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2017年11月21日 (火)

利の爲には死をも辭せず、死して而して悔いざるは支那人の通性である

ーー以下「宮崎正弘ブログ、樋泉克夫コラム」より抜粋編集

佐藤善治郎『南清紀行』(良明堂書店 明治44年)

支那の国土は余りにも広く、人民の言葉・風俗・習慣なども多様で、1つの国として維持・経営することは容易ではない。

だから、地理的環境・生活文化などに基づいて幾つかに分かれるべきだと、折にふれて主張されてきたが、この考えが主流になることはなかった。

それというのも現在までに支那に起こった政権にとって、「大一統」が一種の『存在証明』になってきたからだ。

ーー

言い換えるなら支那に起こった政権は、大帝国を経営しなければならない。

帝国を維持するために莫大な経費を要したとしても、政権は、否が応でも帝国の道を突き進むことになる。

それも、佐藤の指摘する「地勢の平坦と、大河の通ずる事よりして、勢力の分立の出來ぬ事」が作用していたとも思える。

ーー

このような「地勢の平坦と、大河の通ずる」という場所に起こった帝国の国民性について佐藤は次のように述べる。

ーー

「支那の國民性」は、「一、利己的」「二、虚僞」「三、獨立自營」「四、不潔」「五、無頓着」「六、文弱」「七、諦むる心」だと。

「支那の國民性の最も著しきは、利己的であるという事である」

「凡ての人事的現象は之より演繹することが出來る」

「他人の幸福、國の利害などいふ事は念頭になく、唯利己一點張である」

彼らは基本的には「物事に冷淡である」が、「利の問題となれば」一変する。

「血液は沸騰」し「怠惰なる彼等も勉強家とな」る。

かくして「利の爲には死をも辭せず、死して而して悔いざるは支那人の通性である」。

ーー

たしかに彼等は信用を重んずる。

が、彼らに本来的に備わっていたものではなく、じつは「唯貿易商が外人と折衝して得たる經險」から体得したにすぎない。

つまり信用は利益に通じるということのようだ。信用は「全く利己のため」でしかないのである。

ーー

「極度まて利己主義の國民であるから、己の心を以て人を忖度する」

他人を「自己に損害を及ぼす者と思」い、自分の利を守るために平気で嘘を吐く。

「僞は大言といつて惡とは思はぬ」から、支那人の主張は、「決して當てにはならず。窮する迄は平氣で」ウソをつく。

国際交渉でも、支那人は平気で嘘を吐くので、交渉相手国は辟易となり、「遂に談判に負ける事がある」。

一般に「支那人を稱して外交に巧妙などと評するが、それは真っ赤なウソ。実は厚かましい嘘つきだ」。

ーー

「支那人の嘘はあらゆる方面に擴がつて居る」、「思想の發表、文學多くは嘘で出來て居る」

彼らは孔孟の教えを引き合いに出して「利を排斥するが、自己は極端なる利己主義」である。

ハラとクチは違う、「實に心と文字との懸隔」ということだ。

ーー

では、なぜ孔子や孟子は「利を排斥」することを力説したのか。

それというのも孔孟の時代の「國民が利を重んずるから」こそ、孔孟は「眞面目になつて之を排斥した」のである。

だが現実は数千年来、孔孟の願いが無意味であったことを教えている。

彼らの「思想と文字文章とは一致しない」、 彼らは孔孟の徒を装っただけだった。

支那人の主張はすべて粉飾です。

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

国際基準を嘘、捏造で推し計れば、日本最下位。
チャイナ・韓は、トップクラス。
欧米もそれに次ぐが、最低限の尊法順守の気風があるが、相手によってはそれすら裏切る。条約もである。
似たり寄ったりなのだ。
アメリカ民主党時代チャイナとは、非常に上手くいった。
似た者同士が、賄賂政治をしているからだ。
戦後日本もアメリカ支配で歪んだ政治をしているが、特亜、欧米よりは、人間がましに感じるが、思い込みだろうか?
つまり腹黒さが特亜・欧米より利己的に於いても薄い。
これも日本人の伝統文化の根差した賜物と思いたい。
どこかに見られていると言う心が働くように思う。
それでもやる人はやるが、少数である。やる場合は、少々規模が、大きい。
でもチャイナの様に何百億も海外持ち出しは、さすが利己的国家です。


