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2018年2月27日 (火)

そんな当時にあって、秋帆は、次の見識を述べたのだった

ーー以下「米倉誠一郎氏の意見」より抜粋編集

日本人は諸外国の人々からとても創造的だと評価されている。

例えば幕末の幕府の米国への対応について。

幕末の蘭学者であり砲術家の高島秋帆の事例を紹介する。

ーー

当時1840年には、アヘンをめぐる英・清間での戦争があった。

1842年清は負け、英は清に香港を割譲させ上海を開港させた。

この戦争は、世界史における幕末・明治維新を見る上で前史として欠かせない。

ーー

大英帝国は清との交易で、茶など輸入超過となり、インド産のアヘンを清に輸出し、その代金を充てた。

結果、支那はアヘンの輸入超過状態となり、銀の大量流出と、アヘン中毒者が社会に蔓延する事態となった。

皇帝は、この事態の解消を、林則徐(1785~1850年)に命じた。

林は福建省の貧しい教師の子として生まれ、27歳で科挙に合格した秀才。

実務にも優れ、順調に出世し、アヘン根絶のために大きな実績をあげていく。

1839年には欽差大臣として、アヘン禁輸措置を決め、その押収廃棄を実行。

ーー

それについて大英帝国議会では激論が起こり、わずか9票差で開戦が決定された。

大英帝国は、1840年、自由貿易を侵害されたとして、清に宣戦布告する。

清はこの戦争に負け、多額の賠償金、香港の割譲、上海などの開港を余儀なくされ、鎖国政策を変更させられたのだった。

ーー

むろん支那人のことゆえ、林則徐は支那のアヘン業者からの賄賂を受け取っており、左遷されている。

それにもめげず林は、西洋に対峙するためには、武力に加えて西洋事情に関する理論武装を進める必要を痛感し、膨大な洋書を収集・翻訳させる。

その1つが魏源の訳した『四洲志』であり、魏源は、その訳書をもとに世界の地理情報を収集して『海国図志』という100巻の大著をまとめ上げた。

ーー

『海国図志』など、西洋事情を知る手掛かりとなる漢語訳洋書は、日本にも伝えられ、佐久間象山や吉田松陰ら、幕末知識人らの手に渡った。

松下村塾で高杉晋作はこの蔵書に接して運命を変えたといわれている。

ーー

アヘン戦争は管理貿易を堅持していた江戸幕府に大きな衝撃を与えた。

そして幕府はアヘン戦争を正確に理解する努力をしたのだった。

まず、出島での貿易相手国オランダと清国の商人にアヘン戦争についての風説書を書かせた。

ーー

風説書の初期の目的は、ポルトガル、スペイン関係の情報収集だった。

しかし、幕府の要求は、次第に広範囲にわたるようになる。

風説書の対象国を、ヨーロッパ、インド、清国の3部構成にしたのだ。

ーー

アヘン戦争以降幕府は、オランダに通常の風説書(『オランダ風説書』)に加えて、『別段風説書』と呼ばれるより詳細な世界報告を要求している。

また、幕府は清国との貿易の過程で入ってくる『唐国風説書』にも大きな関心を示す。

幕府はアヘン戦争に関する情報をオランダと清国の複数の情報源から仕入れたのだ。

ーー

オランダ商館長は、1840年6月の風説書に、清国との開戦のため、アフリカ喜望峰とインド領内の英国軍の派兵を書き、長崎奉行に提出している。

さらに、オランダ商館長は、アヘン戦争に関する詳細を100ページ余りにわたって追加提出していた。

この追加提出は、幕府中枢が注目するところになった。

老中・土井利位(としつら)は、江戸に戻った長崎奉行の田口加賀守に、当時の海外地理書を取り寄せ、風説書以外の詳しいアヘン戦争に関する情報収集を命じている。

ーー

