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2018年4月18日 (水)

しかし、支那皇帝を仰ぎ、その「教化」を受けることはなかった

ーー以下「国際派日本人養成講座、伊勢雅臣」より抜粋編集

石平著『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか 「脱中華」の日本思想史』を読む

我々日本人の祖先は、古代より支那文化から多くを学んできた。

しかし、支那皇帝を仰ぎ、その「教化」を受けることはなかった。

誇り高き我が先人たちは、そのような道を選ばなかったのだ。

ーー

この国はイザナギとイザナミの二柱の神が作られたものだ。

その子(アマテルカミ)は、孫(ニニギ)に、天壌無窮の神勅「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり」を与えた。

その子孫たる代々の天皇が、神勅を受けて、日本国を統治(シラ)されてきた。

現在もアマテルカミの「血筋」の今上陛下がおわす。

ーー

したがって日本国では、その「血筋」でない者が、日本の支配者になろうとしても、日本人は誰も承認しない。

つまり姓を持たない皇室に対する易姓革命は成立のしようがなかった。

ーー

アマテルカミのシラス(統治)の形は、「権力と権威の分離」という仕組みであった。

それは、素戔嗚尊(ソサノヲ)がウシハク(大人支配)を行っていたことをアマテルがとがめられていることからわかる。

(だから世界一長く続いている)

ーー

つまり日本国では、特定の権力者が富を独占し、他の圧倒的多数の人民が貧困のままに暴力によって虐げられる状況を許してこなかったのだ。

ーー

権力者は、天皇の承認によってはじめて権力者となることができたのだった。

(現在も天皇陛下が大臣の承認をされている)

権力者がお互いに争い交替しても、天皇はその紛争の埒外におられるのが常であった。

もちろん長い歴史の中には、皇位継承争いは存在した。

もし、紛争に天皇が直接関与されている場合は、例えば「承久の乱」で北条義時は

「(天皇が戦に来られれば)天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(『増鏡』)。

このような、いわゆる皇国思想によってわが国は独裁と戦乱を、排除することができたのである。  

ーー

一方支那は、現在においても「ウシハク(大人支配)」つまり独裁政治のままだ。

そして民衆の暴動は年に数万件も発生しており、その国内向けの対策費が国防費を上回るような状況になっている。

なにしろ支那には、少なく数えても56種類の言葉、つまり文化が存在している。

それらを無視して、暴力によって彼らの発言を抑え込んでいるのだ。

このような支那文化が日本に入り込むのをどのように我が先人たちは阻止したのか。

ーー

皇国思想とともに、我が先人たちが、支那文化が入り込むのを阻止するのに使ったのが仏教だった。

仏教を導入した人物こそが聖徳太子である。

太子は、隋の煬帝に国書を送っている。

その書き出しは「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、恙なきや」であった。

この書は日本にも対等の天子がいることを前提としており、天子は世界の中心に一人しかいない、とする支那文化を完全に否定している。

その挑戦的な言辞を「恙(つつが)なきや」と、いかにも親しげに結んでいるのは、巧みな外交感覚である。  

ーー

国書を受け取った煬帝は「蛮夷の書、無礼なり」と怒ったと伝えられている。

が、当時、隋は高句麗と戦っており、さらに日本を敵に回す余裕はなかった。

煬帝は「皇帝から倭皇に挨拶を送る」と唯一の皇帝の存在を主張しながらも、「倭皇」と部分的に持ち上げる国書を送らざるを得なかった。

ーー

この国書を持参した使節は小野妹子だった。

彼は、「海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に使いを遣わして朝拝せしめた」と挨拶した文書が残されている。

