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2017年10月12日 (木)

その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊となって英国軍と戦い続けています

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

昭和19年3月から6月にかけて、日本帝国陸軍はインパール攻略作戦を発起し、日本兵は勇戦しました。

インパールが、ビルマ(現在名ミャンマー)からインド北東部の要衝だったからです。

しかし帝国軍は、補給の無い状況で、武器弾薬が尽き、飢え・衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患し、退却する他なかった。

この退路には、延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから、白骨街道と呼ばれました。

ーー

生還した兵の記録に次のようなものがあります。

小田敦巳著『白骨街道生死の境』

 道ばたに腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。

 手榴弾を抱いたまま爆死し、腸わたが飛び散り鮮血が流れ出したばかりのものもある。

 たいてい傍らに飯盒と水筒が置いてある。

 ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。

 地獄とは、まさにこんなところか。

 その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。

 そのような姿で屍は道標となり、後続の我々を案内してくれる。

 屍を辿った方向が分かるのだ。
 皆これを白骨街道と呼んだ。
 屍の道標を頼りに歩いた。

ーー

英国軍はこの退路にもしばしば現れ、容赦なく銃弾を浴びせています。

日本兵の死体のみならず、負傷し罹患して動けない兵をも生死を問わずガソリンを掛けて焼きました。

こうした酸鼻(さんび、むごたらしくいたましい)な敗戦だから、作戦を指導した牟田口中将は、戦後あらゆる罵声を浴びせられました。

ーー

負ければ賊軍は世の習いです。

しかし、幾ら牟田口中将を非難しても失われた生命が帰ってくることはありません。

この事実から我々は、「何が学べるか」が大切だと思います。

ーー

不思議なことが幾つかあります。

昭和18年9月の御前会議で

絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域と定めます。

そして、この外郭線において敵の侵攻を食い止めようという戦略が決定された。

その基本戦略に反してインドに撃って出ようというインパール作戦は、最初に書いたようにその翌年3月のものです。

ーー

どうしてこの時期にこういう作戦を立てたのか。

大本営は当初反対していました。

しかし、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズの強い要請を受けて作戦の実施を認めたのです。

ーー

大東亜戦争は退勢が濃くなって来ていました。

日本が掲げた戦争目的は欧米による殖民地支配からアジアを解放することでした。

この目的を改めて世界に訴えるためにはインドの独立に火をつけることだと考えられたのでした。

ーー

守る英国軍は15万です。

攻める日本軍は9万、他にインド国民軍4万5千がいました。

加えればほぼ並ぶのに、日本軍はそのインド国民軍をまるごと温存しています。

つまり作戦遂行にあたって「置いてきた」のです。

ーー

世界の普通の国ならこうした場合、インド軍を寧ろ前に立てて自国軍主力の犠牲を少なくしようとします。

ましてインド独立のための戦いです。

インド国民軍を前に出して何が悪いと考えるのが普通です。

ーー

ところが日本軍はそれをしなかった。

自分たちが戦いの先頭に立っています。

個別に少数のインド兵を配属された日本軍の下級将校も皆そうしています。

戦闘のプロである日本軍の幹部は、これがどういう困難な戦いになるかは分かっていたのでしょう。

だからインド兵は後ろに置き、自分たちが先頭に立ってインドを目指しています。

