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2017年12月13日 (水)

もう説明や解釈が成り立つことばというものに飽き果ててしまった

ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評」より抜粋編集

新保祐司『明治頌歌  言葉による交響曲』(展転社)

乃木将軍は二百三高地に陣取って、或る夜、児玉源太郎、志賀重昴と「詩会」を開いている。

そして乃木はステッセルとの会見に臨む前に志賀に一編の詩を渡した。

爾霊山(にれいさん)は嶮(けん)なれども
あに攀(はん)じ難(かた)からんや
男子功名を挙げんと艱(かん)に克つを期す
鉄血山を覆うて山形改まる
万人齋(ひと)しく爾霊山を仰ぐ

新保氏は書く、「このことば(爾霊山、爾(なんじ)英霊のねむる山)のかがやきはどうであろう。このことばを選び出した乃木の詩才はもはや神韻を帯びている」と。

(乃木は二百三高地を爾霊山と命名した)

ーー

新保氏が二百三高地を登攀した日は残念にも雨だったそうである。

評者も二回、この二百三高地を訪れているが、ともに快晴に恵まれ、遠く旅順港が見下ろせた。

ーー

新保祐司氏の『信時潔』を初読したときに、この人の脳裏に流れているのは音楽であろうと、直感した。

それは当たっていて、新保氏は、フルトベングラーを聴きながら、本書を書いたのだと言う。

ーー

氏は江差の出であるという。

評者(宮崎)は、幕末を担った武士たちに魅せられて、バスを乗り継いで彼らが活躍した江差そして松前を訪れた。

江差は、荒ぶる海から、冷たい風が吹き寄せており、どこまでも曠野がひろがっていた。

榎本武楊、土方歳三らが立て篭もった函館五稜郭は、その前衛が松前城であり、江差はその後衛だった。

官軍は賊軍支配地域の脇腹にあたる海岸に戦艦を着け、そこから軍を上陸させ、堅強を誇った松前城を落とし、函館に迫った。

土方は武士の鑑(カガミ)のように硝煙の中に消え、榎本は官軍に下り、戊辰戦争は終わった。

ーー

先般上梓した拙著『西郷隆盛』の取材では、西郷が訪れたと思われる場所を丹念に歩いた。

彼が流された奄美、徳之島、沖永良部に行き、さらに西南戦争で田原坂の敗北以来の潰走路を人吉、小林、宮崎、砂土原から延岡へとたどった。

最後の決戦、和田越えの役に敗れて、北側の可愛岳を越え、故郷の城山に帰還するまでの山道も歩いた。

ーー

そして拙著『西郷隆盛』(海竜社)で、西郷が詩人だったという結論を書いた。

幕末から明治にかけて活躍した人々は、いわば散文では表現できない時代を生きていたのだ。

散文で表現しようとすると、語彙が足らず、また状況はたちまちのうちに一変してしまう。

それほど激動する状況が目の前にあった事に成る。

ーー

新保氏は、文学とは精神的事件を言葉で表現したものであり、「その精神的事件も起きた人間が書いたものが、文学の名に値する」

「『明治の精神』の表現としての『漢詩』の最高峰が、乃木大将の『漢詩』であった」のは「意外なことなどではない」と書いている。
 
そして「もう説明や解釈が成り立つことばというものに飽き果ててしまった」それは、「文化主義の虚妄や人間中心主義(ヒューマニズム)の限界を思い知った」からだと。

久しぶりに詩的な名作に巡り会えた。

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コメント

>>文学とは精神的事件を言葉で表現したものであり、「その精神的事件も起きた人間が書いたものが、文学の名に値する
 私は、「モノを描くのではなく、目に見えない秘められたモノを連想させるものをモノを通して描き出すのが芸術だ」と、思って居るので、乃木さんも西郷さんも武人ですが、彼らが体験した残酷極まる、現実の戦の経験を通して、心に沸き上がって来たモノを一遍の漢詩で、誰かに伝えたい言う欲求とかれらの詩才が彼らをして偉大な詩人、芸術家にしたと言う事でしょう。

 新保さんが仰有る様に、其処までの作品を生み出すには、その表現欲求を惹起する経験=精神的事件が必要なのだ、と言うご意見に全面賛同します。 人の心に精神的な事件を惹き起こす様な事象は、是からも起るのでしょう、そして、その事象を経験したものが、後世に伝えたい、と言う思いをもし持つようなら、詩人や芸術家を生み出す契機となると思います。 

 創作で描き出されたモノを受けて、心に現れて来る情景は、言葉ダケでは限定する事しか出来ないし、亦、受け取る方は人に拠って少しく違うので、全面共有できないが、そうした違いを愉しむ事も、芸術の良さだと思います。

 そうした、自分の心象を描き出し、以て、人に夫々の心象を描かせる様な表現が出来ない私には、それでも、感じ取った何かを、何かで表現して誰かに伝えたいと言う欲求はありますから、何も出来ないもどかしさしか残らないのですが、其の仕組みを明らかに説明していただける機会に遭遇するのは、誠に幸運だと思い、感謝いたします。

日本の近代における三つの戦争を象徴する戦場について、文学的に述べられています。
私は文学的表現の素養がなく、現場もろくに知りませんので、それぞれの戦場のイメージしか浮かぶものがありません。