「海西」という言葉は、日本から見て「海の西」という言葉で、これも支那が世界の中心だという支那文化を無視した表現である。

ーー

「菩薩天子」や「仏法を興す」という表現は、支那文化の上に仏教を置いたことになる。

そして、我々はそれを学びに来た、という。

こうして太子は、仏教を使って支那文化が世界最高のものだということを全否定してみせたのだ。

ーー

石平氏は、これについて、「太子は、仏教によって、支那文化ならびに隋朝の権威を相対化したのだ」と。

ーー

今、支那は強大な経済力と、近代的な軍事力を備えた。

支那の習近平は、終身主席(大統領)の地位を得て、皇帝となり先祖返りしつつある。

その独裁政治は国境や民族という概念を無視するものだ。

その他の文化を認めないという毒は、国内のみならず、台湾や東南アジア、チベット、ウイグルなどの周辺諸国、そして世界全体に拡散されつつある。

その毒から、我々自身、周辺国民、地球全体、さらには支那で暮す独自の文化を持った人々を守るためにも、我々の先人の知恵を継承していかなければならない。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>日本がシナ文明の影響を逃れ独立文明を築けた理由
 其れは、勿論、日本が古代と言う意味では、シナと対等の少なくとも3万5千年も前から、列島に棲み続けて来たと言う事実から、大陸国家であるシナとは、交流はあれど島嶼国家としての独特な民族構成とその混淆を経ての国家形成への行程がまるで違うワケで、異なる結果が出るのが寧ろ当たり前であろう。

 然し、地理的に同じ様な位置関係にあるイギリスと欧州大陸の関係を見ると、高緯度故に文明の開花が2万5千年程、遅れてはいるが、大ブリテン島にBC2~3千年前に渡ったと推定されるケルト人は、欧州の代表的な農耕民であり、独自の文化形成力と言語を持つ民族だったが。紀元4世紀ごろ、ローマ帝国の侵略とローマ正教の布教を許して居ます。

 ドーバー海峡と朝鮮海峡での夫々の大陸との距離は変わりがないので、問題は地理的な要素の他に有ると考えるべきでしょう。 其れは、日本列島が、世界三大潮流の北赤道海流の支流に当たる黒潮の終着点にあり、古代から数多の海洋民族が、難破して列島に辿り着いて命からがら、暮らし始めたと思われますが、もし、列島に辿り着けなければ、太平洋のど真ん中へ流されるワケですから、命が助かる確率は殆どなくなります。

 それ故、もし、列島から大陸に無事に帰れたとしても、2度も同じ目に遭おうとはしなかったでしょう。 そう言う意味で、仏教の布教(天台宗)の為に、3度も渡航を企てて、終に成功した鑑真和上の志の強さは驚異的だと思います。 和上はそのご苦労の所為で、日本に着いた時は、失明為されて居ました」。

 そうで無くとも、列島は全体が火山で構成されて居ますから、特に、シナ大陸に近い九州では、南西諸島から南九州~九州中部迄、火山の連続で、阿蘇、霧島、桜島、開聞岳と、大きな爆発をこの3万年の間に幾度も起こして居ますから、大きな火山の無いシナ大陸では、千キロも離れた処でも聞こえる大きな音や巨大な噴煙、地響き、津波等、恐ろしいな所と言う認識があって、余程の事が無いと、危険を冒してまで行く気には、成れなかったと思います。

 シナの度の時代か覚えて居ませんが、日本に来たシナの使節が、段々畑や棚田を看て、その耕作法や土地の特徴を生かした工夫に気付かず、「あぁ、貧しい国なのだなぁ」と、感じ報告したと言う話を聞くと、「やはり、シナ人の出自は、非農耕民なのだなぁ」と、思いました。 つまり、土地に対する考え方、価値観がまるで違うのです。 彼らに取って、農民は無力で臆病な、唯、搾り取る対象でしかないのでしょう。

 そうした支配層と生産層の間に、生産物に対する意識の乖離が存在するのは、ウシハク「=大人支配」しか行っていない証拠で、シナ本土での、シラス政治は、BC20頃の長江文明と黄河文明の衝突である、「拓鹿の戦い」で、長江側が大敗した時に、終わって居ると見るべきでしょうね。

 6世紀と思しき、隋王朝の成立ですが、非漢民族の隋王朝(チュルク系の突厥の支族鮮卑族)は、根っからの遊牧民ですから、「戦いの結果が全て」と言う、考えを持って居たのですから、知らない相手については実績で考えるしかない。 

 すると、つい200程前の、日本の三韓征伐や「倭の五王」の強勢ぶりは知って居ても日本と、戦ったシナ王朝は無い事を知って居る隋の二代皇帝は、当たり障りのない表現で、使者を追い返して居ますが、是は聖徳太子が、使った最も経済的で効果の有る防衛外交手段だったと思います。 正に、「戦略は相手の身になって考える事を基本とする」ですね。

 斯うした、我らの先達の賢人達の叡智に拠って、日本は護られて来たワケですね、 我々は自身もその事を再認識し、子孫に、先人の知見の広さと情報収集から編み出した戦略眼の素晴らしさを伝えねばなりませんね。

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