無料ブログはココログ

« まずは日本人を育てなきゃ | トップページ | つまり岡田は見せしめのために殺されたのだ »

2018年4月14日 (土)

毛沢東は同様の方法で天下を取った

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

宮脇淳子著、岡田英弘監修『真実の中国史 1840−1949』(PHP文庫)

1840−1949年は、アヘン戦争がはじまってから、共産党政権が成立するまでを示している。

ーー

司馬遷が『史記』を著すのは、秦の始皇帝が没し、その王朝が衰え滅亡したあと、前漢が興ってから書かれた。

以後、支那での史書は、この『史記』に似せて作られるようになった。

つまり支那の王朝の歴史は、後の王朝が前の王朝の歴史を編纂するという形をとるようになった。

ということは、その歴史を編纂している人物は、現王朝に都合の良いように過去(歴史)を書いているはず。

現王朝にとって都合の悪いことは記録から消されてきたということになる。

ーー

したがって現代の共産党が支配する支那の歴史を書くのは、共産支那を倒して興った政権(王朝)なのである。

日本人は、この支那の伝統的やり方からは自由に史実を記録し、支那の歴史を書くことができる。

ーー

現時点では中華人民共和国と中華民国とは、史観が接近しているように見える。

共産党と国民党が一卵性双生児であると言われるゆえんである。

中華人民共和国と中華民国は、ともに孫文を『国父』に位置づけている。

国民党の敗走地となった台湾の台北には、孫文を祀る「国父記念館」がある。

一方、南京には「中山陵」があり、孫文を祀っている。

ーー

孫文の生家は広東省中山に残され、広州市には元帥府が残され、上海には中山記念館がある。

しかし、孫文が国父という位置づけは正しいのか。

かれはペテン師ではないのか。    

ーー

1911年に「辛亥革命」なるものが成立し、清王朝が黄昏(たそがれ)のなかに消えた。

孫文は皇帝を廃止し、共和制にし、国会を開設し、そこで国法を議論によって定めるような国家を夢見ていた。

しかし、孫文の唱えた『三民主義』による政府は成立しなかった。

清の皇帝が廃された後も、袁世凱が新皇帝を名乗り独裁政治を続けたからだ。

ーー

宮脇さんは言う。  

「孫文は、袁世凱による一つの政党と、自分たちが率いる政党ということで、政党政治を考えていました」  

孫文が、支那では実現したためしのない民衆政治democracy国家の建設を標榜したのは欧米列強の支援者に口実が必要だったからだ。  

つまり孫文は黒幕(フィクサー)になり、欧米列強と新皇帝との調停役となって、両者から賄賂を得ようとしたのだった。

ーー

当時の国民党を引っ張っていたのは宋教仁だった。

孫文にとっては、宋教仁がいると自分の思い通りにならないので、彼は邪魔な存在だった。

孫文は、宋を暗殺するよう、袁世凱を教唆した。

しかし袁世凱はいうことを聞かない。

「間違いなく袁世凱は独裁者です。彼は自分の思うような政治をしたかったのです。そうでなければ生き残れないからです」

そこで実権もなにもかもを失った孫文はまたもや日本に亡命する。

ーー

じつに無責任男である。

ーー

それが中華民国の草創期の実態だった。  

「袁世凱は日英仏独露との間に2500万ポンドの五国借款を成立させ、この金で武器を買い、軍隊を整え、議員を買収する」

「そして1913年の議員の選挙によって正式の大総統に就任します」

「すぐに国民党を解散させて、国民党議員の資格を剥奪し、大総統の権限を勝手にどんどん拡大させていきます」(p238)

