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2018年4月 8日 (日)

「天保12(1843)年の幕府命令撤回」という「事件」から幕府の衰退が始まった

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

中村彰彦『幕末史 かく流れゆく』(中央公論新社)

1603年、時の天皇によって征夷大将軍に任じられた徳川家康以来、諸国諸大名が知行地を統治するという、幕藩体制が維持された。

その体制が崩壊し、徳川慶喜によって1867年に大政が天皇に奉還され1868年から明治の代となった。

この変化は多くの人々の行動とその考えが影響しあって成し遂げられたものだ。

参加者のだれもが時代精神に従うかのように明治の代を作り出したのだった。

ーー

その時代について、例えば、立役者とされる西郷隆盛の、あるいは勝海舟の物語が語られる。

そして官軍と賊軍の物語として、あるいは勤王(薩長)と佐幕(徳川幕府)の物語として描かれる。

ーー

それでは明治維新を成し遂げた諸国諸大名や維新に参加した人々が残した資料は一体どのような物語を描くのか。

どの藩にもどの人物にも肩入れせず、膨大な資料そのものはどのような物語を語るのか。

ーー

中村彰彦氏は資料読みとして知られる。

デビュー作が佐川官兵衛であり、その後、新撰組もたくさん書いている。

小説ではたしかに会津贔屓だが、理論では徹底的に客観的、中立的である。   

ーー

資料に語らせると、幕末がみごとにその輪郭を表す。

まさに、題名のように幕末は「かく流れた」のだ。

本書はその折々の歴史的事件を、資料を徹底的に読み込むことで、その意味を資料に語らせ再評価し、大事件と脇役とを振り分けていく。

ーー

立項目は多彩だが、その叙述はきれいに時系列となっている。

歴史作家の多くは、歴史的事件が起こったときに、どのような人事交代、事件処理がなされたのかに触れない。

ーー

そして明治維新の背後には欧米列強の動きがあった。

1840年にアヘン戦争が起こり、1842年に清が英国に負けている。

その後1853年にはペリーが米艦隊を率いて浦賀に入港している。

ーー

このような欧米列強の動きが幕末から明治の政治状況に大きな影響を与える。

著者は、それらがどのような影響を日本の政治に与えたのかを、要人の要所における発言などのなかから見つけ出す。

そして、「歴史を動かした要素」を捉えなおしてみせる。

ーー

「歴史を動かした要素」は、「勤王」「佐幕」『開国』『攘夷』だけではなかった。

すべてが時代精神に飲み込まれるように、集合し互いに影響しあっていたのだと。

ーー

著者いわく、幕末は明治政府の発足で終わるというのが通説だが、ではいつから始まったのか。

著者は「天保12(1843)年の幕府命令撤回」という「事件」から幕府の衰退が始まったという。

(幕府は、アヘン戦争の報告を受け、相模の海岸防備をになわせていた川越藩の財政を援助する目的から、川越・庄内・長岡3藩の封地をたがいに入れ換えることを命じたが、領民の反対もあって撤回された)

つまり『幕末』、幕府は欧米列強の動きに対処しようとしたのだが、その時にはもう幕府の力では対処できなくなっていた。

それが判明した・このとき1843年に始まり、そして「西南戦争」が決着し明治新政府の政権が確立した時、1877年に終わった、と著者は述べる。

幕末の動乱は34年間、一世代が20年の当時においては、つまり二世代にわたってなされたことになる。

ひさしぶりに「読書をした」という感想である。

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日の更新有難うございます。
>>(幕府は)川越・庄内・長岡3藩の封地をたがいに入れ換えることを命じたが、領民の反対もあって撤回された
 私の江戸時代の認識で云っても、↑の様に、現実的実行するとなれば、3藩の領民ともに大きな負担が懸るのが見え見えの、其れこそ、机上で行われた、現実を顧みない空理空論に近い暴論は、幕閣の思い付き程度だったのではないか。 端から幕閣内でも、「暴論」認識が無ければ「領民の反対」で、「お上の仕置き」が覆されるなんて、有り得ないと思いますね。 でも、江戸初期~中期の一揆に対する厳しい仕置きであれば、歴史に残っておる筈でㇲが、初めて聞いた話ですから、撤回するタイミングにもよりますが、仕置きは無かった可能性もありますね。

