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2017年11月 5日 (日)

基礎語が同じであり、神話が共通であれば同一民族と言える

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

日本の歴史は、7世紀と19世紀の2回、政治的に極めて大きく変化しています。

歴史とは個々の史実を関連付け物語にしたものです。

なぜ7世紀と19世紀に日本の政治が大きく変わったのか。

それを理解すると、日本の歴史が非常にわかりやすくなる。

ーー

7世紀には、聖徳太子による冠位十二階の制定や、十七条憲法の制定、あるいは天智天皇の大化の改新がありました。

全国に諸豪族があり、それら諸豪族の緩やかな集合体であった日本が、天皇を中心とした統一国家を形成したのが7世紀であるわけです。

そして日本は、天武天皇、持統天皇へと続く、天皇を中心とした統一国家になっていく。

このとき当時の人たちは、我が国を、日本と名乗っています。

ーー

それは、7世紀当時の世界を見れば、隋や唐の脅威があり、それに立ち向かうためになされたことがわかる。

ーー

19世紀の大変化というのは、言わずと知れたペリー来航以来の変化です。

徳川幕府は、1867年に天皇に大政を奉還し、翌1868年に明治政府が出来た。

この明治維新が、我が国における大きな改革であったことは、おそらく誰も異論はないものと思います。

諸大名が支配する諸国の集合体であった日本が、欧米列強の植民地支配という脅威に直面した。

それに対して、日本人が、天皇を中心にひとつにまとまろうとした動きであったわけです。

ーー

この7世紀、19世紀の二つの大変化は、どちらもが、「神武創業に還れ」が精神的支柱となりました。

広く世界の革命改革を見ると、民族や国の理想への回帰が原動力となっているのです。

欧州の文芸復興(ルネッサンス)運動はまさに古代ギリシア・ローマの文芸を復興する事でした。

ロシア革命は、ロシア正教の原始共産主義社会(ユートピア社会)への回帰が目指されたのでした。

ーー

昨今、沖縄やアイヌが別な民族だと言い出している人たちがいます。

しかしそんなことを言えば支那は少なくとも55以上の全く異なる言語を持つ人たち(民族)の集合体ということに成ってしまう。

民族というのは基礎語が同じであり、神話が共通であれば同一民族とみなすべきでありましょう。

『中山世譜』等の史書によると、そもそも琉球諸島は、いざない合う一組の男と女が島々をつくり、天帝子がそこに住んで三男二女をもうけ、長男が天孫、次男が「あるじ(按司)」三男が民の始めとなったとされています。

