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2017年11月29日 (水)

しかし「空」の中身を知ったとしても、「空」を生きることは困難を極める

ーー以下「鈴木傾城ブログ」より抜粋編集

自分の思い通りにはならない、人の気持ちも環境も変わる。

それが生きるということなのであろう。

しかし、孤立して生きていると考えている人たちは、思い通りに生きようとする。

長い訓練を要する仕事などには見向きもしない。

就職しても、ちょっと注意されると、何もかも放り出して辞めてしまう。

一人で好きなように生きたいという考えを実行しているのだ。

ーー

しかし人間は社会的動物であり、一人では生きていけないのが普通なのである。

鉛筆一本、紙一枚も自分では作るのが難しい。

それが、お金を出せば買える。

買うためのお金は仕事をして稼がなければならない。

仕事をして稼ぐ行為がいやだと言う人は、もう社会生活をあきらめるほかない。

ーー

どうするか。

それは山奥の自然の実りが期待できる場所で自給自足の生活をすることだ。

しかし、自然を相手にするときは、死はそれこそ隣にある。

風邪でも引けば死ぬと思わなくてはならない。

ーー

それが出来ないと言うのなら、社会で働いて、つまり他者に便宜を提供することでお金を稼いで生きるしかないのである。

しかし社会で生きれば、思い通りに成ることなど一つもない。

他者の存在に配慮しなければならないからだ。

気ままに生きることを放棄する必要が出てくる。

ーー

いわば修行と考えるべき生きかたをするほかないのである。

その修行とは具体的にどういうものなのか。

それは自分一人でも出来なければならない。

ーー

仏教は、合理的な修行体系を持っている。

ーー

仏教の修行者は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵の修行をする。

知恵の修行とは、仏教では悟りを得るために大切とされる。

それは「色即是空」を知る事であると。

つまり、「我々が感知しているこの世界は脳が作っているもので実在しない」と。

ーー

しかし「空」の中身を知ったとしても、「空」を生きることは困難を極める。

ーー

一旦「空」を感知すれば、自分の持ち物を他者に与える(布施)ことも耐え忍ぶ(忍辱)ことも容易(たやす)いはずなのだが、実行するのは難しい。

他者を害さない(持戒)ようにし、その思いを維持(禅定)するよう、日々務める(精進)のはさらに難しい。

しかし、難しいということは遣(や)り甲斐があるということだ。

ーー

人知れず他者の為に成りたいと生きる。

この日本国では多くの人がそのように生きている。

それ故に、我々は、こんなに安全で、便利で快適な生活が出来る。

もう、感謝するという以外言うべき言葉がない。

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

>一旦「空」を感知すれば、自分の持ち物を他者に与える(布施)ことも耐え忍ぶ(忍辱)ことも容易(たやす)いはずなのだが、実行するのは難しい。 他者を害さない(持戒)ようにし、その思いを維持(禅定)するよう、日々務める(精進)のはさらに難しい。 しかし、難しいということは遣(や)り甲斐があるということだ。 人知れず他者の為に成りたいと生きる。この日本国では多くの人がそのように生きている。それ故に、我々は、こんなに安全で、便利で快適な生活が出来る
 所謂、「利他愛」に目覚め、其れを実践する生き方ですが、日本人の多くが無宗教・無信仰だといいますが、是もマスコミが流したデマでしょう。 何故なら、↑の認識は、仏教修行者でも、「高次の悟り」に至って居なければ実践できませんが、日本人の中には、在家然も、無信仰の部類に入る所謂「縁なき衆生」のレベルにある人が、何の教えも請わずとも、自ら悟って実戦をして居ると言う例は幾らでも聞きます。

 世は完全ではないので、其処に生きる人間には向上心が必要ですが、向上心の正体は意欲であり、「他に抜きんでる欲望」でもある、「自分が良くなる事だけ」しか目指さないのなら、幾ら自身が努力して色々な事を達成しても、其れを世に生かすには必ず他の力を必要とする。 そして自分の命は精々100年、否、一寸先は闇ダカラ下手をすれば、明日死ぬかもしれない。 そんな境遇で、自分を活かそうとするなら、何れ滅んでしまう自分の為でなく、多くの他人の為になる方が良い、自分の為した事跡が、多くの人に為になれば・・と言う考えに辿り着いた時に、自分にとって利他愛が如何に大事かを識る事になる。

