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2018年2月16日 (金)

今の日本人とは根本的に精神構造が違っている

ーー以下「黒木頼景ブログ」より抜粋編集

欧米のメディア関係者には自由主義者(リベラル)を自称する人たちが多い。

彼らは日常的に、人権や人命尊重を聲髙に叫んでいる。

ところが彼らが実際にやっていることは全く逆のことなのだ。

ーー

最近、ロネン・バーグマン(Ronen Bergman)というユダヤ人作家が、イスラエルの諜報活動を扱った『Rise and Kill First(立てそしてまず殺せ)』を書いた。

この中で興味深いのは、イスラエルが実行しようとしたPLO議長ヤセル・アラファトの暗殺である。

1982年、イスラエル政府は「金魚作戦(Operation Goldfish)」を計画し、モサド(イスラエル諜報局 / Mossad)が飛行機に搭乗したアラファトを暗殺することになっていた。

当時イスラエルは、PLO(パレスチナ解放機構)に手を焼いていたのだ。

問題はアラファトが乗る飛行機にあった。

用心深いアラファトは民間機に搭乗する際、自分と側近の者がが利用するファースト・クラスやビジネス・クラスの座席を全部買い占めていた。

だから、モサドの工作員が一般乗客に混じって、アフラファトに接近することは不可能。

そこで、イスラエル政府は飛行機ごと葬ることにしたという。

ーー

つまり、イスラエルの戦闘機にその飛行機を撃墜させる。

当時の国防長官はアリエルシャロン(Ariel Sharon)であった。

後に首相となるシャロンは軍人上がりの政治家で、独立戦争以来、数々の戦争を体験した武闘派であった。

シャロンは、スエズ戦争から六日間戦争、ヨム・キプル戦争を闘い抜き、リクード党に入ると、イツァク・ラビン(Ytzhak Rabin)の補佐官や農務長官を経て、ベギン政権の国防長官になった。

ーー

1982年、レバノンのベイルートにパレスチナ人の難民キャンプにPLOのテロリストが紛れ込んだ。

それを、イスラエル国防軍とレバノンのファランヘ党が排除しようとした。

その際、イ軍は、民間人も一緒に抹殺してしまったのだった。

パレスチナ人やレバノン人の犠牲者数は900名とも3,000名とも言われた。

ーー

アラファトが、乗り込む飛行機とは、すべて民間の旅客機であった。

イ軍の指揮官たちは「民間機の撃墜は違法である !」と判断し、意図的に作戦を妨害した。

アモス・ギルボア准将(Brigadier General Amos Gilboa)はラファエル・イータン中将(Lt. General Rafael Eitan)に向かって、もし、この作戦を実行すれば国家としてのイスラエルは滅亡するだろう、と警告した。

(ちなみにイスラエル軍がイラクのオシラク原発を攻撃した時、作戦を練ったのはイータン参謀長である)

ーー

ベルグマンによれば、空軍の作戦指揮官であるアヴィエム・セラ(Aviem Sella)も、この暗殺計画に反対であったが、国防相のシャロンは実行を求めた。

誰も国防長官に異議を唱えられなかったので、その作戦を技術的に不可能にすべく裏で画策した。(Oliver Holmes, "Israel had plan to shoot down passenger plane to kill Arafat, book claims", The Guardian, 25 January 2018)

結果的に暗殺計画は実行されなかった。

ーー

しかしイスラエルの戦闘機F-15が、もう少しで旅客機を撃墜するところだったのである。

それは、1982年10月、アテネからカイロへ向かう飛行機だった。

しかしアラファトが乗っていたと思われていたが、モサドの工作員による報告では、アラファトによく似ている弟が乗っていただけだった。

しかも、その飛行機には、「サブラ・シャティラの虐殺」で負傷したパレスチナ人の子供30人が乗っていたのだ。

もしも、イ軍がこの旅客機を撃墜したら、その後どうなっていたことか。

ーー

アラファト議長は暗殺されず、弟が殺されたことで復讐の大義が生まれてしまうし、無実の子供たちが殺害されたことで猛烈な国際的批判が湧き起こっていただろう。

そうなれば、米国も、イスラエルへの莫大な経済支援を停止せざるを得なくなっていたはずなのだ。

仮に、アラファトが乗っていて、暗殺できたとしても、後継者はすぐ現れるし、憐れな子供を巻き添えにしたという「事実」は確実に残る。

ーー

パレスチナ人とユダヤ人の対立は熾烈で、パレスチナ人がユダヤ人にテロ攻撃を加えれば、イスラエル軍は、その何倍もの反撃をしてきたのだ。

パレスチナ人(アラブ人)やユダヤ人が考える暴力(テロ)抑止策は、やられたらやり返すというものだ。

もし、父が殺されれば息子が仇を討つ、それが無理なら、孫が、それも不可能なら曾孫が引き継ぐ。

これでは、相手を傷つけることを躊躇せざるを得なくなる。

ーー

ペルシャ人、モンゴル人、トルコ人も皆おなじような報復をする。

キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒に共通の聖典(バイブル)のヨシュア記は、異民族を皆殺しにする話で溢れている。

