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2018年1月15日 (月)

つまり神道は西洋の宗教とは別次元の存在なのである

ーー以下「宮崎正弘ブログ書評」より抜粋編集
 
山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』(ベスト新書)
 
神社をshrineと訳すものがいるが、それは誤訳であろう。
 
というのもshrineは墓地を併設するからなのである。
 
それは日本では「廟」とよばれている。
 
ーー
 
日本の神社(JINJA)には神が祭られているのだが、遺骨はない。
 
神官が亡くなると、仏式の葬儀がおこなわれ、お寺の墓地に埋葬される。
 
そして皇族がたは御陵に埋葬されている。
 
ーー
 
神道を「アニミズム」と定義したのは英国の文化人類学者エドワード・タイラーだった。
 
世界各地のアニミズムについて彼は、「すべての物や自然現象に、霊魂や精神が宿るという思考で、『宗教の初期段階』と定義」した。
 
そして日本の神道に「『遅れた原始宗教』というレッテル」を張ったのだった。
 
ーー
 
ところが、タイラーの「アニミズムが遅れたものだ」という説は学界で否定されてしまった。
 
むしろ、アニミズムは、「すべての物は魂が宿るような振るまいをするという『量子力学』」として認識されるようになっているのだという(p57)。
 
ーー
 
西欧の古都へ出かけると必ず大聖堂と教会があるのだが、その地階はお墓なのである。
 
ーー
 
宗教にはお墓がつきものであることがわかる。
 
ところが、神道には、お墓がない。
 
だから、在日サンマリノ大使のカデロ氏は神道は「宗教ではない」と口にされた。
 
ご自身イタリアに『サンマリノ神社』(祭神は天照大御神)を造営され、しかもイタリア人が日本の神職資格をとって宮司を務める。
 
つまり神道は西洋の宗教とは別次元の存在なのである。
 
ーー
 
イタリアでは三島由紀夫の小説はもちろん政治論文がすべて翻訳されている。
 
カデロ氏の書棚にはミシマの他ムラカミハルキの作品がならぶ。
 
イタリア人の日本理解は深い。
 
だから伊勢サミットのために来日した前首相のレンツォは、伊勢神宮に参拝し、次のように感想を述べた。
 
「このような歴史を持ち、示唆に富む場所で、人間の尊厳を保ちながら、経済成長および社会正義のための諸条件をより力強く構築できることを祈念する」と。
 
ーー
 
また戦後になって、戦前は神道を国家が強制したという言説が流布された。
 
しかし戦前の状況は、民衆が天皇の「おほみたから」であるという、日本古来からの統治(シラス)様式に戻ったに過ぎなかった。
 
西洋の貴族が領民に自分の宗教を強制したようなやり方は取らなかった。
 
というよりも神道は西洋での教義や生活の仕方を定める「宗教」ではなかったことを著者は縷々説明している。
 
いまパワースポットとか、御朱印帳を持ち歩いて、神社をあるいている若い女性が目立つ。
 
本書は、この人たちにも分かりやすく、神道の入門編として読めるはずだ。        

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>>前首相のレンツォは、伊勢神宮に参拝し、次のように感想を述べた。
「このような歴史を持ち、示唆に富む場所で、人間の尊厳を保ちながら、経済成長および社会正義のための諸条件をより力強く構築できることを祈念する」と。
 日本文明への理解度は、米国がマスコミ関係者や軍・政治関係者中心なのに対し、欧州では、政治家の他に芸術家や庶民中心なので、英国かフランスが日本の理解度が高いのか、と思って居ましたが、イタリアでしたか、其れにしても神道まで理解して居るとは、感動モノですね。 そう言えば、競馬で天皇賞に勝ったデムーロ騎手がロイヤルボックスに居られる陛下に、欧州貴族の礼をして、話題になった事がありましたが、結構深い意味があったんだなぁと今更乍に感心して居ます。

