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2018年2月23日 (金)

なぜ稲作かといえば、収量が大きく、民を養うことができたからです

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

神武天皇の神武は、奈良時代になってから付けられた諡号(おくりな)です。

もとの「おくりな」は、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレヒコノミコト)です。

『古事記』では「伊波礼毘古」は「以音」と記されている、つまり「イワレヒコ」。

「ひこ」は男性を意味しますから、この諡号は「神倭」と「言われた男」という意味だとわかります。

つまり、「ヤマトの神」と讃えられた人であったわけです。

ーー

漢字で「神」は、生贄を捧げる台に雷が落ちる象形で、そこから天の神を意味する字となりました。

ところが日本語の「かみ」は、例えば「越前のかみ」とは、「越前の国の守護者」を意味します。

つまり、「ヤマトのかみ」とは日本の守護者を意味するのです。

ーー

また川の「かみ、しも」で流れの方向を表しています。

かみは上流を示し、家系についてはご先祖様を示す。

しかしその土地に先祖代々暮らし、600年ほど経過すると、すべての家系のご先祖がかぶってしまいます。

そのかぶってしまったご先祖、人々の共通のご先祖を「かみ」と呼んだのです。

ーー

ですから、その村に住むすべての人は、同じ血筋だったりしますから、村人たちの共通のご祖先が鎮守の神様として祀られました。

ーー

伊邪那岐・伊弉冉(イザナギ・イザナミ)
  ↓
 天照神(アマテルカミ))
  ↓
 天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)
  ↓
 迩々芸命(ニニキノミコト)
  ↓
 火遠理命(ホヲリノミコト)
  ↓
 鵜草葺不合命(ウカヤフキアエズノミコト)
  ↓
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレヒコノミコト)

つまり天孫降臨された迩々芸命が初代天皇でも良かったわけですし、同様にそれは火遠理命でも、鵜草葺不合命でもよかったはずです。

それなのになぜ神倭伊波礼毘古命が「初代」天皇とされてきたのか。

これは、神倭伊波礼毘古命が、天照神から迩々芸命に授けられた天壌無窮の神勅に基いて、稲作を中心とした我が国を開いた御方になるからです。

このことは、アマテルカミ以来、皇孫がずっと稲作を中心とした国を経営されてきたことを示します。

なぜ稲作かといえば、収量が大きく、民を養うことができたからです。

ーー

それが天照神以来の神勅によって示された我が国の形です。

ーー

そして、その稲作を営む人たちが、黎元(れいげん、民)とされ、「おほみたから」とされました。

「黎」の字は、「禾」が実った稲の象形、「刀」みたいなところが鍬(くわ)や鋤(すき)、「八」みたいなところが、その鍬や鋤の刃、その下にあるのが「水」です。

つまり「黎」という字は、これ自体が稲作を意味するのです。

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コメント

関係ない話で申し訳ないです。韓国では、民間人が国政介入で問題だが、日本では外患が介入してるが、問題にならない、なぜですか

>このことは、アマテルカミ以来、皇孫がずっと稲作を中心とした国を経営されてきたことを示します。
なぜ稲作かといえば、収量が大きく、民を養うことができたからです。

日本は米(稲作)を主食とする文化で始まりましたけれど、欧米は麦を主食とする文化で始まりました。
これはご飯とパンの差を作ることになったのですが、米と麦は単位収量当たりの量が実質的に2倍程の差になると聞いたことが有ります。(米が麦よりも多いのです。)
結果として、米を主食とする文化の方が麦のそれよりも、民を多く食べさせることが出来、それがより多くの人を村に定着させることが出来れば、そこには農業以外の仕事に就くものを作り出すことが出来ることになりました。

これは、麦や狩猟の民と比較する場合、より大きな民族のパワーを作ることが出来発展性が大きかったと思います。
勿論、狩猟民族の方が農業民族よりも攻撃力は強いのですけれど、農業民族だって攻撃せずに守ることに集中すれば、狩猟民族から我が身を守ることは可能でしょうから、農業民族が狩猟民族に対してひたすら守ることに徹してのことです。