 思うに、江戸期の初期と末期とでは、農民と武士の生活の格差は、大きいモノがあったと思いますが、人口は2千5百万人前後と増えて居ないのに、コメの収穫高は、新田開発やで、凡そ3倍になっていますから、消費人口が増えて居ないのに、供給量が3倍になれば、コメの価格は厭でも1/3になりますよね。

 ですから、農民が酷い収奪で、米も食えなかったと言う話は、コメの収穫量が少なかった東北以外には、余り無かった話でしょう。 其れを知ると、日本人は、江戸時代の本当の農民の生活を知ら無いし、知る由も無い事になり、WGIPに拠って歪められて来た歴史は。ちゃんとした史実資料に基づいた正史を編纂し直すべきでしょう。

 江戸期の農民の暮らしは、気候が違うのに、同じコメを収入作物にして居た、北と南よでは全く違う経済だった筈だし、最初は、四公六民だったかもしれませんが、新田開発を熱心にやらせる為には、農民に奨励策を提示しなくては、3倍媚にするのは無理でしょうし、隠し田も、農村独自の飢饉対策用に、黙認されて居た筈です。

 現実の年貢は、武士階級も人口が増えて居なかったのですし、禄高は終始一貫、「関ヶ原の合戦の時の手柄に拠って決めた石高」でしたから、必要となる年貢高は、増えて居ない筈ですので、実際は、2公4民4売却と言う話になっていたのではないかと思います。 是なら農民の方が遥かに儲かる事になりますが、事実、幕末に活躍した人たちの出自を調べれな、殆ど、元農民、或いは郷士と言う半分農民の下級武士です。

 私が転勤で三河地方を車で回って居た時に、山間部の見え難い処に、昔は田んぼだったと思われる場所が幾つ小ありましたね。 ですから、そう言うコメをあちこちで買い回って居る商売人も、相当いて、皆船に集荷して運搬し、米価の高い処で売る話になって居た筈です。

 斯う言う蓋然性が高い話でも、私達が習った江戸時代の話とは、相当に違いますし、何故幕府が、幕末に急速に求心力を失って行ったのか、という疑問にも答えて貰いたいですね。

 それと現代でもアンタッチャブルな事になっていて、社会の闇とか、ガンのような存在になっている、所謂、穢多(エタ)非人(ヒニン)の被差別層の発生原因、その扱いと実態を明らかにしてソロソロ、特別扱いにするのを止めて、この問題を既得権者から切り離して、真意平等な社会を目指すべきでしょう。 被差別者でも都市生活者と農村生活者では随分違う筈ですし、そう言う職業も。世の中には必要だと認識すべき事。 

 そして、百姓世界でも下人から本百姓・庄屋迄あった耕す面積での「=貢納高による」階級も明らかにして、農家の次男以下の扱いについても知る事で、明治維新が日本人に齎した本当の意味を、9割以上を占めて居た農民の生活実態を知って、265年の江戸時代に、日本人が工夫し考案した、民主主義社会を将来の為に日本人は知るべきです。

>(幕府は、アヘン戦争の報告を受け、相模の海岸防備をになわせていた川越藩の財政を援助する目的から、川越・庄内・長岡3藩の封地をたがいに入れ換えることを命じたが、領民の反対もあって撤回された)

維新を成功させたのは幕府問い清側のどちらかと聞かれたら、維新であることに間違いはないのですが、幕府だって欧米の日本侵略を感じており、色々と対応策を練って、それを実行していたことに変わりはありません。

それが、相模の海岸防備だったのですけれど、これの必要経費を考えたとき、川越藩では無理だと考えて庄内・長岡を加えた3藩の封地の入れ替えを命じるとは、幕府もやれと言うだけではないと思いましたが、領民の反対で撤回するとは・・・・・・こんな時は命令の実行を迫るだけだと思っていたのに、以外でした。


しかし、維新の成功は長州や薩摩の西日本の雄藩だけではなく、江戸幕府の努力も忘れてはいけないと思いました。

一歩間違えれば日本は独立を失って、植民地になる可能性は大きかったし、日本が植民地になっていたら、その後に残っていた独立国もまた植民地になっていたと思います。

そう考えますと、日本は欧米諸国の世界制覇の野望を、打ち砕いたと考えられる素晴らしい国ですし、日本が世界を救ったと言っても過言ではありません。

江戸時代後期の日本を、救ってくれた大勢の皆さんに感謝です。

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