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2018年1月21日 (日)

文字という概念がなければ、ひらがなもカタカナもできなかった

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

『古事記』については、原本は現存せず、幾つかの写本が伝わるだけだ。

成立年代は、写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日(ユリウス暦712年3月9日))により、8世紀初めに措定される。

序文で天武天皇が、「撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉」

帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ

ーーと詔(みことのり)したと記載がある。

中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変(いっしのへん))に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。

この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。

『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない。

ーー

天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため記紀編纂の余裕はなかった。

その時点で既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実がない交ぜられていた。

壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる国史の編纂を命じた。

まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に古事記が編纂された。

ーー

成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。

一般的に「誦習」は「暗誦」することと考えられているが、荻原浅男(小学館日本古典文学全集)は「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読する意に解すべきであろう」という。

ーーここまでwikipediaより抜粋。

古事記の時代、日本各地で、異なる文字が使われているという状況があり、一方に外国の侵略を受けるかもしれないという国際情勢があった。

このような時にどうすればよいのか。

まず国論を統一する必要があったことは申し上げるまでもないでしょう。

ーー

つまり、日本各地で文字が違っていたのでは、天皇の詔(みことのり)が隅々まで伝わらない。

それで、当時すでに国内で広く使われていた漢字を、この際、日本語を表記する共通文字として使おうということになった。

日本語の音を表記する文字としての漢字は、こうして時代とともに万葉仮名となり、それらの草書体から、ひらかなが生まれたのです。

ーー

カタカナも漢字から派生したとされていますが、それには無理があるので、おそらく神代文字から採られたもので有りましょう。

つまり、もともと文字という概念がなければ、ひらがなもカタカナもできなかったのです。

ーー

そして日本に、漢字渡来以前に、すでに高度な文字文化が栄えていた事実も、これによって裏付けることができます。

神代文字は、縄文時代の土器や、弥生時代の石版や、銅鏡、銅矛にも、たくさん見出すことができます。

いまは、それらが「意味不明のただの模様」として扱われていますが、神代文字である可能性が高いのです。

ーー

天武天皇の詔(みことのり)が発せられたのは西暦681年のことであったと、これは日本書紀にあり、特定が可能です。

そしてこの詔には、重大な事実の指摘があります。

ーー

「古事記の前に、諸家ごとに、さまざまな史書が伝えられていた」という指摘です。

このことは、実は「古事記以前に書かれた史書があった」というだけにとどまりません。

古事記以前に書かれていた史書が、諸家ごとに、それぞれの地に古くから伝わる文字で書かれていた可能性を示唆するからです。

ーー

一般に、上代の人々には文字がなく、人々は口伝で歴史を伝えたとされています。

漢字が伝わったのは、仏教伝来と同じく、西暦552年のことであったといいます。

だから、「それまで日本には文字がなかった」「カタカナやひらがなは、漢字を変形させて作ったのだ」といわれています。

もしそうであったなら何音でも作れるはずです。

ところが、「日本語は「ア」から「ン」までの48音」なのです。

ーー

実は48音というのは、濁音や半濁音や拗音、破裂音、摩擦音、鼻音、はじき音を無視した分類なのです。

これは48音が、発音とは別の用途があったことを示唆します。

それは祈りでありましょう。

つまり、一音一音を神としていたと考えられるのです。

そのことは、秀真(ほつま)文字で書かれた「ホツマツタヱ」に記されています。

ーー

漢字は、象形化された記号の組み合わせによって成り立っている文字です。

ということは漢字が生まれる以前に、「イ」なら人を表し、「尹」は手にムチを持っている姿という記号が先に生まれ、普及していなければならないはずです。

このように考えれば、漢字以前に、一音で何らかの意味を表す記号を文字として扱う文化が、先に生まれていなければならない。

ーー

そしてそれこそが、日本に残る神代文字なのではないかと思います。

ーー

それに「西暦552年の漢字渡来まで、日本には文字がなかった」という説はもともと成り立たないのです。

なぜなら、日本に文字を扱う文化がなかったのなら、日本に「金印」が贈られることなどありえないからです。

「漢委奴国王」と記された金印は、江戸時代に福岡県の志賀島で発見されました。

この金印については支那の史書「後漢書」に、「西暦57年にやって来た倭の奴国の使者に、漢の皇帝が授けた」との記載があるのです。

ーー

漢字渡来とされる年より、500年近くも前の出来事です。

みなさまよくご存知の『魏志倭人伝』にも、魏の皇帝が「親魏倭王」と記した金印と、銅鏡100枚を倭国に贈ったと記載されています。

魏が成立したのは西暦220年、滅亡が265年、つまり3世紀の出来事です。

ということは、魏から日本に金印が贈られたのは、3世紀の出来事ということになります。

(いまでは支那の史書は全く信用できませんが)

