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2018年3月18日 (日)

江戸時代の日本は、しっかりと「自分が正しくなれば社会も正しくなる(即自かつ対自)」という考えで社会が経営されていました

ーー以下「宮崎正弘ブログ読者の声」より抜粋編集

「宗教はアヘン」と言ったということで、マルクスは有名です。

「宗教を否定する宗教はもっと質が悪い」も、マルクスの言葉だそうです。

じつは、このマルクスの言葉は、ヘーゲルからのパクリなのです。

ーー

ヘーゲルとマルクスとでは宗教に対する理解が違っていました。

したがって、意味している内容は、同じではありません。

マルクスは、ヘーゲルの宗教論を理解できなかった。

つまり、マルクスは、ヘーゲルの宗教論を自分勝手に解釈した。

ーー

マルクスは、観念論を否定し、すべてを物質でつまり唯物論で解釈しようとしました。

その中で彼は、宗教を、現実の生活の矛盾・苦しみから、目を背けさせ、逃避させるための観念論と位置付けたのです。

さらに、権力者の人民を支配するための道具、という意味で「アヘン」という言葉を用いた。

ーー

一方ヘーゲルは、学問も宗教も、その誕生は、明日をも知れぬ人類にとっての「絶対性の希求」として必然であるとしています。

彼は、宗教については、その絶対性(正しさ)を己の外部に表象として描いて、それに己を従属させることによって安堵する。

その気持ち良さを、ヘーゲルは人類の自立を妨げる「アヘン」だと表現した。

ヘーゲルは、宗教を、自分を磨く道を妨げるものになりうるとしたのです。

これに対して、マルクスは、宗教を、人々が現実の矛盾と闘うのを妨げるものとしている。

ーー

つまり、マルクスは「自分が正しい間違っているのは社会(即自のまま)」、ヘーゲルは「自分が正しくなれば社会も正しくなる(即自かつ対自)」と考えたことになります。

ーー

マルクス主義は、「自分が正しい間違っているのは社会(即自のまま)」、つまりあるがままの自分で良いということなので大衆受けしやすい。

しかし、彼らが権力者となれば、自分の欲望のままに人民の自由を奪い、冷酷に搾取する、強暴な独裁者になってしまう。

もっと言えば、即自のまま品性の向上を目指さないから、力で抑えなければ統治できなくなるのです。

ーー

江戸時代の日本は、しっかりと「自分が正しくなれば社会も正しくなる(即自かつ対自)」という考えで社会が経営されていました。

その証拠に、当時、犯罪を犯すものが非常に少なく、力で押さえつける必要がほとんどなかったという事実が記録されているのです。

ーー

一方の学問はどうか。

ヘーゲルは、その絶対性(正しさ)について、概念としてのみ到達可能なものであるとしているのです。

そして、その絶対性を外部にではなく、自意識として体系的に構築することが、己自身に回帰する(自分の中に正しさを作り上げる)ことであるとしているのです。

これが、真の主体性の確立「自分が正しくなれば社会も正しくなる(即自かつ対自)」であり、社会を変えるためには己自身が正しい存在(神)になることだと。

ーー

つまり、人間は、努力の結果として学問を完成して絶対性(正しさ)へ到達できたとき、絶対的本質としての己自身に回帰したということが言える、と。

そして、絶対性に到達しうる形式は、概念的思惟以外は不可能であるが、それができない未熟な段階においては、それを宗教として信仰して自立に励む必要がある。

しかし、その宗教は外部に絶対性を求めるのではなく、あくまでも己内部にあるところの潜在的な絶対性を信じるべきものであると。

このようにして、ヘーゲルは、学問と宗教との宥和を図ったのです。

ーー

(マルクスは共産主義が絶対的に正しいと主張する)

ーー

ヘーゲルのいう形であるならば、宗教が人類の自立心を阻害することはなくなり、むしろ、自立を積極的に促すものになる。

このように人間自身が正しい存在(神)になるというと、たいていの敬虔な宗教家は猛反発します。

人間を何時までも絶対性(正しさ)を体得できない無知蒙昧なままにしておきたいようです。

ーー

また彼らは、概念で神秘的・感性的な神は分からないと批判します。

それでは、絶対性(正しい存在)を人間の外部に描くことでしか表現できないことになる。

そして、神(正しい存在)の言葉を、ただ信じさせるだけになる。

それで、それを信じた人々に、(それが正しくないために)、現実に合わせることができないという不自由・不便を強制する。

結果として宗教が人類を苦しめることになってしまう。

ーー

これは、現在の世界に普通に見受けられる宗教的現実です。

ーー

それゆえヘーゲルは、人間は絶対性(正しさ)を獲得しうる存在であるとし、それを宗教が邪魔をする場合に、「宗教はアヘンだ」と言ったのです。 (稲村正治)

