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2018年4月22日 (日)

そんな状態にもかかわらず、退路に点在していたビルマ人の村や民家を襲うどころか、物を盗んだという話さえ、ただの一件も伝えられていない

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

日本では、兵は「たけふ」人、つまり武(たけふ)によって、「世の理不尽を正す」人と考えられてきました。

しかし諸外国にはそのような考えはない。

支那では、軍というのは日本人にとっての暴徒と同じものです。

西洋での軍というのは、傭兵で、日本的な言い方をすれば武装暴力団です。

ーー

今日の日本では、日本の軍人が、あたかもそれら諸外国の軍に等しいものという前提で、帝国軍についての論説や記述が行われています。

それは、帝国軍人で在った人たちや帝国軍についてよく知る私などから見ると「いったいどこの国の兵ことを言っているのだ?」と驚かされます。

ーー

私は戦後生まれです。

戦後、我々の先人は愚かで卑怯な人たちだったと教育されて、とてもがっかりさせられた。

しかし私が接する戦争体験のあるような日本人はみんな賢く勇敢な人たちだった。

それで先人はそんなに悪い人たちだったのかと疑問を持ち、自分で調べまくったのでした。

すると、事実と思われる話や記録は、それまで学校で教えられていたこととは、全く違つていて愕然としたのです。

ーー

記録は、当時の気分・時代精神といったものを背景に記述されています。

当時の気分を想像し、記録を読むと、ようやく事実が見えてくる。

それは、戦後社会が作り上げた見方とは全く違うものだった。

ーー

以下のお話も、そのひとつです。

ーー

大東亜戦争の末期、昭和19年3月から6月にかけて、日本陸軍はビルマ(現、ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略する作戦を立てます。

しかしインパール攻略はなりませんでした。

空と陸からイギリス軍の反攻を受けつつ退却を余儀なくされた。

ーー

この退却では、負傷し、飢え、マラリアや赤痢に罹患し、帝国軍の大半が、力つきてお亡くなりになりました。

街道には、延々と帝国軍人の死体が折り重なって、やがて白骨と化した。

以後、この街道は「白骨街道」と呼ばれるようになった。

ーー

生還した兵の一人は、この時の状況を次のように記録しているのです。

ーー

道端に腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。

また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り、真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。

そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。

また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。

地獄とは、まさにこんなところか・・・。

ーー

その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。

そのような姿で屍は道標となり、後続のわれわれを案内してくれる。

それをたどって行けば、細い道でも迷わず先行部隊の行った方向が分かるのだ。

皆これを白骨街道と呼んだ。

この道標を頼りに歩いた。 (『ビルマ最前線』小田敦巳)

ーー

イギリス軍はこの退路にもしばしば現れ、容赦なく銃弾を浴びせたそうです。

死体のみならず負傷し罹患して動けない日本兵まで、生死を問わずガソリンを掛けて焼きました。

こうした酸鼻な敗戦だから、作戦を指導した牟田口中将は戦後あらゆる非難、罵声を浴びせられました。

負ければ賊軍は世の習いです。

しかし、いくらそんな批判をしても、失われた生命は帰ってきません。

むしろ戦争を知らない世代である私たちにとっては、そうやって歴史を批判することよりも、そこから「何を学ぶ か」が大切なことだと思います。

学ぶために調べてみると、この作戦には不可解なところがあることがわかるのです。

ーー「インド兵を温存せよ」

昭和18年9月の御前会議で絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域を定め、この外郭線において敵の侵攻を食い止めようという戦略が決定されました。