ーー

そして「印」が文書に押印するためのものであることを考えれば、つまり、1〜2世紀の日本で、文書というものが存在しなければ、漢の皇帝も、魏の皇帝も、日本に「金印」を贈ることなどありえないのです。

ーー

とりわけ支那において、金印というのは特別な意味を持っています。

支那の印には、玉印、金印、銀印、銅印の区分があります。

玉印は、象牙でできた印であり、これは支那皇帝だけが用いるものです。

金印、銀印、銅印は、支那の皇帝が下賜する印です。

金印は、一等国、それは支那と対等もしくはそれに近い国力を持った国です。

銀印は、二等国で、支那皇帝の傘下にある国力のある国です。

銅印は、三等国、支那傘下の地方長官が支配する程度の国です。

ーー

漢や魏が、倭国には文字がないと認識していたなら、日本には、良くて泥印しか与えられなかったことでしょう。

そもそも日本に文字がなかったのなら、そもそも印を授ける理由さえありません。

つまり金印が贈られたということは、支那にとって、日本が文字文化を持つ、支那と対等な国力を持った国であると認識されていたということです。

ーー

因みに朝鮮半島に下賜されたのは、銅印だけでした。

ーー

つまり、歴代の支那王朝からみて、歴史を通じて朝鮮半島は、常に日本よりも劣る国とみなされていたということです。

文化レベルの低い国とみなされていた。

文化レベルの低い国が、はるか高みにある国に向けて「文字を教えてやった」とか、ありえないことです。

ーー

ちなみに、古代においては、朝鮮半島の南半分は倭国の領土です。

つまり倭国と支那は、陸続きでした。

陸続きであるということは、侵略の危険と常に隣り合わせにある、ということです。

だからこそ、贈り物をし国交を保ち、敵対したり侵略されたりすることがないように、倭国は支那に気をつかっていたのです。

そして支那もまた、倭国と敵対することがないよう、金印を贈って倭国を懐柔していた。

ーー

つまり、金印授与は、対等な関係の証であり、当時の支那にとって、倭国は「征服征圧するより、国交を持ったほうが得である」と認識されていた。

ーー

魏志倭人伝の「魏」は、みなさま大好きな『三国志』に出てくる「魏・蜀・呉」の「魏」です。

その「魏」には、有名な曹操がいました。

三国志は、魏の曹操を、憎らしいほど強い奴として描いています。

つまり、それほどまでに、曹操の軍は強かったのです。

それには理由があった。

ーー

魏軍が鉄製の剣や楯を用いていた。

孫権の呉や、劉備玄徳の蜀は、青銅器製の武器です。

青銅器の剣と、鉄製の剣でが戦えば、圧倒的に鉄製が勝つのです。

ーー

なぜ魏だけが鉄製の武器を持っていたのか。

魏は倭国から鉄を輸入して使っていたのです。

倭国は砂鉄を熱して農機具を作っていた。

これを行なうには、高温をあやつる高い技術が必要です。

そして高い技術は古来、日本のお家芸です。

倭国は、鉄を生活用品に用いましたが、魏は、倭国から輸入した鉄で武器をつくり、戦争に勝利したのです。

ーー

魏が倭を攻めなかったのは、自分では鉄を作れなかったからであることがわかります。

「ならば、征服するより、対等な相手として付き合うほうが良い」と。

だから金印を贈ったのです。

ーー

この時代の朝鮮半島に倭人以外で棲息していたのは、濊(わい)族です。

濊というのは、臭くて汚ない、つまり文化程度の低い種族という意味です。

なぜなら濊は、糞尿を意味する汚穢(おわい)の濊であり、しかもそれがサンズイです。

どれだけ汚くて臭かったかということです。

ーー

そんな濊族が、日本に文字を伝えたということほどおかしなことはないのです。

金印を贈る相手に、「文字がなかった」と考えるほうが、明らかに不自然です。

そうではなく、独自の文字を操る文化があったから金印が贈られたのです。

ーー

そして独自の文字があったからこそ、漢字渡来後も日本の文字は48個なのです。

ーー

それが「神代文字」です。

伊勢神宮には、稗田阿礼や菅原道真、あるいは源義経などが、まさにその神代文字で奉納した弊が残っています。

さらにもっと身近に、少し古い神社に行ってお守札をいただくと、その中の紙片に、まさに神代文字が書かれています。

神代文字は、実際にあったし、いまなお使われている文字なのです。

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コメント

>籐椅子さん、今日も更新有難うございます。
 日本には、漢字伝承(550年)以前から文字が有り、民間まで普及していた、と考えるのが、客観的な視点で見た日本史であると私も思います。 表音文字は、この1万年に栄えた何処の古代文明で発見されても驚きに値しませんが、表意文字となると例が少ないですよね。 ですから、漢字と言う発達した表意文字とカナを組み合わせて使えば、話し言葉を記録できる=農業技術や造船技術等の技術の伝承がスムーズになり、苦労して居た表音文字での表記の解読作業が必要なくなった、と考えるべきだと思います。

