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2017年10月 9日 (月)

老子に曰く

古来難解とされた概念も、近代になって様々な西洋語の概念を知るようになってみると、思いのほか簡単に、理解できることがある。

日本での「道」についての概念は、その言葉を使っている当人は理解していると思われるのだが、その意味内容を伝えきれているかというと、むしろ非常にわかりにくくなっているというべきだろう。

もともと人が歩(ある)く「みち」であったものが、「ひとの歩むべきみち」になり、そして「老子に曰く」となると、時代が古いせいもあるだろうが意味不明の道となった。

以下の「老子曰く」で語られるのは「道」なのであるが、小生は、近代語での自然と訳して記述してみた。

原文を書いた天才である徹底さんは、顔をしかめているに違いない。

ーーー以下抜粋編集qazx

【徹底的改造計画1/6】自然の性情、あるいは玄徳http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/d7f944a072ddcd16632083229ac7a721

老子に曰く

自然は万物を生じさせしめて
しかしてこれを微塵も我物として有せず
衆生に無限の施しをなして
しかしてこれを一切誇らず示さず
万物をその性情に応じてあるがままに長ぜしめて
なおこれを寸毫も主宰すとせず

これを自然そのものの性情すなわち玄徳と称す

ーーー

形ある存在としての万物を各々万物あらしめている自然というものは、万物のもつ各々個別の性情の総和そのものでもあります。

万物は自然により形を与えられることで生じ、その与えられた形に沿ってその性情は自ずから個別具体的に定まりますが、しかしその形を失えば個々の性情の差異もただちに失われ、そのまま元の自然へと還えってしまうものなのです。

そうであるがゆえに万物はことごとく例外なく自然より生じているといえるのです。

しかし人間は、分別知を持ち、万物を自身の都合思惑において見てしまいます。そしてこの分別知というのは言葉の持つ働きとしてのみ存在します。

これとあれ、自分と客体、このような言葉の上で仮構された分別知のうえでのみ、はじめて自分があれを得るこれを失うという関係性がでてくるのです。

ーーー

我々は、自身の心の中に、本来・不断に変化しているものに、形を認め、さらに部分を見出し、その部分によって再構築された観念上の世界をも作り上げています。

これを妄想といい、この妄想に無自覚な状態の心を蒙(もう、暗くて見えない状態)と言います。

つまり言葉で表現されたものは、それがいかに尊き存在の権威を僭称し美辞麗句に満ちたものであったとしても、畢竟(ひっきょう、つまるところ)人間の都合や必要において妄想されただけのものであるにすぎません。

だからその神の教えとやらが人間と社会にとって不都合不必要であるなら、それを打ち捨て焼き滅ぼすのもまた人の自由なのです。

ーーー

そもそも万物を生み出し、万物に形を与え、万物を各々の性情のままに万物たらしめている自然とは、迷信じみた作用や意志の示し方をすることは一切ありません。

すなわち自然は万物を生じ、育(はぐくみ)みますが、自然は万物と不可分一体であり、決して自然が万物を有しているわけではありません。

生きとし生けるものを互いに関わらせ恵合(めぐみあわ)わせ施(ほどこ)させ・あうのは、自然の作用であり、そこに与える者受け取る者の区別分別も一切ありません。自然が、これを自身の手柄であると誇ることもありません。

万物が各々個別具体的な形で、それぞれの働きをなすのは、与えられた形に応じた性質の表れに過ぎません。ここに主宰する者それに従う者の区別分別もありません。

ゆえに万物は自然においては斉同(みなおなじ)であり、不可分であるといえるのです。

これを自然の性質、玄徳(もともとのとく)と呼びます。

玄徳(もともとのとく)の意味は、受ける側がそれを与えられているということさえ一切感覚することはないが、しかしそれによってこそ生かされている、それなしでは何者も生きられない自然の絶妙な作用のことです。

ーーー

世界は、この自然の絶妙な作用が欠ければ、成立しないのです。

にも関わらず、自然の産物である個人が自らをこの世界を作った神と称するのであれば、そのようなものに向かってはただ「汝去れ!」と命じ、どこまでも無視するべきでありましょう。

そのようなものに関わるほどに、本来自然の絶妙な作用の一部であるべきどこまでも自然なる自身の心を、言葉の分別知によって汚してしまうことになります。

ーーー

しかしこの俗世間には、宗教や宗教家が理もなき妄想を垂れ流しており、自然なる自身の心を汚してしまうことが多いため、心を能(よ)く統(す)べ治(おさ)められる人間もまた少ないのです。