さらに、直接の当事者である支那人からの情報も入手すべく積極的に動いている。

こうしてできる限りの情報収集を行い、検証の上で、老中は将軍にアヘン戦争を記した風説書を提出したのだった。

ーー

ここで注目したいのが、長崎町年寄にして西洋砲術家の高島秋帆である。

秋帆は1798年に長崎町年寄・高島四郎兵衛茂紀の三男として生まれる。

父は唐蘭貿易を取り仕切る長崎会所調役も兼務している。

1804年にロシア船が出没し、長崎警備の必要性が増すことになると、四郎兵衛は砲台受け持ちになり、出島への出入りが自由になる。

そんな中で、文化5 (1808) 年8月 15日イギリス軍艦『フェートン』号が突如長崎港に侵入する。

長崎奉行は、軍艦を従える英海軍の言いなりになり、その要求に応える。

秋帆は、外国船の脅威やその対応に右往左往する父親の姿を見ながら成長したのだった。

ーー

そして、父の指導で語学や砲術を学び、砲術師範役を受け継ぐ。

1814年に、秋帆は父から町年寄の職を受け継ぎ、砲台受け持ちとして砲術研究に励む。

秋帆は、諸外国に対抗するには、本格的な西洋流砲術の習得が不可欠と考え、長崎駐在のシーボルトやオランダ人たちから情報を収集する。

実際にモルチール砲を輸入し、それを分解し模造品を制作している。

ーー

1834年には、高島流砲術と呼ばれる独自の砲術を完成させ、各地で実演して見せたため、その名は、海防を必要とする諸藩の間で広く知られるようになった。

特に、薩摩藩、長州藩をはじめとする西南雄藩は、西洋流砲術の技術習得のために、続々と秋帆の下に人材を送ったのだった。

ーー

彼の砲術とその基礎となった洋学の知識がなければ、薩長が倒幕を果たすことはできなかった。

ーー

秋帆は砲術家であるとともに事業家だった。

彼は、長崎貿易の脇荷と称する特権が与えられていた。

その特権を行使擦ることで、彼は、砲術や西洋知識に必要な物品を調達することができた。

そして独自に輸入した疎物品を、各藩に転売したり、ばらして模造品を製作しそれを販売することで、大きな利益をあげている。

その利益は、すべて西洋の兵器や外国書の購入にあてられたのだった。

彼の洋学の蔵書は、当時日本随一であった。

ーー

しかし、時代は天保の改革の最中で、蘭学者弾圧の一環として、彼もまた密貿易によって武器を輸入し、謀反を企てているという嫌疑をかけられる。

その後、謀反の嫌疑は晴れたものの、身分不相応な取引についての罪状を問われて、1845年に安中藩の他家幽閉の身になる。

ーー

1853年、秋帆は、ようやく恩赦で自由の身になる。

アヘン戦争から、10年後の日本は、秋帆がアヘン戦争時に危惧していたことが現実になっていた。

欧米列強が日本に開国を要求したのだ。

1853年、ペリー来航によって、幕閣や諸侯らは、「海防をあつくして、夷敵打つべし」という攘夷論を盛んに主張した。

ーー

しかし、秋帆の意見は、まったく異なるものだった。

その思いを「外国交易の建議」として書き上げ、幕府へ上申する。

彼は、古今東西の騒乱を分析した上で、米国側は日本が開国通商に応じないことを承知の上で、このたびの要求を突きつけているとし、

米は、日本側との開戦を誘った上で、圧倒的な武力をもって日本を支配下に置くことを目的としていると説いた。

そこで、秋帆は即時の開国通商を提言したのだった。

ーー

しかも、通商は富国強兵の源と力説する。

秋帆は脇荷貿易を通じて、海外貿易の重要性を認識していたからだった。

ペリー来航により攘夷論が盛んになる状況下で、秋帆は「武力による国防は到底不可能であり、和平開国こそが、日本の生き残る道なのだ。米国の挑発に乗ってはいけない」と警告したのだ。

