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2018年3月11日 (日)

大きい烏(からす)では、神倭(かんやまと)イワレヒコ(神武)を橿原(橿原神宮)へと導く役としては、貫禄不足であろう

ー以下「鳥居礼著『言霊』」より抜粋編集

大阪府に八尾市があり、その市章は〇の中にYである。

八尾のローマ字表記のYAOから作られたものだという。

ところがこの市章は秀真(ほつま)文字の「た」に当たるのである。

ーー

鳥居氏によると、日本語は一字一字意味を持っているという。

秀真文字での「た」はそれではどんな意味を持っているのか。

鳥居氏の意見を抜粋編集してお目にかける。

ーー

一つは、「た」の形状、つまり円の三方から中心に向かって線が入り込んでいる。

これは、日・月・星の光が差し込むことで作物の実る「た(田)」やそこで働く「たみ」を意味し、またそれら3光が、作物の実りを助けるの「た」などを意味するのだという。

ーー

そしてもう一つが、尺度としての「た」である。

ホツマツタヱには、昔「八十万民(やそよろたみ)」の丈の平均値をひとま(一間)としその1/8を「ひた(一咫)」と決めた、とある。

そして「やた(八咫)」に二咫(ふた)を加えたものを世の高量り(たかばかり)としたと。

(たかばかりは敷(鴫)居から鴨居までの高さ、入口に水鳥を配置することで防火を願った)

ーー

少しややこしいのだが、この高量りにさらにその1/4を加えて、円(円周12.5咫)にし、その円の直径に二咫を加えて描いた円の大きさの鏡を作ったのだという。

つまり、円周が12.5咫の円の直径は、12.5÷3.14=3.98咫なので、この鏡の直径は約6咫(むた)、つまり身長の3/4ほどの大きさになる。

ーー

例えば「やたのかがみ」について、記紀では、「八咫の鏡」と記している。

これでは、人の背丈ほどもある鏡を想像してしまう。

ところが、「ホツマツタヱ」本文の記述から上に計算した様に、その鏡の直径は6咫なのである。

別の記述に、「君が、それで、民の心を鑑み(かんがみ)て、統治(しら)した」とある。

つまり、「やたのかがみ」の「やた」は、八田つまり八を多くの意に使った「多くの田」の意味だと思われる。

そしてそこで働く多くの民「八民」を意味する。

「やたのかがみ」の「やた」は、尺度を表す「八咫」ではなくて「八田」、つまり多くの民の心を映すものだったことになる。

ーー

それで、八咫烏の「た」についても、果たして尺度を示す「咫」でよいのだろうかという疑義が生じる。

ーー

ここで烏(からす)について、古代には野辺に死体を放置し、鳥に死体処理を任す鳥葬が行われた。

そこで登場した鳥、つまり人の死肉をついばみ骨に(枯ら)してしまう鳥が烏(からす)だった。

それゆえ、葬儀には、烏(からす)が描かれた旗が掲げられた。

このカラスには、穢(けが)れを枯らしたまえという祈りが込められていた。

ーー

「やたがらす」は、それが3本足(過去・現在・未来の悪(ア)し)を持っていることから、それらの悪しきを枯らすことを願ったものであったことがわかる。

しかし八咫烏と書けば、人の大きさの烏ということになってしまう。

大きい烏では、神倭(かんやまと)イワレヒコ(神武)を樫原(橿原神宮)へと導く役としては、貫禄不足であろう。

ーー

記紀では八咫烏と記されているが、「た」の部分を尺度の咫(た)ではなくて、日・月・星の三光が入り込む「た」だと考えると、

つまり「やた」は、八っつの「た」(助け)であろうと。

天御中主(あめのみなかぬし)の八御子神(やみこがみ)、「トホカミヱヒタメ」のことであろうと。

そう考えれば、八咫ではなく、八助とでも漢字表記する必要があろう。

しかし八助では、「やた」とは読めない。

そこがむつかしいところである。

ーー

解釈としては、大きな烏よりも、八御子神(やみこがみ)の方が、イワレヒコを橿原へと導く相手としてはふさわしい。

八御子神(やみこがみ)こそが、「過去・現在・未来の悪(ア)しき」を枯らし、神倭(かんやまと)イワレヒコ(神武)を橿原(橿原神宮)へと導いた。

八御子神であれば、貫禄十分であり、これだと素直(すなお)にイワレヒコの物語を受け入れられる。

鎌倉以前からの武家社会で、八幡さま(大菩薩)として崇敬されてきた神というのは、この八御子神(やみこがみ)のことなのである。

そして今、八咫烏(人の大きさの3本足をもつ烏)はサッカーの日本代表選手らの胸章になっている。

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コメント

縦椅子さま

 サッカー日本代表選手の胸章の八咫烏の由来が秀真にあるということをシラシメテくださり、有難うございます。

 「ホツマツタエによると昔「八十万民の身の丈の平均身長を一間とし、その八分の一を一咫と決めたとある。」ということはすごいことで、日本には昔から、計量の尺度があったということです。昔、「聖徳太子が手に物差しを持っておられる像」のことをうろ覚えでおぼえているのですが、「日本ってなんと奥の深い国なんでしょう!」と感嘆してしまいます。またいつか聖徳太子の物差しについて教えていただけたら、幸甚でございます。