皆殺しにしておかないと必ず報復されるからだ。

今の日本人とは根本的に精神構造が違っていることがわかる。

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コメント

>縦椅子さま お早うございます。 本日も更新有難うございます。
>>日本人とは余りに違うチュルク、アラブ、ペルシャ人達の生命倫理観
 その原因はやはり、地理的なものが関係していると思います。 一番の違いは、日本人の生存を脅かす最大のモノは自然ですが、彼ら大陸島とアフリカの接続部に棲む民族は、基本的に、五色人類「=赤、黒、黄、白、青」の裡、黄を除く4つがこの地域を文明の出発点として居る事は、注目に値します。

 その地域は、今より約1万1千年前(紀元前90世紀)頃、その2つの大陸を結ぶ陸橋部分で栄えた「レバント」と呼ばれる地域でした。此処は所謂チグリス・ユーフラテス川の「肥沃な三角州」の上流、西側の部分に当たり、且つ、地中海に面しており、黒海やアナトリア半島の隣に位置すると言う、交易・流通にも絶好の場所で、人類最初のライ麦の栽培の跡があるテル・アブフレイラ遺跡がある処です。 

この辺りは、11,000年経った今でも、シリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、ヨルダンと言った紛争地域です。 其れだけ、人類にとって、依然として重要な土地である証拠でしょう。 11,000年の時間の経過の間には、多くの民族が王国を興隆・滅亡を繰り返し、その都度多くの血が流され、名も残って居ない多くの民族が滅んだ事でしょう。 その仕儀を今も繰り返して居ると言うワケです。地理が人類に与える影響力の大きさを感じますね。

 列島に棲んで居た日本人の祖先は、この時期には、列島のあちこちで火山の終局的な爆発的噴火に見舞われて、民族滅亡の危機を幾度も経験している様ですが、地層を調べれば火山の降灰層の上には、500年も経たない裡に、人類の生活痕跡が遺されて居るのです、島国ですので、他に行くべき場所がなかった事もありますが、ご先祖様の不撓不屈の精神を感じます。

 この時期の東洋の大陸の様子が、未だはっきり分って居ません。 長江文明の興りは、15000年~20000前と言われて居ますが、この時期は、ピュルム氷期の晩期に当たりますから、未だ内陸部には大きな氷河が存在して居て、その土地が持つ生命維持力は低かったと思われますが、海岸部は、内海部に暖流が流れ込む一方、河川からも、少量ながらも植物プランクトンや植物の種子が流れ込んで、内海の海藻や魚影は日増しに多くなっていたでしょうから、この地域での漁労海産は、数百に達する人口を支える生命維持力を持って居たと思われます。

 この傾向は海に近い程大きく、日本列島では、遺跡からは必ず、貝を採集して食用にして居た跡=貝塚が発見されます。処が、西洋の遺跡からは、この貝塚が発見されて居ないのは、ドゥ云うワケなのか、良く分りませんね。

 長江文明が本格的に反映し始めたのは紀元前70~50世紀の事で、其れ迄、陸稲栽培であった稲を大量の収穫が期待できる水耕稲作に切り替えてからの事です。オソラク、この方法や水耕稲作用の苗は、列島にも持ち込まれて居たと考えられますが、水の管理をする為に、勾配のついた水田を造らねばならないと言う大量の労働力を必要としましたが、その当時の列島には、当時の人々の食糧確保力から推定される労働力は一集落で100人、多くとも500人前後しか居なかったし、その半分は、非力な女子供老のですし、水田の開墾には測量技術と大量の労働力が必要です。

 その後も、毎年、決まった時期に多くの労働力と手間がかかる水耕稲作を列島に持ち込んで、水耕稲作を開始した処で、年に数回やって来る台風に拠る川の氾濫、高潮と、温暖と寒冷を交互に繰り返す列島では、水害を避ける意味で耕作地が限られる上、春から秋の半年しか「食料を生み出す事」が出来ないので、乏しい労力を食う稲作は、凶作時には飢餓を起し全滅する危険も経験して、早期に諦めて居たのではないかと思います。

 ですから、水耕稲作が日本で本格的になったのは、土手に土を積み上げて川の流れを変えたり、逆に河岸段丘を利用して、川沿いに田を造って、川の水を上流沿いの田んぼに引き入れて、川の水を利用て他を潤す一方、雨の降り方で田への流れ込む量を調整したりする、治水技術が輸入されたBC5世紀頃(弥生時代の始まり)からでは無いか。 更に、是を発展させた棚田と言う、其れ迄荒れ地でしか無かった山地を、水田にする技術が入って来て、稲が量産される様になり、人口が爆発的に増えたのだと思います。