この物語は、まるっきり日本の神語と同じです。

ということは、まさに沖縄の人たちは日本人そのものであると私は考えます。

ーー

そして「おきなわ(沖縄)」は、誰がどう見ても「大きな和」です。

基礎語はまさに日本語であり、しかも古語が今も使われている。

日本の国号は、いまでこそ「日本」と書いて「にほん、にっぽん」と読み下します。

が、もともと持統天皇が日本という国号を用いた当時は、これで「やまと」と読みました。

つまり「やまと」は、日本と書いても、大和と書いても、倭とかいても、いずれももともとの読みは「やまと」だったわけです。

ーー

アイヌも同じです。

稲作の普及前は、日本全土で狩猟採取生活が営まれていたわけです。

このことは、南は沖縄から北は北海道まで、縄文時代の遺跡として貝塚が等しく分布していることで明らかです。

そして、平安時代くらいまで、関東以北は気象条件が稲作に適さなかった。

それゆえ、関東人、東北人、北海道人は、等しく、狩猟採取生活をしていた。

このような生活をしていた人たちが、アイヌなのであります。

体毛が濃くて髭も眉も濃いという身体的特徴は、縄文人の外見的特徴を残すものです。

ーー

そして平安時代に、青森県あたりまでの本土全体が、大和朝廷の傘下に入りました。

なぜ入ったかといえば、民衆こそを「おほみたから」として慈しむという、大和の姿勢に、関東東北の人たちが共鳴したからです。

坂上田村麻呂は、征夷大将軍として、蝦夷(えみし)の討伐をしたと解釈している学者の先生方がいまだに多くおいでになります。

しかし、「征夷」の「征」という字の訓読みは「さち、ただし」で、「彳」が「行なう」の略ですから、「征」は「正しきを行う」という意味です。

「夷」は、訓読みが「えぞ、えみし」ですが、この字は「ひもの付いた矢」を表す字です。

関東以北の「えみし」たちは狩りのために紐の付いた矢を用いていました。

ーー

日本式の「征夷」という意味は、狩りをする人たちを「支配と収奪の私有民という地位から救い出して、あらためて天皇のおほみたからとする」ということなのです。

ーー

ただやみくもに武力を用いて征圧するということではないのです。

もし、武力だけに物を言わせて力で征圧しただけなら、力によって押さえつけられた民衆は、逆に力によって暴発します。

そうした暴力的気風は、いまでも東北地方等に残るはずです。

けれど、東北地方の人々は我慢強さはあっても、決して暴力的ではありません。

ーー

平安時代、中央から東北地方に派遣された国司は、基本的に武力を持っていません。

多少の護衛兵はいたものの、地元豪族の兵力に比べたら、力の差は月とスッポンです。

そして国司は武力を用いず、中央の高い文化をもって、地方地方の豪族たちから税を得ていた。

ーー

北海道は、かつては松前藩と呼ばれましたが、その松前藩は源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である若狭武田氏が入植したことにはじまります。

いまでは稲の品種改良によって稲作は北海道でもできるようになりましたが、昔はまったく稲作に適さない土地でした。

にも関わらず北海道に武田氏が入植したのには理由があって、そこが日本海交易の要衝であったからです。

ーー

またアイヌの神話では、昔、この世に国も土地もまだ何もない時、ちょうど青海原の中の浮き油のような物ができた。

これがやがて火の燃え上がるように、まるで炎が上がるように、立ち昇って空となった。

残ったものが次第に固まって島となった。

そのうちモヤモヤとした気が集まって一柱の神が生まれ、炎の立つように高く昇った清く明るい空の気からも一柱の神が生まれ、この一対の神から、様々な神が生まれた。

ーーと。

これまた、古事記に記載された創生の神々からイザナキ、イザナミの国生み神話とそっくり同じものです。

ーー

そして神武天皇によって行われた政治は、迩々芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨に還ることでした。

その迩々芸命は、高天原を知らす(統治する)アマテルカミから、高天原と同じ体勢を築くようにと、地上に派遣された神様です。

つまり迩々芸命の事業は、アマテルカミの事業に還れという政治であったわけです。

ーー

私たち日本人は、神語(かむがたり)を知ることで、日本人がどのように生きるべきかが分かる。

そして一時的に神語(かむがたり)が教育によって否定されても、すぐに思い出せる。

日本人の体内には、何千年もの間に染み込んだ考え方、生きかたが存在するからです。

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コメント

日本人て義理堅いですね。例えば売国奴の主人でも、その人に忠実に従う。現在様々な企業で難癖つけたりしたり、脅したりで日本人経営者を追い出し経営者側に立って、日本人はお仕えの身に多数がなってる。

>>民族というのは基礎語が同じであり、神話が共通であれば同一民族とみなすべき
 私はずっと、「民族」の括りを探して居ました。 一対の男女から始まる家族の成立は、子孫の誕生で確立し発展の端緒となりますが、では、何処からが民族なのか、と言う問題です。是は「国家とは何か」を考える時、国家を構成する要素の主たるが民族だからです。

 然し、シナは、基礎語が同じかドゥかは怪しい部分もありますが、建国神話は一つです。 民族は様々で、ねずさんの言うように、55種類以上、物の本に拠れば67種類以上という処もありました。 私が思うに是は、後世の歴史学者の工作ではないかと思います。

 何故なら唐を建てたのは、匈奴族の一つである壮族ですが、彼らは、頭に霊魂が宿ると信じて居ましたので、特に首を狩られる事を嫌いましたが、殷代に、殷を建てた部族から、捕虜になった兵士が、懇願するのにワザと大量に首を狩ると言う暴挙があったそうです。 唐の二代皇帝(高宗)となった李世民は、この約2000年前の故事を恨んで、殷の遺臣の国と言われていた百済を討伐せよと生前言って居たとの事です。

