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2018年3月19日 (月)

普遍的理性つまり国家意思を持つ国民となって初めて主権在民が機能する

ーー以下「宮崎正弘ブログ読者の声」より抜粋編集

国家とは何か。

国家とは、国民が作り上げているものだと考える人たちがいます。

それでは国民とは何かという問いが生じます。

いろんな人々がいるその誰がどのような条件を備えれば国民になるのか、そんな問いにヘーゲルが答えているのです。

ーー

日本は日本国憲法で主権在民を国家の形としています。

主権というのは何でもできるということですが、一体国民のだれがその何でもできる位置にあるというのでしょうか。

この憲法を持つ日本国は、敗戦以来70年もの長きにわたって、米国の保護国のままであるのです。

これは憲法に「国軍不保持、交戦権放棄」の条文を持っているから、自国を自分たちで守れないからです。

ーー

現在のところは、他国の侵略は竹島と北方領土だけですが、このままでは、本土でさえ他国に侵略されかねません。

ーー

この憲法を変えないでいれば、他国の侵略を自力で防ぐ行動を永久にとれない、米国の保護国のままということになってしまう。

これが、主権在民を記した日本国憲法のもたらした今の日本の現状なのです。

ーー

この主権在民という考えは、どこから生まれてきたのでしょうか。

近代における国家論は、それまでの王権神授説の観念論的な解釈を否定する形で、唯物論者によって創られました。

ホッブズは、自然状態においては、万人が相争うので、公権力(主権者の意思)に従わせる必要があると説きました。

一方 ルソーは、自然状態においては相互に助け合う存在であったが、私有財産の出現以来互いに資産をめぐり争うようになったので、互いに争わないという契約が必要となったとする。

具体的には、選挙などによって多数の意志を一般意志・国家の意志として、それに従う共和制を主張しました。

ーー

ヘーゲルは、ホッブスやルソーの市民国家論・共和制国家論を次のように批判しています。

「国家が市民社会と混同されて、国家の規定が所有および人格的自由の保全と保護にあるとされるならば、個人そのものの利害が諸個人を統合させられる究極目的となり、これによりまた、国家の成員であることは任意のことがらとなる」(「法の哲学」より)

国家観が個人から出発している限り、一般的な国家意志を説くことはできない。

これは、現在の主権在民の国家論に、すべて言い得ることです。

ーー

このヘーゲルの国家論に関して、「コトバンク」は次のように述べています。

「国家観については、個人の自由や生命の安全を第一義的に重視することが説かれ、悪法・悪政には抵抗し、場合によっては政府や国家を変更・解体することもありうる、という国民主権的立場が強調されている」

「この意味で社会契約的国家論は、国民主権主義、基本的人権の尊重、法の支配を基調とする現代民主主義国家の理論モデルとなったものといえよう」

「これに対し、イギリスやフランスなどよりも1、2世紀遅れて近代国家を形成したドイツや日本では、富国強兵策がとられ、それとの関連で、国家の個人に対する優位、また国家の利益のためには個人の自由や利益は制限されてもやむなし、とする国家観が説かれた」

ーー

それではヘーゲルの国家論とはどういうものでしょうか?

ヘーゲルは前の市民国家に対する批判に続けて、あらまほしき国家像を次のように説いています(「法の哲学」より)。

「国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ」

「諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである」と。

ーー

つまり国家は、その民族が歴史的に創りあげてきた普遍的理性である。

それを自分のものにしなければ、国民とはいえない、と。

税金を払っているからというだけで国民にはなれないのです。

ーー

普遍的理性つまり国家意思を持つ国民となって初めて主権在民が機能する。

その民族が歴史的に創りあげてきた普遍的理性を体現することなく、「自分が正しい社会が間違っている」というような人物の云う事を、国家は聞く必要はないということです。

ーー

それゆえ国家には、個人が国民になれるように、その民族が歴史的に創り上げてきた普遍的理性を教育する責任があるのです。

国家は、歴史的に積み上げてきた真理の高みを、個人に教育すべきなのです。

それは、決して個人の自由を圧殺することにも、個性を摘むことにもならない。

それどころか、かえって真の自由・豊かな個性を育むことになるのです。

ーー

ヘーゲルは、国家の理想形を立憲君主制としています。

その構造が、国民と統治機関の上に国家の顕現としての君主をのせて、国家全体が調和的に一つになる構造になっているからです。

この状態であれば、個人は立派な国民となって、国家のため己のために縦横に自由と個性をはぐくみ発揮できるようになる。

ーー

ヘーゲルは、君主は国家理念の実体化として、その両者は一体であらねばならないと説いています。

そうでなければ、国家はその高みを維持できず、堕落していくことになると釘を刺してもいます。

これがすなわち、ヘーゲルの説く国家論なのです。

ーー

これはまさに、戦前の日本の国家そのものです。

このような国家を、世界の中で唯一見事に実現したのが、日本であり日本国民であったということがわかります。

日本は「世界精神」たるべき内実を兼ね備えていたから、世界のいたるところで尊敬されたのです。

ですから私は日本の再生は、ヘーゲルの国家論をもってなすべきであると主張しているのです。 (稲田正治、稲村?)