 私個人は崇教真光の組み手ですが、同時に仏教徒でもあります。 元々家の宗教は母方は浄土真宗ですが、父方の祖父が熱心なキリスト教徒なので、当然ながら、長男の長男である私も、幼児洗礼を受けて居ますし、幼少時から、双方の話を色々聞かされて育ちました。 ですから、目に見えないモノの存在は当然であると早くから確信して居ました。

 其れに加えて、母が某弱だったのと満州で亡くなった祖母の影響で、宗教に寛容で、創価学会、PL教団、物見の塔と、勧められるままに、入団、入信を続けたので、私は母の話について行くのに、色々な宗教を勉強する事になりました。

 処が私は山口県にある全寮の商船学校に行く事になり家を離れ、そして、卒業後は直ぐ神戸に就職して以来18年位家に帰れなかった事もあって、特定の団体には入って居ませんでした。 

 一方母と一緒に暮らす時間が長かった姉や弟は、其々、PL教団と物見の塔に入って活動して居ますので、兄弟3人で、皆違う宗教を持って居る事態になって終い、双方のご先祖様から叱られそうな気がして居ます。ww

>>神道は宗教では無い
  大体、英語のreligionに該当する日本の言葉が無かった為に、「宗教」と言う言葉を訳者が創作したと聞いて居ます。 私の解釈では、厳密な意味で宗教と言えるのは、「砂漠の一神教」と呼ばれる、ユダヤ・キリスト・ムスリムの三宗教でしかなく、他の多神教は原理的に宗教では無いと区別して居ます。

 就中神道は、神が創り給うた宇宙、地球、そして、自然の造物には、全て神霊が宿るモノとして居るとして居る処から敷衍して、我々は、造物主と一体化した存在なのだと、崇教では教えて居ます。 造物主足る大神は、この世を天国化して、生物の楽園にする御経綸(計画)を立てて、その使徒足らしめる為に、霊長類の一種に過ぎなかった現生人類に叡智を与え、造物主も試行錯誤を繰り返しながら、人類を此処までに育て上げたと教えます。

 真光のよい処は、天皇家をスメラミコトの継承=皇統の拠り所として、最大の敬意を以て遇している事でしょう。 その所為か、ニュースでは流れない両陛下のご行幸や皇太子殿下のご訪問等の出迎え等、崇教真光の組み手の動員が懸る事もしばしばです。 皇居の清掃などもご奉仕させていただいて居る様です。 因みに、安倍首相、故町村大臣、下村大臣、石原伸晃大臣・・は、熱心な組み手(信者)です。 まぁ、人気が必要な政治家が、特定教団の信者と言うのは宛てにならないのは常識で、民主党政権時の鳩山や仙谷も、信者として名を連ねて居た位ですからね、案の定、民主党政権崩壊後一回も姿を看て居ませんwww

 私としては、日本の神道・皇室は、世界に誇るべき日本の宝であると思って居ます。 現在、崇教真光は主に、南米、アフリカそしえ欧州方面で、急速に拡大中です。 更なる世界への拡散を祈念して、世界に神の大御意(こころ)を知らしめ、以て、世界平和・人類共存を実現させたいですね

>神官が亡くなると、仏式の葬儀がおこなわれ、お寺の墓地に埋葬される。

これが、全てではないと思います。
以前、元神官の方の葬儀に出席したことがありますが、神式の葬儀で神主が祝詞をあげた後に、玉串(真榊)を奉奠したことがありました。

埋葬先は聞いていません。


>だから、在日サンマリノ大使のカデロ氏は神道は「宗教ではない」と口にされた。

亡くなった、私の祖母は言っていました。
「かみさんはかみさん。
ほとけさんは、ほとけさん。」
因みに、我が家のお墓は仏教です。

仏教の方で、お寺でお経を拝むときに唱えるだけでなく読んでみますと、「信じろ、信じないと仏罰が当たるぞ。」と書いてあります。
神社さんでは、「お祈りしましょう」と言われるだけで、「お祈りしなければ、罰が当たるぞ」とは言われないので、そこに差を感じます。

