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2017年6月14日 (水)

かくして彼らが押し寄せた社会は、「放任」つまり、支那人の他を顧みない勝手気儘な振る舞いによって、破壊される

ーー以下「宮崎正弘ブログ、樋泉克夫コラム」より抜粋編集

徳富猪一郎『七十八日遊記』(民友社 明治39年)より

共産党政権は極く少数の幹部の下に圧倒的多数の人民「老百姓」を置いた。

つまり「人の上に人を作った」のだった。

魯迅は、「昔から支那人には3種類、奴隷を使う者と奴隷と、奴隷にもなれないヒトがある」と言った。

ーー

「役人は、無暗に威張っているが、それは表面の話」でしかない。

地主(郷紳)や「人民の声は、議会以上の力をもっている」。

それらを軽んじると、役人は「転任もしくは免職になる」。

つまり支那では、政府の政治方針を末端まで貫徹できない。

ーー

支那人には公徳心が欠けている。

支那社会では、役人は泥棒であり、政府は害毒と考えられている。

支那人は、政府や役人を信用しないし、なんらの期待も持っていない。

支那人は、なぜ政府や役人を信用しないのか。

それは、支那人にとって政府や役人は、これまでずっと「征服者」であったからなのである。

ーー

これを、言い換えるなら、「強盗と、被害者の関係」と言えよう。

「政府や役人は強盗団」であり、「人民はこの強盗団の被害者」ということになる。

政府や役人の目的は、人民の「財宝や、人畜を、奪掠すること」にある。

支那人は、政府・役人の掠奪の被害を少しでも少なくしようと知恵を絞っている。

支那人は、一瞬のうちに損得を計算し、被害を最小限に止めるよう振る舞う。

強者に対して「卑屈」に見えるのは、自己防衛のためだ。

ーー

つまり支那人は、政府・役人を「強盗」とみなしており、「敵視」しているのである。

ーー

中華人民共和国・建国時に、「旧支那」は打倒され「新支那」に変わったと喧伝された。

しかし「新支那」になって70年近くになるというのに、中央・地方を問わず幹部の「強盗」ぶりの凄まじさは全く変わっていない。

ということは、一旦は根絶された「強盗」が市場経済の中で息を吹き返したということか。

いやどうやら、「旧支那」は打倒されていなかったようなのだ。

ーー

支那人は、自前の政府や自前の社会を作り上げたことが一度もないので、政府に「少しの依頼心」もなく、「放任」を望む。

かくして彼らが移住した社会は、「放任」つまり、支那人の他を顧みない勝手気儘な振る舞いによって、破壊される。

《QED》

ーー読者の声

支那では政府と人民の関係が、征服者と被征服者の関係という話は納得です。

支那は日本のような国民国家ではないのです。

以前、北京駐在の欧米人に、私が「支那役人は権力を金に換えるのが仕事だ」、というと大いに賛同されました。

かれもまた支那役人の賄賂要求に悩まされていたのでしょう。

支那役人は地方を転任しながら蓄財するのですが、清朝までは、その資格を得るためには科挙に合格することが必要でした。

利権を得るために一族を上げて科挙合格者を出すのに熱心だったわけです。

四書五経は精神を鍛えるためのものではなかった。

それは日本人の恐るべき誤解だったのです。

支那人にとって四書五経を学ぶ行為は、利権の道具だったということに成ります。

現在支那人にとっての科挙(蓄財の道具)とは北京大学に入学し卒業することなのでしょう。

(東海子)

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