ーー

日本軍の心意気は必ずやインド兵に伝わり、インドの決起を促すであろうと。

或いは、虐げられたアジアの尖兵として戦うという本能的なアジアの心は、大東亜戦争の日本軍将校が共有していたのではないかと思います。

ーー

果たしてインドは独立しました。

ということは、インパール作戦は成功したのです。

その意味を知ればこそ、戦後の東京裁判に独立間近のインドは歴史の証人としてパル氏を判事として送り込んだのではないかと思われるのです。

ーー

二つ目の驚きは、こういう惨烈な戦いに終始日本兵の士気が高かったと聞くことです。

インパールは補給を無視した無謀な戦いであったと戦後の反日言論界では誰もが書いています。

が、もともと国力の隔絶している日本がやむを得ず世界を相手に広いアジア全域で正義の戦いを始めているのです。

第一線への補給の困難は分かりきった話です。

ましてアラカン山脈に分け入る進撃です。

そこはジャングルの中です。

ーー

食料乏しく、弾薬も尽き、医薬品は最初から不足し、マラリアやテング熱、赤痢も猖獗する日々を、遠路はるばる二ヶ月を戦い抜いた。

かのワーテルローの戦いはたった1日です。

戦いの二ヶ月というのは、ものすごく長い期間です。

後方との連絡の細い山道は常に上空からの銃爆撃にさらされて、命令も情報も伝わってこなかったに違いありません。

ーー

その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊となって英国軍と戦い続けています。

しかも誰ひとり降伏しない。

誰も勝手に退却しない。

軍の形は崩壊しても、一人一人の日本兵は弾の入っていない歩兵銃に着剣して、後退命令の来る最後まで戦い抜いています。

そうした闘魂の積み重ねで一時はインパールの入り口を塞ぐコヒマの占領まで果たしています。

つまり前半戦は勝ってさえいたのです。

ーー

三つ目の不思議はその軍規です。

餓鬼や幽鬼のような姿で山中を引き揚げる日本の将兵たちが、だれ一人、退却途中の村を襲っていない。

既に何日も食べていない。

負傷もしている。
病気にも罹っている。

けれどビルマ人の民家を襲って食物を奪い、家畜を殺し、ついでに女を犯すといったことは、まったく伝えられていません。

ーー

銃を持った敗残兵がそうのようなことをするのは世界史の常識です。

戦場になったビルマ人たちは戦中も戦後も、日本軍に極めて好意的であったと聞くのは、そういう不祥事がなかった証拠です。

ーー

戦後のインパール戦記は沢山書かれました。

しかし驚くべきことには、民家を襲うようなことはしなかったと誇る記述を誰一人残しておられないのです。

戦争に関係のない民家を襲わないなんて日本兵にとっては「当たり前」のことだった。

むしろ、退却途中でビルマの人に助けて貰った、民家の人に食事を恵まれたと感謝を書いている例が多いのです。

そういう生き方が我々の祖父や父の若き日であったのです。

ーー

最後の不思議です。

この戦いは英軍15万と日本軍9万の大会戦です。

有名なワーテルローの戦いはフランス軍12万、英蘭プロイセンの連合軍は14万ですから、ほとんどそれに匹敵する歴史的規模の陸戦です。

にもかかわらず、英国はこのインパールの戦いの勝利を誇るということをしていない。

ーー

戦いの後、インドのデリーで、英国に胡麻すりのインド人が戦勝記念式典を企画していますが、英国軍の上層部が差し止めたと伝えられています。

ーー

以上の戦いの回顧をして、私は英国軍がそうしなかった理由が、何となくわかる気がするのです。

自分たちは野戦食としては満点の食事を摂り、武器弾薬も豊富に持ち、次々と補給される。

そして植民地インドを取られないために、つまり自国の利益のために戦っている。

ーー

それなのに日本兵は、ガリガリに痩せ、誰しも何処かに負傷し、そして弾の入っていない銃剣を握りしめて、殺しても殺しても向かってくる。

それが何と、インドの独立のため、アジアの自立のためです。

そんな戦いが60日以上も続いたのです。

ーー

第一線で戦った英国軍は勝った気がしなかったのではないか。

ーー

ようやく日本軍の力が尽きた後に、何万もの日本兵の屍が残っていました。

英国人たちは、それを見たとき、果たして正義がどちらにあるのか、これまで考えてきた正義の根底を揺さぶられたのではないでしょうか。

