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2018年5月30日 (水)

会津藩士・山川大蔵のこと

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

山川大蔵は、会津藩・国家老・山川重固の長男として弘化2年(1845)生まれています。

母は会津藩家臣・西郷近登之の娘・えん。

初名が大蔵(おおくら)で、維新後は大蔵(ひろし)と名をあらためました。

ーー

山川家は、会津藩公の遠祖である保科氏が、高遠の大名だった頃からの家臣の家柄です。

「高遠以来」の家臣として、代々藩の家老職を勤めてきました。

父の重固は、家督を継ぐ前に亡くなってしまっています。

ーー

大蔵は祖父のもとで育てられました。

ーー

会津藩は、文久2年(1862)、幕府より京都守護職に任命されます。

このとき、大蔵は、松平容保(まつだいらかたもり)に従って物頭として京に入っています。

ーー

慶応2年(1866)、幕府は樺太境界協議のために外国奉行の小出大和守、目付石川利政を欧州周りでロシアに派遣。

旅費を負担させるために、幕府は会津藩からも随員を求め、会津藩は大蔵をそれに任じたのだった。

まだ十代だった大蔵は、陪臣でもあり、要向きはもっぱら雑用ばかりです。

掃除をしろ、茶を持て、髪を結え、などと、雑役ばかりをさせられながら欧州に着いた。

ーー

このときの欧州視察団は、エジプトのピラミッドにも行っている。

このときのガイドがあまりに自分たちをさげすむ態度をとったことから、大蔵はそのガイドを殴打しています。

腕っぷしも強かったのです。

慶応4年(1868)帰国するとすぐに鳥羽伏見の戦いが始まりました。

ーー

大蔵は、林権助隊などの会津藩の敗兵をまとめて、大阪に撤退するという難しい役を命ぜられた。

しんがりというのは、とても苦しいもので、傷つき、疲れ果て、血と汗にまみれながらの撤退です。

大抵は、全員討ち死にします。

けれど大蔵は、兵たちを励まし、その撤退を成功させた。

ーー

大蔵は、植民地から搾取した富で栄えていた欧州を目にし、日本はこのままでは列強の植民地にされると考えた。

実際に欧露の軍隊を見た大蔵は、会津の兵制を、洋式化しようとします。

そんな大蔵のもとには、会津の若手侍たちが集まりました。

大蔵は藩主に建言して、幕府の軍事教官であったフランス士官のシャノアンを会津に招へいします。

そして会津の軍制を、洋式に改め、自らは会津藩の若年寄となりました。

このとき大蔵、23歳でした。

ーー

洋式では走り方からして違ったのです。

武士は腰の刀が抜けないように、急ぐ時でも腰を落として、すり足で小股で走ります。

洋式では、かかとを上まであげ、大股で走ります。

一部の武士からは、こんなものできるか!と反感を得たりもあったようです。

けれど大蔵は、その都度なぜそうするのか理屈を説明してみせて、皆を納得させています。

ーー

大蔵は、一日も早く、天皇のもとに国内の諸藩を統一して、列強に対処できる国力と兵力を持つ必要があると考えていたのです。

これに対し西国諸藩は、まずは徳川政権を倒した後に、天皇のもとに国家を統一して夷敵を打ち払うという。

西軍も東軍も、「攘夷」ということでは一致している。

しかし、「攘夷」のためには、まずは日本の富国強兵(経済力、軍事力を高める)を図る必要があった。

ーー

そのためには、国内で争っているヒマなどない。

将軍みずからが大政を奉還して、天皇のもとに挙国一致体制を築こうではないかというのが大蔵ら、佐幕(幕府を助ける)派と呼ばれる人達の論です。

