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2018年3月 8日 (木)

半島にはそもそも近代政治学でいうところの「国家」があったのだろうか?

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

宮脇淳子、倉山満『残念すぎる朝鮮1300年史』(祥伝社新書)

歴史学という学問(アカデミズム)がある。

学問であるので、厳密な根拠が要求される。

その厳密な根拠を基に語られる。

ーー

すると半島にはそもそも近代政治学でいうところの「国家」があったのだろうか?という根源的な疑問に行き着いてしまう。

ーー

例えば、平昌五輪における南北会談なるものは、文在寅の屈辱的な態度を見ただけでも、南が北に格落ちしている事態を示している。

倉山氏は、これを「高麗連邦宣言」だという。

つまり「北主導の統一という暗号」だというのだ。

そして、この高麗連邦宣言は、習近平を緊張させたと倉山氏が意外な側面からの経緯を語る。

ーー

この発言を引き取って宮脇女史が言う。

「地政学という学問がすごいなと思うのは、古代でも、隋や唐にとって致命傷となったのは高句麗でした」

「今の中国が(北の攻撃可能領域の)北京に首都を置いてしまった以上、中国にとって北朝鮮のある場所がすごく重要なのは、そういう地政学上の理由です」

ーー

古来より朝鮮半島の歴史は北が優勢だった。

南は飲み込まれることが多いので、文在寅は、そのことを百も承知のうえで、最低限度の主権国家の体裁さえ保てれば上出来と考えているのかもしれない。

事大主義はつねに力の強い方を選別し、そちらにつく。

これが朝鮮半島の政治の特質である。

ーー

以下のような会話が続く。

ーー

倉山 「ところで、韓国の歴史教科書では、『閔一族』という言い方をしていて、閔妃(みんぴ)のことをあまり書いていません」

宮脇 「いいことがありませんから。閔妃は有名な写真が伝わっていましたが、あれはニセモノなんです」

「はたして王妃が、妓生を撮って絵葉書をつくるような写真館に出向いて写真を撮るでしょうか。ありえません」

(ネット上にはいろんな写真が出ているので、宮脇女史がニセモノとしているのがどれなのか不明)

ーー

神道強要などと文句を言われるが、そもそも布教しない神道が朝鮮人に信仰を強要するはずがないのだ。

東京裁判における皇帝溥儀の嘘証言が、日本が朝鮮に文化を強要したとして批判する。

こうした解釈は戦後の後知恵ででっち上げられた嘘である、と。

ーー

創氏改名にしても、強制連行、従軍慰安婦など世界共産主義者連盟(コミンテルン)の謀略のような嘘放送が繰り返されている。

満州建国にしても、溥儀は天照大神をご先祖にまつろうと言い出し、日本側があきれはてて止めたのが事実である。

当時、関東軍は溥儀を皇帝にすることには反対だった。

共和国でもよいと軍が考えていたのも、軍に多くの社会主義者が混在していたからだ。

なかには孔子の末裔でもいいかな、って考える人もいたそうな。

ーー

満鉄調査部には食い詰めた社会主義者がおびただしく入り込んでいたからだった。

当時、関東軍が満洲に鮎川儀介を連れて行って国策会社を作らせたのも、三井・三菱を嫌った軍部の方針であった。

このような目からうろこの話が果てしなく続く。

ーー

最後にひとつだけ不満が残ったのは、秀吉の朝鮮征伐の項で、秀吉は情報もなく半島に進出してしまったと分析されている箇所だ。

秀吉は宣教師やフィリピンからの情報を把握し、正確に世界情勢を理解していた。

キリスト教が布教に見せかけて亜細亜侵略の牙を研ぎ、つぎに明を狙っていたことは、いまでは多くの資料が明らかにしている。

秀吉の出兵は先制的防御(プリエンプティブ)とよばれる軍略の一環で、むしろ秀吉の英断であった。

問題は壮挙の途中で秀吉が死んだため、かれの世界戦略を理解していた武将が不在となって引き上げざるを得なくなったことだった。

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子様 本日も更新有難うございました。
>>古代朝鮮半島国家はあったか
 私が認識しているのは、半島に国家らしきものが生まれたのは紀元前10~11世紀に、シナ王朝の殷の遺臣が、半島に棲んで居たツングース系エベンキ族である、扶余族や濊族を斬り従えて造った百済であり、北の草原の遊牧民。匈奴、突厥や、靺鞨族主体の高句麗と、睨みあって居たと思われます。

