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2018年2月17日 (土)

三島には、ネット環境の出現と、戦後の言語空間が崩壊しつつある現在を、ぜひとも経験してもらいたかった

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集

井上隆史『「もう一つの日本」を求めて 三島由紀夫『豊饒の海』を読み直す』(現代書館)

三島由紀夫は、昭和45年11月25日、45歳の時、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。

バルコニーでクーデターを促す演説をした後、自衛隊員を前にして切腹して見せた。

ーー

三島の遺作となった『豊饒の海』は戦後が色濃く残る昭和40年代に書かれたものだ。

三島の親友であった渋沢龍彦は『豊饒の海』を次のように評した。

「近代という時代におけるすべての事象は、直線的に発展してゆくはずだという近代主義、進歩主義的な世界観が横たわっている」

「ところが輪廻転生という観念においては、ただ事象が繰り返されるのみで、それでは凡庸、平板な、世界観とも言えぬような世界観が展開するに過ぎない」

「それは、近代的な小説観、世界観と矛盾をきたす」

「主人公が輪廻転生するという設定は、単に非科学的で荒唐無稽な夢物語だという以上に、そもそも小説としては成り立たないのである」

ーーと。

この評価を紹介した後、井上は、「しかし『天人五衰』で「輪廻転生の物語は、いわばすべて本多の妄想に過ぎなかった」という筋立てになっていると指摘する。

ーー

渋沢龍彦氏は、こう書いたのだ。

「『天人五衰』のラストの夏は・・・しんとしたあらゆる物音の消え去った、そのまま劫初(ごうしょ、この世のはじめ)の沈黙と重ね合わせられるような、

三島氏がどうしてもそこから離れられなかった、あの永遠の夏(敗戦の詔勅があった)であることに変わりはなかったのである」と。

ーー

『豊饒の海』で三島は輪廻転生を夢物語として書いた。

ーー

ニーチェは夢と現実を以下のようにまとめている。

「生は醒めている半分と夢見ている半分とから成っているが、醒めているほうがわれわれには比較にならぬくらい優れた、重要な、値打ちのある、生きがいのある半分と思われている」

「生きるとは、この醒めた半分だけを生きることだと思われている」(秋山英夫訳、岩波文庫版『悲劇の誕生』p9)

ーー

そしてニーチェは言うのだ。

「科学の精神というのは、ソクラテスにおいてはじめて世にあらわれた信念、自然が究明できるものであるという信念にほかならないのである」

「この前進して休むことを知らない科学の精神が、さしずめどういう結果をもたらしたか」

「神話がそのために滅ばされた」のだ。

そして神話の「破滅によって文学もまたその自然の理想的地盤から追い出され、故郷を失うようになった」(同p187)。

ーーと。

井上は、ニーチェには言及していないが、次のように分析を進める(要約)。

「外界に実在すると思われている事象はすべて脳によって作り出された幻の像に過ぎない」

「幻の像に執着することにより幻は実体化し、人生を苦しめることとなる」

「逆に、すべてがまぼろしだと悟れば、(その像に執着する)心も消滅する」(井上、p51)

ーー

かくして『豊饒の海』での松枝清顕と聡子との悲恋について、それは、まぼろしではなかったのか。

しかし本多を前にして聡子は言った。

「松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方はもともとあらしゃらなかったのと違いますか?」

本多は呆然とする。

もし松枝がいなかったとするなら、「今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去っていくように」

「門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。『それも心々(こころごころ)ですさかい』」

そのあと案内された庭をみつつ、「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った」

「庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている」

ーー

井上が『豊饒の海』の中で見たものとは「近代という時代が行き着いた果ての究極の虚無」。

それは「表象不可能なものを表象しようとすること」(p183)でもあった。

ーー

後年の三島はほとんどギリシア(西洋)に興味を失い、そして『音楽』でみせた夢判断や『絹と明察』の鮮やかなまでのニーチェの残映とも訣別している。

科学の進歩というのは、究明された自然の法則の利用にある。

それは無限に進歩するように見えてその対象つまり自然は全く変わっていない。

昆虫や人以外の動物や魚・植物は同じ一生を(疑いもなく)繰り返している。

西洋人の自然を究明し尽くすという気迫に圧倒された後、三島はその対象である自然が全く変化していないことに気づく。

この自然については、ニーチェが定義した科学とは別の視点からの説明もできると考えたのではなかったか。

ーー

当時の日本人は焦土と化した国土を繁栄に導くために必死になっていた。

たまたま裕福な家庭に生まれた三島は、彼らをむしろ冷ややかに眺めることができた。

そして日本人が経済活動にかまけている間に、言語空間が在日・反日勢力によって支配されていくのを三島は黙って見てはいられなかったのだろう。

とうとう「天皇陛下のために切腹」して見せる羽目になった。

三島には、ネット環境の出現と、戦後の言語空間が崩壊しつつある現在を、ぜひとも経験してもらいたかった。

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コメント

>そして日本人が経済活動にかまけている間に、言語空間が在日・反日勢力によって支配されていくのを三島は黙って見てはいられなかったのだろう。

三島由紀夫氏が縦の会隊員4名と共に一ヶ谷駐屯地と訪れた日、当時は小さな商店に勤めていましたが、翌日、朝礼の時にこの話が出て、自衛隊の東部方面総監を監禁し、クーデターを促したことを皆が非難していたことを覚えています。