インドを植民地支配している自分たちに、はたして正義があるのか、と。

ーー

実際、インパールで日本軍と戦った後、インドに起きた独立運動に対する英国駐留軍の対応は、当時の帝国主義国家の植民地対応としては、あまりにも手ぬるくなっています。

やる気が感じられないのです。

ガンジーたちの非暴力の行進に対して、ほとんど発砲もしないで通しています。

以前の英国軍なら、デモ集団の真ん中に大砲を打ち込むくらいのことはしていたのに、です。

ーー

そして、戦後の東京裁判で、英国は、インドがパル判事を送りパルが日本擁護の判決付帯書を書くことについて容喙していません。

そこに私はインパール作戦が世界史に及ぼした大きな、真に大きな意義を感じます。

戦後反日勢力はこのインパール作戦について、補給もなく多くの兵を死なせており、無謀であり間違っていたとの広報・宣伝に努めています。

しかし、現実にはその後、インドに独立運動が起き、不可能とさえ考えられていた英国からの独立がなしとげられた。

このような史実を公平・客観的に記述する方が余程説得力があると思うのです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント

>qazxさん、ソロです。
>>戦後の東京裁判で、英国は、インドがパル判事を送りパルが日本擁護の判決付帯書を書くことについて容喙していません。そこに私はインパール作戦が世界史に及ぼした大きな、真に大きな意義を感じます。
 私は、インパール作戦を指揮した牟田口廉也中将を、日本国民が裁くべき真の戦犯であると思って居ました、「兵站を無視した無謀な作戦で、10万近い兵士を無駄に殺した」と、日本人は判断したと思って居ました、然し、
>>昭和18年9月の御前会議で絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域と定めます
 御前会議でその様に定められたと言う事は、この戦争が、「アジアを西洋列強の植民地支配から解放する戦い」と位置づけられた先帝陛下の大御意であったと言う事です。 ダカラ、インド革命の志士であるチャンドラボース氏の要請に応えるべくインパールへ向かったのでしょう。 

 この作戦に参加した日本兵士にも、この戦いこそ日本が「英米相手に無謀な戦い」を始めた、最大の理由であり、謂わば聖戦であると認識して居たのでしょう。 ダカラ、インド兵4万5千人は後方に温存したのですし、皇軍の名を背負って居た兵士は、命が尽きても退却する事が無かったのです。

 その志が敵である英国軍兵士の心にも届いて居たと思います。 ダカラ、戦が終わって自分達の戦いの目的と、日本兵やインド兵の目的との差を感じ、非常に恥ずかしく思った、と言う事でしょう。

 この前、安倍さんがインドを訪問した時大歓迎を受けました。 安倍さんに感想を求めると、「私個人が歓迎されたのでは無く、日本が歓迎されたのですよ」と仰いました。

 正に、それはインパールでの戦いの成果であると私は、今更乍らに思いました。 戦後の東京で行われた人類にとって恥ずべき軍事裁判で、一人、インドのパル判事のみが、「日本は無罪」としたのを、英国は止めなかったのも、インパールでの日本軍兵士の戦いが徹底的に清らかであったからでしょう。

 人は、戦いは不毛である、と言います。ですが、本当にそうでしょうか? 私は剣道をやって居ましたが、相手の剣「=戦い方」が清い「=ちゃんとルールを守って純粋に闘志と技術のぶつかり合いである」と、親しい友人以上の気持ちを相手に持つ事を知って居ます。 是はボクシングでも、柔道でも、空手でも同じだと思います。 

 「敵なのに、相手を信じて居る。 言葉で無く体をぶつけあって、剣を交わし、殺し合いをしたのに」です。 そう言う経験していないと理解できない心が確かにあるから、武士道や騎士道は生まれて来るものだ、と思って居ます。

 今日は、qazxさんのご紹介の文章のお蔭で、やはり、戦後の自虐教育の影響を受けて居たのだなぁ、とあらためておもいます。

8月15日夜のNHKスペシャルで、インパール作戦を特集していました。
インパール作戦について、日本国内ではインドを攻撃する無謀な作戦で、日本軍を無駄に消耗させたとの批判がされています。
また、10月9日の夜にTBSで選挙前の党首討論をしていましたが、その中で枝野幸男立憲民主党代表は、インパール作戦はインドに対する侵略行為と理解不能な発言をしていました。

