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2018年1月30日 (火)

論語の眞髓は、全く日本に傳はつて、支那には、其の實が洵(まこと)に乏しい

ーー以下「宮崎正弘ブログ樋泉克夫のコラム」より抜粋編集

田中克彦『言語学者が語る漢字文明論』(講談社学術文庫 2017年)

漢族社会の周辺では、「漢字を使ったら最後、自らの言語がのみ込まれ、失われてしまう」ということが知られていた。

それが「突厥文字、契丹文字、女真文字、西夏文字など」が作られた理由なのである。

しかしやがて「漢字のおそろしい力」によって、突厥、契丹、女真、西夏などの民族は「その後姿を消してしまった」のだった。

ーー

「漢字を使ったら最後、徹底的な訓読みを維持しつづけでもしないかぎり、自らの言語は消えてしまい」、やがては「民族の消失につながる」と、著者は主張する。

ーー

朝鮮人は半島から漢字を一掃した。

しかし儒教文化を骨絡みに受け入れ現在でも励行している。

つまり、喩えようもなく間の抜けた夜郎自大的民族と言っておきたい。

ーー

著者は1974年に日本の訪支団に鄧小平が語った言葉を紹介している。

訪支団が支那側に、かつて日本が支那に加えた蛮行をわびた。

すると鄧小平氏は、「支那もまた日本に迷惑をかけた。一つは『孔孟の道』を伝えたことであり、二つ目は『漢字の幣』を与えたことだ」と応じたと。

ここに記された「幣」は弊害の「弊」の誤植だろう。

ーー

日本人を眩惑し、日本人をして支那と支那人に対する過度の拝跪・重視、その裏返しの侮蔑・軽視(共に見当違い)させた主因は、「孔孟の道」と「漢字の弊」だったと(評者も)確信する。

その辺りの事情は川田鐵彌が『支那風韻記』(大倉書房 大正元年)で、

「論語の眞髓は、全く日本に傳はつて、支那には、其の實が洵(まこと)に乏しい」

「書物など讀むにも、用心して之を見ないと」「支那人の書いた書物に、讀まれて仕舞ふようになる」

「元來正直な日本人など」「日本化された漢學で、直に支那を」誤解してしてしまう。

「四書を始めとして、何れの書も、意味をアベコベにとると、支那人の性情が、自(おのずか)ら分る」と説いている。

その通りである。

ーー

漢字は、言葉が本来的に持つオトという最重要の働きを抜きにしてイミのみを伝えてしまう。

漢字が玄界灘を越え、『論語』『孟子』『中庸』などが日本に持ち込まれた。

やがて「日本化された漢學」が生まれ、それによって「支那を誤解」してしまい修正されないままに現在に立ち至っている。

ーー

また著者は「漢字は日本人の頭から聴覚映像を消し去ってしまった」罪深い文字でもあるとも説く。

音を伴わないから、頭の中に音の像を描けないのだ。

ーー

著者の考えに賛意を表しつつ、半世紀余の支那語との付き合いから(評者も)2,3の感想を示してみる。

1、支那語は自己省察には著しく不便であるが、弁解とヘリクツには最適であるゆえに、政治的言語として絶品である。

2、表現が大袈裟になるので、大言壮語が日常的となる。

3、漢字からは音が見えないので、脳内に音の映像を結ぶことが困難である。

ゆえに、支那語では、瑞々しく細やかな感情の表現は全くできないのだ。

ーー

やはり日本語は日本人のもつ細やかな感情を表現するのに最適な言語であり、それを失えば日本人ではなくなってしまうということだ。

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>縦椅子さま 本日も未明から、更新有難うございます。
>>漢字の力
 漢字は表意文字なので、意を伝えるのに音を必要としない、と言う特徴があり、故に、民族混淆状態にある現代シナの「10㎞進むと音場が通じない」状況ににあっても、書いた物ダケで、意が通じる、つまり、公文書や命令書が有効になるが故に、治国が可能になっているのでしょう。 然し、シナ文明の戦火に塗れた歴史を追って考えて行けば、現代の支配者である共産党が言う「97.5%が、漢民族である」と言う主張は在り得ないし、「漢民族」自体が、プロパガンダに過ぎないのは、明らかである。 すると、現代のシナ民族の紐帯となっている漢字にも、疑義が生じるのは当然でしょう。

 漢字と言うものが、本当に漢民族が発明したモノなら、紀元前25世紀以前にも、その痕跡が無ければならないが、今の処発見されているのは、BC30世紀~20世紀の新石器文化に分類される竜山文化(黒陶文化BC1300)に出て来る甲骨文字位であるから、寧ろ、起源をBC14000年前に迄遡る長江文明中、BC3500~2200に栄え、洪水で滅んだ良渚遺跡から出た無数の竹簡に書かれている文字に求める方が史実に近いのでは無いだろか。つまり、漢字は12000年にも亘って栄えた長江文明の中で、育まれたモノで、米作文化である良渚文化で多用されて居たと看るべきではないか。ダカラ、漢字は、黄帝の指南車と同じく長江文明からの剽窃であると私は思う。