それはともかくとして、日本の大和民族は麦ではなく、米を作る稲作を選択した後に、民族の飢餓から大きく脱することが出来たと思います。

この時に麦を選択した民族は、その後も長く飢餓に苦しめられたと思います。
その代わりに、牧畜に活路を見いだしたのかも知れません。

>縦椅子さま 本日も更新有難うございます。
>>日本の水耕稲作の開始と国の興り
 私も↑の見方が正しいと思って居ます。 但し、ウガヤフキアエズは人の名前では無く、現在の鹿児島県の薩摩半島と大隅半島を根城にした、阿多族や豊族と言った海人族の話でしょう。 この地域は、今から7400~6900年前頃に、薩摩半島の沖合にある喜界(鬼界)ヶ島付近の海底火山の終局的噴火に拠る大爆発で火砕流が津波となって、半島に押し寄せて、当時の住民たちを呑みこみ集落を絶滅させました。南九州全域がこの被害に遭って、爾来、千年近く人が住まない土地になって終います。 この後が、「赤ホヤ層」として、薩摩半島全域を中心に九州全域に分布して居ます。

 良く縄文時代と言いますが、是は東北にあった文明で、出土する縄文土器は、三内丸山遺跡(4500年前=紀元前25世紀ごろ)の形成以前のものではありますが、1万年前「=紀元前80世紀」より前のものは、見つかって居ない筈です。 然し、貝紋土器と言う土器は、紀元前9千年前の桜島の大爆発で絶滅した上野山遺跡から出土されて居ますが、1万2千年前の桜島の時やその前の2万8千年前の姶良火山の終局的噴火時の遺跡からも、出土していると言う情報もあります。 兎に角、日本には北と南で出自の違う文化が、古くから存在して居た事だけは確かの様です。

 この豊族や阿多族と言うのは、3万年以上前の海退期に、大きな陸地だったスンダランドから、移住して来て、内海だった東シナ海沿岸に棲みついた、海人族(東夷族)の一部で、後に、陸伝いに北上して、長江を下って来た、焼畑農業を生業とする山の部族(南蛮族)と合流して、長江文明を築きます。

 現在では、水耕稲作を始めたのは、長江文明である事が、広く知られてきましたが、日本列島にも。稲は早期に、陸稲として入って来ているのですが稲は元々熱帯植物ですし、氷期の間は、ちゃんと実を着けなかったモノと推察します。然し、紀元前5500年頃には、水耕稲作が開始され、河姆渡遺跡辺りでは、数千人の人間を養い得る規模の水田跡が見つかっています。因みに、東夷族は海洋民族ですので、早くから島伝いに列島に到達し、相互の交流があったものと思われます。

 然し、火山の爆発が起こる恐ろしい土地と言う認識があって、近づけなかったのではないでしょうか、この間(BC6900~5900年)に、生活する場所を失った列島民は、当時無人の朝鮮半島に渡り、島嶼や海岸付近を中心に開墾を進めて、半島本土へと開墾地を広げて行きました。然し半島が高緯度にある処から、山岳部には遅くまで氷河が遺っており、水温が15℃を超さないと実を結ばない水耕稲作は、譬え、苗を持ち込んでも成功しなかったでしょう。 是で水耕稲作が半島経由で列島に入った、と言う説は、完全に否定できるわけです。

 然し、4400年前「=紀元前24世紀」頃、薩摩半島南端にある開聞岳が、大爆発を起こしました。 山体崩落などの現象は起こって居ませんが、暫く経ってから帰って看ると、「阿多」と呼ばれた地域は、火山からの降灰や火砕流で僅かな畑地も使えなくなっていました。 このママでは、滅びてしまう、と危惧を感じて居ました。 この阿多の地域や島嶼部には、紀元前25世紀頃から黄河文明の侵略を受けて、終に、紀元前22~3世紀頃滅ぼされ、逃げて来て列島に棲みついた越の人々が居ました。