インパール作戦は、その基本戦略に反しています。

なぜなら、国防圏の外側にあるインドに撃って出ようというのです。

どうしてこの時期にこういう作戦を立てたのでしょうか。

それは当時日本に滞在していたチャンドラ・ボースの強い要請を受けたからだと言われています。

それではじめは反対していた大本営も作戦の実施を認めた。

ーー

もしかしたらインドの独立に火をつけることで、退勢が濃くなってきた大東亜戦争の戦争目的を改めて世界に訴える意味が重視されたのかもしれません。

ーー

守るイギリス軍は15万です。

攻める日本軍は9万です。

亜熱帯のジャングルの中の陸戦ですから、大型の火砲は使えません。

ですから当時のジャングル戦は、なにより歩兵の数がものをいいました。

数で劣る日本軍は不利です。

ーー

ところが実は、ほかにインド国民軍4万5千がいたのです。

この兵力を加えれば日本の兵力はイギリスとほぼ並びます。

ところが日本軍はそのインド国民軍のうち、どうしてもという6千人だけを連れて行き、残りをまるごと温存したのです。

ーー

普通の国ならこうした場合、インド軍をむしろ前に立てて、自国軍主力の犠牲を少なくしようとするのが自然です。

これはインド独立のための戦いなのです。

インド国民軍を前に出して何も悪いことはありません。

ーー

ところが日本軍はそうはしなかった。

むしろ自分たちが戦いの先頭に立ったのです。

戦闘のプロである日本軍の幹部は、これがどれだけ困難な戦いになるかは分かっていたはずです。

だからインド兵を後ろに置き、自分たちが先頭に立ってインドを目指したのです。

ーー

日本軍の下級将校も、自分の部隊に配属された少数のインド兵を温存しました。

こうした日本軍の心意気は必ずやインドに伝わり、インドの決起を促す。

下級将校クラスであれば、当然そのくらいのことは考えていたはずです。

ーー

末端の兵士はそこまで具体的には考えていなかったかもしれないけれど、アジアの人々が植民地支配のもとで虐げられ続けてきたことは承知しています。

果たして遠からずインドは独立しました。

その意味を知ればこそ、戦後の東京裁判に独立間近のインドは歴史の証人として、パール(パル)氏を判事として送り込んだのかもしれません。

ーー「インド解放のため死しても戦う」

こういう惨烈な戦いであったにもかかわらず、終始日本兵の士気は高かった。

インパール作戦は補給を無視した無謀な戦いであったというのが、戦後の定説となっています。

しかし、日本軍は戦闘のプロです。

作戦以前の問題として、第一線への補給が困難であることは当然、分かっていたことです。

ましてアラカン山脈に分け入る進撃です。

後方との連絡の細い山道は常に上空からの銃爆撃にさらされて、命令も情報も伝わってこなかったに違いありません。

ーー

その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊となってイギリス軍と戦い続けたのです。

一人も降伏しない。

誰も勝手に退却しない。

敗戦となり軍の指揮命令系統が崩壊しても、ひとりひとりの日本兵は弾の入っていない歩兵銃に着剣して、後退命令が来るまで戦い抜いたのです。

そうした闘魂の積み重ねで、一時はインパールの入り口を塞ぐコヒマの占領まで果たしています。

前半戦は勝っていたのです。

ーー

食料乏しく、弾薬も尽き、医薬品は最初から不足し、マラリアやテング熱、赤痢も横行するなかを、日本軍は二カ月間も戦い抜いたのです。

有名なワーテルローの戦いだって、たった一日です。

戦いの2カ月というのはものすごく長い期間です。

相当高い士気がなければ、こんなことは不可能です。

ーー「世界最高の軍紀を誇った日本軍」

日本軍の軍紀は称賛に値すべきものでした。

餓鬼や幽鬼のような姿で山中を引き揚げる日本の将兵たちのだれ一人、退却途中の村を襲っていないのです。

すでに何日も食べていない。

負傷もしている。

病気にも罹(かか)っている。

そんな状態にもかかわらず、退路に点在していたビルマ人の村や民家を襲うどころか、物を盗んだという話さえ、ただの一件も伝えられていない。

これは普通では考えられないことです。

ーー

銃を持った敗残兵が民家を襲い、食糧を略奪するなどの乱暴をはたらくのは、実は世界史をみれば常識です。

戦場になったビルマですが、現地の人たちは戦中も戦後も、日本軍に極めて好意的です。

それは日本の軍人が、そういう不祥事を起こさなかったからです。

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>インパール作戦
 この作戦の指揮官である牟田口廉也中将が、戦後国の内外から糞味噌に叩かれているのは、子供の頃から知って居ましたし、得られる情報から、彼こそ、敗戦の原因の一つを造った将軍だと思って居ました。 

 然し、インパール作戦の失敗の原因や、何故作戦を中止しなかったのか等、よく考えて看れば、判らないことだらけでした。でも、日本軍は食糧・弾薬・医薬品の補給が無いから負けたと言う話でしたので、「現地調達」は考えなかったのか、と思いましたね。 

 そんな疑問に答えてくれたのは、宮崎さんと同じ戦地帰りの近所のオジさんです。でも、オジサンの話は、「勝手に現地調達なんてしたりしたら、下手をしたら銃殺だからなぁ」といったダケで、殆どは死んでいった戦友の無念を語るだけで、一度も手柄話など聴いた試しは有りませんでした。

 後で分った事でㇲが、日本軍の食糧・弾薬不足は何処の戦線でも深刻でしたが。それでも。凡そ3倍にもなる敵を打ち破ったり、自軍は全滅したが相手の軍ではそれを遥かに上回る死者を出して居たと言う話は幾らでも有ると、小学校高学年で読んだ、太平洋戦史に有りました、亦、後に敵将ニーミッツをして、「日本の兵士は世界一だ」と言わしめたのです。