 ねずさんは、この「日本の先漢字文化の実在の類証を下記の志賀島の金印(57年)を例に挙げておられます。
>>そして「印」が文書に押印するためのものであることを考えれば、つまり、1〜2世紀の日本で、文書というものが存在しなければ、漢の皇帝も、魏の皇帝も、日本に「金印」を贈ることなどありえない
 是は、至極客観的な見方でしょう。 そして、「では、何故、日本の地方の国(倭の奴の国王)に、シナ王朝と同格を意味する金印を送ったのか、と言う疑問には
>>倭国は、鉄を生活用品に用いましたが、魏は、倭国から輸入した鉄で武器をつくり、戦争に勝利したのです
 つまり三国間で覇権を争って居た魏国(曹氏)は、鉄の輸入を独占した事で、其れまで青銅器の戦いであった三国の戦いに勝利したのですから、鉄製品の産出や鉄貿易を維持する意味でも、日本を大事にする事は必須だったと思います。 では何故、漢字伝来は550年なのでしょうか

 その辺りは、シナ王朝がその後、晋(司馬氏)王朝から、五胡十六国と言う混乱期に入り、鉄の需要が増して来て、シナ東北部(安山や撫順)で取れる鉄を原料に、騎馬民族が鉄器を武器にし始めた事も関連していると思います。 即ち、日本に漢字を伝えたつもりだったのは、漢民族の漢字文化を剽窃したダケの遊牧民国家だったと言う推測です。是は、伝えた王朝が遊牧民の王朝だった為に、他に伝えるべき文化が無く、「漢字を只伝えたダケ」と言う点としての記録しかないのが、何よりの証拠でしょう。

 私は、日本への漢字渡来は、もっとずっと前の事で、其れこそ、長江文明の呉越像では無かったか、と疑って居ます。 すると少なくとも、紀元前20世紀の長江文明の滅亡期前後と言う事になり、その後を継いだ黄河文明と日本文明は、密接な関係にあって当たり前、そして、呉越からの逃亡民=長江王朝の中枢部は日本に来ているのですから、日本の方が本家と言う事になるでしょうね。

 ですが、日本には既に文字が有り、複雑な形の縄文土器や鉄を精錬する技術も有ったし、武力でも有力な勢力を持った人々が居たから、その後日本が長江化したかと言えば、水耕稲作が盛んになった位で、長江文明の様な戦争に明け暮れる様な事は起こって居ません。 然し、時間を経る裡に、地方にやがて国人と呼ばれる豪族が発生して、此の豪族がやがて国を成し、倭国を大乱に陥れます。

 我々の祖先は、大乱を原因として各地で起こった悲惨な現状から、戦乱が小康化した時期を捕らえて、是以上の戦乱を繰り返さない事と、更なる外敵の侵入を防ぐ意味で、三族の和=大和の結成を齎し、和の象徴として、三族共通の神を斎祀るスメラミコトを立てる事になったと思います。 この、大和(ヤマト)の儀式が行われたのが、今より2,678年前の2月11日だと思うのです。 つまり文字通り2678年は、皇紀=スメラミコトの歴史であり、日本と言う国が皇国として、経て来た年数だと思います。