 唯モゥ一つ、半島南東部海岸部には列島や島嶼部を根城にする、海人族の一種である倭族が、列島の東シナ海に面した部分、済州島、半島南部海岸、島嶼部全域、九州西部、北部、五島・壱岐・対馬、玄界灘、そして日本海沿岸に亘る広い海域に、勢力を持って居たが、半島は少雨の為に水利が整わない上に、定期的に飢えた遊牧民が略奪に来ますし、農耕民も火田民と呼ばれる非定住の焼畑耕作民で、お互いの接点・交流も少なく、争いすら起らなかったのですから、国を造る処の話では無かったでしょう。

 半島にはその昔、九州から火山の大爆発を逃れて亘って来た貝紋土器を使う民が、開墾をして、定住して居た筈だが、先に挙げた農業には不向きな気候であった事と、九州の火山の活動が休止状態になった為に、大方は列島に帰ったのだと思います。 然し、

 百済の半島支配は、結構長く続いたが、紀元前 世紀頃、長江文明の遺民が済州(山東半島)で、済朝の滅亡後に弾圧を受けて居るとの報を聞き、百済王は船を出して難民を引き取り、未開の地であった半島の南東部の山岳地帯(現在の慶州)に匿います。 是が新羅です、

 最初は、恩人の百済王に臣従して居ましたが、或る時、鉄鉱石を掘りあてて、鉄の生産を始めたのでした。鉄は当時、金よりも実用性が高いので、戦乱のシナの王侯は血眼で鉄の生産地を探して居ました。然し、鉄を作っても、輸送手段が必要です。 

 其処で海岸に棲んで居る倭族に話を着けて、船で運んで貰う事になりましたが、直ぐに主客が転倒して、倭族が交易全体をしきることになります。 是に気付いた百済が、新羅にその不忠を責めますが、既に鉄貿易は、新羅が掘削~生産、其れを倭族がシナで売り捌くと言う様に、確立されて居て百済の入る余地は無く、完全に後の祭りだった。

 その後、交易に拠って大いに力を増した倭族は、列島の北の端の北海道、その裏側のオホーツク海、そして、東北の山岳部では、金鉱まで掘り当てて絶大な力を持ち始めたので、百済は抗しようが無く、倭族が半島の鉱山の管理の為に建てた、任那も無言の裡に容認するしか無かった。 つまり新羅も百済も、強大な倭族の支配下に置かれて終ったのである。 是では、両国とも独立国とは言えまい。

 その新羅は、2世紀末の仲哀帝の御代に、高句麗・百済と、九州の熊曽族と謀って、任那を占領して反旗を翻しますが、仲哀帝が妻と岳父を伴い、大和を発し、長躯征伐に赴きます。 帝は、不幸にして、熊曽族の流れ矢に当たり薨去されて終いますが、岳父の武内宿祢や重臣の久米氏(の子孫)が奮戦して乱を平定し、新たに大開墾事業を行って居る大阪平野へと凱旋します。久米一族は、其のまま九州に遺って、大宰府に本拠を置いて、半島に睨みを利かせます。