ところが西軍側は、挙国一致のためには、国内の半分以上を勢力下におさめた徳川家を、まず武力で倒すべきだ、

旧来の陋習や旧弊、因習があまりにも深くしみ込んだ徳川幕藩体制のままでは、挙国体制は難しいというのです。

ーー

現実は動いて、戊辰戦争がはじまり、天皇の詔勅を盾に、薩長連合が諸藩を武力制圧に乗り出す。

大蔵は、必死で公家や西国諸藩に働きかけ、ともに新しい国づくりをしようではないかと呼びかけました。

しかし新政府は振り上げた拳の落とし所として討幕以外認めない。

ならば「武門の習い」として、一戦を交える他ない。

こうして会津藩は、「望まない」戦いへと突入していきます。

ーー

そしていよいよ西軍が江戸を北上し、会津藩に迫りました。

大蔵は、砲兵隊長として日光口の国境警備に就きました。

そこに幕府伝習隊の大部隊を率いた大鳥圭介がやってきて、合流しました。

両者は連合して、日光口方面国境警備軍を編制。

大蔵は、その副総督に就任します。

ーー

寄せ手の大将は、板垣退助と谷干城(たにたてき)です。

その精鋭部隊を前に、大蔵は奮迅の戦いをして、ついに西軍のこの方面からの会津領突入を阻止しています。

谷干城は会津兵の強さに驚き、このとき聞いた山川大蔵の名を記憶にとどめます。

ーー

アメリカインデアンは、白人が来る前、北米大陸におよそ800万人いました。

いまは35万人で、全員白人との混血です。

インデアンたちの文化や風習、伝統、歴史、言語がいったいどのようなものであったのか。

いまでは記録が残っていない、つまり闇の中です。

ーー

インデアンたちの文明も文化も滅びてしまったのです。

ーー

けれど世界中の人々が「インデアン」の名は記憶にとどめています。

なぜでしょうか。

アパッチ族などが、勇敢に戦ったからです。

勇敢に最後まで戦うことで、敵方(白人方)の記憶に残ったのです。

ーー

大東亜戦争を、なぜあそこまでして日本が戦ったのか。

日本には、戦わず降伏するという道もありました。

ーー

当時、日本は、世界最後の非植民地の有色人種国家だった。

その日本が、無抵抗で白人の軍門に下っていたらどうなっていたか。

はるか太古の昔から脈々と受け継がれてきた日本文明は、完膚なまでに否定されて消失。

21世紀の今、日本人は全員が白人との混血であり、人口は350万人程度となって、貧しい少数民族となっていたかもしれない。

ーー

当時有色人種(黒人、黄人)が住む地域に、独立国などなかった。

つまり、日本人も奴隷としてしか生きる道はない状態に陥っていたであろうことは、現実の問題として十分に想像できることです。

ーー

明治新政府において、旧会津藩の武士たちの多くが、明治の指導者としてあちこちで大活躍しています。

現代でもなお、会津人といえば、それなりに腹の据わった男女として認識される。

それは、とりもなおさず、会津藩が戊辰戦争で、最後の最後まで勇敢に戦ったことによってもたらされたのです。

ちなみにいま、米軍において世界で最も信頼できる軍は、日本の自衛隊なのだそうです。

日本が勇猛果敢に米軍と戦い、負けたとなると完璧に武装解除し占領軍の支配に従いなおかつ独自の文化を失わなかったからです。

ーー

日光口戦線が膠着したため、大鳥圭介とその麾下の伝習大隊は若松を経て母成口へと転進しました。

その母成口で、大鳥圭介が西軍の急襲を受けて潰走してしまいます。

この潰走で、西軍は、鶴ヶ城をめがけていっきになだれ込んできます。

会津藩兵は、文字通り門前でかろうじて防ぐけれど、押され、ついに鶴ヶ城に敵の砲弾が飛んでくるようになりました。