 昭和30年代の後半、学校の先生に未だ戦地帰りの人が結構残って居て、私のクラス担任の先生も、特攻隊の生き残りだとの噂でした。 この先生も亦無口で、凡そ戦争体験など話さなかったのですが、1年生の時、夏休み返上で取り組んだ、砂鉄を使った磁力線の研究が、思いがけず総理大臣賞を貰う事になりましたが、その時同じく夏休みを返上してご指導いただいたのが尾の先生でしたので、無口で何時も怒って居る様な顔をして居ましたが、流石に、夏休みの間には、断片的ですが色んな話をしてくれしたのですが、何せ小学1年生なので、意味が分からなかったので、内容は殆ど覚えて居ないと言うのが残念な処です。

 日本軍兵士の殆どは、平時は一般庶民です。 大抵は農民ですが、町に住むものは、商売人も居れば、下級役人も、学校の先生だっていますが、一旦、兵士となるや生まれついての兵士の様な鬼神の如き働きをする人も居た様です。

 是は日本社会が、培ってきた武(たけふ)とは、「混沌とした世を糺す役目を背負った正義の人」である、と言う伝統精神が存在し、平時は一般人の人も、いざ戦闘となると、指揮官が示すその精神から発する勇猛さに感応するのでしょう。 然し、戦いが終われば、平時と同じ人格を取り戻す、何故なら戦闘は、国を護り、正義を護る為にやった当たり前の事ダカラです。

 私は、話を聞かせてくれたオジさん達が、皆脱力状態にあった様に感じて居ました。 それは、正義の為に命をけで戦ったけれども、負けると、正義では無かった様に謂われている、其れでは、正義の為にと戦い死んでいった者達が、余りにも切なさ過ぎはしないか、と考えて、いたのだなぁ、と、64歳になって、初めて気が着きました。

 日本軍の兵士が、世界一であったのは、その勇猛さだけでは無く。戦いに措いても、人間としての原点・あるべき道徳を忘れて居なかった、と言う事でしょう。 

 そう言うエピソードは、人と人が戦い相見える陸軍が殆どですが、相手の顔さえ見えない海軍でさえ、日本軍に撃沈された、海に漂う英国巡洋艦の乗り組み員を、敵の潜水艦の雷撃の危険を冒して迄、自分の韓の乗組員より多い人々を救助して、フィリピン経由で帰国させた、駆逐艦「雷」の話もあります。 其れに比べ、病院船と分って居るのに雷撃した米軍や、負傷や伝染病で既に戦えない兵士に容赦なく銃弾を浴びせた、同じ英軍とは、その人間性のレベルは、比べ物にならないと思います。

 つまり、戦前日本の民度も世界一だったと言う事です、日露戦争で大国ロシアを打ち破ったのは、決してフロックでは無かった事を知った英米の上層部は、相対的に、黒人兵を善戦に立たせる等、自分達の兵士の民度の低さを恥じたし、その事が、国内外に知れ渡る事を懼れたのでしょう。 

 WGIPはその象徴とも言える政策です。 日本の伝統の価値観を、悉く否定して見せる、この共産思想から生み出された「伝統の否定」を進んで受け容れた、正力松太郎こそ、真の国賊であると私は思います「。 

 唯、彼の存在は、「相対的に見て「一人高邁で有るが故に、他国から敬意と共に怖れられた日本と言う孤高の国」への、FDRが、日本を戦争に引き摺り込むために、米国庶民に植え付けられた「日本人は悪魔だ」と言う、誤解を解き、自然に沸き上がる疑問を喚発して、現在の「日本理解」につなげた事は、評価できると思います。