 然し、この事件が起こる200年ほど前(紀元頃)には、倭国には何十年にも亘る大乱が起こっており、10代天皇崇神帝に拠って、平定されて居ますが、もし百済が、十分な武力と財力を持って居たら、逆に、九州の熊曽族と呼応して、九州をわが物にして居たかもしれないのですが、そう言う、様子は欠片も見られませんので、国とは言っても、貧しく、高句麗の南進を食い止めるのがやっとの状況では無かったか。 その点新羅は、流石に元長江民だけあって、産出する鉄で創った武器も持って居たと思われ乱の主力でした。 実質、新羅も降伏で、乱は平定されて居ます。

 然し新羅の大和朝廷への反発は続き、一方で、大和朝廷にひれ伏すばかりの百済に、次第に反目する姿勢を見せ始め、新羅・百済問題は、大和朝廷にとっても、大きな悩みになって行きます。

 そして,三韓征伐から,凡そ400年後、新羅は新興国唐の力を借りて、百済を亡ぼして、半島を統一しようとしますが、時の帝であった天智帝が、無敵を謳われた海人族の水軍を遣わしますが、相手を舐め過ぎて大敗、以後大和朝廷は、半島不干渉の施策に切り替えます。

 新羅は唐の干渉を受けますが、是を拒絶します。と同時に,旧高句麗の靺鞨族が、旧百済の扶余や濊族を集めて、唐の軍勢をあちこちで破った為、唐は半島から撤退し、自国の建設を優先します。 

 唐の軍勢が半島から出て行った時、此処に新羅に拠る半島の統一が成ります。 然し、この統一新羅も、金氏、昔氏、朴氏の三氏で王権を周り持ちすると言う、奇体なもので、案の定、長続きせず、100年も経たない裡に、王建と言う商人上がりの男に、嵌められて王位を奪われ、国号も高麗と変えられて終います。 この新羅王朝が、国としての政治をしたかドゥかは、疑問が着く話ですね。

 高麗王朝も、最初の裡は其れ形に政治は行って居たと言う名残がある様ですが、何せ、王が元々商人であり、政治については、武班と文班の2つに分けた、集団の裡、文班に重きを置いて行った為に、武班からの不満が日々に募って、国内は、不安定なママでした。

 其処へ、南宋を亡ぼした元が、攻め込んで来て、瞬く間に高麗を支配下に置き、更に東方の海中に有ると言う日本への侵攻を高麗王に相談すると、高麗王は2つ返事で引き受け、日本に攻め入る手始めとして、対馬を襲い、殆どの島民を虐殺します。 その後、2度に亘り日本攻めに大敗して元が引き揚げると、対馬の僅かな生き残りの島民と九州本土に居る海人族の親類縁者が、高麗の沿岸部を襲撃し始めます。(倭寇) 然し、ある時期を過ぎると、高麗の民が、倭寇を装って襲撃を始め出し、治安は収拾がつかない状況に陥ります。

 この時元も、2度の大敗で疲弊した処へ、国内での内乱を御し切れず、モンゴル平原に帰って終い、反乱軍に拠って明が建国されます。是を好機と見た高麗王は、明征伐を李成桂将軍に命じますが、将軍は逆に高麗王を攻めて、高麗王朝を亡ぼします、斯うして建てたのが、朝鮮でした。 朝鮮は端から、明に臣従を誓って、「朝鮮」と言う国号も、明皇帝から下賜されたモノですから、属国と言う他は無い話ですね。

 この様に私の認識では、半島に国と言えるものが存在したのは、統一新羅が成ってから100年程、亦は、初期の高麗王朝ダケ、と言う事になりましょう。それに、その時々の支配民族は、全て異なった民族であり、殆どが遊牧民の出自で、食糧性産力が乏しく、労働で生活の糧を得たり、生産物を流通させて、経済基盤を造ると言った、近代国家の基となる様な精神文化は縁が無い民族です。 ですから現在も、国と言う意味が分かって居ないのでしょう。