日光口にいた大蔵のもとに、8月24日、帰城命令が届きました。

ーー

翌日、田島に入った大蔵は、ここに南会津方面守備隊として軍事奉行小山田伝四郎の隊を残し、残りの部隊を率いて鶴ヶ城に向かいました。

帰城の途中、大蔵らの一隊は、はぐれていた白虎隊員数名と合流しています。

この白虎隊士は、荘田安鉄をはじめとした数人で、飯盛山で自刃(じじん)した白虎士中二番隊の一員でした。

荘田らは、二番隊の一員として戸ノ口原の戦いで敗走後、強清水のあたりで、夜間敵の攻撃に遭い、篠田儀三郎らのいる本隊とはぐれてしまった。

はぐれた荘田ら数名は、相談の結果「山川隊に合流しよう」ということになり、二日二晩飲まず食わずで歩き続けて、ようやく山川隊と出会ったのです。

ーー

隊員たちも、よくぞ合流できた、よくぞ生き残ったと、彼らを暖かく迎え入れました。

ところが引見した大蔵は、「死すべき時に死ねずにたずねてくるとは情けない連中だ。誰か、粥でも与えてやれ」 と、厳しく言い放ちました。

ようやく生きて合流できて、安心したのに、この言葉は心外でした。

荘田らは驚き、歯を食いしばって悔しがりました。

ついに「山川様の面前で割腹しよう」とまで思いつめてしまう。

ーー

すると係の者が「今夜、敵に夜襲をかける」との命令を伝えてきました。

荘田らは、「ならば、夜襲の最先鋒にて打って出て、山川様の前で華々しく討死しよう」と相談し、夜襲への参加を申し入れました。

すると、今度は、「命が惜しくて逃げてきた連中になにができるのか。本気で死ぬ気があるなら、他に死所を与えてやるから、引っ込んどれっ!」 と大蔵は怒鳴りつけています。

ーー

これは悔しい。

年少とはいえ、自分たちも出陣しているのです。

荘田らは歯がみし、涙を流して悔しがりました。

「何故、我らは戸ノ口原で死ななかったのか!」

このとき彼らは噛み締めた唇が破れて血が滴ったといいますから、相当の心情だったのだろうと思います。

彼らの受けた心の痛手は、どんな重傷よりも痛かったかもしれない。

ーー

そしてついに、 「かくなるうえは、山川様も驚く戦功を立て、臆病者の汚名を晴らさぬうちは、死んでも死にきれない!」 と闘志が、むらむらとわき起こりました。

もちろんこれは、大蔵の「気付け薬」です。

白虎隊の少年たちは、山川隊に合流できた安堵感で、緊張感の糸が切れていたのです。

不安と空腹の中で、呑まず食わずの二日間のあと、ようやく大人たちと合流できた少年たちです。

無理もない。

ーー

しかしここは戦場です。

大蔵は、少年たちにもう一度緊張感を持たせ、戦意を復活させるため、敢えて厳しいことを言っているのです。

「今夜は夜襲」という情報提供も、大蔵の差し図です。

ひどいことをすると思うかもしれないけれど、戦場での緊張の喪失は、即座に死を意味します。

本人の死だけではなく、隊全体も危険にさらすことになるのです。

ーー

補足すると、このときの大蔵のように、みんなが温かく少年たちを迎え入れたときに、心を鬼にして厳しいことを言うのは、上司や将となる者に大切な心得です。

昔はこれを「へそ曲がりの論理」と言いました。

みんなが喜んでいるときには、上司は怖い顔をする。

みんながへこんでいるときには、あえて嬉しそうな顔をする。

それができるのが、上司の勤めとされたのです。

そのときは嫌われても、後になってちゃんとわかるのです。

ーー

荘田は、後年、当時のことを振り返って、次のように手記を残しています。

「日を経るに従い、隊長の名将たりしことを、つくづく感ずるに至れり。冷酷なる取扱も、  実は我等を救はんが為にして、夜襲といひしも、元気をつけるための気付薬なりし」