天皇は国と国民の安寧をお祈りし、国民も天皇家と自らの安寧をお祈りすれば良いと思います。

そこに強制という言葉は相応しくありません。神道とはお祈りすることだと思います。

縦椅子さま

 今日1月15日は小正月であり、小豆粥を食べる日でもあります。また多くの神社では、どんど祭が行われ、お正月に用いた正月飾りがもやされ、この一年間の無病息災が祈られます。
 我が家では、暮の30日にしめ縄を玄関の上の方に、神社暦を参照して、飾りつけますが、そこに飾ってある稲穂が一瞬にして、鳥に狙われてしまい、玄関にはもみ殻が、散らばっているのですが、掃くこともなく、おしょうがつがやってきます。実家では、
一番上の階の上のほうに、東向きに神棚が二つあり、榊を対に
して並べ、三方にお餅を、またお神酒をお供えし、清浄の中でお正月が迎えられる準備をします。31日に除夜の鐘を聴いて行く年に別れを告げると、神様の出番です。子供のころは、元旦のあさは、歯を磨いたらすぐに、神棚へ直行するのが習わしでした。それからいただく、お雑煮のおいしいこと!最高でした!
 今年の元旦はうれしいことに、家族揃って、近くの氏神様に歩いて参拝いたしました。人出が多く、神殿まで長い行列ができており、みなさん着物を着たりして、華やかな、輝かしい新年を迎える明るい顔をされています。「ほんとうに、いい年になりますように!」と心からお祈りいたしました。---
 まつりの仕方として以下のように「神社暦」に書いてありますーーー
 「深く厚い神恩を拝謝し奉り、今の有様を奉告し今後いよいよ努力勉励して神意にそい奉ることを祈誓してその日の意義を明らかにすると共に、神の御前に互いにむつみ楽しみ、その守護のもとに更に力強く正しい生活を営むようにする。」と・・・

ところで、今日は脚立をたてて、「しめ縄」をはずしました。いまから、小豆をゆがいてみようとおもいます。

>ポッポさん
>>神社さんでは、「お祈りしましょう」と言われるだけで、「お祈りしなければ、罰が当たるぞ」とは言われない
 本来の原始仏教では、「神の存在なんて私は知らない」と釈尊が言って居るので、神道の方の姿が釈尊の立場により近い、と言う矛盾があります。

 是は釈尊は説法は沢山しましたが、書物を一切遺さなかったので、弟子が「何故ですか?」と問うと、「私の言葉の内容は、聴いたものの解釈自由で良い」とお答えになったからだと思います。 

 私はこの話を聞いた時に、何か割り切れないモノを感じて居ましたが、後世になって看れば、どんな宗教でも創始者が聴いたと言う神の声は、伝聞から神に書かれましたが、伝聞する時に、亦、翻訳する時に、色々な付加や改竄を受けて、創始者が伝えた本質すら、変わって終って居るものが多く在る事を知り腑に落ちました。

 釈尊は、其れを見通して居たのだと思います。ダカラ、戒律だの罰だのを人間に与える神は、人間だけの神だと言えるわけです。 本当の神なら、人類も生物も等しく自分が手掛けた作品で、相互の働きを通して自然がでバランスが取れる様にして居るのですから、人類だけ貴い等、あるわけが無い。

 人間の不埒な行いで傷ついたり迷惑を蒙るのは、他の生き物、殊に同じ人間でしょう。 然し神様は、痛くも痒くもない。 もし本気で罰するとすれば、直様、永遠に消して終うでしょう。 罰が当たったと感じれる様な罰は、本当の罰では無く、戒めだと取るべきでしょう。つまり神様のご愛情です。 

 とはいえ、この地球を神様以外で、良きにつけ悪しきにつけ、変えていく力を持つのは、人類しかいないので、神様は期待をされているのかもしれませんがね。

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