これが新約法であり、袁世凱はここに、合法を表看板として本物の独裁者となったのである。

ーー

日本から援助をむしり取り、技術を導入し、その金で軍事大国となったパターンは袁世凱にあるというわけだ。

ただし袁世凱は、教養人でもあり漢文古典に通じた知識の高い軍人だった。  

ーー

毛沢東は同様の方法で天下を取った。

ーー

1949年10月1日の天安門に並んだのは共産党のほかに民主諸派七つの『連合政府』だった。

その後、毛沢東はじわりじわりと他派を粛清し、権力を固めてゆくのである。  

習近平は政敵を排除して、かたちのうえで憲法を改正して、合法的な独裁者のポストを得た。

袁世凱も毛沢東も習近平も、その独裁への道のりは、合法という狭き門を一応くぐり抜ける過程を経たという意味でも共通である。

ーー

国父である孫文の存在は、次の独裁者(皇帝)がつくる「歴史」では、無責任男であるという理由で、消されるかもしれないのである。

« まずは日本人を育てなきゃ | トップページ | つまり岡田は見せしめのために殺されたのだ »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます。
>>習政権は、近代シナ伝統の独裁者擁立の手法に拠る
 成る程、流石に、現代日本の歴史学の泰斗である、岡田教授と宮脇女史の仰っているは、詳細な史実に基づいた論になっていますね。

 私も、孫文は、拝金主義者の上に、人を騙す事を職業として居る様な、人間的にクズだと思って居ますが、シナ社会の評価では、救国的な「国父」なのですから、世界は広いですねw でも、流石に袁世凱と言う理性を持った人には孫文の差術は通用しなかった様ですが、シナの歴史では、袁世凱の方が独裁者として悪モノ扱いだった様に感じます。

 「権力は敵」と言うシナ大衆の価値観では、清王朝の軍人の出である、袁世凱よりも、民間出身の孫文の方が、「人民の英雄」に仕立て易いのだろうと思いますが、そう言うポピュリズムが、実は、シナ文化の特徴なのではないか、と言う気もしますね。

 然し、稀代の殺人鬼であった毛沢東が袁世凱の手法をまねて、天下を取った話は、スターリンの同志や国民を大量粛清した話と全く同じなので、身震いがする程怖い話です。 

 主席就任以来、十数件の暗殺未遂事件が起こって居て、暗殺者に付きまとわれている観の有る、自分の身を護る為に、習近平が考え着いたのが、「終身主席」の座でした。 今年で64歳になる習近平が、一体幾つまで生きてつもりなのかは知りませんが、皇帝の座を転がり落ちた途端、自分のみならづ、一族郎党が虐殺される事は、必定なので、逆に決して引退は出来ないと言う話にもなっているのです。

 或る意味で、究極的に追詰められている習が、この先精々10年程の間に、自分の保身の為に、如何なる事をしでかすのか、半端好奇心で、半端恐怖で、見守りたいと思います。

>司馬遷が『史記』を著すのは、秦の始皇帝が没し、その王朝が衰え滅亡したあと、前漢が興ってから書かれた。

この理屈で考えますと、現在の支那共産党は清国の歴史と清国の滅亡後、支那共産党の国家が成立するまでに存在した袁世凱の「中華民国」や「大満州帝国」の歴史を、書かなければならないことになります。

支那共産党は満州のと地名を現在は東北としており、満州を抹消していますから(チベットやウィグルは自治区として地名は残っていますが、満州だけは地名もなくなりました。)、極めて都合の悪い部分があります。
ですから、満州の歴史は書きたくないのですが、書かなかったら他国に出鱈目の歴史とされます。

この場合、中韓のいつもの習慣で「歴史を認識せよ」と言うことになりますが、日本にとってはいつものことですけれど、他国にとっては「そんな馬鹿な」と言うことになるのです。
それで、支那共産党は、清国の歴史を書くに書けないのかも知れないと思っています。
前政権の歴史を書くことが、次代の政権の正当性を示すことになりますけれど、支那共産党はそれが出来ないことから、支那の政権として正当であるとは、支那5000年の歴史では言えないでしょう。


中国共産党は毛沢東主席の独裁国家となるはずでしたけど、毛沢東氏のミスから後継者は北朝鮮のようには出来なかったのですが、習近平主席は任期を2年10年とする制度を撤廃したことから、任期は無期限になりました。

これは、これまでの中国共産党主席では任期のあることから、主席が交替しても中国共産党として継続していたものが、主席が交替しないことで次代の主席を誰にするのかが不明となり、政権の硬直化を図ることになる可能性があると思います。
これは、中国共産党の、終わりの始まりになるような気がします。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« まずは日本人を育てなきゃ | トップページ | つまり岡田は見せしめのために殺されたのだ »

2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30