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>国家とは何か。

国家とは、国民と領土があって、成り立つものだと思います。
この時、国民というのは、そこに住む人ですから住民と言えば良いのか、または、これを統率する代表というのかは、それぞれの国が決めることだと思います。

そして、国家には、そこに住む国民に共通した目的があると思います。
その目的に向かって、国家は進んでいくと思いますが、その国家の周囲には別の国家が存在し、それぞれの国家もまた、その目的に向かって進んでいます。

それらの国家群の中に自国があるのですから、他国に埋没または吸収されないように、国家を運営する代表者は努力しなければならないと思います。

ときに他国と争議が持ち上がった場合には、国家を他国から守らなければなりません。
自国に住む国民は、その中で生活をしていますけれど、より良いものを食べ、衣食住に渡って便利な生活をしたいでしょうから、国家はそれを、実現できるように努力しなければなりません。

国家が何もしなくても、国民の要求を実現できれば苦労ないのですが、国民の要求には経費が掛かりますし、国を維持することにも経費が掛かりますから、国家はそれを実現するために国民に対して、相応の負担をお願いしなければなりません。
国家を維持することは、大変だと思います。

国家を維持するための、基本的な法律が憲法だと思います。
日本は、西暦604年に聖徳太子が17条憲法を定めた国家であり、その後、国内の政治をになうことになった為政者は、事あるごとに政のための法律を定めた、国だと思います。


ただ、現在の日本国憲法には、国を守る国土防衛のことが含まれていません。
これは、独立国にとっては、死活問題と言っても良いと思います。

国土防衛については、当然のことだから憲法に書く必要はないとの考え方もあるそうですが、日本の憲法の場合には交戦権を否定すると書かれていますから、これは成り立ちません。
日本の憲法は、国家を守ることを禁じているのです。

その上で、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」としているのですが、諸国民は憲法制定後に竹島を占領し、北方領土を返還せず、今また尖閣諸島を日本のものと考えていません。
そればかりか、日本を火の海にし、核兵器で脅し、日本を核兵器で海に沈めると恫喝しています。

これらの周辺国の存在を考えるとき、対応策に一切触れていない日本国憲法は、役立たずの欠陥憲法でしかないと思います。


>税金を払っているからというだけで国民にはなれないのです。

国民は国家の維持のために税金を払うのですが、現在の日本ではこれで問題がないことになっています。
しかし、「税金を払っているからと言うだけでは国民になれない」ということは、それ以上の要求を、国が国民にしているとなります。

良く言います国民の義務については、憲法で示す「教育の義務(26条2項)」「勤労の義務(27条1項)」「納税の義務(30条)」ですが、本来は「兵役の義務」が課されると思います。
しかし、この兵役については、憲法に国が国土防衛を放棄しているのですから、国民にそれを示すことが出来ないのです。

昔と異なって、米国やフランスでも徴兵はなくなっており、軍隊はそれぞれが志願兵で成り立っていますけれど、だからといって国民に国を守る必要はないとは考えていないと思います。

中国は、国防動員法を2010年に制定しました。
世界で一番多くの兵隊を持っている国が、さらに多く国民を動員できる法律を作ったのです。
この法律が実行されますと、日本国内にいる中国人の全員が便衣兵になると考えられます。
韓国でも、同様の法律が制定されています。

日本は憲法で国防を否定し、国を守るとの自然権で自衛隊は整備されているのですが、単純に考えたら国を守るための人数は足りるのかということになります。


日本の旧帝国憲法ですが、憲法を制定する告文に始まって天皇の謂われに始まって、憲法発布を勅語としています。
憲法の本文では、この憲法が臣民の賛意を得ていることを知らせ、国家統治は天皇が子孫にまで守らせ、臣民の権利・財産等を保護させると宣言し、天皇は将来この憲法を改定する必要があれば、変えれば良いとされているのです。
そして、天皇は天皇自らと大臣に憲法を守ることを臣民に約束されているのです。

たしか、義務教育のときに欽定憲法は天皇主権であり、主権は天皇にあるが、現在の日本国憲法は主権在民であると習った記憶があります。
しかし、欽定憲法は、天皇が国民のために御自分で制約を課しているのではないでしょうか。
そして、現在の日本国憲法は、天皇を象徴に祭り上げて何も出来ないようにしています。

欽定憲法があったから、天皇は平常は臣民の代表である大臣に政治を任せていても、終戦の判断をすることが出来たのです。
今では、国事行為の解釈を政府が誤って決定しても、糺すことも出来ず、御自分の心臓手術ですらその方法は健康保険によるものとされているのです。