 良渚遺跡からのす数千個の竹簡は、前世紀80年代に発見されたが、爾来「解読中」の事で、内容は明らかにされて居ません。 勿論、現代のシナ文明に取って、不都合な点=現代シナの文明は、漢字を含めて、全て他文明からの剽窃である、と言う点が明らかになった為ではないかと思う。

 そして、長江文明の末裔である江南に栄えた、楚、呉、越の民はBC25世紀に、北辺の遊牧民の南下・南侵(拓鹿の戦い)に拠って、故地を追われて、その文明と共に四散した。

 然し、長江文明と列島とは古くから交流があった様で、長江民を構成する2つの民族の裡、南蛮族(苗族)は、焼畑農業を専らとする山の民だが、漁労海産と水田耕作を生業とする東夷族(越)は、同時に、交易も熟す海洋民(越紳)で、拓鹿の戦い後、日本に戦争難民として入植、国人と呼ばれる豪族となり、日本海側の越三国の祖となったと言われて居ます。

 東夷族のルーツは、現在の東南アジアに氷期中陸地として存在した、スンダ・ランドで、そこから海流に乗って北上して来た民族と考えられています。 氷期の晩期に当たる13000年前(BC110世紀)から、氷期が明けた10000年前(BC80世紀)の3千年の間に海退現象によって大きな内海であった東シナ海沿岸に棲みつきましたが、陸側からは長江が流れ込み、動植物プランクトンが豊富で漁労海産には適した土地でした。河姆渡文化(BC5000~4500)、馬家浜文化(BC5000~4000)はその名残でしょう。

 同じくスンダ・ランドの山側には南蛮族と分類される民族が現在の四川省の長江上流域に到達、長江伝いに下って、中流域で陸稲から水稲を開始して、玉蟾岩遺跡(BC14000~12000 )彭頭山文化(BC7500~6100) 大渓文化(BC5000~3000)亦、太湖周辺に、屈家嶺文化(BC3000~2600)石家河文化(BC2500~2000)と言った独自の文明を築いて居ました。 

 長江を通じて南蛮族との交流が始まると、沿岸の低湿地地帯が水田耕作をするのに適して居たので、やがて混淆して双方の協力で大規模な水田耕作を開始し、崧沢文化 (BC3900~3200)、そして、大規模な都市文化を造った良渚文化(BC3500~2200)が次々に誕生、黄河文明に支配を委ねた後も、太湖周辺に呉城文化(BC1400~1000)を遺し、これ等の文化を総称して後世長江文明と呼ばれる事になりました。

 漢字が他の文明の文字や文化を根絶やしにした、と有りますが、文化は表現量をより熟せるツールを取捨選択して栄えるモノであると考えれば、良渚文化が成立する迄に、長江文明で、既に多くの文化・文明の伝達手段として、漢字はその表意文字としての力を存分に発達させて居たであろうから、他の文化の文字が、表音なら当然、表意文字も駆逐されたのは仕方がない。

 日本は海人族を通じて、BC5000前の河姆渡文化や馬家浜文化を造った東夷族と交流があったと思われますが、日本文明の歴史の開闢は3万5千年以上前ですし、列島に棲む人々の中には、同族もかなりいたので侵略する理由が無く、亦、交流は文字を使ったレベルまで進んで居たかもしれません。するとその中で、日本の古代文字が、淘汰される文字の中に入って居た事も考えられます。

 まぁ、日本への漢字渡来は、公式にはAC550年であると、このブログでも疑義付きで紹介されて居ますがね。

>漢族社会の周辺では、「漢字を使ったら最後、自らの言語がのみ込まれ、失われてしまう」ということが知られていた。

大陸の民族は、自民族の文字を持っていたものが感じを導入することで自民族の文字を失い、やがては民族自体も失うとのことですが、支那の中原を制したからとそこに都を移したために、民族の勢力が衰えたときにその民族の元の居住地へ戻る時機を逸して、戻ることができず、次期政権が易姓革命を起こすことで、前政権は滅亡させられるとのことだと思います。

衰退する政権が、うまく逃げ出したのはモンゴルの元位だと思いますが、その後の支那の政権は、モンゴルも支那の勢力下にあると考えています。

文字について、易姓革命を起こした民族の政権は、その前の政権の文字を否定して、新たな文字を作ることで政権を裏付けている気がします。
このことから、支那では使われなくなった文字が、今の日本に残っている現状もあるように思います。
例えば、「國」という漢字は、明の頃は使われていましたが、その後の支那では使われなくなったと記憶しています。

そう考えますと、現在の中共においても簡体文字が作られて使われていますが、日本にとっての漢字は簡体文字が作られるまでの文字が漢字として扱われており、簡体文字は漢字として扱われているような気がしません。
これは、台湾でも同じだと思います。

現在の中共に文化的なものを感じないのは、簡体文字がそれまでの文字を簡素にしたものにしか見えないことで、文化的な香りを失っているからでしょう。


これに較べますと、朝鮮のハングルは元が朝鮮王が臣民に読める文字を与えるために作ったと思うのですが、当時の支那から文字は漢字と示されていたために、ハングルは「文字」ではなく「絵」との説明をしていたとのことを見た覚えがあります。