 彼等の語る、「水耕稲作」を何処かで試してみようと言う事になり、錦江湾を隔てた向こう側の大隅半島のアビラ族に話を持ちこみます。 アビラ族は同じ海人族では有るモノの豊族より大きな集団でしたが、豊族と同じく狭い耕地しか無く、食糧不足で困って居たので、早速話に乗ります。

 豊族が越の衆から聞いた話に拠れば、大きな川と平野さえあれば、水田を創る事が出来、水耕稲作は可能であるとの事。 其処で、アビラ族の居住地の北にある大淀川の流域で、実験的に水田を創り、稲を植えて看た処、越の衆の言う通り大量の食糧が確保出来た。

 其処で他にもそういう土地があるに違いないとの発想で、探した処、水耕稲作を九州全域に広める事が出来、特に筑紫川や菊池平野は、大規模水田が開墾されて、多くの人を飢餓から救う事が出来ました。 飢えから救われた、海人族の中には、彼らを、神か九州の王の様に思い、付き従うようになります。 後に、大伴氏と共に、大和王朝を支えた久米氏も、この時以来の家来でしょう。 皆、食糧に困って居たので、大歓迎を受けたのです。

 更に、地域を広げて行こうと考え、山陽道を海伝いに東へと水耕稲作を伝えて行ったのでしょう。 もし是が侵略行であったなら、もっと大きな軍勢が必要ですし、兵糧は現地調達するしかないので、実質侵略になって終ったでしょうから、戦いの跡や遺恨が遺りますが、水田耕作の仕方の伝授なら、最初こそ警戒されるでしょうが、1~2年経てば大量の食糧を手にする事が出来たので、評判が伝わり、我を争う様になったと思います。 

 然し、結果が出るまで、1,2年は懸るので、中国を抜けるのに、16年の永きを懸けて居ます。 是が後世では、神武東征と言われるようになるのですが、武力に拠る征伐では無く、実は教化の旅であったと思われます。 故に安芸の国、吉備の国、播磨の国は、後に大和王朝の大きな後ろ盾となり、皇極女帝を初めとする閨閥を創り、大和王朝が安定する大きな要素となっています。

 その後大和朝廷は、難波の津に到達しますが、少彦と長脛彦の兄弟が治める畑作中心の、蝦夷族は、東征勢力を外敵と見据え、不用心に河内潟の中に入って来た船を襲って、大被害を与えます。 この時、イワレヒコの兄2人が戦死して居ます。 イワレヒコは、命からがら逃げだし、紀伊半島を反時計回りに回って志摩半島に上陸、山岳地に棲む日本の原住民とも言える森の民(北狄族)と、交流。 稲作を伝えて協力を取り付けます。 

 そして、次第に西行して、終に、長脛彦の本拠地を山から攻め立てます。 この時、反対側の平野部西方から、吉備・播磨の軍勢が攻め立てたので、山の方角は、手薄になっていたのが敗因でしょう。 長脛彦は、中部山岳地帯から相模に抜け、一方少彦は、北陸道に逃げて。福島県の会津で合流、その後、日高見の国(今の東北)に逃げ込みます。

 九州の片田舎から、結局、水田稲作法の伝授と言う平和な手段があったからこそ、然したる軍勢も兵糧の心配もせず、日本を纏めることができたのです。 然しこの後、日本の豪族達は、米作に拠って急激に増えた、人口を養う為に新たな水源や耕作地が必要となって相争い、倭国は大乱状態になって終います。

 崇神帝(十代)が出て、天照大神を統一神として、三族(東夷・南蛮・北狄)の和を取り結ぶまでは混乱が続いたので、記録が残って居なかったのでしょう。 是が「欠史八代」の原因だと思います。

特報です。イバンカ氏が韓国の空港に到着しました。(日テレ24)日本人に何の関係があるのか?

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