>「支那の國民性」は、「一、利己的」「二、虚僞」「三、獨立自營」「四、不潔」「五、無頓着」「六、文弱」「七、諦むる心」だと。

これは、支那の国民性についての要約ですが、支那の国家に対する信頼性がこれを作り出したものではないでしょうか。
ここからは、妄想です。

国民性が国家の信頼性に結びつくのは、いささか乱暴な話ですけれども、支那では大帝国であればある程、皇帝は絶対的な力を行使してきました。
そして、帝国が民に約束することについては、その内容が皇帝の都合の良いときのもので、状況が変われば内容も変わったと思います。
民はそれに従うしかなかったのですから、帝国を信じていたら民は生きていけなくなりますから、表面上は従うが帝国を信じることはなかったので、文字通り面従腹背の生活だったと思います。

帝国からは、日常的に様々な規則が民に対して出されます。
だけど、この規則に従っていれば商売もできないわけで、この規則を乗り越えるには、役人に片目をつむってもらわなければならないのです。このためには、賄賂が必要になりますから、支那は国家が大きいだけに賄賂の文化(?)が発達しました。
従って、清廉な役人とは、賄賂を法外に取らないことを言い、全く受け取らないことを意味しません。


このようなことが国家全体になりますと、国民は国を信用しないから、何を信用するかと言いますと自己の財産です。
そして、その財産も又、帝国はある日突然規則を作って奪うこともあるのです。
多ければ多くの財産を、貧しければそこにあるものを奪い取ることが、延々と続いたと思います。
満州の張作霖などは、何年の先の税金まで徴収したと記憶していますが、こんなことをされたら、民は税金が何処まで多くなるのか分かりません。しかし、一年の税金は、そんなに多くないことになります。


民が国家を信じない場合、頼るのは財産になりますが自己の相手もまた同じですが、その場合にも、相手を信用できないものです。
すると、約束とは自己と相手の力関係で成り立つものになり、自己より相手が弱いとみれば自己が約束を破っても、相手にはどうにもできないし、また、自己よりも相手が強ければ、相手に約束を破られてもどうにもならないのです。
約束を担保するものは、単純に力関係だけになると思います。


>たしかに彼等は信用を重んずる。

約束を守った方が利益を生むことを知ったからで、約束を守って損を出したら、そんなものは吹き飛ぶと思います。

彼等から見れば、約束は相手に守らせるもので、自己が不利になったときに約束が残っているのかと思います。
そして、日本は約束に忠実です。信義を守る国です。

日本の国を、民は信用してきました。
そして、これは国が民に嘘をつかなかったから、定着しているのです。時に嘘となった場合には、それを説明してきたと思います。

ですから、日本人は約束を大切にします。
国家の約束だけでなく、個人の約束も大切にします。
それが、国に対する信頼を作ってきました。

ただ、これが戦後の日本から、失われていってる部分だと思います。
たった一度の敗戦は、多くの日本の基本を揺るがしています。
日本の国は、国民のためにあるとの信頼を強固にし、対外政策を行えば国内に反日勢力に力があると言っても、絶対的な人数はまだまだ少ないのですから、日本は日本人のための政治を行うことができると思います。

現在は、日本を貶めようとする勢力が、日本に捏造し、歪曲した事柄を突きつけていますけれど、これは事実を突きつけることでその要求を拒否すれば良いのです。

そして、信用できる国とのことで利益を生み、余裕ができれば日本を、理解してくれる国の支援すれば良いし、そのつながりを広げればもっと良いと思います。

この面で考えますと、神戸製鋼はどうするのかと思います。
日産と富士重工は、完成検査をしていたけれど検査資格者が検査をしていなかったそうですが、国が必要としたのは検査をしなければならないと言うことのようなので、資格者は社内資格だそうです。この場合は、誰が検査をしても良かったと思います。
しかし、検査後の車両は、安全を確保されていなければならないことは言うまでもありません。一台一台の車がメーカーの看板をしょっているのです。

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