日本には漢字の伝わる以前から神代文字がありましたから、それが進化しても良かったと思いますが、文明の進み方が早ければ、表音文字よりも表意文字の方が使いやすかったと思います。

それに、日本人らしいと思うのは、漢字文化をそのまま受け入れるのではなく、表意文字として「ひらがな」や「カタカナ」を作り、これを漢字と組み合わせることで、文字文化を進めただけでなく、支那の漢字文明は基本的に「単漢字」の連なりであるものを「熟語」として、漢字を組み合わせることで文字文化をより進歩させたと思います。

支那では、日本に漢字を教えたと思っていますが、この漢字を進化させて熟語にしたのは日本で有り、この熟語を支那・朝鮮は何の疑問を持つことなく、国名にまで使っていると思います。

漢字辞書を見ると音読みは、必ず呉音と書かれている。
しかも始皇帝が、文字や、度量衡の基準を全土に短期間のうちにいきわたらせた。
始皇帝の父親は、ロフイと言うユダヤ人と言われている。
漢字で書くと呂不葦と書くが読みはチャイナでどう読むのか?
恐らく日本の呉音と違うはずである。
日本の場合、音読みの呉音でロフイである。
日本語で読む音は、ヘブライ語に転換出来るのである。
漢字は、始皇帝の時代に旧約聖書に基づいて作られたと言う説がある。
なるほど、あてはまるののである。
例えば、義は、我は羊なりとなるそうです。
キリストと言いたいが、時代が、合わない。神に準じる何かであろう。
秦氏の秦は、三人の木と書く、三位三体か生命の樹を表しているともいえる。
アークである聖櫃の櫃は、木で作られた貴い箱として意味が通る。
かようにチャイナでは、分からない事が、日本語だと読み解ける様になっている。
日本と呉の関係は、どのようなものだったのかはっきりした事は、解らない。
なんでも徐福は呉の出身だと言われているが、始皇帝の苗字と同じヱイ氏なのである。(漢字は難しい字で有る)
徐福は、日本に来たって土着民(縄文人)と混血して物部氏となったと言われている。
徐福は、ヨセフと言うらしい。
全てヘブライに通じてくるのである。
神道の正式で本物の祝詞は、ヘブライ語ではないかと言われている
だから現代の一般の日本人には、何を言っているのか解らない。
今使われているイスラエルの言語と違う本物のヘブライ語である。
日本の深部の秘密は、そう言うところにあるのではないか。
アメリカ似非ユダヤは、終戦時直ぐに仁徳陵を発掘している。
似非ユダヤは、日本人が、ヘブライの末裔であることに気付いている。
だからどうしても消滅させたい存在なのであるが、現在に至っては、DNAなど科科学的手法で日本人が、特亜と違う民族であることもはっきりしてきている。
むしろ中東に近いDNAを示しているのである。
いうなれば、徐福は、倭人であるともいえる。漢字は倭人が作り、江戸末期に漢字を駆使して蘭学の翻訳に寄与する熟語を作り替えた。
それがのちの西洋文明の翻訳に画期的役割を果たしている。
清朝も西欧に行くより同じ漢字を使う日本へ留学して日本製漢字を持ち帰り現代のチャイナに寄与している。


>ポッポさん
>>表意文字として「ひらがな」や「カタカナ」を作り
 細かい話で恐縮ですが、ひら仮名は、商務帝の光明皇后作と伝えがありますが、カタカナは、神代文字からの進化形だと言われて居ます。 

 どの途、日本には漢字が入ってくる以前から、既に広く流通していた表音文字がありましたが、様々な事象を細かく後世に伝えるのには、表音文字のみでは、不便を感じて居た処へ、紀元前12世紀頃、長江文明との交易で漢字を知りましたが、庶民層迄広めるには難解過ぎ、亦、広める必要がある程纏まった国はなかったので、専ら、公文書の専用語として限られた場所で、用いられていました。

 是は私の勝手な推測ですが、その後25世紀余りが経過して、仏教が国教となっていた8世紀の天平のみ代に、聖武帝による大仏建立の計画が発願され(740年)、庶民の浄財を集める必要が生じ(推定総工費4657億円)、帝の意を庶民にまで知らしめる為に、光明皇后が平仮名を考案し、帝の意を天下に広め且つ庶民も大仏建立に一灯を捧げる「=寄付をする」の原動力にしたと私は推測します。

 大仏は745年着工、752年に完成し、開眼式を多くの海外からの(遠くはインド)出席者を交えて執り行われました。驚くのは、遠くインド迄、極東の小国日本が仏教を奉じる国であり、巨大な大仏を建立したと言う話が、僅か発願から12年の裡に、遠くインド迄伝わり、オソラク仏教関係者が遥々、海を越えて日本迄来て、そして、帰って行ったと言う史実でしょう。 我々の想像を遥かに超えた海外との交流がその当時からあったと言う事ですね。

 つくづく凄い国なんですね日本は。

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