 こうなれば、其処には当初あった「自分の為」と言う、「生存欲」から出た目標が忽然と消えて終う。 つまり、他人の為に何かをする事で「何に拠って生存を主張するか」と言う目的が達せられて終ったのですから、慾の外見=色とすれば、色の反対は空でしょう。 つまり、欲が目指す処が達成された事で消えて終った、すると、空を生きるしかないが、目的もなく、木石の様に、自然に有るがままに生きて死ぬ、つまり、「人間も地球の欠片」と言う現実(本質)に戻って行く。 人生とは、自身に生まれる慾を如何に他人の為に活かすか、に懸って居る、と言う事では無いでしょうか。

 日本人は無信仰だの無宗教「=神や見えないモノを信じない」なのではなく、寧ろ、仏教=仏の教えや自然の働きや法則、そして脅威を自然を神に見立てて説明した神道に、深く帰依しているから、特別な信仰心を必要としないだけです。 それが証拠に、正月とお盆には歳神様の来訪を歓迎し、八百万の神々を尊崇する神道に沿って、異国の宗教儀式もWGIPの協力者でしかないマスコミは、米国がそれを既に止めているのに、戦後の敗戦利得者達が自分達の権益の源だから、死守しようとしているダケでしょう。

>自分の思い通りにはならない、人の気持ちも環境も変わる。
>それが生きるということなのであろう。
>しかし、孤立して生きていると考えている人たちは、思い通りに生きようとする。

人の世とは、自分の思うとおりにはなりません。自分の周りには大勢の人がいて、それぞれが人が生きる世の中の一部分を支えています。それでも、人が生きている社会を構成するには未だ足りない。目に見えないところにいる人々が互いに助けあることで、やっと社会が成り立っています。

江戸時代は鎖国していましたから、この範囲は日本の中だけで成り立っていましたけれど、鎖国が破られたことによって日本の社会は世界につながってしまい、世界の国々と連携しなくてはやっていけなくなったと思います。

世界の国々との連携手段は、元は金でしたけれど、それが金と兌換の紙幣になり、金との兌換ではなく、国の信用を担保にした紙幣になりました。
今の社会は、国の信用なくしては回っていかないと思いますし、その国の一部を一人一人が担っているとの、感覚を持たなくてはいけないのかもしれません。


>仕事をして稼ぐ行為がいやだと言う人は、もう社会生活をあきらめるほかない。

昔なら、こう言えたのですが、今は社会保障というものがあって、いかにして「自分で稼がずに、社会生活を維持する」ことに、血道を上げる人もいると思います。

もっとも、これは人々が社会を維持することに努力された結果を、努力せずに手に入れるという、極めて横暴かつ安直な考え方と思いますし、昔なら「御上の世話になるのは恥」との、日本人の気質がありました。
人様の生き方を、不躾に「福祉のお世話になれば良い」と思わず思ったこともありますが、暮らし向きではなく、日本人の生き方には凜としたものがあったと思います。

それが、一部の日本人や日本に巣くう者が、努力なくして楽を手に入れる便法として、暴力で手に入れさせたことは敗戦による痛手であったと思います。
そのような者達には、日本では努力に応じた果実があることを知らさなければならないと思いますが、政治家にも努力しない者にも日本の果実をばらまくことが政治だと考えてる者がいるのでは、日本の政治も良くならないと思います。


>仏教は、合理的な修行体系を持っている。
>仏教の修行者は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵の修行をする。

それとともに日本には、神道というものがあります。
私は仏教も神道も学んだことがありませんが、日本に60年以上も住んでいれば、それらは自然に生活の中に馴染んでいると思います。

天皇陛下は公的な行事ではないそうですが、私的な行事として日本の安寧を願う事柄に日々を過ごしておられます。
そして、憲法に定められている事柄もしなければならないことして、誠実に処理されています。

日本の国民は、これを尊いこととして感謝してきたのですが、最近、「天皇制いらないデモ」という反日行為があったそうです。

敗戦後に日本の天皇の立場を考えられ、そして、憲法に制約された象徴との意味で誠実に生きてこられた天皇が、80歳を越えて体力的な不安から譲位を求められたことに対して、このような行為を行ったことに誠に呆れるとともに、この運動を企画し、参加した輩に対して、日本は天皇がおられる国なのだから、それに反対するのならなぜ日本にいるのかと問いたいものです。

天皇がおられて、日本の国の安寧にを日々願ったおられることに感謝するばかりです。

縦椅子さま

 こころをうつ素晴らしいブログ有難うございます。
 「人知れず他者の為に成りたいと生きる」という貴いお心で
 利他のために、全身全霊で、智慧の修行に励まれていても   「『空』の中身を知ったとしても、『空』を生きることは困難を極 める。」ーー「難しいということは遣(や)り甲斐があるということだ。」ーーと謙虚に、純粋に「利他のために」を実践されている尊さにあたまが下がります。心からありがたく感謝いたしております。--感謝!!

