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2018年5月22日 (火)

明智光秀は謀反人ではなく義挙をとげた悲劇の英雄ではないのか

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

呉座勇一『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)

本能寺の変はなぜ起こったのか。

明智光秀が天下取りの野望を抱いたからなのか。

たしかに光秀は、「ときはいま、天が下知る五月かな」と詠んだ。

その歌について、「とき」を「土岐源氏」と読み、土岐家再興がねらいだったと解釈されてきた。  

しかしこれは読み間違いであろう。

ーー

そもそも明智を「主殺し」と決めつけたのは秀吉である。

そのほうが光秀を倒しやすい。

そして『太閤記』に加えて、『信長紀』『信長公記』が生まれ、信長への過大評価がなされた。  

ーー

イエズス会の報告書が最近全訳されたことも、信長への過大評価を生んだ。  

ーー

さらに黒幕説も盛んだが、それは光秀の過小評価が原因だ。

黒幕とされたのは、本能寺の変で一番得をした人物、秀吉が最初だった。

ついで家康黒幕説がはびこったが、いずれも否定された。

証拠がないばかりか、時系列な事実比較を研究するだけでも、ありえないことがわかる。

ーー

ならば黒幕はいったい誰か。

黒幕説は朝廷説、足利説から、果ては毛利、長宗我部説となり、最近はイエズス会の陰謀という説まで飛び出している。

呉座氏は、これらひとつひとつを取り上げながらも、それぞれを一撃で退けている。

ーー

光秀は親友の細川藤孝にさえ事前の相談をしていない。

というよりも、黒幕がいるという話は、光秀を過小評価しているからだ。

ーー

以下は本書ではなく、評者の所論である。

ーー

第一に明智がもし天下を狙ったのであるなら、朋輩や仲間への打診、組織化を怠るはずがない。

ところが事前工作を展開した証拠がみつからない。

第二に明智が信長によってなされたひどい仕打ちに対する怨念を晴らしたと断定するには、これまた証拠が乏しい。

江戸時代に作られた資料はなぜか怨念説をでっちあげるための「作文」でしかない。

ーー

そして「本能寺の変」の後、織田家臣団、遺族を除く周囲の武将で、光秀を恨んだものがほとんどいない。  

徳川家康が光秀を恨んだり、あるいは主殺しとして遠ざけた気配がないのである。

家光の乳母に明智家臣・齋藤利三の娘を採用している。

それどころか日光東照宮の陽明門の随身像は桔梗紋(明智の家紋)の狩衣(かりぎぬ)をまとっている。

ーー

当時、北畠親房以来の天皇を守り抜く、すなわち国体を守るためには、信長を殺すほかないという認識があった。

となると、残るは「義挙」という可能性だ。

ーー

しかし本書の結論は「突発的単独説」であり、評者は、この立場を取らない。

ーー

佐賀の乱も、神風連の乱も、萩の乱も、秋月の乱も、そして西南戦争も、天下取りではなく、邪(よこしま)な政道への抗議であった。

それゆえ、その後にいかなる国家を建設するかという話はない。

ーー

ここで、呉座氏が無視した以下の書物を取り上げる。

井尻千男『明智光秀 正統を護った武将』(海竜社)