人は自然の一部にすぎません。その人が自身を神であると称し、自分こそが自然を作ったというような根本的倒錯(とうさく、逆)を正すために、あえてここで言葉による説明を試みているわけであります。

しかしてもちろんこれもまた言葉の分別の働きを借りて行う説明にすぎませんが。

ただ言葉に仮構されたところに耽溺するだけの、多くの知恵無き宗教及び宗教家たちの過ちを些かでも改め、人々が向かい目指すべき方向を正しく指し示す一助になれば幸いと存じ、試みている次第です。

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コメント

縦椅子さま

 今日は自然の絶妙な作用・玄徳(もともとの徳)につき、深く考察されたブログを掲載して戴き、誠にありがとうございます。
私たちは日々「受ける側がそれを与えられているということさえ一切感覚することはないが、しかしそれによってこそ生かされている、それなしでは何者も生きられない自然の絶妙な作用」により生かされております。それをわかりやすく、解説していただき「目から鱗が落ちる」ように、理解できました。
 素晴らしいブログに心から感謝いたしたおります。感謝!!

>ただ言葉に仮構されたところに耽溺するだけの、多くの知恵無き宗教及び宗教家たちの過ちを些かでも改め、人々が向かい目指すべき方向を正しく指し示す一助になれば幸いと存じ、試みている次第です。

あちらこちらの寺院へは、お詣りしたことがありますし、説話もそれなりに伺ったこともあるのですが、どうしてもそれが生活に結びつかない、困った性格をしています。

法事などでお経を読んでいるとき、唱えているだけでは退屈だからと、一度読みながら自分なりに解釈してみたところ、その部分は「ともかく信じるべし、信じないと罰があたる」と言うような意味しかなかったりしたこともありました。

先ず信じて、それから色々なことを教えて貰うものなのかも知れませんが、世俗の垢にまみれて疑い深くなっている自分に、宗教からの救いは遠いのかも知れません。

>>しかしその形を失えば個々の性情の差異もただちに失われ、そのまま元の自然へと還えってしまうもの
人が考え学習する事に覚醒してから、↑の自然の機能は、人や地球にとって、何か意味の在る事のように思い始めたのではないでしょうか。

 人は生き抜くために色々な工夫や制度を創り上げる事に大きな労力を費やしますが、巨大な時間の前には、無に等しく、最後は自然に還って終います。 然し、生ある裡に他の人の為になるモノを遺せたのなら、後世の人の心の中に、記憶として残るでしょう。

 人にとっての時間の始まりから終わりは100年足らずでしかありませんが、木は千年を生きますが、生きとしていけるものには限界があって、岩石、否、大地でさえ万年単位で変化し、最後は、地球と言う生き物の新陳代謝に飲み込まれる事が分ってきました。 そして、この地球の寿命も太陽の寿命から言えば後5億年位、地上の生物は1億年位でしょうか。

 そんな中、我々も自分の身の周りで、自分の世界の縮図を見せられている事に気が付かなければなりません。 昆虫を初め大体の生物は人類より遥かに寿命が短いし、亦、簡単に死にますし、殺します。 人類は自分たちの都合の為だけで、多くの他の命を奪う事に何の痛痒も、躊躇も感じて居ません。 人では無い他の命を奪う事は罪ではないのです。 これ等は単なる人類のご都合主義と言う他は無いでしょう。

 然し老子が言うように、人間も自然の一部に過ぎないのです。 もし、自然界をお創りになられた存在が居て、我々の為して居る事を見守っておられるのなら、一体、この様な人をドゥ評価し、何を人に望むでしょうか。

 其処に宗教が存在する隙間があるのでしょう。 「神等何処にもいない」と言うのは簡単ですが、地球が太陽の周りを1億5千万km±0.15%の真円率で正確に回って居て、もし軌道がもぅ0.01%内側か外側なら、地球上に生物が生存できなくなると聞いても、唯の偶然と片付けられるでしょうか。 

 それに、現生人類、若しくは、猿人がこの地球上に現れてから、未だ700万年~15万年しかたって居ませんが、地球が誕生してから43億年が経過しているのです。 そして、1億年後には、その寿命を終えようとしているのです。 人類に与えられた時間は、ほんの一瞬にしか過ぎないですね。

 こうした数字を知って、人が自分の矮小さ、命の儚さを感得した時、次の段階、自然の偉大さに気が付いて、その一部にやがて還る事を自覚できる迄、この地球上に、人類として生まれ落ちた事に感謝し、生ある裡に関わった人々との共感や一体感を愉しめる事が、神が自分に与えた貴重な機会であると悟りたいものです。 我々には、宇宙の広大さを知るのが精々で、何物も変える事ができないのです。

 

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