>ポッポさん ソロです、お早うございます。
>>仏教も神道も学んだことがありませんが、日本に60年以上も住んでいれば、それらは自然に生活の中に馴染んでいる
 現代の日本人の大多数は、ポッポさんと同じ境遇に有ると断言できるでしょう。 でも、お正月は毎年お祝いするし、お彼岸やお盆には、お墓参りもします。 そして、外来の神にも寛容ですが、敢えてその宗教を自分の宗教にはシヨウトはしません。

 日本人の生活では、神仏に対する不敬を禁じる常識や禁忌はあっても、西洋や中東の宗教の様な厳しい戒律はありませんが、日本人の大部分は、折に触れ亡くなった人を偲び、懐かしみ、現在ある事に尽くされた先人の努力と神仏=見えない力に感謝を捧げて居ます。

 日本の宗教は西洋の様な名前を主張して居ないダケと言うか、名前が要らない宗教なのですね。 ダカラ、元々外国語を訳すときに派生した「宗教」と言う言葉も、そして概念すら伝統日本には無かったモノです。

 私は特定の信仰を持って居ますが、その信仰の言う処が、神は元一つ、人類も世界も宗教も元は一つなのです。」と説いて居る事に共鳴しているから参加しているのですが、基本的な考えは、仏教を支持して居ますし、それが許される教団なのです。ですから、教団の中にはいろんな宗教を持って居る人が混在して居ます。 

 教えの中心になっているのは神道なのですが、「根本神を祀って居るので、排他的になる必要は無い」と、言う考えなのです。 当然、天皇陛下を古来からの「スメラミコト」として、ご尊敬し、教団の創立者を、神が遣わした「地上代行者」と位置付けて居ますが、スメラミコトは別格の扱いです。
 
>>日本の天皇の立場を考えられ、そして、憲法に制約された象徴との意味で誠実に生きてこられた
 先帝陛下も、そして今上陛下も、人間としてご尊敬できる人物であると私は思っております。 そう言う意味で、先帝陛下が戦後為された「人間宣言」は、戦争責任を一身に感じておられた陛下の肩の荷を、少しは軽くする事が出来たのではないかと、忖度いたします。

 「天皇制度が要らない」と言う事は、「私は日本人でいたくない」と言うのと同義であると私は思います。 戦争が起こった原因が何であれ、私は、戦後の灰燼に帰した国土を世界第3位の経済大国に仕立てる事が出来たのは、先帝陛下の遺書の様な、終戦のご詔勅があればこそだと思って居ます。 あのご詔勅を全文読んだ時、皇室あっての日本であると、思いました。

 陛下は、実は開戦には、最後まで反対して居たにも拘わらず、結果、3百20万人余りの死者を数えた先の戦争をなぜ早く終わらせる事が出来なかったか、否、そも、国力の差が20倍以上ある米国となぜ戦争をしなくてはならなかったかも含め、全て自分の責任であると、それが国家の元首たる務めであると、確信し、全てを引き受けるお覚悟をされておられたのでしょう。 処が、何故か助かって終った。 死ぬべき時に死ねないのも辛い事だと思います、陛下は戦後をまるで、ご自身が「生き恥」を晒して居るかの様に過ごされていたように感じました。

 そして、その重い責任を背負い、傷口に塩を摺りこむが如き、全国行幸をなされました。 戦後の不穏な空気の中、正に命懸けの行為であったと思います。 然し、あれで救われた国民がどれだけいた事でしょう。 この事跡は、今上陛下に引き継がれ、先帝陛下が行けなかった、沖縄を初め、サイパンやペリリュー島といった激戦があった南洋の島嶼や多くの民間人が殺された場所を中心に、行幸されておられます。 其処からは先帝陛下のご遺志を果たそうと言うメッセージが確実に、伝わってきます。
 
 陛下がお隠れになった、昭和64年1月7日早朝、私は出張先の八代港の埠頭に止めた車中に居ましたが、薨去を伝えるラジオのニュースを聞いて、自然に涙が出て来て、止まらなかった事を覚えて居ます。

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