる理由があったと思いますが、その記憶が失われて、理由なきルールになっていることがあると思います。


職場の先輩が概ねさんの修験道に励んでおられたことを、思い出しました。

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