謙虚にそう悟れる荘田もまた素晴らしい。

ーー

さて大蔵ら一行が鶴ヶ城に近づくと、すでに城は西軍が城を幾重にも囲んでいます。

城内に入れるような状況ではない。

しかし殿のもとに合流するために城に入らねばなりません。

ここで大蔵は一計を案じます。

ーー

村の青年団に頼んで、小松地方の伝統芸能である彼岸獅子の道具を借り、獅子舞を先頭に立て、にぎやかに笛や太鼓、お囃子を奏でた。

そして、西軍が呆気にとられているなかを堂々と行軍して、一兵も損じる事なく入城を果たしたのです。

これが有名な「彼岸獅子入城」です。

ーー

この作戦がうまくいった背景には、西軍が、各藩寄せ集め連合軍で、装備や軍装がバラバラだったことや、互いの認知が低かったことなどがあげられます。

ーー

しかし、それでもかような一瞬の盲点を突いて、機知を働かせて敵中を無血で入場してしまうなど、よほどの胆力がなければできることではありません。

この「彼岸獅子入城」は、獅子踊りに、それとわかる少年も混じっていました。

もちろん荘田たち、白虎隊の生き残りです。

他の隊員たちもそうですが、少年達までも、敵の真っ只中で、お囃子や獅子踊りをしています。

その度胸は、まさに見上げたものです。

ーー

が、これもまた、隊長である大蔵へのよほどの信頼がなければできるものではなかったといえます。

ーー

大蔵の入城により、籠城中の将士達はおおいに士気を盛り返します。

藩主容保も、このとき涙を流して喜んだといいます。

入城後、容保は、大蔵を防衛総督に任じました。

彼は本丸にあって軍勢を総括しました。

ーー

こうして戦うこと1ヶ月。

ひとくちで1ヶ月の籠城戦といいますが、関ヶ原の頃の時代と異なり、大砲に炸裂弾が用いられた時代です。

どれほどまでにすさまじい戦いが行われたか、想像するに余りあります。

そして大蔵は、この籠城戦のさ中に、妻のトセを爆死で失っています。

長い長い籠城戦でしたが、ついに鶴ヶ城は落城します。

ーー

藩主の松平容保(まつだいらかたもり)、家老の山川大蔵らは、西軍に拿捕され、猪苗代に謹慎させられました。

しばらくすると、処分のため、松平容保公以下、幽閉されていた会津の重臣たちに、東京出頭命令が届きました。

東京に護送された一行は、池田家の屋敷その他に、分離して幽閉されています。

そして徐々に藩士たちの謹慎先が決まっていきました。

この情況下で、大蔵は積極的に「お家再興」へ向けた活動を開始しています。

敗れたからといって、あきらめていないのです。

ーー

いまなら会社が倒産して、無一文の求職者になったようなものです。

その情況下で、ふたたび事業再開に向けて活動を開始しているのです。

新政府は、日増しに増幅する会津藩への同情論を牽制するために個々の会津藩士たちの戦争責任を追及しようとしました。

するとこれには藩公の松平容保が、頑強に抵抗しました。

「首謀者は余である、余を処罰せよ」 と言い張るのです。

ーー

実はこれは新政府には、非常に困ることでした。

伝統と格式ある大名格の人を処分するとなると、ちゃんとした理屈が必要になるからです。

「朝敵」というのが、そもそもデッチアゲだったからです。

「挙国一致し、内戦によって国力を消耗することなく、夷敵に備えるべし」 という論は、容保(かたもり)の論です。

そのために、容保以下の会津藩士は、必死の調整をしていたのです。

それを薩長の側が内戦で叩いたのです。

ーー

理屈でいえば新政府軍側に非があることになります。

加えて、合理的で正当な処分ができるかどうかは、列強が観ています。

勝ったからといって、横暴な処分をすれば、それは 「日本では力がすべて」 という論理が通ることを証明することになるのです。

日本においてその理屈がまかり通るならば、日本よりも強大な海軍力を持つ欧米列強(当時は米英仏)は、薩長政権をも滅ぼし、まさに力によって日本を支配することができることになります。