 然し、日本列島に棲む人々が永年耐えた、「乏しい労働力」が、個々の存在の貴重さにも繋がって居て、個への尊重が生まれ、やがて、全体の和を重んじる気風となって来たのではないでしょうか。

 此の和を保つには、「異なったもの同士が、仲良く暮らして行く為の工夫」が必要になります。 その最たるものが、「別の地域に棲む」と言う事でしょう。 然し、例えば、台風だとか、地震や津波、火山の噴火と言った災害時の直後や後に来る飢餓に対しては、お互いが援け合って生き延びる、と言う事にも繋がりますから、最低限の相互の連絡は取って居たのだと思います。

 異なった民族の居住域の境に、印になるモノを建てて、この地域に夫々の神を祀って神聖な地域「=神社」とし、相互の争い事の仲裁や災害復興の援けあいの話し合いの場にして居たのではないかと思います。

 こう言った相互交流から、町が生まれて、商業も盛んになっていったのでは無いでしょうか、それに、「外来のモノが新たな良い事を教えてくれる」と言う成功体験から、余所者を訳もなく排斥するのではなく、先ずは歓迎して迎い入れて、その知識を吸収して其処から自分達の都合に合う様に改良して行く、日本式の外来文化吸収法が始まって居るのだと思います。

  この様に考えれば、日本の和の考え方は、日本以外の民族の「外来人を須らく敵とし、自分に足りないモノは、奪って来ればよい」と言う、異なる他を、排除/支配する考え方とは、真逆のモノであります。

 日本の災害に満ちた風土が、日本人に教えた事とは、厳しく激しい風土を乗り越えて行く為には、弱い人間同士の和が必要である。 そして、自分を取り囲む、自然に対しても敵視するのではなく、自分も自然の中に溶け込む事で、命も自然現象の一部なのだと受け容れて終う事にある。

 従い、「自然は克服したり、征服したりするものでは無く、その中に流れて居る律動を感じ取る事で流れの意図に解し、それに乗って自分も自然の一部になり切って終う」のが、悟りの正体である事を、日本人は知ったのでしょう。 

 東洋の思想である仏教を描いた手塚治虫の「ブッダ」にも、ナラダッタと言う、ブッダを超える様な行者が出てきますが、此の超人にブッダは神の化身を感じ取ります。 人間ゴータマ・シッダッタ(シッダルータ)が、自身の中にも神の存在を感じ取り、後世「梵我一如」と言われる悟りの境地に達しますが、是が、日本人の「自然と一体」の悟りの境地に通底しているのは言うまでもありません。

国が他の国の民を処分する一つの方法がテロですが、テロを行うとこれに被害を受けた国が報復することがあり、確実に報復する国としてイスラエルが掲げられます。

イスラエルの国民にテロを行うと、それ以上の報復を行うからイスラエルの国民にテロをするなと言うことで、イスラエルの国民を守る手段にしているのですが、これとは逆に自国も国民が他国からの被害を受けても騒ぐことなく、碌に抗議をしない国の代表は日本だと思います。

膺懲というやられたら、それ以上の仕返しをするぞとの言葉がありますけれど、戦前の日本にはこれがありました。
日本人がやられたらやり返す。これは、自国の民を守る一つの手段として、他国にいる国民を守る方法としてある意味で認められていると思います。

だから、先日も北朝鮮でスパイとされて拘束された米国人が、北朝鮮での拘束中に健康に異常を来した際に、北朝鮮で亡くなることがあれば米国の報復があることを心配した北朝鮮政府は、意識がなくなっている米国人を、命のある間に返還したのです。
これが日本人であったなら、返還されることなく亡くなったで終わらされたと思います。

少し古くなりましたが2010年民主党政権の時、尖閣諸島において中国漁船が日本の巡視船に衝突した際に、中国は中国内で仕事をしていたフジタの社員4名を拘束し、「中国の軍事施設保護法および刑事訴訟法に基づいて、居住監視を受けているという通報だった」と説明しました。
これに、菅内閣の仙谷由人官房長官は完全にビビりました。
政府の官房長官が中国の不法に何も出来ず、結果として巡視船にぶつけてきた中国漁船の船長に特別仕立ての飛行機で帰らせるという、無様な対応をしたのです。

余談ですが、巡視船が衝突されたときのビデオを、後日海上保安庁の職員に公開されたときには、最大限に処分すると息巻いた仙石氏の対応とはおよそかけ離れたもので、相手が強ければこちらは弱く、弱い相手にはこちらは強い対応で、相手に不法に対しての正義は全くなかった対応だったと思います。


国際政治には、日本が当事者になった場合でも出来ることが限られていることは理解できますが、正しいか否かも判断せずにビビる政治家には、日本を預けてはならないことが良く分かった事件であったと思います。

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