 シナは民族の混淆の古くからの場なので、こうした民族の信仰に関わる面も対立の原因になり易い。

 然るに、シナの歴史は混乱の連続です。 唐の前の隋は、鮮卑族の王朝ですし、その前となれば、5胡⒗国の時代ですから民族が交雑して語りつくせません。 結果この時点で既に、血では民族を判別できなくなっていたであろう、と思われます。 然も、この混乱はこの後も続き、北からの侵略者の王朝が次々と成立したのです。 そして、11世紀に蒙古族元が現れ、17世紀に満州族清がとどめを刺します。
 
 そんな歴史のシナが、漢代から現代まで、2千年も同じ民族を維持できるわけが無いのです。でも、1民族に纏めないと国家が治まらないのは明らかでしたから、歴史学者の発案で「漢民族」をブランド名として用いる事にしたのでしょう。 それも、一党独裁、情報統制を許されている共産主義体制=全体主義ダカラ出来る事ですから、もし、現在の共産党体制が瓦解したら、シナは人民軍の7つの軍区に分かれて、内乱状態になるのは、目に見えて居ます。

 この様に民族を後付でもいいので、一つの民族としてブランド化するのは、政治的手法として有効ですが、西洋と東洋とでは同じようでも、拘りの仕方ん差がある様な気がします。西洋では、シナの様な手が使えない様に思うのは、西洋の場合其処に必ず紛争を伴って居るからです。 

 いずれにせよ、民族と国家には、是だけ高く難しい垣根が存在するのですが、其れを造って居るのは、基本的に古からの民族間差別であり、宗教間対立である処が問題を解決不能にして居ると云えましょう。ロシアも複雑な民族構成で、未だに国内で08年のジョージアや91・94年のチェチェンの様に内戦を起し、今も内戦状態と変わらない緊張が続いて居る地域があります。 英国だって、あの小さな島の中にイングランド、ウェールズ、スコットランドの3つの国があり、隣の島に2つのアイルランドが存在し、昨年のブリグジットでスコットランドの独立が結局、国民投票になった様に、未だに燻って居るのが実情でしょう。イングランドの構成民族は、アングロサクソン人ですが、それ以外は先住民ケルト人の末裔です、ケルト人は宗教も違えば、言語も違いますからイングランドに力で抑え込まれている、と言うのが現状なのでしょう。亦、つい最近発生したスペインのカタルーニャ地方の独立騒ぎも、その中の一つで、スペインは、他にもバスクと言う問題も抱えて居ますから、カタルーニャだけに甘い顔が出来ないと言う難しい面があります。

 世界にはこの様に、他にも民族紛争が潜在し燻って居る処は幾らでもあります。

 そう言った世界の民族問題の情勢からいけば、日本の民族問題は、例外中の例外的に上手く行っていると言えます。 是は、先住民と新入民が災害の多い列島で生き延びる為に、折り合って協力関係を築き、譬え事件が起こっても、恨みを後世に遺さない様にしてきたからだと言えましょう。亦、大陸とは海で隔絶して居た上、入り口となる九州は、火山の多い場所で怖がられていた事も、大陸からの侵略者を止める働きをしたと思います。

 何れにしても、日本の場合、先人の功績が大きいと言えましょう。

日本の歴史を考えるとき、聖徳太子の存在は大きく十七条憲法の「以和爲貴」(和を以て貴しと為し)は、これが出来たら人が理解できると思います。

聖徳太子が隋の煬帝に送られた国書にある「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)は、若い国の王が天子と称したことに、隋の煬帝が対等扱いをされたとして怒ったそうですが、その頃の日本は、未だ若い国であったと思います。


19世紀のペリー来航は、日本に大騒動をもたらしましたが、米国は日本の歴史を知らず、当時の日本が小さな国で国力がないと見くびって、脅しを掛けたと思います。

この頃の欧米諸国は、アジアの大半を既に植民地にしていましたから、日本も他国と同様に簡単に植民地に出来ると考えていたと思います。


日本はよく、この時に植民地にされずに済んだと思いますし、そのことだけでも構成の日本人である我々は、感謝しなければならないと思います。

それから、聖徳太子の後の時代になりますが、天智天皇の時に白村江の戦いがあり、日本は朝鮮で大敗しました。
このときに、天智天皇は唐が日本に攻め寄せてくるのではないかと、相当に慌てたようで、唐が日本海を渡ってきた場合には、占領される恐怖を味わったのではないかと思いました。