ーー

10年近い幽閉後、わずか3カ月で書き上げたものだった。

秋帆は切腹覚悟で、1855年「嘉永の上申書」を、老中・堀田正睦(まさよし)に提出する。

ペリーの要求について、堀田はいくつもの評定を重ね、最終的に米国側の意向を受け入れ、開国通商の道を選択する。

この意思決定に、どれほど秋帆の主張が影響を与えたかは明らかではない。

しかし、その後の展開を見る限り、堀田に影響を与えたのではないかと思われる。

ーー

近年になり、幕府の和戦開国に至る意思決定を、従来の幕府の優柔不断説という通説を覆し、巧みな外交結果と再評価する動きが出てきている。

ーー

たしかに、幕府の対応を批判するのは簡単だ。

しかし当時の人々は、隣国に仕掛けられたアヘン戦争の結果を知った。

そして、眼前に米国海軍の圧倒的な軍事力を見せつけられた。

つまり、列強の開国要求に対する判断は簡単なものではなかったはずなのだ。

ーー

そんな当時にあって、秋帆は、次の見識を述べたのだった。

1、日本のような小国は有用なものを無用なもので替える、というしたたかな交易によって国を建てることが重要である。

2、海外の良いものは積極的に学び取り入れ、自国の足りない部分を補完すべきである。

この2つの方向性が、その後、日本に訪れるいくつもの危機を救った。

幕府の開港の判断を可能にしたのは、和平通商を構想しえた高島秋帆の見識が大きかった。

ーー

彼の「通商和平」は、当時にあっては、支那・朝鮮人には思いつかない画期的な考えであった。

そして攘夷論が盛んになされている時に、幕府はそれを採用したのだった。

この「通商和平」こそが、日本を欧米列強の植民地化から守り、独立と近代化への道を歩ませたのだった。

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コメント

>縦椅子さま 本日も更新有難うございます。
>>高島秋帆
この人物に関しては全く未知ですが、この解説を読めば、彼がアヘン戦争を如何に詳しく研究して、西洋列強の傲慢さ、その武力の強大さ、悪賢さを学んでいた事で、攘夷が如何に無謀な事かを、時の老中堀田に切腹覚悟で上申し、理解させて西洋列強との正面衝突をうまく避ける事が出来たという事ですから、彼の功績は、多大なものがあると言えましょう。 ご紹介ありがとうございます。

然し昔の人は、今と比べれば、学んだり、調査する上で、大きな障害を抱えていたにも関わらず、全くの私の信条ダケで、「安政の大獄」等弾圧まで受けても、時に命懸けで学び、為政者に献策しています。 其処には、なんの私心も感じられず、「只、日本を護りたい」一心しか感じられません、実に見事なものです。 きっと、秋帆には家族もいてでしょうが、秋保が10年も獄中にいる間に、奥方は大変な苦労をなさったと思いますね。 夫唱婦随を絵に描いたような話では無いかと思いました。

 現状の日本に比して考えるに、大戦に負けて米国の実質上庇護国となりましたが、実は、日本を大戦に引き摺り込んだ張本人である、米国民主党FDR政権の残党、ニューディラー達の、ソ連スターリンの名を受けた謀略組織コミンテルンの指示を実行すべくWGIPやプレスコードを、日本人に強制し、以て伝統の日本精神を破壊し、米国の下僕となる様に見せかけ、実際はソ連側に立って、敗戦革命を起こそうとして居たのですから、維新前夜処では無い、戦後世界も権謀術数が渦巻いて居たのです。

 処が、日本で戦前、官僚を務めて居た連中は、戦後、GHQの共産主義者で構成された民政局の指示で、公職追放されて居ましたが、民政局がコミンテルンの指示で造らせた社会党政権が、政治運営の経験のない学者ばかりであった為に早晩瓦解し、亦、ソ連の世界覇権の野望を知った米国国内勢力に拠る「赤狩り」=マッカーシズムが始まった為に、GHQの民政局のメンバーは一新され、コミンテルンの細胞達は、全員失脚・帰国しました。

 然し、米故国内には、保守の仮面を被ってはいるが、その実、金になるなら何でもやる、禿鷹の様な集団が居て、日本を経済面で育てる一方、軍事面では、決して台頭出来ない様に、政治面で野党の社会党、共産党ダケで無く、与党自民党内にも護憲派を創りだして、戦後の米国支配体制下の日本を創りだしました。

 処が世紀が変わると、89年のソ連の崩壊で、世界覇権を完成して終った米国は、ソ連と言う強大な敵が居る事を前提に組み上げて来た体制が目標を見失い、共産主義的な出来もしない計画を実行する一方、経済をゲーム化して考え、金融を仮想化した結果、6京円と言う巨大な負債を発生させてしまいました。 このお金の額が、ヴァーチャル・マネー(空想的なお金)であると言われましたが、世界の金融秩序の維持の為には、米国は応分の責任を取らねばならず、年間200年分のドル紙幣を刷り市場に流し、是を5年間(2010~14)続けた事で、金融不安は解消しました。

