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2017年7月28日 (金)

日本人にとっては、支那・朝鮮人社会は、あまりにも違う社会です

ーー以下「ねずブログ3/9」より抜粋編集qazx

円仁(第三代天台座主:慈覚大師)著、『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』

円仁が、博多から、唐の長安に遣唐使として渡り、帰国するまで、承和5(838)年から承和14(847)年までを、漢文で記(しる)した日記です。

以下、私(ねず)の現代語訳です。

ーー

武宗(ぶそう)の討伐軍は、叛乱軍の激しい抵抗にあって州境に止まっていました。

すでに多くの日数が費やされています。

武宗(ぶそう)からは進軍を促す催促が、毎日、矢のように来ています。
けれども叛乱軍の抵抗が強くて前に進めません。

ところが討伐軍が州境に止まったままであることを、中央で「怪しんでいるらしい」というのです。

それを知った討伐軍は驚き、前線の牛飼いや農夫たちを捕まえて、これを叛乱軍の捕虜と偽って、長安に送りました。

ーー

長安では皇帝から勅令が発せられ、儀礼刀が賜(たまわ)られ、街頭でその偽りの捕虜たちの処刑が行われました。

捕虜たちは、三段に斬られ、あるいは左右両軍の兵馬が、彼らを取り囲んで捕虜たちを撲殺しました。

かくて前線からは、続々と捕虜たちが送られて来るようになり、兵馬は休みなく往来し、市街で殺された死骸は道路に満ち、血で土が泥状になっていました。

ーー

これを見物する人も道にあふれ、皇帝もときどき見物にやって来ます。

巷間、噂が語られます。

「護送されてくるのは叛乱軍ではない、皇帝に戦果の上がらないのを怪しまれないようにするために、むやみと罪もない人民を捕まえては都に護送しているのだ」と。

両軍の兵は、人民を斬り殺しては、その肉を割いて食べています。

もう誰もが知っているので、市中の人々は、誰もが今年はなんと不吉な年かと言っています。

ーー

山西省太原府の三千の兵は、ウイグル国境守備に任じられ、3年かかって、ようやく今年ウイグルを破って凱旋してきました。

ところが太原府に帰ってまだ日も経たないうちに、節度使はこれを再び四川方面の叛乱軍討伐に出発させようとしました。

兵たちは「三年もウイグルと戦って苦しい思いをし、疲れきって帰国してきたばかりです。故郷に帰って、まだ父母にも妻子にも会っていません。どうか他の軍隊を派遣していただきたい」と固辞しました。

ところが節度使は「皇帝の命令である」と聞き入れません。

このため三千の軍が暴発して太原府城に押し寄せ、節度使を攻撃しました。

節度使は、この事態を皇帝に報告しました。

都から尋問使がやってきました。

調査の結果、尋問使たちは、「この者らは、ウイグルを討伐した功績をあげており、言い分はもっともである。当然、死罪にすべきではない」と、詳しく理由書をつけて上奏しました。