>ポッポさん ソロです・
>>日本の歴史を考えるとき、聖徳太子の存在は大きく十七条憲法の「以和爲貴」(和を以て貴しと為す)は、これが出来たら日本人が理解できる
 正にこの第一条こそ、倭国大乱を乗り越えた日本人の団結を言い表す、金言だと思います。
聖徳太子は、未だ不安定さを遺している大和(倭)と言う国を、シナ本土で規模が違うとはいえ同じく出来上がって間もない隋の、然も煬帝と言う評判のあまり芳しくない新皇帝に、
最初から膝を屈するのではなく、対等の立場で、書面上ですが挨拶を交わしたというのは、太子が優れた外交センスの持主であったと言う事を表して居ます。

 是が以後の日本のシナ王朝に対する基本姿勢になったのは、地続きの朝鮮半島で、実際に隋と戦いを交えて居た高句麗や百済と言った、数多の少数民族の国家以上に手ごわい相手、即ち、其れまでの大和朝廷の実績、4世紀~6世紀の河内王朝での「倭の五王」を、劉宋王朝に認めさせた実力を遺憾なく印象付ける事に成功して居るのですから、太子は一通の書面で、万余の兵の犠牲に等しい大きな仕事をした事になりましょう。

>>19世紀のペリー来航は、日本に大騒動をもたらしましたが、米国は日本の歴史を知らず、当時の日本が小さな国で国力がないと見くびって、脅しを掛けた
  ペリーの来航目的は、当時米国で盛んだった鯨油目当ての捕鯨船が、鯨を追って西太平洋の端に迄、到達する事があっても補給を受ける港が無かった事でおのずと限界があり、補給を受けられる様、鎖国を続ける日本を開港させようと言うものでしたから、脅しをかけたと言うのは。ちょっと違うのかもしれません。 

唯、ペリーが日本を「未知なる未開な国」と捉えて居た事は、ご指摘の通りでしょう。それは、その後の日米修好通商条約等の不平等性にも現れて居ます。 然し他方、ぺリーは日本の一般人、特に商家との交流もあったと見え、商家の女性が家の中では、主以上の裁量権と代表権を揮って居た事に、正直な驚きを報告して居ます。 曰く「日本の女性は、シナ・朝鮮の女性とは違い、人間として男と対等、或いは対等以上の存在で、欧米と比べても優って居る」と、絶賛して居ます。

 この様に、欧米の使者達は正直な感想を述べて居たのですが、本国でその報告を聞いて居た政治家達の頭の中は、白人優越が当然と言う、人種差別的な考えを脱出出来無かったから後々、日本を甘く見る事に繋がって行ったのです。 つまり、第二次世界大戦の真の責任者は、この差別観であり、傲慢さであったと言えるでしょう。

ソロさん  ポッポです。

>最初から膝を屈するのではなく、対等の立場で、書面上ですが挨拶を交わしたというのは、太子が優れた外交センスの持主であったと言う事を表して居ます。

その通りだと思います。
以下に隋が大国だとは言え、日本は属国ではないのですから、対等の立場で振る舞って良かったと思います。


>ペリーの来航目的は、当時米国で盛んだった鯨油目当ての捕鯨船が、鯨を追って西太平洋の端に迄、到達する事があっても補給を受ける港が無かった事でおのずと限界があり、補給を受けられる様、鎖国を続ける日本を開港させようと言うものでしたから、脅しをかけたと言うのは。ちょっと違うのかもしれません。 

通常ならば、捕鯨船の補給基地なのですから、それほど悪意に取る必要はないと思いますが、ペリーの取った態度は、強引に過ぎると思いました。
それで、表面的には捕鯨船の補給基地を要求して、それを元に突破後、次の手を考える意図があったのではと考えたのです。
実際のところ、その後に米国は金と銀の交換比率が日本の場合には、金が安くなっていたために、これの両替で大儲けしていたと思います。
当初は、金と銀の交換を意図していなかったと思いますが、オランダだけに儲けさせるのは面白くなかったと、米国が考えても不思議はなかったと思います。

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