 朝鮮族は、この先、本当に国と言う意味すら知らず、国を失う事になるワケです。 日本に生まれた事に感謝する他は無いですね。

>神道強要などと文句を言われるが、そもそも布教しない神道が朝鮮人に信仰を強要するはずがないのだ。

1910年8月29日に、に日本は朝鮮を併合したことから、日本は何事でも朝鮮を日本本土並みに扱う必要が生じました。
併合とは、併合する地域と併合される地域を平等に取り扱うことです。
植民地とは、植民地にする側は主であり、植民地にされる側はその立場は宗主国の利益が優先します。

従って、朝鮮には日本本土と同様に朝鮮神宮を、造営する必要が生じたのです。ただし、神道は自然に手を合わせるもので、強制的な信仰を要求するものではありませんし、日本人だって自己の宗教を神道だと考えている人は少ないと思います。

創氏改名の元は、朝鮮人が満州で商売するときに朝鮮人名のままでは支那人に馬鹿にされるからと、日本人名を要求したことにあると思います。それで、通り名も認めたのではないでしょうか。

強制連行と従軍慰安婦は慰安婦のことだと思いますが、吉田清治氏の著作『朝鮮人慰安婦と日本人』が事実でないことは、後に本人が認めていますし、現地調査においても事実でなかったことが証明されています。
慰安婦は当時違法な職業ではなかったし、募集は広告で行われていたから任意でした。また、従軍慰安婦との用語は当時使っていず、慰安婦(追軍売春婦)のことでした。

秀吉の朝鮮征伐にしても、戦後の教育では意味のない侵略とされてきましたが、戦前の教育ではどのように位置付けられていたのかと思います。
キリスト教は欧米の侵略国家がアジア、アフリカ、アメリカを侵略する際にその先兵となっていたのは、その当時の欧米では当たり前のことであったと思います。
それを知った為政者ならば、自国に対する侵略を防ぐと考えるのもまた当然のことであり、本当ことを隠して歪曲してするのは、異常であると思います。


朝鮮半島の南部は、永らく倭の任那が管理していたと思っていたのですが、今ではその存在すら霞んでおり、2015年には韓国が百済考古遺跡として歴史遺産に登録されました。

この地域が今後どのように韓国で歴史認識をするのか知ったことではないのですけれど、眉にしっかり唾を付けてみなければならないと思います。

この2015年に歴史遺産として認定されたときは、日本も明治日本の産業革命遺産を登録したのですが、この時、端島炭鉱については韓国が徴用した朝鮮人を酷使したとして文句を付けたことを忘れてはなりません。

韓国との事前調整ではこのことを韓国は指摘せず、決定委員会で韓国は自国の決定を先にするよう日本に依頼し、日本はこれを受け入れたのです。
そして、決定の委員会で韓国は百済考古遺跡が決定された後、日本の歴史遺産を決定する際に、端島炭鉱に対して文句を付けたのです。
韓国の提案することには、その一つ一つに日本が考えてもいないことにまで悪意のあることを忘れてはならないのです。

ちなみに、百済考古遺跡の歴史遺産認定にも、任那を否定する要素があったと考えられると思っていましたけれど、日本側は韓国のことだからと問題意識はなかったことが残念でした。


この歴史遺産問題については、2017年に朝鮮通信使が世界の記憶遺産に登録されています。

これは、朝鮮通信使は、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言うとして、朝鮮からの文化使節のように派遣されたと喧伝されています。

しかし、実態は朝鮮から日本に対する朝貢使に近いもので、朝貢使という語が韓国は明・清の属国であることが使えないために通信使としたものではなかったかと想像しています。

そうでなければ、通信使が江戸城に到着した際には正門から入場したと考えるのですが、通信使が入場したのは裏門ですから朝鮮の使節は日本より明らかに下の立場であることを受け入れていたのです。
彼等を諸国が大切にしたのは、徳川幕府の命令によるもので、そうでなければ大切にする必要はなかったのですが、使節は徳川幕府の権威を盾にとって、調子に乗って暴れ回ったと思っています。

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