井尻氏は正統とは何か、なぜ正統なる価値観が重要なのかを追求した。

そして正統という価値観に立脚すると、明智光秀が本能寺に信長を葬ったのは「義挙」であるということになる。 

ーー

光秀の行為を「謀反」と位置づけたのは、評者(宮崎)は、秀吉だと踏んできた。

だが、井尻は秀吉より先に誠仁親王と、その周辺とみる。

公家、同胞の日和見により、土壇場で評価が逆転したことになる。

そして井尻氏はこの悲劇の武将の同類として二・二六の将校らを見いだすのである。  

ーー

井尻千男氏は、本能寺前後の朝廷、足利幕府残党、公家の動向を、わずかに残された古文書、日記(その記述の改ざん、編集し直しも含め)などから読み解く。

そして構想、実に二十年、畢生(ひっせい、一生の)の著作ができあがった。  

ーー

執筆動機を井尻氏は次のように言う。  

「小泉純一郎総理が皇室典範の改正を決意したと思われた頃、市川海老蔵演ずる『信長』(新橋演舞場)を観劇していたく感激したということがメディアで報じられた」

「そのことを知った瞬間、私は光秀のことを書くべき時がきたと心に決めた」

「思うに人間類型としていえば、戦後政治家のなかで最も信長的なる人間類型が小泉純一郎氏なのではないか」

「改革と伝統の破壊(ニヒリズム)はほとんど分かちがたく結びついていると言うことだ」

「市場原理主義に基づく改革論は伝統の破壊(ニヒリズム)と背中あわせになっている」

このことに「気づくか、気づかないか、そこが保守たるか否かの分岐点」なのだ。  

ーー

たとえば、「近代史家のほとんどが信長の比叡山焼き討ちを非難しないばかりか、その愚挙に近代の萌芽をみる」からである。

「宗教的呪縛からの自由と楽市楽座という自由経済を高く評価する」から誤解が生じるのだ。  

つまり「啓蒙主義的評価によって、信長の近代性を称賛する」。

ーー

保守のなかにも、そういう解釈がまかり通った。

ーー

信長の評価について、『政教分離』の功績をあげた会田雄次氏もそうだった。

信長は、中世的迷妄から、合理主義という近世を開いたのだと。

こうして、信長の「底知れぬ伝統の破壊(ニヒリズム)」を無視したのだ。  

ーー

伴天連宣教師に、仏僧と論争をさせたものの、信長はキリスト教の信者にはならなかった。

信長は伴天連を巧妙に利用しただけなのである。  

ーー

安土城跡・麓(ふもと)の総見寺のご神体は信長である。

また安土天守閣は「天主」であり、「天守」ではない。

このふたつのことからも信長の秘めた野心がほの見える。

ーー

信長は、伴天連の言う神デウス(天主)になることを夢見たのだ。

ーー

井尻氏はかく言う。  

「信長が、キリスト教という一神教に関心と好意を抱いたのは何故か」

「信長は一神教の神学に信仰ではなく、合理主義を発見した」

「神なき合理主義がほとんどニヒリズム(伝統の破壊)と紙一重だということに」、日本の哲学者、歴史家の多くが気づかなかった。

あるいは意図的に軽視した。

それが信長評価を過度に高めてきたのである。  

ーー

かくて信長は、正親町天皇に対して不敬にも譲位を迫り、誠仁親王を信長は京の自邸(二条御所)に囲った。

また威圧するために天皇と公家を招いて二度にわたる馬揃え(軍事パレード)を展開した。

そして、あろうことか征夷大将軍にしか許されない東大寺の天下第一の名香と謳われる「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り落とした。

こうして信長は伝統と権威をないがしろにしてみせたのであった。

ーー

これを諫めようとした荒木村重一族を信長は想像を絶する残虐さで虐殺した。

ついに知識人が信長打倒で、ひそかに連合し、光秀をたのみ、光秀はとうとう正統を護るために義挙に立った。

亀岡城を出て京都を目指した光秀に従った主力は丹波兵である。

臨時の混成部隊でしかなかった。

ーー

大塩平八郎は決起に至る訴状を書いていた。

それを伊豆代官が握りつぶしたが、後年発見され、大塩の乱が義挙であることが判明した。  

赤穂浪士の義挙については資料がありすぎて、説明の必要もない。  

三島由紀夫は義挙であるという理由を「檄文」にしたため、当局が握りつぶすことをおそれて知り合いの記者二人を呼んで、写しを渡していた。

ーー

この点でいくと、明智は決起に至る理由を、おそらく檄文にして準備したであろう。

(秀吉がそれを握りつぶしたと考えられる)   

ーー

光秀の遺作「ときはいま天が下しる五月かな」の「とき」は土岐だろうという解釈だった。

井尻氏は、この遺作を、光秀が国体を護るための決意をのべた句であるとする。

『天』は光秀の天下取りの「天」ではなく、「天皇が統める国」、すなわち正統に戻すという意をこめて書かれたものだと。

『古今和歌集』の一節に遡及して、「かかるに、いま、天皇の天下しろしめす」こそが源流だと。

そして、「天」は天皇、下は「民草」、しるは「領る」、ないし「統治」と解釈する。  

光秀の本能寺での行動を尊皇思想と重ねると、東照宮の桔梗紋の随身など、全ての符帳が合うのである。

それにしても、光秀の義挙は、徳川の代になってからも、なぜか秘密にされた。

しかしそれは、見るものが見れば分かるようになっていたことになる。       

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コメント

信長の家系は、現在福井県の神道系の家系だと聞いた事が、有ります。
神道系で有れば、天皇との繋がりが、どこかで繋がっている筈です。
歴史の表に現れないですが、長篠の戦いの屏風図に、信長陣営に白の紋付を着た一団が居まして紋の形が六芒星なんですね。
そう言うの見るととても不思議に感じてしまう訳です。
あの一団と信長の関係は、何であろうと?
幅広くつなぎ合わせないと思い込みや、推測に陥り結局結論までたどり着かない。
信長本能寺の変は、何を第一に考えなければいけないのかを問われる問題だと思います。
それによって答えが、変わって来る。

