この男、足下(貴方)を刺すらしいが、ともかく会ってやってくれ
ーー人見勝太郎略歴
天保14年(1843年)、二条城詰め鉄砲奉行組同心・人見勝之丞(御家人10石3人扶持)の長男として京都に生まれる。慶応3年(1867年)12月に遊撃隊に入隊し、前将軍・徳川慶喜の護衛にあたる。
鳥羽・伏見の戦いにおいては、伏見方面で戦い、その敗退後は、江戸へ撤退して徹底抗戦を主張する。遊撃隊の伊庭八郎ら主戦派とともに房総半島へ移動し、請西藩主・林忠崇と合流するなど、小田原や韮山、箱根などで新政府軍と交戦した。奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を転戦した後、蝦夷地へ渡る。
箱館戦争においては、箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者となり五稜郭に向かうが峠下で新政府軍と遭遇、峠下の戦いに参加。旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、蝦夷共和国の松前奉行に就任した。明治2年(1869年)5月11日の箱館総攻撃に際しては七重浜に出陣、辞世を揮毫した旗を翻し戦ったが負傷、箱館病院に入院。5月18日、新政府に降伏し、捕虜として豊前香春藩(旧小倉藩)に預けられたものの、翌明治3年(1870年)に釈放。五ヶ月間鹿児島に旅し、西郷隆盛などと交遊している。
維新後は、明治4年(1871年)、静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任。明治9年(1876年)に大久保利通の推挙により勧業寮に出仕し、製茶業務に従事した。明治10年(1877年)、群馬県官営工場所長、明治12年(1879年に)茨城県大書記官、翌年には茨城県令を務める。その後は実業界に転じて、明治20年(1887年)に利根川と江戸川を繋ぐ利根運河会社を設立、初代社長に就任。その他、サッポロビールや台湾樟脳会社の設立に関与している。
明治30年代よりたびたび史談会に出席し、幕末維新期に関する談話を残している。大正11年(1922年)、死去。享年80。
函館市人見町にその名を残している。
ーー辞世の詩
箱館戦争において、1869年5月11日、七重浜の戦いに臨む前に詠んだもの。
幾萬奸兵海陸来
孤軍塲戦骸成堆
百籌運盡至今日
好作五稜郭下苔(苔は死に場所)
ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評」より抜粋編集
中村彰彦『幕末遊撃隊長 人見勝太郎』(洋泉社)
幕末、土佐脱藩の坂本龍馬、長州脱藩の吉田松陰など、脱藩者が数限りなく現れたのだが、徳川脱藩は珍しかった。
人見勝太郎はその珍しい「徳川脱藩」組であった。
しかも剣の使い手であったので、幕府の遊撃隊に加わって、官軍との戊辰戦争を戦いながら、甲府、箱根から江戸へ戻り、榎本武楊らに合流。
やがて奥州へ転戦し、「蝦夷共和国」宣言時には松前で守備に就いた。
死線をくぐりながら近藤勇はもちろん、伊庭八郎(剣豪山岡鉄舟と互角の勝負をした)らと知り合う。
幾多の戦闘に勝ち抜き、五稜郭の生き証人となった。
ーー
同時代を生きた人々の多くが、1853年のペリー来航以来の疾風怒濤に運命を大きく変えさせられたのだった。
ーー
五稜郭で降伏後、西郷、大久保と知遇を得て新政府に仕え、西南戦争では駿河藩から志願兵を募集する役目を与えられた。
人見の中では、幕府⇒蝦夷共和国⇒明治政府への移動が矛盾するものではなかったようなのだ。
だから、勝海舟とも深く交わった。
明治三年五月人見勝太郎は、勝海舟に村田新八への紹介状を書いてもらい、それを持って、鹿児島へ向かった。
西郷の暗殺を企てたのだ。
勝の書状には、「この男、足下(貴方)を刺すらしいが、ともかく会ってやってくれ」と記されていた。
(勝海舟の『氷川清話』にその一節がある)
ーー
その途中、瀬戸内海の海賊・奇兵隊の残党と一戦を交えている。
ーー
薩摩隼人というのも変人ぞろい。
村田新八、桐野利秋らは西郷の刺客・人見勝太郎を歓待したのだ。
人見は実際に西郷を殺そうとして邸を訪ねている。
西郷はちょうど玄関で横臥していた。
人見の来訪を聞くと、起き直って『わたしが吉之助だ』と名乗るや、『わたしは天下の大勢などという難しいことは知らない』という。
そして、『先日大隅へ旅行した。その途中で腹が減ってたまらぬから、十六文で芋を買って食ったが、たかが十六文で腹を養うような吉之助に天下の形勢などわかるはずがないではないか』と言って大口をあけて笑った。
人見は、挨拶も録にせず帰ってきて、『西郷さんは、実に豪傑だ』と話した。(p227)
人見は西郷ら薩摩隼人から大歓待を受けて百日も鹿児島に留まったのだという。
ーー
男同士だと、相手の胆力(度胸)を感じることができる。
当時はまだ胆力が人を動かす時代だった。
人見は剣術の修業過程でこの胆力を身に着け、戦場で磨きを掛けていたのだと思われる。
そんな彼でも、西郷にとてつもない胆力を感じて、これはかなわないと思ったのだろう。
ーー
人見勝太郎の写真を見ると伊達男に見える。
謀略を好む陰惨な策士という印象がない。
それでも人見の胆力は尋常ではなかったようなのである。
誰もが治められないと言われた茨城県の県令(県知事)となったのだが、人見が県令になると治まってしまったのだった。
そして人見勝太郎が、奇々怪々、不思議な波瀾万丈の生涯を閉じたのは80歳、大往生だった。
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