当時は、考えてみると社長は、50歳を超えた位で番頭は30代半ばでした。私は丁稚の若造で先輩の話を聞くだけでしたが、言語空間のことなど考えたことなどなかったです。

今、三島氏の考えていたことを思いますと、当時の日本は既に左翼が強いことから三島氏は、強い危機感を覚えて立ち上がったと思います。
今のネットでの言語空間を知っていたら、右と左の考え方を知り尽くした上で、穏やかに右翼を指導していたのか、若者の危機感のなさを激しく嘆いて叱咤激励していたのかと想像を巡らすだけですが、その前に、学生紛争の騒動に癇癪を起こしていた気がします。

>縦椅子さま 本日も更新有難うございます。
>>三島由紀夫のクーデター未遂事件
 私はこの年に商船学校に入り、毎晩、殴る蹴る付きの厳しいw寮生活の中で暮らして居ましたが、11月ですのでかなり慣れて居た頃です。 学内(寮内)にも、学生運動に参加して居る先輩が居たし、1年生で3年生を左翼教育する様な豪のモノもいましたね。 尤も彼は夏休みから帰ってきませんでしたから、11月の時点ではいませんでしたがね。

 私は、何故国を護る為の日米安保を更新する事に反対するのか分らずに、色んな3年生に尋ねたのですが、3年生も良く分って居ないらしく、チャンとした答えは、ついに帰ってきませんでした。 それより、賛成か反対かばっかり、訊かれたので「戦争には反対するが、日本を護る為にに自衛隊の様な武力は必要だと思う」と答えると、大抵、それ以上の突っ込みはありませんでしたね。

 すると、毎朝、部屋で国旗掲揚をやって居るwwと言う噂の3年生からお呼びがかかり、色々と訊かれましたが、特に変わった事は言われませんでしたね。 でも、学生運動に参加して居ると噂の在った先輩は、3年で学校を辞めて、大学へ行ったと噂がありました。 後から考えれば、この時、学生運動に首を突っ込んで居たら、大変な人生になっていたかもしれません。 

 昭和45年(1970年)は、ちょうど、日本の高度成長期のピークの頃でした。 私に取ってショックだったのは、ビートルズが解散した事と、ファンだったジャニス・ジョプリンが、麻薬中毒で死んだ事でしたね。 三島さんは、其れまでに、本を4,5冊読んだっきりでしたので、↑で取り上げられている、最後の作品、「春の雪」~「天人五衰」に至る4部作を、事件から2か月くらい後に図書館から借りて読みましたが、事件との関連性はさっぱり分りませんでした。 その翌年の2月に、浅間山荘事件が起こって、学生運動の評価が、「理想を追い求める活動家」から「唯の人殺し」と言う、評価に堕ちる転機になりましたね。

 その後、べ平連「=ベトナムに平和を民主連合」へ顔を出さないかとの誘いがあり、行ってみると、岩国の米軍基地近くの喫茶店に、岩国のベースの兵士と思しき外人の中に、学校の英会話の先生(カナダ籍の外国人牧師)が居て、ウィンクをして笑って居ましたね、その後、岡林信康が籠って居る付近の山から出て来ると言う噂を聞いて、2,3回行きましたが、終に会えませんでした。 別にオルグの様な事はされませんでしたが、色々と裏話は聞かされましたね。

 私が思うに、三島さんの感性は正しい、正しいけれども、当時の敗北主義に浸って居た多くの日本人が、覚醒するには、「盾の会」のメンバーは別にして、三島さんの世代と比べて、日本人としての基本が伝えられていなかったと思います。 其れは、私のお袋の世代(大正13年生まれ)と、三島さんが同世代で、戦争の始まりから終わりまで、大人の感性で見る事が出来たのですから。

 自分達の生きて来た時代を客観的に見て、次の世代に伝えると言う意味で、生きてきた時代の背景を考えれば、責めるのは過酷ではありますが、和5年~昭和15年位の生まれの所謂「焼け跡派」の責任は重いと思いますが、そう言う人達が、今や80~90代の手前なんですから、時間と言うものは恐ろしいですね。

日本は、犯罪を犯しても量刑が低すぎ、犯罪抑止に繋がってない。85年香港で15才二人含め、四人が強盗目的で、山中で二人を殺害、15才の少年二人は、刑を軽くし、出所なしの無期懲役、日本は犯罪者の為の量刑だ

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