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>本能寺の変の謎
 信長が当時どの様な権力者で有ったかと言う、信長の評価が、問われている様な気がしますね。 1467年の応仁の乱の勃発に始まり、家康の死で幕を閉じる戦国時代は149年に亘っています。

 日本の歴史で是ほど長く続いた戦乱の世は、おそらく、倭国大乱でも100年未満では無かったか、と思われるので、人々に厭戦の気持ちと平和な世を待ち望む声が広がって居たと思います。その思いは為政者とて、同じで、信長も秀吉も家康も共通して居たのは、やはり、世を治めるには、顕かな武力の存在が必要であると言う事だった。

 世を統一した後に、世の中を平穏が続く世にする為に、農民が安心してコメ作りが出来る様に、田畑の検地を行って、収穫できるコメの石高を公正な度量衡を定めて、測り、実績から地味の肥痩の度合いを勘案して収穫高をそして年貢高を決め、其れ迄、お構いなしで有った農民が護身用に武装する事を禁じ。「刀狩り」を行う。 しっかりした度量衡を定めたのち。「検地」を行って、収税高を確定させる。国境をはっきり区別して、重複課税にならない様にする・・等々、 考えて居た事は3人とも同じだった様に思うので、こういう話は、大名の間では、普通に為されて、半端常識化して居たと思われます。

 唯、信長は、中でも突出した考えを持って居たのに対し、光秀は代々管領家の土岐氏に使えた名家の出ですから、考え方も、形式・格式重視の部分があって、野生長には重宝がられると同時に疎まれる存在であった事は間違いないでしょう。

 然し信長は、フロイスを始めとする宣教師から、外国の話を聴いて居たし、地球は球体で自分達が棲んで居る日本列島は、大陸島の東の端の小さな島国であると言う事も知ったが、少なくとも、アジアでは、日本の軍事力はかなり上位のものであると言う事も理解して居たと思います。

 但し未だ、この小さな島国一つ平定出来て居ないのは、目の前に居るフロイスの故国が持つ軍事力を挙げて、攻めてこられたら・・と言う不安も同時に持ったに違いありません。 何故なら、信長は、優れた経済学者や政治家ではあったけれども、何より軍人だったからです。 ですから現状なら、大丈夫だが、近い将来スペインが侵略を仕掛けて来るかもしれないと疑ったと思います。

 其れに対し、光秀は優秀な家臣ではあったが、古い格だの、秩序に拘り過ぎて居る処が当然あって、信長の進取の気性は驚くほどの才能の片鱗と評価して居たが、やはり、日本伝統の、「平和を守るには、秩序を守るのが一番大切である」と言う考えを捨てる事は出来なかったし、周りの武家出身者も同じ考えだった。

 それ故、「毛利攻め」に加勢して、「領地は切り取り次第与える」と言う、信長にとってはチャンスを与えたに等しい命令も、光秀にとっては「秩序を無視したモノ」としか映らなかった。私が思うには、実は、光秀は戦略家ではあったが、軍師的では無く、寧ろ、政治家的であったと思います。

 ですから丹波の坂本の荘を与えられて、善政を施して、牢民から慕われて居た光秀は、「現有の領地は取り上げ、代わりに、新領地は切り取り次第」と言う命令を、出世のチャンスだとは思えなかったと、思います。 光秀の心の乖離に気が着けなかったのは、信長の驕りの所為だったかもしれませんね。

 どの途、光秀は「信長の新しさに、ついて行けなかった」と言う見方は正しいと思います。 世の中で必要なのは。Just in time の思想と行動、そして才能だと思いますが、光秀にはそれが無かった。 然し、当時の武将の多くは、光秀の方に共感したと思います。 

 其れを、ワンチャンスで、新たな世造りに向けたのは、元々武士では無い秀吉だったのは、秀吉こそ、時代を変える才能を持って居たとみるべきでしょう。

明智光秀が信長に反旗を翻したのは、国体を守り正当に戻すための義挙であったとのことで、これに対して信長は天皇を恐れぬ合理主義者で伝統と権威を恐れることを知らなかったとしています。

そして、秀吉はこの義挙をなかったことにした上で、光秀を主ごろしとし、これの敵討ちとの形態を取って信長の後を継いだ者としています。

当時は戦国時代末期で、その大勢は信長とされた頃でしょうけれど、信長は武家の征夷大将軍の地位よりも、天皇と同格の神になろうとしていることが、多くの大名にも明らかになった頃だと思います。

信長は、明智光秀に反逆されることなく日本全国を統一していたならば、その後は日本国内の経済的発展を願ったのか、支那大陸に進出したのか、それとも千石船で太平洋や南シナ海を手中に収めようとしたのかと思います。

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