つまり薩長政権は、列強の手前、どこまでも力とか戦いに勝利したということではなく、正義を実現していかなければならない。

こういう立場をとる以外に、国を護る方法がなかったのです。

ーー

そこで薩長政権が、行った方法というのが、明治天皇による「勅旨」でした。

「容保の死一等を宥(ゆる)して首謀の臣を誅(とが)め、以て非常の寛典(かんてん、寛大な恩典のこと)に処せん」

要するに、新政府誕生記念なので、理屈抜きで赦(ゆる)しますとしたのです。

ーー

天皇の詔勅が出た以上、もはや容保公も、それ以上言い張ることはできません。

そして藩の首謀の臣として、責任を一心に背負って家老の萱野権兵衛(かやのごんべい)が、 「従容自若顔色豪も変らず」 全責任を負って腹を切りました。

明治2年5月18日(新暦:1869年6月27日)のことです。

ーー

萱野権兵衛は、会津藩一刀流の相伝(免許皆伝)を受けた剣豪であり、藩校である日新館で兵学を教えた教授でもあった人です。

家老の席次からすれば、田中土佐、神保内蔵助らがいました。

しかし二人ともすでに自刃していました。

序列から権兵衛は、みずから「謹んで裁きを受ける」と申し出、会津戦争に関するすべての責任を一身で引き受けたのです。

切腹の日、権兵衛の身柄を預かる有馬家では、丁重な酒肴を用意してくれましたが、権兵衛は辞退し、自ら茶を立てて同室の人々に振る舞い、

最後に自らも喫し、有馬家に厚く礼を述べて、切腹の場に指定された飯野藩保科屋敷に向かいました。

保科邸では、介錯を務めた保科家の剣客沢田武司に、「忠臣をもてなす道である」として、藩主から貞宗の名刀を用いるよう渡されていました。

権兵衛はそのことも感謝しつつ、従容として自刃しています。

ーー

明治2年(1869)6月3日、松平容保に長男が生まれました。

名を、慶三郎と名付けられます。

どん底状態にあった会津人士たちに、このことがどれだけうれしいニュースとなったことか。

そしてこの年の9月、太政官から、家名再興許可令が発せられ、会津松平家は復活することになりました。

10月には大蔵は梶原平馬とともに会津藩総代となり、生まれたばかりの慶三郎をもって松平家の家名を立てられるよう、正式に願い出ています。

ところが時を同じくして、新政府から「猪苗代または陸奥の北部にて3万石を賜る」旨の通知が出されました。

いよいよお家再興とはいえ、石高は23万石から、いきなり3万石です。

ーー

そして猪苗代か陸奥の北部かを選べという。

この場合、普通なら猪苗代を選びます。

なぜなら猪苗代は会津藩の旧領だし、祖先の墳墓の地にも近いのです。

しかも距離が近い分、藩士たちの引越費用も安く済みます。

ところが大蔵らは最北の地である陸奥北部を選びました。

ーー

なぜでしょうか。 このことについて、後年、義和団事件でコロネル・シバと呼ばれた柴五郎が、「ある明治人の記録」の中で、次のように記しています。

「会津落城後、経済、人心ともに荒廃し、世直し一揆と称する大規模なる百姓一揆あり  権威失いたる藩首脳これを治むる自信なし」

(コロネル、スペイン語colonel大佐、英語での発音はカーネル)

ーー

明治2年(1869)11月、会津松平家は松平慶三郎をもって家名を立てることを許され、陸奥三郡に3万石、および北海道四郡の支配を命ぜられます。

「よって藩名を申し出よ」 ということで、大蔵らは「斗南(となみ)」という藩名を付けました。

「斗南」というのは、「北斗以南皆帝州」という支那の詩文から採ったものです。

私たちは北を守ります。

私たちより南は、みな帝州です。

私たちは朝敵ではなく、同じ帝州の民なのです、といった意味です。

ーー

藩名で、天皇への恭順の意を表したのです。

ーー

明治3年(1870)、大蔵は斗南藩の大参事(家老職)に就任しました。

けれど会津藩23万石が、わずか表向き石高三万石、実収入は一万石にも満たない北限の地に閉じ込められたのです。

大蔵も妹咲子(後の大山捨松)を函館に口減らし同然に里子に出すなど、貧窮のどん底で苦労を重ねています。

結果として、藩の経営がうまくいかないまま、明治四(1871)年には、「廃藩置県」によって斗南藩は消滅します。

弘前藩と合県して青森県となった。

ーー

山川大蔵は、斗南に来てから名を「浩(ひろし)」と改め、しばらくは青森県庁に出仕し、その後上京しました。

母や妹たちと共に浅草の片隅に住み、絵に描いたような貧しい長屋暮らしをしています。

長屋の狭い家でしたが、居候(いそうろう)もいました。 若き日の柴五郎、のちのコロネル・シバです。

ーー

この頃の大蔵は、生活苦から、ときに居候の柴五郎からも借金しなければならないほど家計は苦しかったそうです。

そんな大蔵を、必死で探しまわっていた人物がいました。

かつての戊辰の敵将、谷干城(たにたてき)です。

谷は土佐の人で、武智半平太と親交を結び、後藤正二郎や坂本竜馬らと攘夷のための運動をした人物でもあります。

ーー

この頃の谷は、兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)として、明治新政府の国を挙げた陸軍構築のため、人材を求めていました。