縦椅子さま

「独自の文字を操る文化があったから金印が贈られたのです。」
ーー
「そして独自の文字があったからこそ、漢字渡来後も日本の文字は48個なのです。」ーーそれが「神代文字」です。
「ホツマ 古代日本人の知恵 松本善之助(溪声社)--に
日本語の起源として、「日本人が日本語を発明し使いだしたのは、日本列島ができ、そこに日本人の先祖が住み着いてからだと言って間違いない。縄文前期に当る竪穴住居時代の四千年前か、土器や弓矢を使った七千年前か、いや、細石器を作った
一万二千年前かもしれない。いやいや、日本最古の尖頭器が発見されている十萬年前からあったとしなければならないだろう。そうなると、日本語の発生は、縄文時代どころの騒ぎではなくなる。」--
 「ところで、コトバという語が純粋日本語であることはだれでも知っているはずだ。しかし、このコトバという語の意味は、その語源はとたずねられると、だれでも首をかしげるだろう。そこで、辞書に教えを乞うてみよう。--
 「コトは『事』でいいと考える。しかし、ハは『真』だったと私は信ずる。『真』とは、ホツマツタエのマで、バに音韻変化したのである。-コトバの原形がホトマに違いないとする私の確信は、コトバの語源となるにふさわしい理由があるからである。つまり、コトマのマは『マコト』、今のコトバに直せば『真理』という意味をもっている。念のために説明すれば、ホツマというのは、ホはすぐれた意、したがって『すぐれた真理』ということになる。この例にならえば、コトマ→コトバとは『物事の真理』ということになる」--と書いてあります。
今日のブログも最高に素晴らしいブログだとおもいます。本当に有難うございます!

日本の物持ちの良さは、定評のあるところでありまして、曽我蝦夷が、家に火を点けて書庫を全焼させたと有ります。書紀に出てくる一書に曰くの下りは、別の記録を想起させるもので、皇室の存在意義は、昔から三種の神器を現代に至まで保ってきている。
この三種の神器と聖櫃が、人類の秘宝と言えるものでしょう。
従って物持ちの良い日本で失われたであろう書物も現存する可能性は、失われていません。
なんでも鑑定団を見ていると本当に感心する程掘り出し物が出てくるのに驚きます。
今度の皇室譲位問題で、京都御所の存在が浮かび上がってきました。
京都人は、「天皇さんは、一時期東京に貸しているだけや」と聞いた事が有りますが、次期天皇から京都に戻る可能性があります。
京都には、留守役の様に冷泉家が、存在しますが、その冷泉家に開かずの蔵が3棟程有るようでしてその中に古代の書物が、有るのではないかとも言われています。
何れの日か日本の皇室の歴史が、明かされるj時期が来ると思います。
そうでないと日本人は、何者かは、解らないままです。
DNAや、出土品から探ろうとしても特亜と違うと言う事が解るだけで本質的な大和人が、不明の儘です。
つまり天皇の歴史と大和人は、一体のも出あるから皇室が明かさない限り謎です。
貴いからと言って古い日本の歴史の初期があいまいでは、納得が行きません。
皇室が守る物は、三種の神器と聖櫃です。
天皇印の国璽の璽は、聖櫃(アーク)を表していると言われています。
何処かにそこはかとなく素性を見せているんですね。
神社にもそこはかとなく具体的に見せてます。
其の為に今日までがある訳で、一時は、権力を行使する時期も有りましたが、武家社会からは、権威と祭司だけで表に出なくなりました。
武家時代の天皇は、足利時代から北朝でしたが、明治維新で南朝の本流に戻ったとされています。
京都に居ると面が割れていますから東京(江戸)に移ったと言う事らしいです。
ですから現皇居の前に南朝を助けた楠木正成の銅像があるそうです。
日本の古代は、卑弥呼辺りが最も解りずらく不明な点が多い。
最近では弥生も縄文も並列的に共存していたと言う人もいる。
つまり縄文人の居る島と弥生人の居る島となって分離していた。それがプレート移動でくっ付いてフォッサマグナの存在と北陸と長野。山梨の3000M級の造山活動に粗合われていると言われています。
出土内容から言えば縄文の居た現東北&北海道は魏志倭人伝の様に南にあって亜熱帯地方で季節が無かった。
九州を北にそして軸に右回りに90度回転させれば今の関西地域が会稽東冶の東にピタリと合う。しかも南進です。
列島が、移動した神話は,古事記のイザナミ・伊弉諾の国生みにそのプレート移動の様子が、描かれているのではないかと思います。ちなみに今の伊豆半島は、島で有った物がプレート移動して列島にぶつかり半島になったようです。
倭人伝では、卑弥呼の国から南にヒミクコと言う男性の王の存在が有ります。最近その墓ではないかと思われる墓が、沼津辺りで見つかっています。
倭国内乱と倭人伝に有りますが、正にこの様な地球の変動の時期に列島が一つになり戦いの様な事も起こったと想起されます。
四国にしても徳島県の吉野川と対岸の和歌山県の吉野川は、元は一つであったものが、列島移動でぶつかり陥没した結果ではなかろうか。そう言う観点から見れば、古代の人は、いい加減なことは、記録に残していないと言う事に成る。
いい加減であれば、大陸での広大な地形を方位無しに動くことは、不可能であろう。
日本は、歴史の目くらましの様に移動と言う想定外の発想が無ければ解けない状態である。

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