恐らく枝野氏は、大東亜戦争の目的をアジアの植民地を解放するものではなく、欧米によるアジアの侵略による植民地を是認して、日本がこれを改めて侵略し、植民地とすることが戦争の目的だったと、考えているのでしょう。
日本の大東亜戦争の目的や八紘一宇の精神を知らず、連合軍による東京裁判史観そのままだと思います。


大本営が絶対国防圏を定めた後にこれだけの大作戦を起こすのは、よく考えなければ分からないのですが、1943年11月15日に日本は大東亜会議を開催し、アジア地域の首脳会議を開催しました。

これに先立って、日本はビルマ、フィリピンを独立させています。
マレーやボルネオ等は、戦時下における大綱において帝国領とされて、独立はさせられませんでした。インドはこのとき、オブザーバーとして参加しました(理由は、インドを大東亜共栄圏に組み込まないとしたためです。)。
インドの代表(自由インド仮政府)としてチャンドラ・ボース氏は参加しています。

日本がこのチャンドラ・ボース氏の意を受けて、インド独立のために軍を派遣したことは、侵略だとは思いません。インド解放は正当な作戦理由だと思います。(作戦規模をもう少し多きくして、補給部隊を充足すれば良かったと思います。)。
枝野氏は、インドを植民地のままに放置することが、良かったと思っているのでしょう。

結果は、計画通りにならずに日本軍は惨敗しました。
この作戦においても、日本軍の特徴が出ています。それは日本軍が、先頭になって戦うと言うことです。
日本軍以外ならば、植民地軍(インパール作戦ならば自由インド軍)が前面にでますし、米国ならば黒人兵が前面に出ます。

インド国民軍は戦後の独立のときに、力を発揮したと思います。


日本軍は悲惨な敗退の時には、戦闘力は大幅に低下していましたが、軍として規律を保持していたのは、凄いと思います。

弾もなく、食料を持たない軍が退却するときには、その経路にある民間人が強奪され、暴行等をされるのは珍しいことではありません。第2次上海事変の後、南京へ退却した国民党軍はその途上に、民間人かの家を焼き、奪い、暴行の限りを尽くし、挙げ句の果てに黄河を決壊させて100万人もの被災者を出しました。
これと、日本軍のそれとを比較すれば、良く分かると思います。
だから、日本軍を見た現地の人々は、食料を分けてくれたのです。


まともな国なら、戦争をするには大義が必要です。
兵隊は大義に賛成するから、戦えるのです。
大義がどう考えても不可思議なものであったら、兵隊は気力が湧かずに弱くなります。
作戦後の英国軍は、自分達がインドにおいて侵略者であることを知っていたと思います。(もっとも、基本的に当時の英国人は、アジア人を人とも思っていませんでしたから、捕虜になった人は人の扱いを受けませんでした。)


終戦後頃から、インドの独立運動が始まりました。
日本では、インドの独立のことを説明するときにはマハトマ・ガンジーの「非暴力、不服従」のことを取り上げます。
しかし、植民地が独立運動をするときには、非暴力と不服従だけでは難しく、これに武力の押さえが必要であり、このときにインド国民軍の存在(チャンドラ・ボース氏は既に亡くなっていた。)は大きかったと思います。

日本がインドの侵略を意図していたならば、ラダ・ビノード・パール判事は、日本の被告人全員が無罪だと、言わなかったと思います。

小池百合子、希望の党、保守、在日からも嫌われどんなんや?韓国の為の、日韓FTO、通貨スワップ断固反対、

日本を多民族共生国家にすると、腐った人達、腐った人達に国家は成り立たない。私達に任せて下さいて、任せれる訳がないだろう。頑張ろう日本保守

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