日露戦争の二〇三高地は、旅順要塞攻略において日本軍の目的を達せられる要地でした。
日本軍は旅順要塞攻撃の為に、甚大な損害を受けました。最終的に要塞は陥落しましたけれど、要塞攻略は攻撃側の日本軍、その司令官である乃木大将は目的を達したけれども、作戦の成功した達成感よりも喪失感の方が大きかったと思います。

函館五稜郭の戦場では、土方歳三は苦戦していましたけれども、彼は必死に戦っていた中で斃れています。その後、戦況ははかばかしくなく榎本武揚は降伏しました。

榎本はその後も日本の為に働いていますから、柔軟な思考力を持った人物だと思います。

西郷隆盛は、そこの深い人物だと言われています。
また、戊辰戦争での日本人の被害が少なかったと、話されたことを読んだ記憶があります。これは、戊辰戦争において各大名が藩を守る為に降伏することを見てのことかも知れません。
西南戦争は彼が本当に必要としたのかも分かりませんが、戦争の責任はとったと思います。

「敬天愛人」は西郷隆盛が好んで使った言葉で、「天を敬い、人を愛する」と読むそうですけれど、鹿児島出身の人はこの言葉を好まれるように思います。

縦椅子さま
 
 富士山            乃木希典作

 崚嶒たる、富嶽、千秋に聳ゆ。

 赫灼たる朝暉、 八洲を照す。

 説くを休めよ、区区風物の美。

 地霊、人傑 是 神州。

 この吟詩は大切な方のそのまた大切な方が、お礼にとお便りの中に、美しい墨の香匂う手書きのお便りのうえの頁に入れて
くださっていたものです。この詩一つですべてが言い尽くされている。どんな言葉や、絵をもってしても、この詩以上に言い表せないと思います。
「『明治の精神』の表現としての『漢詩』の最高峰が、乃木大将の『漢詩』であった」のは「意外なことなどではない」ーはまさにそのとおりです。
-ーその方の凄いところは、乃木大将の漢詩をすべて記憶し、吟じ、書で表されるということです。何というかたでしょう!!本当に素晴らしい方で、ほんとうに人間国宝のような方なのです!!お手紙を戴く時には、必ず丁寧に色とりどりの千代紙で
作って下さった千代人形をそっといれてくださっている。礼儀を備えている方はこの様な方だと、尊敬いたし、感謝いたしております。「敬天愛人」は、「天を敬い、人を愛する」と読むそうですけれど、この語句が一番人生で大切にしたいものだと思います。ありがとうございます。             感謝!!

>ポッポさん、ソロです。
>>敬天愛人
 西郷さんが、甥に送った漢詩です。 ご参考まで。
   「知天意」 市来政直に贈る
一貫唯々諾 従来鐵石肝 一貫す唯々の諾 従来鉄石の肝
 貧居生傑士 勲業顕多難 貧居傑士を生じ勲業多難に顕わる
 風雪梅花麗 経霜楓葉丹 雪に耐えて梅花麗しく 霜を経て楓葉丹し
 如能知天意 豈敢自謀安 如し能く天意を知らば 豈敢て自ら安きを謀らんや
 」
 人は一旦引き受けた事はやり通すべきであって、決して途中で投げ出してはイケない。
 貧しい家には、優れた人物が育ち、人に褒められる様な業績は難しさを乗り越えてこそ達成できる
 風雪に耐えた梅の花はより麗しく咲き、厳しい霜を経た楓の葉は、より赤い
 この様に、天意は明らかである、天意を良く知れば、困難を避ける様な事があってはならない

 この詩には、私が社会人になって直ぐ、会社の年配の女性に教えて貰いました。 爾来、座右の銘と言うか、折に触れ思いだして愛唱して居ます。 良く読むと、成功して立派な人間になれよとは書いて居ますが、最後に、人間は天の心を知って、その為に生きるべきであり、決して利を求めて生きてはイケない、と、あります。 小利に生きるな、大義に生きよ と言う事でしょう。 残念ながら私は、命を賭けられる様な大義には出遭えなかったのですが、この詩のkお蔭で気持ちよく、そして悔いなく生きてこれたと思います。

 西郷翁が、東京から帰って来て私学校を建てたのは、郷土の後進を育てるつもりだったのに、畏れ多くも、天子様に弓引く事になろうとは、夢だにも、思わなかったでしょうが、時代が大きく変わって行くのに、変われない人達が西郷翁の周りには大勢いた。 自身もその気持ちが良く分る一人であった。 ダカラ、蹶起を促された時も無言で担がれたのだし、九州を突破する事には敢えて拘らなかった。彼は、平安末期から千年近く続いた武士と言うものを終わらせた人だと思います。

ソロさんへ  ポッポです。

薩摩には郷中があって、武士の子弟の教育組織として機能していたのですから、その中では大義が重要視されていたと思います。
利を求めず立派な人間に成れとのとの教えは、武士には必要だったと思います。

仕事に就いてから、警察官と話したことがありましたけれど、仕事をすればお礼を言われるだろうから、羨ましいと言われたことがあります。
警察官から見ればそう映るのかも知れませんが、現実は厳しいもので、公僕と言うよりも下僕扱いをされることも度々でした。

大義に生きることも出会うことも考えたと思いますが、頭の中だけで行動していないから、何もしていなかったと思います。

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