谷は、会津戦争のおり、日光口で散々に自分たちを苦しめた「山川大蔵」の名を覚えていたのです。

大蔵を「有為の人材」として陸軍に推挙した。

谷の推挙によって陸軍に入った大蔵は、陸軍裁判所勤務を経て少佐となり、熊本鎮守府に転じました。

佐賀の乱に出兵して負傷し、しばらく療養するけれど、西南戦争では中佐として別働第二旅団の参謀として出動。

熊本城に籠城する谷将軍救出の一番乗りをやってのけます。

ーー

明治13年に大佐に昇任した大蔵は、陸軍省の人事課長となり、さらに明治18年には文部大臣森有礼のたっての要望により、軍籍のまま東京高等師範学校長の任に就いています。

やがて陸軍少将になった大蔵は、貴族院議員になります。

これには山県有朋が、 「何故会津人を将軍にするのか!」 と激怒。

それで、明治大帝が勅撰にされた。

ーー

貴族院議員となった大蔵は、筋の通らない政策には敢然と反対を表明します。

その潔さと正々堂々とした議論は、世人から「貴族院の3将軍」の一人と呼ばれ、政府高官たちを大いに畏れさせました。

この頃、東京牛込若松町三番地にあった山川邸は、馬小屋も備えた、当時としてもかなりの広さを持った屋敷だったそうです。

その屋敷には、年中誰かが来ていたそうです。

大蔵の人徳と、会津人の中心という彼の立場からすれば、当然といえば当然です。

ーー

そんな来訪者の中の一人に、藤田五郎の名があります。

藤田五郎、もとの名を斉藤一(さいとうはじめ)といいます。

新選組三番隊組長だった斉藤一です。

斉藤一は、戊辰戦争では山口二郎の名で勇名をはせ、維新後は改名して藤田五郎と名乗っていました。

藤田は、土方歳三が会津を去った後も、残存の新選組を率いて会津で戦い続けたのです。

そしてついに会津藩と命運を共にした。

さらにその後も斗南から西南戦争と、ずっと大蔵と共にありました。

ーー

斉藤一は、山川大蔵という男に惚れ込んだのだろうと思います。

山川邸に出没していた頃は、警視庁をすでに退職し、大蔵が校長をしていた高等師範学校の事務員をしていた頃です。

ーー

藤田は、休みの日など、しじゅう山川邸に現われ、酒を飲んでは気焔をあげていた。

「刀を抜いて戦う場合は、剣術の場合のように構えるようじゃだめだ。大上段にふりかざして進めば、敵はもう斃(たお)れているのだ」

「阿弥陀寺の会津戊辰戦死者之墓の傍らに、俺は骨を埋めるのだ」

などと言っていました。

ーー

藤田にとって、大蔵の屋敷は、いちばん気の落ち着ける場所であったのでしょう。

現在、藤田五郎の霊は、彼の希望通り、七日町の阿弥陀寺にあります。

ーー

義和団事件で、壊れた塀から続々と入ってくる義和団を、日本刀一閃、次々に眠らせて

英国人女性から絶賛を浴びた安藤大尉も、その戦いの奥義は、斉藤一からの直伝だったのかもしれません。

明治25年(1892)、大蔵は、男爵に叙せられ、華族に列しました。

しかしこの前年あたりから呼吸器系を患い、ついに明治31年(1898)3月、波瀾万丈の人生を終えました。

享年54歳でした。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございました。
>>会津藩士山川大蔵
 この人の話は一切知りませんでした。 私は薩摩の出ですが、余りに会津の事を知らないので、3年前の「八重の桜」は、全編看て居ましたが、山川さんの話は欠片も出なかったのは、ドゥしてなのでしょうかね。 

 ねずさんが挙げられた話を読んでいくと、鶴ヶ城落城後の草野さんの切腹の話や白虎隊の生き残りへの山川さんの冷酷な仕打ちなど、会津の正義や武士の滅亡~消滅を語る上では、南の西南戦争に比する話だと思いますが、結局、現在の皇室批判に繋がる様な話は、NHKの番組制作の初めの段階で、排除しているのではないかと、勘ぐって居ます。

 私は歴史を生涯の趣味にして居ますが、「歴史の多くが勝者側の視点に立ったモノ」であるコトに、常々疑問を感じています。 と、謂うのは、他の国の歴史に対する考え方が、「勝者の改竄や創作を容認した、単なる成功談」ナノに比べ、日本の其れは、「客観的な事実の積重ねで無くてはならぬ」と言う処に、極限まで拘ったモノだと思うからですそして青う言う姿勢を失った時、日本の伝統の崩壊が始まる、と私は思います。