日本の現憲法よりも、戦前の欽定憲法の方が世界を生き抜いていくためには、良かったのだと思います。

>縦椅子様 本日も更新有難うございました
>>ヘーゲルの国家論
 国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員である時にのみ、客観性・真理・人倫をもつ」「諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである」
 実に簡潔だと思います。 なる程、「国家は客観的精神」が主で、現実の政体はその具象の一つに過ぎないと言う言いきりは、ルソーやホッブスの国家論が、個人から発しているのに対して、人類と言う捉え方をして居る点からして、違って居ます。個人と言う立場は、抑々、国家があってこそその存在を認められるモノであり、個人は国家の構成要素に過ぎず無く、個人個人の目的は、普遍的に生活を営む事でしかないが、客観的精神=国家によって統合される事に拠って、その精神の主となり得る。  つまり、国家とは、その客観的精神の歴史の産物であって、普遍的な理性を育てて来たものである。と言う事でしょう。 従い、此の国家論を知った私も、「税金を納めて居れば国民か?」と訊かれれば、直ちに「否!」と答えるであろう。 

 処で、朝鮮族に明らかに欠けているのは、国家についての顕かな認識であるが、こうした定義を知れば、国が残って居るこの時期にこそ、日本に居る在日は、即刻。荷物を纏めて、朝鮮半島に帰るべきであり、帰化した朝鮮族も復籍を考えて、自身や一族だけでは無く、自国の為にこそ尽くすべきであろう。 他所の国で余計な倒閣運動などヤッテ、顰蹙を買って居る場合では無いのである。 それが、自身の中の国家の不在感を解消する唯一の手段であろう。

 日本は何時まで経っても、日本人のものなのは、2700年にも及ぶ国家の営みの歴史が、強固な国家を創り上げて居るからであろう。 既に、国民は、何故に日本の国家が機器に陥って居るのかと言う真の原因が、朝鮮族である事を「サイレントマジョリティ」と呼ばれる層に至る迄、察知しつつある。 是は、近々朝鮮人排斥運動が始まる予兆でもあろう。 行き場を失う前に、帰国した方が良いと思いますがね。

 その点、シナ人は世界でも特異な民族であると言えましょう。 表向きは、その国の国民以上に国民的な面を見せる一方、宗教の様なモノは無いのに、「シナ人」と云うダケで、世界の何処に居ても、当然の様に助け合い纏まります。然し、その内部では貧富の差に拠る差別が顕かであり、シナ人の拝金主義はその社会の常識です。 金になるなら節操鳴く転ぶ、つまり、ヘーゲルの国家論と拝次元の民族だと言えましょう。

 斯う言う民族は、一か所に閉じ込めておくべきであった。 パンドラの箱を開けたのは、米国のニクソンと日本の田中角栄であった事は、人類史上に名が遺る愚挙であったと思いますね。 今更遅いのですが、グローバリストが、この危機を果たして認識しているのかドゥか、私は、日本人と同じで、何も分って居ない、と思って居ますが、答えが出るのは、おそらく30~50年後でしょうから私が生きて知る事は無いでしょう

今の日本は、限定的主権国家です。
特に国防に関する面では、従来守備だけで攻撃能力を持ってはならなかった。
現在アメリカの能力が衰退をしている中日本の軍事力の協力が無ければ立ち行かない現状ではなかろうか。
軍事面でのアメリカは、今でも世界のトップではあるが、アメリカが主体となって世界をカバーすることは、経済的にも難しく成っている。
その隙をついたのが北朝鮮の核である。
金王朝存続の為に核を持つ事が、共産国の存続に繋がるか?
矛盾国家に対するトランプの出方が、見物である。
日本の様に国防が、満足でない国が、民主主義だ共産主義だと言っても何の意味もない。
国防と経済は、未だに国家の要である。
日本は、古来より天皇を頂点に赤子としての民が居て共存社会である共同体が存在した。
戦後になってそれらもアメリカ共産主義者(GHQ)によって民主主義の名の下に都合のいい様に変えられてきた。
大正デモクラシーの時代もあった日本である。
一度は、戦前のその時期に立ち返る必要があるのではないか。
其処から再度日本を見つめ直す必要を感じる。
未だ日本は、世界から見れば民度は高いが、失われた国家観を見つめる為にも必要である。
これは、教育・文化にまで及ぶと考えである。
似非ユダヤのグローバル化は、日本の共同体と対立せざる得ない性質を持つ。
先の大戦もその一環で起こったものだ。
逆に日本の共同体的特徴を世界が共有できれば、特定の一部が富栄えるのではなく全体で富栄えるスタイルを持つのである。
それを過去実証したのが、台湾と半島で有る。
歴史を歪めれば半島の様になり未だに日本領土になりたがっている台湾も有るのである。
日本は、世界の雛形であり縮図であることを認識すべきだ。
日本は、そう言う国なのである。
日本は、古代と同様のソロモン国家と言っても良い全てが、日本に存在すると考えています。

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