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コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございます
>>西洋の宗教と哲学の争いと東洋の仏教や神道との差異
 西洋の宗教と言えば、キリスト教を思い浮かべますが、直ぐ隣の中東には、ユダヤ教やイスラム教と言う、キリスト教と同じ系統の宗教があり、世界の宗教信仰者の2/3近くを占めて居ます。 何れも砂漠の一神教に根差した、人間と契約して守る神「=人間では無く、人間を支配する力を持つモノ」ですね。

 然し、東洋の人々の信仰の対象になっているのは、明らかに、西洋の言う異人類は違い、人類と感性を共にし、共に悲しみ、共に苦しむモノです。 其処に決定的な差が有る上に、西洋には、「宗教」とされるモノが少なく、比較する事で、他者の、或いは、自身の不足に気が付けないてんがある。

 然し、西洋の文化文明の発祥地であった、中央アジア・中東・南アジアにも当然、様々な民族が栄枯盛衰した事から、様々な神も栄光盛衰したに違いないのです。 砂漠の一神教と言われる三宗教の素になったユダヤ教は、その数多い民族宗教の一つに過ぎないのです。 ですから、西洋の宗教学者が、東洋の宗教を然して、「未開の自然信仰の延長」と決め付けて居る事こそ笑止千万なのです。 相手の多様性も受容出来ないレベルで、相手を未開呼ばわりする方こそ、偏狭で未開な排他主義を振り回して、平和に暮らして居る人々を苦しめる野蛮人であろう。

 私はこう言う考えですので、ご紹介に上がったマルクスとヘーゲルの主張の違い等、全く関心を持てません。 何故なら、東洋人、殊に日本人は自然と自身を一体と捉えているので、「自身の中の悪意や悪行が、社会全体を劣化させる」と言う、確信的なものを持って居る、つまり、自身も社会否自然の一部なんだ=神の一部なのだ、と言う事に共感できる筈ですが、民族宗教しか知らない西洋人が言う「神」とは、人類とも地球とも自然共、別物だと言って居るのですから、「神」は、人間が妄想で創り出したものでしかないのでは無いでしょうか。 

 現在のキリスト教自体、中世に土着宗教の成分を寄せ集めた、「おもちゃ箱」の様な様相を呈して居る部分があるし、表象や偶像を拝んではならない筈なのに、ルネッサンスで描かれた神の姿の数々や偶像、そして聖書の様々な解釈が行われて混乱を来したから、聖書の文章にナンバーを打って、夫々の意味を固定する神学すら起って居るワケです。

 中世のキリスト教は、その非宗教性、世俗的で強権的な施政から、暗黒時代を造った元凶と言われています。 それ故柔軟性が無く科学を批判し、見えないモノに対しては、良きことは神の恩寵、悪しき事は悪魔の仕業としたから、罪なき人々を火炙りにかけたり、惨殺したりして、社会を一層混乱させる原因となったのでしょう。

 日本の文学は、自分の中の自然と体感する自然との一致や相違を愉しんで居ますが、西洋の文学は、自然は征服すべき敵の様な存在でしかない様に思います。謂わば、彼らに取って、神も敵になり得る存在なのですから、事実、悪魔も元は神がなったモノと言う認識なのでしょう。

 この先、衰退して行くのが見えて居る西洋文明の代わりに、勃興し始めるアジアの伝統的な、精神、社会常識、民俗信仰は、未だ明確な形を持って居ませんが、後、100~300年位の間に、ASEAN諸国やインドの様に、古い国や社会としての伝統や形成されて来た道徳観や常識が、社会の中で混淆され、新たなものが生まれ出すと思います。 そう言う意味で日本文明は、彼らには無い3000年近くに亘って培われた社会性や常識を統一して、相互に親和性の有る信仰心を示してほしいものです。

縦椅子さま

 今日も素晴らしいブログ有難うございます
いつも感動いたしますのは、縦椅子様のブログにはダルタニャンを守る三銃士のように、素晴らしいコメンテイターがおられ、最高のコメントを展開してくださることです。全身全霊で語ってくださる人生経験と深い思索から滲み出るお話しには、本当に心を動かされ、共感を覚え、このようなコメントに遭遇させてくださる神様に感謝いたしたい気持ちでいっぱいです。本当に有難うございます。
今日の日曜美術館に縄文時代の遺跡や土偶などに、古代人が、自然の神に対して敬虔なな気持ちをもち、またぎ(狩人)の話によると、縄文人の使っていた石の矢じりなどの遺物からわかることは、狩りなどは仲間が助け合って行い、仕留めた獲物は、皆で分かち合い、神に感謝を捧げる日々だったようです。この分かち合いの精神が、今も脈々と続いておるよう思われます。
このブログで毎日、魂のふれあいに心が浄化されています。感謝でございます。

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