以下縦椅子

高ばかりの続きは以下のようになっています。

「高ばかりを、ほ・かぜ・はに・みず(火・風・土・水)に4等分し、それに同じ長さ(2.5咫)のうつほ(空)を接ぎ合わせて「天の巡りの曲がり差し」とした」と。

太子が大工の祖とされているのは、その「曲がり差し」を持っているからですが、それは既に大使以前から存在していたことになります。

>縦椅子様 本日も更新有難うございます
>>古代の度量衡
 私も、↑のばら様のご意見に同意いたします。
 度量衡は、民族に拠って少しづつ違う様ですが、日本が維新後、に急速に西洋の文明、特に科学部門を逸早く、吸収できたのは、日本が古来から用いて来た尺貫法は、西洋のヤード・ポンド法と同じく人間の部位の骨の長さや、自然石の重さを基準にしたものだった事から、長さや重さのわずかな違いを認識しさえすれば、言葉は分らずとも、数字さえ覚えれば、図面も容易に理解できたから、維新から約30年後に起こった日露戦争では、日本独自で開発した当時の世界で最高レベルの新型エンジンを積んだ艦艇を実戦に投入出来て居る、つまり、僅か、30年で西洋を抜き去るエンジンを開発できたと言う事です。

 こう言う事が何故可能なのか、と永らく思って居ましたが、この話を読んで、腑に落ちました。 日本は、古来から度量衡に着いての定めがあったと言う事なのですね。然も、古に定めたものが江戸末期にも使われていたと言う事は、不自由がなく、使い勝手が良かったという事を意味します。

 因みに、ヤード・ポンド法の本家の英国では、船舶の重さや貨物を載せられる大きさを表す単位を、水の容積で表したり、船が押しのける水の量で表したり、貨物の種類に拠って、ショート㌧、ロング㌧と分けて看たりで、様々な単位を後発・付加して居て、専門的になり過ぎて、却って使いにくくなっています。

 こういった傾向にフランスが反発、18世紀末に発議され、1870年代に作成されて19世紀末の1890年に認定されて居ます。 フランスはメートルとキログラムを定め、20世紀初頭には、IS単位として世界標準にする様に働きかけて居ます。 日本は是に賛同して、2960年以降、尺貫法は日本では、公的には使われなくなっていますが、英米は、未だにヤード・ポンド法の単位を使った表示が多く見られますね。

 然し西洋が拘って居る単位は交易を行う際に、公正な基準を設ける必要に駆られてやった事ですカラ、古くは、地中海に面した、BC90~80世紀の超古代国レバントの後裔の小国、フェニキアがBC15世紀~8世紀に、アフリカや地中海沿岸の諸国を相手に交易して反映したとの記録がありますが、公正な交易が初めから成立したとは、とても思えず。 公正な商取引を定着させる為に、フェニキア人が、多くの略奪に拠る多大な被害を受け乍ら、その有効性を相手に認めさせて定着させたモノと推察します。

 然し、その後、この基準をちゃんと守ったかは大いに疑問ですね。 と言うのは、確りした基準が必要とするのは、確りとした社会なので、強大な強制力を持つ国家の存在が必須だからです。 すると、BC5世紀ごろからの、アレクサンドロス大王に拠る制覇や、BC2世紀のローマ帝国の出現を俟つ他は無い事になりましょう。

 因みに、八咫烏が登場する、神武東征記の背景となった時代とは、皇紀元年以前ですから、紀元前7世紀より前と言う事になりますね。 その時既に、「咫」と言う単位が、普通に使われて居た可能性が有る。 唯、記紀は、AC8世紀に書かれたモノなので、この神武東征記が、記紀の作者に拠る創作、若しくは、創作的な付加・装飾を受けて居たとしても、咫と言う単位は既に使われて、一般的であった、と言う事でしょうね。

 因みに、ばら様のご紹介に拠れば、咫は秀真伝に曰く、「身の丈の平均身長を一間とし、その八分の一を一咫と決めた」そうです。 1間は6尺で約1m80㎝、其の1/8だから1咫=22.5cmで、凡そ、掌と中指を足した長さと言う事になりましょう。 

 因みに1尺は、成人男子の下腕の骨、若しくは、下肢の尺骨の長さの様です。昔は、亡くなった人の骨を、身近な生活の道具にして居た事が分りますね。 骨は、自然界で手に入り易い木で、固いと言われている樫の40倍の方さがありますから、人間や牛馬の大腿骨や下肢の骨は、武器としても使えるし、生活道具としても使える、非常に便利なモノだった、と思います。

 日本の歴史の深さを知るには、度量衡の話は、かかせませんね。

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