けれどもその上奏は聞き入れられず、三千人は東市の北街の塚のほとりで、全員、斬り殺されました。

ーー

9月にはいって、四川方面の叛乱軍がようやく討伐されました。
叛乱軍の軍団長らは、捕虜として都に護送されました。

彼らへの処刑は67回に及び、叛乱軍の首魁・劉従簡(るうじゅうかん)の首が都に送られて来ました。

都では、この首を三叉の槍で差し抜き、三丈あまり(10m弱)の竿(さお)の先に名前をしるして、東西の市(いち)を巡回して、内裏に行進しました。

皇帝は銀台門の楼上に坐して、この行列を見て大いに笑いました。

その後数十日のうちに、叛乱者たちの財産や宝物、家具などの一切を没収し、毎回7〜8台の金で装飾した車が、これらを満載して都に入り、宮廷の倉庫に納めました。

ーー

※ 仏教と僧侶たちのことも書かれています。

ーー

8月に太后(たいこう)、姓は郭(かく)、太和皇后が薨去(こうきょ)されました。

太后は、仏教をとても篤(あつ)く信仰していました。

皇帝は道教を信仰しています。

太后は、皇帝が、僧侶や尼僧を淘汰せよという条例を出すたびに、皇帝に諫止(かんし)していたのです。

皇帝は、そんな太后を、薬酒をすすめて毒殺してしまったのでした。

また義陽殿(ぎようでん)の皇后(皇帝の実母)はたいへんな美貌の持ち主でした。

皇帝は、その母を後宮に召し入れて妃(きさき)にしようとしました。

あたりまえのことですが、皇后は拒絶しました。
すると皇帝は弓で皇后を射殺してしまいました。

ーー

道教道士・趙帰真(ちょうきしん)らは、皇帝に、奏上しました。

「仏教はインドで生まれて『不生』を説いているが、『不生』とは、単に死のことである。

仏教はまた、さかんに無常や苦、空を説く。

これはまことに奇っ怪な説であって、道教にいう無為長生(無駄に長生きしない)の原理を理解していない。

老子は、無為自然にあそんで仙人となり神薬を練った。

この神薬を飲めば、不老長寿となり、神仙界の一員となることができ、その功力は無限である。

そこで願わくば、宮廷内に神仙台を築き給え。

身体を練磨して、神仙界にのぼり、九天に逍遥し給え。

必ずや陛下の聖寿万歳となり、もって長生きの楽しみを保ち得られることでしょう」と。

ーー

皇帝はこの奏上を聞いておおいに喜びました。

左右の近衛兵に命じて、宮城内に、神仙台として「望仙楼」を築かせました。

それは、高さ45メートルの楼閣でした。

皇帝は「望仙楼」ができあがることを、とても楽しみにされ、毎日左右の近衛兵三千を動員して土を運ばせ、築造させました。

皇帝は、一刻もはやく完成させたい意向でした。

毎日、できあがりを催促されました。

左右両軍の近衛兵の団長も、指揮棒をとって監督にあたりました。

ーー

ある日、皇帝が視察に赴きました。

皇帝は宮内長官に向かって、「あの棒を手にしているのは誰か」と問いました。

長官は、「軍団長みずからが築台の指揮をとっています」と答えました。

すると皇帝は、「汝、棒を手にして指揮する必要はない。自分で土を担って台を築け」と命じました。

またある日には、「望仙楼」の工事現場に出かけた皇帝は、自ら弓をひいて、何の理由もなく将校のひとりを射殺しました。

ーー

3月3日、仙台の築造が完成し、皇帝に引き渡しの儀が行われました。

その日、皇帝は、仙台に登りました。

両軍の司令官や道士たちも、登りました。

その途中、両軍の司令官が、道士・趙帰真に、質問しました。

「今日、仙台の引き渡しが行われますが、あなたがた道士は、不老不死の仙人になれますか?」と。

趙帰真は、うなだれたまま、何も答えませんでした。

ーー

皇帝は「望仙楼」に七人の道士を招き、神薬を練り、空を飛んで仙人となる術を行わせました。

皇帝が「望仙楼」に登った日、皇帝は同行した楽師に、「左近衛師団長を建物から突き落とすように」と命じました。

ところが屈強な師団長を前に、楽師はこれができません。

皇帝は、「朕が突き落とせと命じたのに、なぜ命令に従わぬのか」と問いました。

楽師は、「軍団長は国家の重臣です。これを故なく突き落とすことなどできません」と答えました。

すると皇帝は怒り、楽師の背中を杖で20回殴りつけました。

ーー

望楼の上で皇帝は、そこにいる道士たちに、問いました。

「朕は、ここに二度足を運んだが、汝たちにまだひとりも登仙した者がいないのは、どういうわけか」と。

すると道士らは、「国中に仏教がはびこり、その邪気がたちこめているために登仙することができないのです」と答えました。

皇帝は、宮城内の僧道奉行に対し、「朕はお主らを必要としない」と宣言しました。

そして数日のうちに、国中の僧侶や尼僧で、年齢が50歳以下の者は、すべて強制的に還俗させ、そのまま本籍に返せとの勅令が発せられました。

ーー

実はこれには裏話があります。

ーー

皇帝は当初、「仙台を築くために掘った土の穴が極めて深く、人民に恐怖と不安を与えている。朕はこれを埋めたい。ついては仙台の落慶供養の食事会を催すといつわって、近隣の僧侶や尼僧をことごとく、無理やりにでも左近衛軍営内に集め、その首を斬り、その死体で穴を埋めよ」と命じたのです。

これにおどろいた卜(ぼく)某が、「僧尼といえども、もともと国家の民です。せめて還俗させて各自生産を営ませれば、国家に利益があがります。穴に追い込むようなことはせず、還俗させて、すぐに地方に帰し、役夫にでもさせればよろしい」と申し上げ、皇帝が「もっともである」とこれを受け入れたために、先の勅命となったのです。

さりとて僧尼たちは、どうしてよいかわからない。

私(円仁)は、書類を提出して還俗したうえで、日本に帰りたいと請願したのですが、奉行もこれを受け取ったきりでまだ返事がありません・・・。

ーー

と、話はまだまだ続きます。

ーー

ここまでお読みいただいて、いかがお感じになりましたでしょうか。

すべての権力と権威を握る個人がいる。

そのことの恐ろしさ。

そういう国では、生きるためには、息をするように嘘を吐かなければならないのです。

日本人的には、不正をしないと生きていけないのです。

恐怖感を抱かれたことでしょう。

ーー

また、『入唐求法巡礼行記』が、9世紀の支那を知るための貴重な書として、世界の古典となっていることもご理解いただいたと思います。

そして9世紀の支那が現在の支那・朝鮮と少しも変わっていないと感じられたことと思います。

ーー

この書は、戦後日本では、在日・反日勢力によって国民の目から隠されていたのです。

その理由が、おわかりいただけたのではないでしょうか。

(参考文献)
古典日本文学全集〈第15〉仏教文学集、入唐求法巡礼行記(堀一郎訳、筑摩書房)

産経新聞社『国民の歴史』西尾幹二著

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