 然し、如何に基軸通貨であるとはいえ、千年分のドルが市場に溢れれば、ドルは暴落するのは必定だったのですが、日本は、デフレ退治を後回しにして、最大限の協力「=日本円の増刷をしなかった」をして居ます。

 この判断は、米国のみならず、世界の為になる最善の道とは何かを考えた末の結論でしょう。 その措置を国内で、「アベノミクスの失敗」と囃したてた野党の連中は、実は、ドルの失墜を待って居た共産シナの策謀の片棒を担いだダケであった事が、明らかになりつつ有り、米国保守層の対日警戒派の信用迄無くしてしまったのは、自業自涜と言うものでしょう。米国内の支持を失って、共産シナしか後ろ盾が居なくなったのに、そのシナが、経済破綻を起こして居て、政権壊滅も見えて来たこの頃です。

 我々は、現状をモゥ一度冷静に見渡して、本当の敵を探し、この先憲法改正で、戦前の様な独立自尊の国に戻る為に。準備をしなくてはイケません。 その点を、高島秋保の言う様に、「敵の挑発に乗らず、自分の国力を十分に知った上で、原則平和裏に事を進めるべき」なのです。

縦椅子さま
 今日は「幕末の蘭学者であり砲術家の高島秋帆の詳しい事例をご紹介」戴き有難うございます。ーー
「秋帆は砲術家であるとともに事業家だった。」
「彼は、長崎貿易の脇荷と称する特権が与えられていた。
その特権を行使し、西洋の兵器や外国書の購入にあて」「彼は、古今東西の騒乱を分析した上で」、「2つの方向性を示す『通商和平』なる見解を述べたが、その後、
「この『通商和平』こそが、日本を欧米列強の植民地化から守り、独立と近代化への道を歩ませたのだった。」そして、今では、TPP通商交渉などに日本が中心的な役割を果たす礎を築いたように思います。
―きょうは「日本に訪れるいくつもの危機を救った幕末の開港の判断ー和平通商を構想しえた高島秋帆の見識の丁寧なご紹介有難うございました。ー

江戸末期の世界は、欧米によるアジアの植民地が進んでおり、世界に欧米以外の独立国がほとんどないような状態でした。

この時に欧米の侵略に曝されていない、最後の独立国で会った日本は、良く独立を全うしたと思いますが、決してこれは楽なものではなかったと思います。

徳川幕府と薩長を中心とする維新側は、この時に日本の舵取りに苦労し、結果的に維新側が勝利を得て明治政府を作り上げましたから、江戸幕府は欧米に対処できなかったような印象がありますけれど、「ヨーロッパ、清、インド」の情報収集に努めたことは、世界情勢の把握を間違っておらず、的確な目を持っていましたし、それが日本人全体の世界情勢の知識として共有されたのならば、十分な対処をしたと考えて良いと思います。

さらに、ペリーの来航に対して、「米国側は日本が開国通商に応じないことを承知の上で、このたびの要求を突きつけているとし、米は、日本側との開戦を誘った上で、圧倒的な武力をもって日本を支配下に置くことを目的としていると説いた。」ことは、米国の行動を分析して判断していることは、その後の日本を植民地にされることを防いだと思います。

維新側の行動だけでなく、幕府側の行動もまた優れたものであったからこそ、日本は植民地にされることを避けられたと思います。
この場合、戦後教育においては、幕府側の不適切な行動を批判していることが多いと考えますが、これは欧米から見た場合に、彼等は幕府側の行動によって意図した事柄を行うことができなかったためと、思料することも可能でしょう。

いずれにしても、維新側と幕府側のいずれもが欧米の日本を植民地にするとの目論見に欺かれることなく、日本の独立を維持するために行動したことは間違いないと思います。
維新側と幕府側のいずれにも、現在を生きる日本人は感謝しなければならないと思います。

この時の失敗だと思うのは、朝鮮をロシアの侵略から守るために、清国の属国から独立国に誘導しようとしたことで、この時の日本の防衛線は対馬までに出来なかったことだと思います。

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