 此の山川大蔵の話は、戊辰戦争ですから、日本人同士の凄惨な戦いが、県民同士の対立の火種になる事を懼れてか、、今迄、詳しくは語られて居ませんでした。 亦、維新の話は良く取り挙げられているけれど、事の真偽は兎も角、皇室の皇統に関わる様な話は全て排除されているのが、通例です。

 NHKの大河ドラマでも、取り上げる話は殆ど決まって居ます。例えば、皇統に疑義を生じかねない継体帝を生んだ時代、其の前の、仲哀帝・神功皇后の三韓征伐と大阪平野の大開墾に拠って、大和朝廷が、飛躍的な経済力を持った話、そして、蘇我親子を誅した乙巳の変以降の天智帝と天武帝の兄弟の争い、そして壬申の乱を経て、日本誕生迄・・他にも、日本人が知らねばならない日本の歴史は幾らでも有ると私は思います。 まぁ、大河ドラマは、「飽く迄、ドラマだ」と言うお話なんでしょうが。

 皇室に忖度しているのはいいですが、そう言うものが、多過ぎるのではないかと、私は思います。 忖度のし過ぎは、却って、トンデモ無い風説を生み出し、其れを利用して日本人同士の離間を狙う、シナ・朝鮮人集団が、現に居ます。 ですが、その外国勢力に占領されて居る感の有る、今のNHKには、その様な、皇室を傷つけたりする恐れのある題材を委ねる事は、これまた危険極まりない事です。

 この辺り、近々行われるであろう、放送法の改正で、NHKの解体、改革の時に俎上に上げて頂きたい。 「本当の日本の歴史を日本人のものにする為に」。 そして、この、会津藩士山川大蔵の様な、日本人が模範としなければイケない人物も、取り上げて行くべきでしょう。

 望むらくは、憲法九条に毒された、「平和と水は只で当たり前」と言った、常識をひっくり返してほしいのです。 否、日本を存続させる為には、必ず、ひっくり返さねばいけない、と私は確信して居ます。

 山川大蔵は、会津藩士で国家老の家の出ですから、藩の心配を第一にすべきでしたが、家の教育が素晴らしかったのでしょう。 日本国の心配をっする若者に成長して、海外にも行って、その文化をちゃんと比較できるダケの日本に関する知見を持って居ました。 

 是は、家庭内教育が、とても重要な事だと言う事を示して居ます。 大蔵さんは、幕府の言いつけで西洋に時半で行った時は、僅かに20~21歳の若輩者だった筈、若気の至りで、エジプトでモラルの低いガイドをぶん殴ったりして居ますが、若い武士で、理由も無くあざけられて黙って居る様では、逆に頼り無い、と私は思います。

 然し、時代の流れは、幾ら個人が努力しても止められないモノの様で、反駁体制下では、最優先事項であった、「御家の存続」も、国家経済へ移行し無ければ、日本は、西欧列強の餌食にされて終う、事実、経済こそが、資源の無い日本では、西洋に全く追い付いて居なかったと見るべきでしょう。 

 23万石→3万石の減封を嘆いて居ますが、当時の日本は、米本位制度だった江戸時代から、西洋と同じ土俵の上で競争しなければならなかったワケで、その混乱期に、多くの大判小判が、国が陰持ち出されて居たわけで、新政府自身が、窮乏して居たとみるべきです。 従い、斗南藩の挫折は、そう言った時代の流れの端的な現象であったと解釈するべきでしょう。 是は、「八重の桜」でも取り上げられていましたね。

 日本が、朝鮮やシナの様に、蚕食されたり、国を露骨に外国の恣にされなかったのは、市井の日本人が、命を捨てて戦ったから、米国の将軍ニーミッツに「日本兵士は世界一だ」と言わしめる戦い方をしたからこそ、日本人は、誇りを失わずに此処までこれたのだと、私は思いますし、米国もその民度に、異次元のモノを感じて居たと思いますが、其れは、伝統だったと言う事ですね。

 我々には、是から、反日・在日勢力との表立った戦争が始まりますが、この誇りこそが、日本人が子々孫々に伝えて行かねばならないスピリッツだと思います。

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