縦椅子さま 

今日も素晴らしいブログ有難うございます
 
<大東亜戦争の末期、昭和19年3月から6月にかけて、日本陸軍はビルマ(現、ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略する作戦を立てるが、インパール攻略はならず、退却を余儀なくされ、ーーこの退却では、負傷し、飢え、マラリアや赤痢に罹患し、帝国軍の大半が、力つきてお亡くなりになりました。>その悲惨な様子ーー街道には、延々と帝国軍人の死体が折り重なって、やがて白骨と化した。ーー以後、この街道は「白骨街道」と呼ばれるようになった。>に涙せずにはおれません。
 私の絵の恩師は戦時中は佐世保海軍施設部設営隊としてソロモン諸島のブーゲンビル島に従軍されていましたが、1946年から復員され、その翌年絵の道に進むべく、美術研究所にはいられます。先生の思いのなかに、いつも熱帯のブーゲンビリア島で苦しんでなくっていかれた戦友のことが、頭から離れず、その島の景色、そのジャングルの熱気などを描こうと思い立ち、絵の道に進まれたのです。私は若いころ、急に絵が描きたくなり、先生の門下生になりました。終生の師といえる方です。絵の帰りに連れていっていただく、居酒屋では、いつも戦友のことに想いを馳せておられるようでした。1982年4月ブーゲンビル島に念願の慰霊・スケッチ旅行にいかれ、1983年「南海の島ブーゲンビル 絵画展」を(尼崎市文化センターで)開催され、2010年6月にご逝去されます。回顧展がなされ、その風景、ソロモン島シリーズ、ミオ河暮景、ブカ水道、樹海などの作品に慰霊の思いを込めておられるのがわかり、戦争の悲惨さ深く感じてその場を動けませんでした。その作品は尼崎市に寄贈されております。恩師にお教えいただいたことは「日本のために亡くなってくださった方の命の重さ」でした。ーーわたしたちが、いまあるのは、こうした方の尊い犠牲の上にあるーーということです。ありがたいことです。

戦争が不利な状況になってから実行された印パール作戦は、インドの独立運動支援を考えなければ、無茶な作戦でしかありません。
インドに待ち受ける英国軍とインド植民地軍は、15万人以上でしょうし、英軍は補給線の確保がなければ戦闘に出てきません。

WIKIを見ても、インドの独立運動支援のための作戦とは書いていませんから、このねづさんの記事を見ない人は作戦の意図を知ることがないのです。

日本の兵隊は、命令に従って従軍するだけですからこの作戦の意図を知っていたか、知らなかったかを知ることは出来ません。
しかし、日本の兵隊はインドネシアやベトナムで終戦後に日本に帰国せず、現地の独立戦争を戦かってその中で亡くなっていった人も沢山いたのです。

理性的に考えれば終戦後には捕虜になって、日本に戻ったら戦争前に戻って生活をすれば、家族のためには最も喜ばれると思うのですが、国は敗れても大東亜戦争の意味と八紘一宇の意義を知り、それに共感していたからこそ終戦を認めずに、なおかつ戦うことが出来たのだと思います。
印パール作戦に従軍した兵隊は、日本の戦争の意義が分かっていたから、苦しい作戦を全うできたのだと思います。


そして、兵隊のもう一つの面は、世界でも日本の兵隊にしか出来なかったことだと思います。
それは、兵隊の綱紀粛正が完全に守られていたことで、日本の兵隊が現地の人のものを取らず、暴力を振るわなかったことが明確に示されています。

そうでなかったら、現地の人が戦い敗れて体力をなくした兵隊に、食べ物を与えたりすることはなかったと思います。第一、自分たちを何時襲うか分からない兵隊に、食料を与える危険性を考えると思うからです。

支那において、蒋介石軍は第二次上海事変に破れて南京へ向かうとき、その途上にあった支那の民間人の家を焼き、食料を略奪し、暴力を振るう清野作戦を行ったのです。
それも、これを蒋介石軍が支那の民間人に対して行った無法を日本軍がやったことにしていました。
支那の民間人は、味方の蒋介石軍に酷い目に遭わされて、的の日本軍に助けられたのが実態でした。
これを戦後になったら、日本軍が酷いことをしたとすり替えたのです。

それに較べると、ビルマに人達は敗退してくる日本兵に対して親切でした。そして、強い日本兵を見本として受け入れましたから、戦後のビルマ軍も日本軍を見習っていたと聞いたことがありました。


あと一つ、印パール作戦の結果として残ったことは、終戦後から始まったインドの独立だったと思います。

小学校や中学校を通じて、インドの植民地時代と独立のことを習うときには、ガンジーの不服従運動を強調されたことを覚えています。
でも、物事を動かすにはそれだけでは足りなかったと思います。
それが、実力部隊であるチャンドラ・ボースのインド国民軍だったと思うのです。

前略
率爾ながら失礼いたします。
もう亡くなってしまいましたが、インパールに軍医として従軍した人が知り合いにいました。
その人が手記を出しているのですが、「民家に入って籾をみつけると、脱穀するのももどかしくそのまま食べてしまうから、便が籾殻の塊になって糞詰まりになる。それでは立ちゆかないから、匙で尻の穴をほじってやった」という記述をしています。
多分住民が逃げ出した空き屋探しで見つけた籾なのだと思いますが。
以上ご参考までに。
草々

縦椅子
戦後教育界・言論・メディアをどのような人たちが牛耳っていたかを考えれば自ずと史実がどちらにあるかがわかると思います。

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